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                <七>
           荒神問答

[1]椎葉大薮神楽の荒神出現

鈴がじゃらん、と鳴り、刀身がきらりと光った。二人の舞人が、右手に鈴を持ち、左手で印を切りながら舞い終えると、腰に差していた刀をすらりと抜き放ち、重厚な舞を舞い始めたので
ある。

 椎葉大藪神楽は、当日奉納された猪肉と鹿肉をまな板の上で切る「板起こし」に続く神事を終え、「一神楽」が始まったばかりだが、すでに二時間以上が経過していた。当日の神楽宿である地区の集会センターは、ぎっしりと人で埋まっている。「一神楽」は、まず御幣を付けた舞笠を被った二人の舞人が、榊をつけた刀を捧げ持って舞う。次に同じ舞人が腰に刀を差し、タスキを持って舞い、次にタスキをかけ、左手で印を切りながら舞う。この二番が終わると、舞い人が代わり、刀を抜いて舞う「剣の手」が始まるのである。
 この剣の舞の途中で、猪肉と鹿肉の煮込み料理が振る舞われる。会場の横に設けられたテントの下の大鍋で、じっくりと煮込まれたものである。鍋の脇には、90才に手が届くのではないかと思われる三人の女性がいて、火加減を見ていた。その光景は、遠い昔に離れた故郷の村へと私を一気に連れ戻した。私の生まれ育った村は、「豊後鹿猟師」と呼ばれた狩人の村で、祖父も父も、村の仲間とともに鹿を追い、幾日も山を駈けた。獲物を仕留めて男たちが帰ると、近所の女たちが総出で料理をした。私の村では半世紀も前に途絶えた山人の習俗が、ここ、椎葉大薮では、古式の祭り=神楽とともに伝えられている。私は、眼の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、骨付きの鹿肉にかぶりついた。

 大薮地区は、広大な椎葉の山塊の南端にあたる位置にあり、米良の山脈と境を接する。椎葉の中心地上椎葉から車でおよそ一時間半。美郷町南郷区神門(みかど)から大河内経由で約一時間。西米良村村所から一時間。車が喘ぎながら登るような坂道を登りつめた、標高800〜900メートルの山地に、18戸の民家が点在する。村に腕利きの猟師が6人。豪勢な猪・鹿料理は彼らによって供給される。太鼓の音が心地よいリズムを刻み、美しい笛の音が流れた。五色の幣で装飾された神楽宿の中は、人いきれと獣肉の匂いで充満した。ここは、山中の夢幻鏡である。
 神楽は進み、地主神「鬼神」の登場、四人の舞人が御幣を高く掲げて舞う「大神」の舞に続く「芝引」で、緑色の大型の仮面を着けた「芝引」が登場する。白い舞衣に紺地に菊花の文様の浮き出た千早を重ね、袴は緑地に雲の文様を散らした派手ないでたちである。呼び出し(とも舞、相舞などと呼ばれる)に先導されて登場し、
―この山は 精ある山か 精なき山か 精あらば 山引き取って我がやに帰ろう『』『』』
 と語る。先端に御幣の付いた面棒(荒神杖)を持ち、腰に榊杖を差して厳かに舞った後、中央に座った神主(太夫)と芝引きをし、両手で印を切って舞い納め、退場する。
 この芝引の語りは、他の地区では
―この山は 主ある山か ぬしなくば 山守たてて 我が山とせよ
となっており、鬼神または荒神出現の際の「山見」「山訪ね」の共通した詞章となっている。


[2]大藪神楽・黒い荒神の語り                

 芝(柴)引きをする「柴荒神」は九州の神楽の他、中国、四国地方など各地にみられ、大別して二通りの型を示す。一つは、岩戸神話における天照大神の岩戸隠れの場面で、天太玉命が天香具山の榊を根こぎに引き抜いて御神屋を作ったという故事に由来する。柴荒神は観客と榊を引き合い、派手なパフォーマンスをくり広げて場を大いに盛り上げる。多くは神楽終盤の「岩戸開き」に先立って行われる。
 一方、柴引きを行わず、榊を山の神の依り代と見立て、「山見」「清め」「鎮め」などの儀礼を行い、神主と問答をする奥三河花祭の「榊鬼」や中国地方の「荒平」、四国地方の「山探し、山王、大蛮」、九州の「綱荒神」「地主荒神」などがある。地主荒神は、天の神・火の神・地の神を一体とする「三宝荒神」とも習合し、柴引き荒神との重複もみられるが、九州山地の神楽では、二通りの出現の仕方をするので、注意深くみていけば、「天太玉命=天孫族」に対する「先住民の代表者=地主荒神」という構図が描き出されるであろう。

