森の空想ミュージアム
九州民俗仮面美術館
山と森の精霊仮面
文・写真 高見乾司
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九州・民俗仮面と祭りへの旅 <一> 黒い女面 [1]小戸の潮音 その仮面を、遠い昔に、一度だけ見た記憶がある。かれこれ二十年も前のことだと思う。 霧島山系を源流とし、都城盆地を流れ下り、宮崎市の中心部を貫流して太平洋に注ぐ大河・大淀川のほとりに小戸神社という小さな神社があって、その近くに、老齢のコレクターが住んでいた。宮崎市には、中心部の繁華街橘通り、一つ葉海岸の阿波岐原町などもあり、古代神話にいうタチバナのオドのアワキハラの「オド」とはこの辺りのことだと地元の人は言う。その小戸神社と老人とはなんの関係もないが、私は白髪白髭のこの老翁のことをひそかに「塩土の翁」と呼んでいた。南の潮風に洗われたその風貌は神楽の古面を思わせたし、記紀神話の「山幸・海幸」伝承のなかで、釣り針をなくした山幸彦を海神国「ワタツミのクニ」へと案内する翁を連想させたのである。 私はそのころ、「由布院空想の森美術館(大分県湯布院町/1986−2001)」の開館準備のため、南九州に濃密な分布をみせる不思議な仮面「九州の民俗仮面」を集め始めたばかりのころだった。九州の民俗仮面とは、神楽や村の祭祀などの芸能・民間信仰に使われた仮面のことで、記紀神話の原型とみられる「日向神話」と密接に関連し、中国・アジアの仮面史と連関し、能・狂言等の日本の伝統芸能の祖形を示す仮面群のことである。祭祀や神域の守護などに用いられた「王面」、祭りの行列を先導する神「猿田彦」、天孫降臨伝説や土地神の歴史を物語る「神楽面」などがそれである。村や神社や家などに「神」として伝わっていたこれらの仮面は、明治の排仏毀釈の荒波や戦後の荒廃と信仰心の喪失などの理由により、捨てられたり売られたして、「世間」を漂流していた。そのころ知り合った幾人かのコレクターは、散逸を惜しんで懸命にこれらの仮面を収集している人たちだったが、小戸の翁はそのなかの一人であった。 小戸の老翁からは、数点の珍しい仮面を譲っていただいた。木彫の神像や狛犬、土器や陶磁器、書画などの古美術品に埋まったその部屋は、私を南九州の神話世界へと導いてくれる入り口となったが、いつも老人が座っている奥の間の壁面に掛けられていた黒い女面だけは、「これには手放せないわけがあってな・・・」 [2]女面「深井」 二十年の時を経て、再び私の目の前に現れた黒い女面は、裏面に「深井」という文字が書かれており、両頬にくっきりと笑窪が刻まれていた。 その昔。日向の国の桜川のほとりに住んでいた少年、桜子は、夫をなくし、機織りをしながら自分を育てる母の苦労を見かねて、みずから「東の人買い」に身を売る。そのことを知った母親は、物狂いとなって我が子を探す旅に出る・・・。時は流れて、常陸の国の桜川のほとり。人買いの家での年季が明け、望郷の念を抱きつつ寺での修行の日々を送っていた桜子は、ある日、花見に出た桜川の岸で――これとても、木花開耶姫のご神木なれば、風も過ぎて吹き水も影を落とすな――と水に散る桜の花びらを網で掬いながら狂い舞う女と出会う。それこそ、日向の国桜川のほとりで別れた母親であった。 「桜川」の作者は能楽の完成者・世阿弥と伝えられる。永享十年、将軍足利義教の頃、時の関東管領足利持氏に磯辺大明神神主・祐行が「花見の物語」を献上し、持氏が世阿弥に「桜川」を作らせたという伝承をもつ。典拠に、紀貫之の「常よりも春べになれば桜川波の花こそ間なく寄すらめ(後選集)、さくら花散りぬる風のなごりにはみずなきそらに浪ぞたちける(古今集・八九)」等があげられている。世阿弥は、古典文学に類型のみられる狂女による子探しの物語や「日向桜子」の説話、先行芸能としての白拍子の舞や曲舞などを念頭に置き、この曲を書いたと考えられるのである。 さて、女面「深井」は、近世以降のものは、いずれも白い面で、笑窪はなく、両頬が削げたような女面である。しかも、笑窪のある女面は、初期の能面または神楽面にしかみられないものであるという。とすれば、この黒い女面「深井」は能楽成立直後の能面ということが考えられる。後述するが、九州の神楽にも鎌倉期の年号入りのもの、室町初期の作と思われるものなど、数点の黒い女面が存在する。