古伊万里 染付飯碗
江戸時代 6000円
これは飯碗であり、茶碗でもある。なんとなれば、ある大きな骨董市の茶道具を扱う店の「唐津」や「萩」「楽」などの「茶碗」の名品が並ぶ棚に並べられていたから「茶碗」として扱われていたのであるが、もともとの用途は「飯碗」だから、「飯碗であり、茶碗」であるという形容になるのである。
この手の飯碗は、(別項でも詳述するが)蓋付きで20客が一揃いで他の皿や小鉢などと一緒に民家の蔵に保存されている例が多い。大勢の客を迎える「ハレ」の日に使われる器、すなわちただの飯碗なのである。そして皮肉なことに、当日、店先に並んでいた「茶碗」はいずれも贋作で、本物はこの「くらわんか」に似た風合いの小ぶりの飯碗だけだったのだ。地方の小都市の骨董市の退廃ぶりを示す一例でもあろう。
だが、もはや蓋は失われ、仲間たちともはぐれてただ一碗だけとなったこの小品は「古伊万里」(あるいはその周辺の窯)としての誇りをけなげに保ち、骨董市の雑踏の中で凛とした光を放っていたのだ。もちろん、「飯碗」とすれば高価だが、「茶碗」としての評価は雑器なみのものである。こんなものを見つけたら、値切らずに買う。それが「もの」に対する礼儀だと私は心得ている。
高さ6センチ、経10センチ、高台経3,6センチ。掌に包み込むことができるほどの小さな碗である。
絵柄が面白い。ぐにゅぐにゅとした塊は、たぶん「雲」だろう。すると三つの黒い点々は、雷様を象形した文様ということになる。縦のストライプは雨足であろう。その意匠が、やや灰色がかった(利休鼠と呼びたいような味わいの)磁肌と調和して、江戸後期頃の、地方の小藩の田園に静かに降る雨を想わせる。この小碗を「旅茶碗」として小箱に仕込んで旅に出て、こんな風景の中で使ってみたいものだ。
内側には、「寿」のくずし字とも風にそよぐ竹林ともとれる文様。縁の文様は松葉つなぎか青海波か不明。
窯傷、一カ所微少の貫入、高台にはひっつきなどの欠点があるが、そんなことは雨風の向こうにかすんでしまうほどの風情がある。
敷台は日向灘に面した日南海岸から拾ってきた流木(板)の断片。これがまた良く似合った。
李朝 白磁茶碗
李朝中期〜後期頃 60000円
大ぶりだけれども「茶碗」として使えるこの碗を、30年以上愛蔵してきた。
時代は李朝中期から後期にかかる頃のものか。
私は、25歳の時、大病をして大分県湯布院町(現由布市湯布院町)の病院に入院し、5年ほど入退院をくり返した後、同町の老舗旅館・亀の井別荘に職を得て社会復帰を果たした。時は、「湯布院町・町づくり」と呼ばれた地域運動の勃興期で、同旅館の主人・中谷健太郎氏がその中心人物であったから、私はたちまちその運動の中に身を投じた。「雪の博士」で知られる中谷宇吉郎博士の甥御さんでもある健太郎氏は、多くの文人墨客を迎え、交流を続けてきた趣味人でもあり、使用される器や道具類、料理は言うに及ばず、建物や庭木など、旅館の隅々にまで、そのさりげない目配りがなされていた。
もっとも驚いたのは、ある日自室に招かれ、インスタントラーメンが李朝白磁の大ぶりの碗で出された時のことだ。打ち合わせを兼ねた慌ただしい食事の時間にさえもこのような徹底したこだわりを持つ人に私は初めて出会い、衝撃を受けたのだった。
その後、独立して湯布院の町の旧街道沿いの古い家を改装して古道具を扱う店を始めたころ、大量の「朝鮮物」がマーケットに出回ったことがある。大半は末期李朝の雑器だったが、中には、やや時代も古く良い味のものが混じっていたので私は迷わず買った。トロ箱一杯の徳利、杯、皿・茶碗などが小遣い程度の予算で買えたのである。その中に、この大ぶりの碗があったので、他の物は後述の二点を除いて売りつくしたが、この碗は日常の器として愛用した。もちろん、インスタントラーメン用の丼としても使ったが、飯碗として10年以上、毎日使った。抹茶も点てたし、煎茶をたっぷり注いで飲むこともあった。