前号で登場した大藪神楽の「芝引」は、榊の枝を腰に差して登場し、重厚な舞を舞った後、神主と芝引きをして退場する。その後、神楽は、米を乗せた盆を手に舞う「みくま」、岩戸番付の「手力」「戸取」などを経て猪面を被った二体の猪が出て狩人と格闘の場面を演じる「猪舞」、弓矢を取って舞う「森」に至り、「森」の後半「矢の手神楽」で榊を持った村人数人が御神屋に乱入し、乱舞する。荒ぶる舞が終わると、榊柴を持った数人が、神主と「神前を荒らすことは許せない」、「樽一本で許して下さい」という問答をする。
 続く「樽面」では、飄軽な表情をした樽面が酒樽を担いで出て、舞人や拝観者などに酒を注ぎながら舞う。やがて、満を持したように黒い大型の仮面を着けた「荒神」が登場すると場はどっと沸き立つ。黒光りする面。金色の眼。頭に被った五色の幣が揺れる。

この黒い荒神は樽に腰掛けて神主と問答をする。問答では、まず荒神が神楽で自分が支配する「山」を荒らされたことについて文句をいう。それに対し神主が土地を寿ぐ祝詞を述べ、御神屋の由縁を説き、「鬼神」の出現のわけを訪ねる。荒神は、
―我を鬼神と見るな、昔釈尊の経文に曰く、我心しづかなる時は本供の如来なり、荒れ立つときは三宝荒神なり
と答える。続いて神主が、
―榊のいわれを申し上げ申す 榊は神の名木と承り 神しょかん(招勧)の為 引き入れ すずしめ仕って居り申す
 と榊の由来を説く。続けて荒神は、五方・日月のいわれ、天神七代・地神五代の物語、御幣のいわれ、七日七夜の神楽開催の由来などを問い、神主がそれぞれについて語る。長い問答の末、荒神は納得し、金剛杖(面棒)を譲って退場、神主が、御幣と面棒を持って舞う。ここでは、渡来の民・天孫族の祭儀に対し、地主神である荒神が異議を申し立て、対話を繰り返した後、和解に至る経緯が語られる。二つの民族の大いなる出会いと融合の場面であり、各地の荒神問答が共有する構図である。(詞章は筆者要約)

[3]「山探し」の面と荒神
 
 ゆらゆらと漂う仮面がある。面は、赤い大きな布を被っている。仮面を覆う布は、深い闇なのか。あるいは、原始の森に抱かれた深山なのか。または、天地が混沌と交わる不可知の領域を指すのか。
 高知県旧・本川村(現・いの町本川地区)に伝わる本川神楽の「山王」では、舞い人が「舞いギヌ」と呼ばれる真っ赤な布を両手で広げて被り、頭上で右に左に揺すりながら舞う。布が揺れるたび、赤い大きな仮面がちらりとのぞくが、なかなかその姿を現そうとはしない。激しく太鼓の音が鳴り響く。この間、山王は、口の中で「山王の本地」を唱えている。山王の本地とは、山王が山の支配神であり、山を守り、氏子を守護する存在であることを説くものである。四国の神楽には、山王に類する神として、「山主」「山探し」「大蛮」などが分布する。いずれも鬼神、荒神などの性格が複雑に交錯したもので、「山=土地」の支配神であるという共通項をもつ。