ならば、世阿弥が桜川を書いたころには、神楽面を母体とした黒い深井面が使われていて、近世に至り、白い女面へと変化した、という推理が成立する。私が再会した黒い女面は、このような、仮面史の転換期の情報を秘める貴重な仮面だったのだ。 だが、この時期、私にはつわものぞろいのコレクターとの駆け引きの果てにこの仮面を競り落とす自信も経済力もなかった。それで、三日ほど図録と睨めっこをしたあげく、諦めて、あとは忘れていた。ところが、ひと月ほど後に届いたオークションの落札結果表には、その面は「入札者なし」となっていた。私は、その場から入札を伝えるFAX送信をした。この場合、早い者勝ちで、最低価格で落札できる。見事、私は射止めたのである。 [3]西都原の風景のなかで 宮崎県には、「桜川」にちなむ場所が二ヵ所存在する。 私が、古美術オークションで落札した黒い女面「深井」が一週間近く所在不明となり、保管されていたのが、この桜川の近くの運送会社の支店であった。私は大急ぎでそこまで出向き、ようやく念願の仮面を手にしたのだが、古い木の箱から取り出した時、その仮面は小さな擦り傷や補修の跡などが目立ち、憂色を湛えていた。私は、 後日談がある。入手直後に、リュックサックに入れたこの深井面を背負い、私は旅をした。「深井」は、愛知県春日井市(中世の遊女や傀儡子女などの宿のあった青墓に近い)で狂言師と出会い、東京の画廊での企画展に出品され、さらに伊勢市の猿田彦神社で開催されていた「猿田彦大神フォーラム」に参加して猿田彦直系の子孫である宇治土公宮司に直接手にしていただき、猿田彦神社境内にある演劇の祖神・猿女君を祀る「佐留女神社」に参拝した。さらに、秋には西都原考古博物館で開催された「九州の民俗仮面展」にも出展できた。「深井」は、他の女面とと [4]狭野神楽の高幣 初見から二十年の歳月を経過して私が入手した黒い女面「深井」は、いまは、福岡県太宰府市の近くに住むコレクターで私の収集と研究を支援してくださっているI氏のお宅に収まっている。仲間からは「神力で手に入れましたね」と評されたが、今の私の経済力では、到底持ちこたえることは無理なのであった。大宰府天満宮には、室町時代のものとされる黒い女面二面が伝わっている。それは、「六座の面」と呼ばれる田楽面で、天満宮付属の鋳物座、米屋座、染物座、相物座、細物座、鍛冶屋座の六座の子孫が代々伝えてきたものの一つであり、神幸式の折り、「竹の曲(はやし)」という舞を奉納する場面で使われるという。いつかまた、これらの謎の仮面たちが出会う機会が実現すると私は信じている。 私が集めた300点のコレクションの中にも黒い女面が三点含まれている。一面は能面様式の女面で、もう一面はあきらかに天鈿女命の面だと思われ、残る一面は、以下に述べる「高幣」によく似ている。 狭野神社は、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)を主祭神として祀る神社である。伊波礼毘古は幼名を狭野皇子といい、この地で少年期を過ごしたという伝承があり、それにちなむ史跡や地名なども多い。狭野神楽は霧島修験の影響を濃厚に残す霧島神舞系の神楽で、この狭野神社に伝わる。勇壮な剣の舞と稚児舞が花形舞で、大人二人を従えた稚児の剣舞は、狭野皇子の舞はこのようなものだったのではないか、と空想癖を刺激される。 [5]狭野神楽の高幣とその周辺 高原町狭野神楽の御神屋は、高い注連柱から四方に綱が張り渡され、御幣が下げられている。そこが正面で、背後に狭野神社、その向こうに霧島山系の主峰・高千穂の峰を控えている。中央に天蓋があり、そこからも四方に綱が張られて、神名を記した幡が下げられている。手前が入り口で、そこには小さな木の鳥居が設えられている。その鳥居をくぐって、神楽の舞人が次々と御神屋に入って来るのだが、白い御幣を担いだ真っ黒な女面の「高幣」が入って来たときには、神気が漂っているようにさえ感じた。折から、さあっ、と霧島の山脈から吹き降ろしてきた風が、御幣や幡を揺らし、ひととき、御神屋を騒がせたのである。 祓川神楽「高幣(タカヒ)」は白い女面の一人舞。御神屋の入り口から神棚左隅を往復、続いて右隅から入り口を往復して、入り口で唱教。それを三回繰り返す。その後、その場で回りを見渡し、用を足す所作をして御神屋を一回りして、退場。