高さ8センチ、経14センチ、高台径7センチ。中に一文字の窯傷があり、ホクロのような黒点がある。外の胴のふくらみの部分にもひとつ、茶褐色のホクロがある。いずれも、欠点ではなく「けしき」として鑑賞できる。評価額は、私が「育てた」時間を加味した。
李朝 平茶碗
李朝後期頃 40000円
少し躊躇いながら「伊羅保」の仲間に入れておく。
これも前記の白磁茶碗と同じ時期に入手し、愛着を持って使い続けたものである。
伊羅保という分類については自信がない。
そもそも「茶碗」そのものが利休によって見いだされた日常の器に発するものだからあまり様式や分類にこだわる必要はあるまい。
画家の故・平野遼氏はお茶を愛し、アトリエに隣接した茶室で過ごす時間をもっとも大切な「とき」としておられた。私も一度、お招きに預かったことがあるが、
「先生、私は残念ながら茶道の心得がありません」
と辞退すると、
「いいのだよ、茶は自分の流儀で、自然の流れにまかせてやればそれが極意。」
と、仰り、無造作に胡座を組んで茶を点てて下さった。客のレベルとその日の気分に合わせた見事なもてなし。戦国期の武士の茶とはこのようなものだったのだろうと思わせるような挙措であり、その風貌であった。
高さ6センチ、径14,5センチ、高台径5センチ。口縁内部に一文字の窯キズ。さっくりとした味が今でも手に快い。いつか、私に機会が訪れたならば、孤高の画人・平野遼氏のような点て方で、客を迎えたいと思っている。
李朝 碗
李朝末期 20000円
日本の年代でいえば明治から大正頃のものである。コバルトの釉薬がそれを示している。前記二点と同じ時期に入手し、今も手元に残ったもの。青磁がかった淡青色の磁肌に「福」の字が書かれているが、少しぼやけている。口縁に二本の横線、これもコバルト。とりたてて言うほどの特徴も見所もないが、使い勝手は悪くない。無骨な見かけと、ずしりとしたその重さは、頑固な田舎親父に似ている。
数年前、韓国の晋州を旅行した折、訪ねた骨董街にこの程度のものは結構転がっていたが、値段は破格のものがあった。観光客向けのはったりなのか、あるいはそれが韓国における相場なのかは確認しなかった。
sss
絵唐津 茶碗
桃山〜江戸初期頃 12万円
これはれっきとした絵唐津の茶碗である。戦国大名の間で珍重された絵唐津は、桃山陶の潮流、ひいては日本文化の美意識の形成に多大の影響を与えた。それは自由闊達な絵柄と多少の歪みや窯変を「けしき」と見立てる日本人独特の感性と響調しながら、「侘び・寂び」の極地へと向かったのである。時に歪んだ茶碗一碗と城とを交換するほどの「数寄」「風流」「婆娑羅」の気風は、世界の文化史を見渡しても、どこの国にも見当たらぬ。
この茶碗は、第二次世界大戦後の高度経済成長期に、唐津の窯跡から発掘され、数寄者の手元で愛蔵されていたもの。当時、窯跡の発掘は古唐津の研究を大きく進展させ、余波として、九州のコレクターの手元に優品を残し江戸時代後期
「古上野」と言っていいものかどうか、判断が分かれるところである。というのは、これが江戸後期の上野(あがの)焼の窯跡から発掘されたものだからである。様式は桃山の唐津のものをふまえており、発掘地点もはっきりしているのだから問題はないが、江戸後期のものを古上野とは呼ばないかもしれない。底部に窯印がある。これも上野の江戸から明治期の特徴を示している。
上野焼は江戸初期に小倉藩主となった細川忠興が朝鮮人陶工を招いて登り窯を築き、焼かせたのが始まり。柔らかな陶土に青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用いるため、多様な窯変(窯の中で釉薬が溶け、千変万化の模様を作り出すこと)を生み出し、茶人に好まれた。明治の廃藩置県により一時廃絶したが、後に復興された。掲出はその廃絶前の頃の作。
上野茶碗
江戸後期 20000円
小代茶碗
江戸時代
「小代」ということにしてあるが、確証はない。