私が20年以上をかけて集めた300点の仮面のなかに、長い間所在不明になっていた面がある。それは(写真1)の荒神面で、赤黒い光を放つ、彫りの深い重厚な仮面である。旧・由布院空想の森美術館(1986−2001)を閉館し、湯布院から宮崎へと移り住んだ後、4年を経て現在の「九州民俗仮面美術館」を開館することができたが、その開館のための準備のさなかに雑多な荷物の中から、ひょっこりとその面は出てきた。赤い布に包まれていた。
 この荒神面は、四国山地の神楽の中の「山探し」の面によく似た造型のものがあり、鮮明に私の記憶に残っていたものである。その山探しの面は、昔、村で焼畑を行った際、山火事が起こり、村が炎に包まれ、その時、この面を着けて神楽を舞ったところ、火事が収まった、という伝承を持っていた。「火の神=荒神信仰」が混交した山の神の面であった。山王、山主、山探し、大蛮などには、赤・黒・緑・白などの仮面があり、表情も鬼・般若・飛出・翁・樵など多様で興味が尽きない。樵は真っ黒の面のものが多く、拝観者と「お前は色が黒い」「いや、お前のほうが黒い」などと問答をする。樵の面や椎葉大藪神楽の黒い荒神は、山地に依拠する先住民の信仰が荒神信仰の中に取り込まれたものだと考えることができる。
 備後(広島県)、備中・西美作(岡山県)、石見(島根県)など中国山地の神楽にも「荒平」「大蛮」などが登場し、「荒神神楽」として伝承されている。中国山地の荒神は、家の中の火を司る竈神としての「三宝荒神」をはじめ、山の神、百姓の神、田を開いた人を祀る開拓神、蛇神、水神など多様な相貌をあわせ持つ。荒神神楽は、五行思想、修験道、密教とも混交し、死霊の鎮めや祈祷、神かがりを行うなど、民間呪術を包含しながら分布した。十三年、三十三年という式年ごとに荒神を主神とする大がかりな神楽が催され「天荒神」「地荒神」「大歳神」「水神」「金神」「金屋子神」「大将軍」「五十五の荒神」など、あらゆる荒神が勧請された。荒神は氏神より古い在地の守護神と信じられた。


[4]霧島山系の三宝荒神

中庭で焚き火をするのが好きである。周辺の森から伐ってきた枯れ木や建物を覆っている大きな楠から散ってくる落ち葉を掃き集め、燃やすのである。
 昨年(2006)の3月に開館した「九州民俗仮面美術館」もようやく一年目の春を迎えた。15年間運営を続けた「由布院空想の森美術館(1986―2001)」を閉館し、湯布院の町を去ってこの地で暮らし始めた時、私は、何をどう組み立てれば新しい人生を始められるのか、見当もつかなかった。かつて家庭に恵まれない境遇の子供たちが暮らした大きな家は二棟の建物とそれをつなぐ渡り廊下で囲まれた中庭があり、その庭に樹齢三百年はあろうかと思われる楠があって、落ち葉が、庭にも屋根の上にも堆く積もっていた。私は毎日それを拾い集め、焚き火をした。燃え上がる炎を見つめ、樹間を流れて空へと立ち昇ってゆく煙を眺めていると、なぜか心が安らぎ、少しずつ立ち上がる気力が回復した。

焚き火の習慣は今も続いている。大きな木は、大雨の後や台風が通り過ぎた後などに、大量に枯れ枝や落ち葉を散らすため、燃料は際限なく供給されるのだ。
 穏やかに春の陽射しが庭を暖め、焚き火の煙がゆるやかに森を漂っていたある一日、私は思いついて、館内に展示してある「三宝荒神」を持ち出し、楠の幹に小さな釘を打ち、それを掛けてみた。日の光に照らされた仮面は、ひときわ赤く輝き、焚き火の炎が、さらに赤色を加えた。
 この三宝荒神は、霧島面の特徴を備えた優品で、霧島山系西端の町の民家に伝えられていたものだという。明治期、この地方には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの仏像、神像、仮面などが壊されたり、燃やされたりした。この廃棄寸前の運命にあった荒神面は、ある村人が持ち帰り、自家の土蔵の米櫃の中に秘匿した。当主が亡き人となった後、この仮面は、籾殻の中から発見されたという。