唱教は [6]米良・速川神楽の神和(かんなぎ) 西都市・西都原古墳群の北方、一ツ瀬川の岸辺に、瀬織津姫を主祭神とする速川神社がある。米良山系を源流とする一つ瀬川は、大小四十を超える支流を持つ大河である。流域には、西米良の村所神楽、小川神楽、旧東米良の銀鏡神楽、尾八重神楽、中之又神楽(小丸川水系)などの「米良系神楽」と総称される神楽を伝える村々を擁する。その一ツ瀬川が、激流となって米良の山脈を縫うように流れ下り、ようやく平野部にかかろうとする辺りに速川神社が位置するのである。 瀬織津姫とは、謎の女神らしい。少し調べてみると、この神は、黄泉の国で伊邪那岐命が伊邪那美命の死体を見て逃げ帰った時に穢れを祓った神だとされたり、天照大神の同名異神とされたり、あるいは遠野のオシラ神、早池峰山の山神、熊野神などともされ、全国に分布する。熱烈な支持者や研究者によると、大和朝廷から執拗に抹殺されようとした神、縄文の地母神などともされる。しかしながら、神道の最高祝詞とされる「大祓詞」に「高山の末短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に座す瀬織津比売という神、大海原に持ち出でなむ」というくだりのあるところをみると、速瀬を流れ下る川の勢いによって人間の罪や穢れを大海原に押し流す自然神であることがわかる。そしてその記述に最も近いのが、日向の国一ツ瀬川沿いの速川神社の瀬織津姫であることもわかる。 昨年(2005)の12月12日、速川神社の大祭に奉納される速川神楽を見る機会を得た。速川神楽は、やや下流にある穂北神社を本拠とする「穂北神楽」の社人がつとめる。穂北神楽は、そのまた下流の西都原古墳群に隣接する南方神社の南方神楽にも奉納され、米良系神楽に分類されている。南北朝伝説を秘め、修験道の影響を色濃く残し、猪狩りや鹿狩りの習俗との習合がみられる米良系神楽についてはいずれ詳述するが、この米良系神楽に「神和(かんなぎ)」と呼ばれる番付があることに注目しておくべきである。 [7]米良・中之又神楽の神和 月が出た。 宮崎県木城町中之又地区は、旧・東米良の最東部に位置し、北は椎葉の山脈、東は日向市域に隣接する。中之又という地名は、七つの谷の集まる所という意で、集まった谷は椎葉を源流とする清流・小丸川に合流し、西南方へと流れ下って日向灘に注ぐ。この中之又地区は古式の鹿狩りと鹿狩りの神楽「鹿倉舞」を伝える村である。この「カグラ」の語源の一つとも考えられる鹿倉舞や「宿神」、「盤石」と呼ばれる黒い老女の面、「住吉」の黒い翁などについては別項で触れるが、ここでは、「神和」を見ておこう。
以上の事例により、霧島神舞系の白い女面「志目」「天鈿女命」などと黒い女面「高弊」「氏」「陰女」などが対応関係にあるということ、米良系神楽の「神和」と「盤石」「杓子面」「室の神」なども同様の見方ができるということなどを定義できるが、この見方だけで黒い女面の発生を説明することはできない。謎は謎のまま残し、旅を続けることとする。 [8]吹雪の村所神楽にて 雪は、まるで天の神からの贈り物のように、漆黒の夜空から舞い落ちてくる。そして、高い注連飾りにも、神庭にも、次々と降りかかる。降りしきる雪の中で、神楽が舞われている。雪が、中世の絵巻の一こまさながらに、山峡の一夜を荘厳した。 村所八幡神社は、南北朝時代、米良に足跡を残した後醍醐天皇の第十一皇子・懐良親王を主祭神として祀る。懐良親王は、後醍醐天皇が足利尊氏に敗れ、吉野に逃れて「南朝」を開いた後、南朝の再興を期して九州へと送られた。懐良は、二十年近く九州を転戦し、肥後の豪族・菊池氏と結んで大宰府を押さえ、一時は九州を平定するが、足利幕府が派遣した九州探題・今川了俊に敗れて、菊地の残党とともに米良へ入山するのである。懐良親王終焉の地については、福岡県星野村説、熊本県八代説などがあるが、米良もまた伝承地の一つである。米良では、親王没後の文明3年(1471)に村所に「大王之宮」を建て、鎮魂・供養のため神楽を奉納、これが米良系神楽の起源と伝える。 神楽終盤の「大神様」では黒い女面を着けた少年が現れ、神屋の隅に座る。扇で顔を隠している。これが天照大神である。続いて力強い鬼神系の仮面を着けた手力男命が勇壮に舞い、続く「戸かくし」で白い若女の面を着けた天鈿女命が舞う。