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           九州・民俗仮面と祭りへの旅
                <十一>
                  翁面

[1]懐良親王伝承と翁面                  

 熊本県宇土市西南部の海に近い地点に、懐良親王御幸の地と伝えられる場所があって、小さな神社が建っている。その名も「征西将軍之宮」という。古い農家や現代的な住宅が点在する田園地帯の中に、ひっそりとしたたたずまいをみせるその神社を訪れる人は稀だが、神域には凛とした気配が漂っている。
 南北朝時代――北朝方に敗れた後醍醐天皇は、吉野に逃れ、再興を期して多くの皇子たちを各地に派遣した。その一人が、後に征西将軍宮とも呼ばれる懐良親王であった。随従の王族や家臣たちに援助された幼少の懐良は、南九州(薩摩地方だと思われる)での長い闘争(5年〜12年に及んだという説がある)の後、南朝を支持する豪族・菊池氏の待つ肥後へと向かったのである。征西将軍之宮神社は、懐良一行が足跡を記した地点だと思われる。征西将軍宮神社に近接して「西岡神社」がある。西岡神社の後背部の小高い丘陵地帯は「宇土城址」で、宇土古城は、懐良一行を迎えて九州における南朝の拠点の一つとなったと伝えられることから、この地域一帯が懐良親王ゆかりの地であることがわかる。

 この西岡神社に「黒い翁面」二面が伝わっている。制作年代はいずれも南北朝〜室町初期ごろと推定されている。一面は、下がり眉で、目じりも下がり気味の笑顔の翁である。欠けた上歯と下歯がかみ合う仕組みとなっており、意図的な造形性がみられる。他の一面は風化が進み頭頂部や額、鼻、頬の一部などに欠落がみられるが、皺の多い顔にへの字型の眉、丸く見開かれた眼、歪んだ鼻、まくれあがった下唇と欠けた歯などが見て取れる。この表情から、この二面が一対であったものと推察される。二面が収められている箱の裏には、この面が近くの轟水源での祭礼に使われたことを示す墨書があり、「肥後国誌」にも「轟ノ水上ニ御幸アリテ供奉の庄官十二人随兵百二十人能式七番云々」という記事があることから、古式の田楽能に類似する儀礼に使われたものであることがわかる。すなわちこの二面は、水神祭、あるいは田の神祭りのような祭礼の場に現れ、能楽の「」と「三番叟」のように、主神ともどきの関係に似た役割を演じたことが考えられるのである。

西岡神社を訪ねたのは、二年前(2005年)の晩夏のことであった。夕暮れ時で、神社の拝殿を夕陽が赤く染めていた。古色を帯びた箱から取り出された仮面は、西日を受けて、一瞬、白金色の光を放った。
 私はこの仮面に一度出会っている。1994年に熊本県八代市の「八代市立博物館市民の森ミュージアム」で開催された「仮面の系譜」という展覧会でのことである。そのときはまだ翁面に関する知識も興味もなく見過ごしていたのだが、今、こうして再会してみると、その凄さがわかる。この二面の黒い翁は、九州に現存する最古級の木製仮面で、翁面の起源を考える上で多くの情報を秘める面なのである。
 この仮面と懐良親王伝承との関連を示す資料はいまのところ見当たらないが、南北朝ゆかりの地にこのような仮面が存在することを記憶にとどめながら、「宿神」から「翁面」へと巡る旅を続けることにしよう。

[2]「大王様」は黒い翁面 

 「王家」(天皇家)が北朝方と南朝方に分かれ、各地の豪族・武家も二つに分かれて戦乱が続いた南北朝時代は、民衆にとっても不幸な時代だったが、芸能史的にみれば、王家や武家に随従した宗教者、呪術者、芸能者たちが、それまで支配階級や寺社に属していた芸能を民衆のもとへと運び、普及したダイナミックな活動期であった。神官や僧侶、修験者、陰陽師などの宗教者・呪術者、芸能の民などは、の前には吉凶を占ったり、戦勝祈願の舞を舞ったりした。陣中でも、兵の無聊を慰め、士気を高める歌舞を行った。また、戦の後には、戦死した兵士の霊を弔い、制圧した敵方の兵の霊を鎮める呪術や鎮魂儀礼を行った。それが「神楽」や「田楽能」「猿楽能」であり、「白拍子の舞」や「曲舞」であった。それらの神事儀礼や芸能が、「能・狂言」「風流」「歌舞伎」等の絢爛たる中世芸能を開花させる母体となったのである。

懐良親王を迎えた肥後・菊池氏の当主武光が、その本拠・隈府(わいふ)の城で「御能松囃子(おのうまつばやし)」を上演したという伝承がある。菊池武光は稀代の勇将で、各地の戦を勝利に導き、ついに懐良親王の大宰府制圧を成就させ、九州を平定したのである。菊池市教育委員会発行の「菊池の松囃子(1994)」によれば、「御能松囃子」とは仮面を着けない「直面」の舞で、紺地に飛鶴の文様を白く染め抜いた直垂を着て、烏帽子を被った舞人が、まず笹を右手に持って強く足踏みをしながら舞い、次に扇を持って舞う、簡素な舞いである。それは、高千穂の笹振り神事等の古式の「神楽」を連想させる舞である。菊池神社には、能楽完成以後の能面だとみられる翁(白式尉)、三番叟黒式尉)その他の能面が数面伝わっているが、米良地方には、菊池氏が三面の宿神を伝えたという伝承があるので、懐良・武光の時代に菊池で仮面を着けた芸能が演じられたことはあったと考えることはできる。

さて、前々回の「米良の宿神・菊池殿宿神の面とは」の項で、西米良村「村所神楽」に登場する「大王様」とは、南朝の皇子・懐良親王であり、「黒い翁」として神楽の場に降臨することにふれた。一時は九州を制した懐良親王と菊池の連合軍は、その後、今川了俊を将とした足利幕府軍の反攻を支えきれずに敗北し、米良の山中へと落ち延びたのである。以後、菊池氏は米良氏を名乗って米良山中の住人と同化し、米良の山人(やまびと)は、悲運の皇子を「王家の末裔=神」として迎えた。懐良の一行が米良の地(現在の元米良と伝えられる)に立った時、土地の翁と媼が質素な食事を供した。懐良はそれをで、背負っていた「氏神天神」を降ろしてそこに祀り、この地を安住の地と決めたのである。懐良親王没後、山の民は、その肖像を「黒い翁」として造型し、「神楽」の主役として伝承した。

村所神楽の「大王様」は、少年二人による「天任の舞」(かつて宮中で巫女または稚児が舞ったと伝えられる美しい舞)に続く「幣差」(御幣を持った二人舞)によって招き出される。烏帽子を被り、額に憂いを帯びた皺を刻み、虚空を見つめるかのようなまなざしの黒い翁は、法螺貝の音とともに登場し、まず赤と白の御幣を右手に持って舞い、次に扇を開いて舞った後、静かに退場する。御神屋に厳粛な気配が満ちる。


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