「三宝荒神」とは、古代インドの土着神である夜叉神の信仰が仏教とともに渡来し、古来の山岳信仰、星宿信仰、神道、密教、修験道などの要素が混交し、日本独自の発展を遂げた神である。五行の中央神あるいは星宿神としての宿神、荒魂(あらみたま)を宿す土地神、竈神として信仰される火の神などの性格を合わせ持つ。
 大きく見開いた眼。彫りが深く、皺の多い造型。霧島山系には、前記の三宝荒神と同様式の仮面が分布する。霧島市霧島神宮に伝わる九個の大型仮面「九面」、鹿児島市本城町南方神社の「荒神」、鹿屋市串良町万八千神社の「鬼神」、菱刈町南方神社の「鬼神」など鹿児島県域の「神舞」に使用される面が分布し、宮崎県域にも、えびの市大戸諏訪神社の神舞面「鬼神」、同菅原神社の神舞面「四方鬼神」、北郷町潮嶽(うしおだけ)神楽の「鬼神」、日南系神楽の四方鬼神など幅広い分布がみられる。なかでも、霧島神宮の九面の一つである「荒神面」には海老原源左衛門作・明和3(1766)年の銘があり、制作年代と当時の作風を確認できる。海老原一派は、霧島修験系の仮面制作集団といわれ、霧島山系一帯に多くの仮面を残した。その造型感覚は、現代に至るまで影響を及ぼし続けているのである。


[5]諸塚神楽の三宝荒神 

「三宝荒神」の源流を、古代インドに求めることができる。山本ひろ子著「異神」(平凡社/1998)では、南北朝期成立の「神道雑々集」(天理図書館吉田文庫蔵)その他の資料によりこの渡来の荒ぶる神の原型を示す。その概要は
 『昔、舎利弗が道場を建設するとき、「魔」に破壊されて成就しなかった。その「魔」とは「三宝荒神」であった。荒神は、「我は是三宝荒神・毘那夜迦也。亦の名は那行都佐神也」と名乗って、自分を恭敬しないものの善法を破壊し、「貧窮」「無福」「短命」などの災いをもたらすであろう、と告げた。そこで荒神への恭敬を誓った舎利弗が百味の供物を供えて祭ると、諸願は成就した』
 というものである。荒神とは恐るべき障礙神であり、その荒神を守護神に変える祭法とは、清浄の地に荒神を祀り、種々の供物を供えたり、深山や樹下に壇を設け、供物を捧げて祭儀を行うことであった。仏教説話とともに渡来した「三宝荒神」は、その土地の様々な土着神と習合し、「地主荒神」としての位置を獲得していったものだと思われる。

諸塚村南川神楽の「三宝荒神」は、深夜に登場することから「夜中の荒神」とも呼ばれる。当日の昼過ぎから始まった神楽は、梅の枝を背に華麗に舞う「天神」や弓矢を採り荘重に出現する「八幡」などを経て、すでに十時間以上が経過しているが、続々と村人や遠来の拝観者が集まって来て、神庭はぎっしりと人で埋め尽くされる。かがり火が煌々と御神屋を照らす。白い舞衣を着け、御幣と鈴を持った舞(荒神呼び出しの舞)が出て、飛鳥のように舞うと、まず「舞荒神」が登場する。続いて、古い型染め更紗の千早を着て腰に榊を差した「一荒神」が重々しく登場し、神主と問答をする。その問答の中に
 ―そもそも我は是れ三宝の荒神なり 汝文武のまなこと我を鬼神と見る也 昔釈尊のわがために一巻の経をとき給う その経に曰く 心の静かなること金渡ほううんの如来也 心荒れ立つと金渡三宝の大荒神也
 ―草木草林みな是我がせいだい也 我に請い奉らず 切り取ること以ての外の罪科也
 という詞章があり、前記インド渡来の説話や椎葉大藪神楽の芝荒神、九州・四国・中国地方など各地の柴荒神と対応していることがわかる。一荒神は、「柴荒神」とも「山の神」とも呼ばれる。
 続いて「二荒神」が登場。神主がこの地に天神七代地神五代の宮を建てるので立ち去れと述べるのに対し、二荒神は、東南西北中央すべて荒神の支配地であると反論。神主は
 ―そのこと知らずして悪業の至り也 これ我が也 何にても誤り申す也 これより大荒神様よと敬い申す也 当所当村氏子子孫繁栄のため神社遷宮を許し下されよ
 と述べる。二荒神は納得し、神楽の開催を許す。二荒神は、「築地荒神」とも呼ばれる土地神である。続く「三荒神」と神主の問答では、当地東南西北の山や森のいわれ、七日七夜の狩りにより大鹿を射止めて太鼓を作った物語、諸仏諸神勧請の由縁などが語られる。長い長い問答は続く。諸塚の山塊は黒々と横たわり、天には、北斗七星が輝いている。