舞い振りはこれまでにみてきた米良系神楽の「神和」(巫女舞)に類似するが、早い調子の神事性の強い舞である。このころ、夜が白々と明ける。「岩戸」が開くのである。 [9]女性芸能の祖神の舞―高千穂秋元神楽の天鈿女命― 高千穂町向山秋元地区は、高千穂町の中心地・三田井地区からさらに山間部へと入り込んだ渓谷沿いの集落である。深い谷を渡り、対岸に高千穂の村々を望みながら越えていく道は、東洋の仙郷へと続く道を思わせる。道が行き止まりとなったところに秋元神社がある。神社の裏手は高い岩峰となっており、雲が松樹をかすめている。秋元神楽は、この秋元神社に伝わる。夕刻、神事のあと神社を出発した一行は、猿田彦に先導されて神楽宿へと舞い入り、終夜、舞い継がれるのである。 秋元神楽は、辺境部にあるため高千穂神楽の古形をとどめているといわれる。「岩戸開き」では、白い若女の面を着けた天鈿女命が、左手に御幣をかざし、右手で鈴を振りながら、舞う。美しい巫女の舞である。 [10]諸塚神楽の天照大神 「春秋左氏伝」によると、古代中国の紀元前700年頃の「魯国」において、日食があったこと、その折、社で鼓を打ち鳴らし、生贄を供えて祭りを行ったことなどが記録されている。同書は、周王朝の衰退(西暦・前770年=魯の隠公元年)から、哀公14年(魯の滅亡と晋国の樹立)までの約240年間分の記録である。ここには、周王を中華の中心である「天子」とし、その属国の主としての諸国・諸侯とそれをとりまく英雄群像、思想家、学者の存在などが描かれ、なお、王家、諸侯の祭祀などが記される。これをみれば、今から二千数百年も前に、すでに古代中国において、「神楽」の原型とみなされる祭祀が確立していたことがわかる。天照大神の「岩戸隠れ」は日食の折りの「日乞い」の祭祀であり、天鈿女命の岩戸の前の舞と同様の儀礼が行われていたこともわかる。ちなみに同書には、日食のことが三十数回記録されており、それは現代の天文学のデータと照合し、計算すると、実際にあった日食の日時とぴたりと一致するという。 「七つ山」と呼ばれる諸塚村の最奥部の山の渓谷で拾った青い石を、長い間持ち続けていた。その石を見るたび、生まれ育った故郷の山の村の景色と、諸塚神楽のさまざまな場面が眼前によみがえり、私は郷愁と旅情とが混交した、青みがかった水墨画の世界に遊ぶのであった。幾つもの事情が重なり、長年住み慣れた湯布院を去って宮崎へと移住することになった時、私は七つ山の峠を越え、青い石を、谷の流れへと戻した。それから数年後、久しぶりに諸塚神楽を訪ねた。そこには、点在する集落の上を白い雲が流れ、澄んだ空気が心にしみる、昔と変わることのない風景があった。夜通し舞われる神楽の中に私は引き込まれ、村人や舞人たちと会話を交わした。 [11] 黒い女面に導かれて 「黒神子」という一行が目にとまった。ちょっとドキドキした。 その黒神子に関する一行とは、網野善彦著「中世の非人と遊女」(講談社学術文庫/2005。原本は明石書店刊/1994)の中の「中世における女性の旅」の項で、文字通りほんの一行、貞和三年(1347)若狭の国太良荘の百姓本阿の息女黒神子が財物を奪い取られたとして申し状を書いて争い上洛の旅をした、とあるのみで、頼りない。
網野氏は、この書で、天皇や神仏の直属民であり、呪術的祭儀をとり行なった供御人、神人、寄人などに連なる存在として、非人、川原者、遊行宗教者、芸能民、遊女などを取り上げ、かつては聖なる存在として王権に直属していたこれらの職能民が、次第に差別化され、零落しながらも「聖」と「俗」の境界にあって、祝祭と芸能の担い手であり続けた事実を明らかにしてゆく。脇田晴子著「女性芸能の源流」(角川選書/2003)でも.天鈿女命の天の岩戸の前での舞い=鎮魂儀礼=神楽を女性芸能の源流と位置付けながら、その子孫・猿女の君の系譜がつとめた宮廷の御巫、王家の葬儀の際の殯を行う遊部などが、後に天皇の側に侍る白拍子から曲舞い、傀儡子女、遊女などの女性芸能者へと変転する経緯について述べているが、ここでも、女面発生に関する手がかりは少ない。今はただ黒い女面と黒神子という言葉の響きが、異界へと導く記号のように私を誘い続けるだけである。 |
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(SINCE.1999.5.20)