小代焼(しょうだいやき)は、現在の熊本県北部・岱山麓で焼かれた唐津系の陶器。寛永9年に豊前から転封された、細川忠利が陶工の牝小路家初代源七、葛城家初代八左衛門を従え、藩主の命によって焼き物を焼かせたのが始まりとされる。粗めの陶土に、茶褐色の鉄釉で覆い、その上に藁や笹の灰から採った白釉や黄色釉を、流し掛けする大胆かつ奔放な風合いの食器で知られる。明治期に廃窯となったが現在は復興されている。
高さ5センチ、径11,5センチの小さな茶碗である。これが、夏茶碗などの抹茶用の茶碗として作られたとは思えないが、飯碗にしては小さすぎるし、向附などとは違って、形や高台作りなど茶碗としての様式はふまえている。ただ小さいだけだ。その小ささゆえに、得難い魅力がある。はたして、制作時から「旅茶碗」のような用途が考えられていたものかどうか。
入手の折、愛蔵していた元の所有者が「小代」と言っていたの今も私はそれを信じたままにしているが、これまでに手にした小代とは異なり、土は堅めで引き締まっている。そこで、高取などの可能性を想定してみるが、高取に類似のものは見あたらぬ。青みを帯びた釉薬は基底に深緑を秘めて、静謐である。
古伊万里染付飯碗
江戸時代中期〜後期頃 12000円
もともとは古伊万里の飯碗であるが、その染付の絵柄といい、
高台の少し高めの形姿といい、「茶碗」として使える風格が漂う。
矢羽の文様と、図案化された橘花(カタクリの花にも似ている)の組み合わせが絶妙である。私はこれを時々茶碗としても用いるが、薄めに点てた茶を飲み干す直前、緑の底から静かに浮かび上がってくる一筋の円とその中心に置かれた
花柄の美しさに見惚れる。
古伊万里飯碗
江戸後期 3000円
伊万里の染付によくみられる「よろけ」の文様が「龍」の省略の果てであることを、別の器(小ぶりの猪口)で知った時には、思わず微笑が浮かんだ。嵐を呼び、天候を支配し、水源を司る龍神も、このような小宇宙に閉じこめられて、さぞ窮屈であろうが、作り手の大胆かつ斬新なデザイン感覚に拍手を送りたい気分でもあった。
この碗の「よろけ」の原型は、龍とは違うかもしれない。濃淡のよろけの繰り返しが籠の編み目あるいは長崎辺りの南蛮好みの旅亭の窓のような枠で囲まれているのだ。内側には、菊の葉のような、二羽の蝶が頭をくっつけ合っているような絵がある。
蓋が失われたこの碗をほぼ毎日、味噌汁の碗や飯碗、向附などとして使っている。今日は、朝から老母(今年86歳)が柚子の皮を煮詰めた「柚子練り」を作っていたが、茶の時刻になると、この器で出してくれた。瞬時に、ふるさとの村の藁屋根の家の縁側の風景が現出した。
古伊万里茶碗 五客組
江戸後期 25000円
五客揃った、愛らしい飯碗である。高さ5センチ、径9,5センチ。これにご飯をよそうことなどなかっただろう。むしろ、向附、煮物碗としての用途の方が多かったものと思われるが、そもそも「そば猪口」と分類されている器も実際の用途は「向附」である。これらの器は、旧家の蔵に20客一揃いで箱に入った状態で保管されて入ることが多いので、それがわかるのである。
ここでは、飯碗の部に入れておくが、その愛らしさゆえに煎茶または番茶の碗として用いるに適していよう。
雁が、芦の葉そよぐ水辺に向かって降りてゆく絵柄も好ましい。反対側には湖の向こうにかすむ山脈とその山際に沈む夕日が描かれ、内側には草むらの中に一個だけどしんと座った岩。それが蓋にも描かれて、一幅の文人画となる。
左/古伊万里蓋物
右/茶碗五客組み合わせ一客3000円
自慢するほどの特徴もない器だが、写真左のように五客組にして木地盆の上に置いたら、なかなか良いけしきとなったので掲出した。もしも「買い手」がついたら、荷造り・発送の手間も面倒だし、どこにも「利」などは見あたらぬ一点だが、
これもまた「遊び」の範疇である。
*
「茶碗」と「飯碗」を主題としたこの項では、新たな仕入れは行わず、普段何気なく使っている器の見所と、長年所有してきた「茶碗」に付随するエピソードを添えた。その作業の間に、新たな発見もあって、案外面白い作業となった。今後、この方針に基づく出会いや仕入れが加わり、この項が充実してゆくことが予感されるのである。
|