[[6]土地神と舞荒神の話

十六夜の月が中天にかかった。諸塚神楽には「お日待ち」の神楽と「月待ち」の神楽があり、ここ小払地区の神楽は「月待ち」だという。月は、古老の言葉どおりに黒々と連なる諸塚の山脈を照らし、山腹にひっそりと眠る村々を明るくして、神楽の場に一層の賑わいをもたらした。諸塚山は、「太白山」とも呼ばれ、北斗七星信仰の遺構が確認されているという。「新刊諸塚村史」には、昭和初期ごろの村内の山林の80%が焼畑であったことが記録されており、広大な諸塚山系の山々に依拠する人々は、狩猟や焼畑農耕によって生計を立てていたことがわかる。厳しい山地の生活を基盤とする人々によって奉祭された神楽は、日月星辰を祀り、「山の神」「荒神」「稲荷」「水神」「火の神」などを祭りの主神とし、記紀神話、修験道や仏教説話などの影響を受けながら伝承されたのである。
 南川神楽「三宝荒神」の中の「二荒神(築地荒神)」の語りには、
 ―東方黄金を持って宮を建つることは我が三宝荒神が化身なり 西方白金を持って建つること小荒神が化身也 南方赤金を持って建つることは六ぴ荒神が化身也 北方黒金を持って建つることは八ぴ荒神が化身也
 というくだりがある。「荒神」とは、この土地を守護する五行の神であり、「山の神」でもあった。渡来の神は、山脈の奥深く入り込み、在地の神と融合し、土地神となって人々を守護したのである。
 「三宝荒神」では、三体の荒神と神主との長い問答の末に、氏子代表がお神酒と盃を載せた膳を持って現れ、仲直りの儀がある。そこで一荒神は、口上の後、腰に差した榊を神主に渡す。続いて一荒神と神主の引き出物のやりとりがあり、二荒神と神主の「杖ゆずり」がある。この後、一荒神に渡された榊を添えた榊の大束を持った若者たちが御神屋に乱入する。「柴入れ」である。若者達は激しく榊を奪い合い、村人や拝観者がはやし立て、神楽の場は、騒然となる。柴入れが終わると、一荒神は神主が連れ帰り、二荒神は舞とともに帰り、三荒神は、村人が盆に乗せた銚子と盃を持って舞う「銚子舞」とともに喜び舞いながら退場する。三荒神の登場から退場まで二時間近い時間を要するが、この間、村人たちが大いにはやし立て、神楽ぜき歌を歌い、この夜一番の盛り上がりをみせるのである。

ところで、「三宝荒神」の始まる前に二体、後に二体の「舞荒神」と呼ばれる荒神が出現し、荒々しい舞や飄軽な舞などを披露する。多くは、村人が扮しているため、ひやかしの声や拍手、笑い声が絶えない。豪壮な作風の荒神面や古風を残す荒神面などがあって私は数年前から注目しており、機会があるごとに伝承者や村の人に名前や由来などを訊ねたが、その正体は不明であった。ところが今年、「あれは、昔、集落ごとに居った荒神様じゃよ」という古老の言葉を聞くことができ、納得した。舞荒神とは備中荒神神楽の場に勧請される「天荒神」「地荒神」「伽藍荒神」「湯荒神」「臍緒荒神」「牛王荒神」「荒神」などと性格を同じくする土地神であろう。「舞荒神」は威厳のある恐ろしげな神だが、森の奥の巨岩や巨樹の下の祠、水源などに鎮座し、村を守する親しみ深い神でもあった。

[7]天の神・地の神の語り

 銀鏡神楽や中之又神楽などの米良山系の神楽には、「はらかき荒神」と呼ばれる荒神が登場する。九州では、激しく怒ることを「はらかく」と表現する。要するに、荒神は怒っているのである。金襴の派手な衣装を着け、荒神杖(金剛杖、面棒などとも呼ばれる)を持って出現し、腰を深く曲げて上体が八の字を描くほど激しく振りながら怒り舞う。そして太鼓(俵や樽などの所もある)に腰掛けて、地面に突き立てた荒神杖を扇子でぱしり、ぱしりと打ちながら、神主と問答をする。
 米良の山々には、「地主の森」「荒神の森」「荒神林」などと呼ばれる森があり、そこには、「山の神」と同等に祀られ、信仰され続けてきた「荒神」が鎮座していた。諸塚村戸下神楽の御神屋が設えられる地区の集会所の脇にも、「地主荒神」と刻された古い石塔が立っており、その地が、荒神祭祀の跡であることを示している。
 深い森の中から、荒神が怒り出て来たのは、自分の支配地である山に入り込み、榊を無断で切り取り、御神屋を拵え、祭りを開催したことに対して抗議するためである。しかも、祭りは、すでに中盤を過ぎている。荒神は、太鼓を停止させ、その太鼓に腰掛けてしまう。祭りは中断を余儀なくされた。

 前項までにみてきたように、荒神問答の前半部分では、荒神が渡来の祭祀者である神主に様々な問いを発し、神主が答える。銀鏡の荒神の語りには「吾は三界の棟梁なり」という詞章、中之又の荒神も「吾は三界の棟梁」を名乗り、「御鏡は日神、勾玉は月神、剣は星宿なり」と語るくだりがあって理解を深める助けとなる。

西米良村村所神楽の荒神問答には、荒神問答の後半部の重要な詞章があるのでみておこう。扇子で面棒を三回叩いた荒神は、おもむろに「しからば 注連のあらまし申しあぐるでござろう 注連とは天の五行に八本のしゅで(幣帛) 地の五行に五本のしゅで 彼の注連に天地五行のしゅでを捧げて この内に注連は勧請し奉る たとえば諸道に品々の法を書き入れて用い 其の上を封じたるを注連というがごとし」と述べる。それに続き神主は、「されば天の五行に八本のしゅでは 水・火・木・金・土の五行なり 吐・火・加・心・以・真・多・如の八神に捧げ (以下略) 」と五行八宿のを述べる。荒神は、「それは神事礼法に垂れ合う物を 白蓋というなり 是すなわち天を恐れ 地を恐るるをいう 天上幸いおこないの時は 天の御影 日の御影というなり(中略)これによりて人々母の胎内に宿る時、えなをかむいて宿ること全くこれに同じ(中略)それいかんとあらば その母百味百毒を食するとも 懐胎の子は一味の毒にあたらず 是天地一同相の理想に同じ これによりて白蓋の形を作る 天の二十八宿 地の三十六金土 合わせて六尺四寸に形取るなり 色相をあらわすこと 五色五行の形なり(以下略)」
 と応じて怒りを解く。「白蓋」とは御神や中央に吊るされる天蓋のことで、「天=宇宙」を表す。「えな」とは「胞衣」のことで、母の胎内で胎児を包む皮膜のことである。荒神とは大いなる宇宙神であり、母のごとき土地神であった。


                     <八>
                    山神の秘祭


[1]だご花と土地神の舞                  

 鹿児島県志布志町田の浦地区は、志布志湾からははるかに遠く離れた山間の村である。山宮神社は、低い里山に囲まれた田の中にあり、まるで昔話の舞台のような鎮守の森が、神域を守っている。鳥居をくぐって参道を進むと、社殿の入り口や拝殿、本殿の両脇などに飾られた華やかな「だご花」が目を楽しませてくれる。だご花とは、米の粉を丸めて作る団子の花のことで、祭りの日、地区の各集落から奉納されただご花が境内を飾ることから、この春祭りは「だご祭り」と呼ばれて親しまれているのである。
「だご」は竹の串の先端に付けられて、藁づとに挿される。だごは女衆が作るが、竹串作りは男衆の仕事である。細く割った竹を鋭利な刃物で途中まで削ると、竹屑はくるくると巻いて鳥の羽のようになる。これを稲穂と見立てる。だごの周囲には、椿の花や咲き始めた梅の花、南天の実などが添えられる。だご花は、五穀の豊作を願う供物であり、神霊を招く依り代でもあろう。

 山宮神社の主祭神は、天智天皇で、ご神体は赤・白・黒の漆塗り陰陽一対の木像である。なにゆえ、このような辺地に天智天皇が祀られているのかは不明だが、この祭りは、天智天皇が狩りを好まれたという故事にちなむ。毎年、二月の卯の日に神事として地区の宮谷狩倉(かくら)で狩りを行い、獲物を仕留めると、それを担いで獣の鳴き声を発しながら社殿を三回巡り、近くの川に浸けておき、神前に供えたという。
 「狩倉=カクラ」とは狩りの領域であり、山神の支配地である。獣の鳴き声を発して神殿を巡る儀礼は、古代隼人族が吠声(はいせい=犬の吠える声)を発して宮廷を守護した儀礼と通じる。大隅半島は日本最南端の半島であり、政権の所在した畿内(日本の中央)からは遠いが、黒潮文化を通じてアジア諸国とは近隣の関係にあり、日向神話の分厚い分布地である。この地を「辺境」ととらえず「古代神話の展開地」のひとつだと考えれば、さまざまに分布する祭りや民俗儀礼が深く重い意味を持って見えてくるのである。

 祭りは、場を清め、祓う「彦舞」から始まり、赤と黒の鬼神面を着けた二人の少年の舞「童鬼神(わらべきじん)舞」、黒の鬼神面を着けた少年による「児鬼神(こきじん)舞」と続く。神楽は、霧島神舞系の神楽と高千穂・椎葉・米良などの山地神楽の要素が混交している。「片手舞」「神随(かんずい)」「十二神剣舞」などの刀を採り物とする舞が全体を構成し、前述の少年による鬼神舞の他、「金山鬼神舞(赤の鬼神面)」「地割荒神舞(青の鬼神面)」「鉾鬼神舞(赤の鬼神面)」などが配置され、五行の神と荒神祭祀が混交する。地割荒神舞の中に白い女面を着けて舞う「霧島舞」があり、神楽全体を通じて霧島神の縁起が語られる。「田の神舞」では白の鬼神面を着けた田の神と農夫に扮した田吾作が、滑稽に田作りの様子を演じる。

 だご花は、祭りが終わると氏子や拝観者に配られる。これを食べると一年間の無病息災が約束され、田の畦や水口などに立てるとモグラ防ぎや虫除けになるという。高千穂峰を主峰とする霧島連山は、九州の南端に聳える「神の山」である。霧島の神は、天孫降臨伝承・五行思想・仏教等の渡来の神を包含しながら、土地神としての威信を保ち続けている。

[2]猪面と「猪荒神」の舞                  

 それは、ただの木片か、古い建築物のかけら、あるいは、屋外に長い間放置されて風化した神像の残欠のように見えた。行きつけの古道具屋の軒下の、雨が降れば雨だれに打たれ、雪が積もれば雪の下に埋もれそうな場所に無造作に置かれていたのだ。
 近寄って、手に取ってみると、かつてはそこが目であったと思われる空洞と、不確かながら歯並びの形跡、わずかに残る弁柄の朱色などが確認できた。
面(ししめん)かもしれない!
 私の五感は、山中で獲物を見つけた猟師に似て、するどく感応した。だが、骨董買いにおけるこのような場面では、そしらぬふりをして、それをもとの場所に戻し、店内を物色し、変哲もない安物を買ったり、買えるはずもない高額の商品の値段を訊ねたりした後、
 「ところであの木切れはいくらですか?」
 とさりげなく切り出すことが肝要である。初手から買い気満々の姿勢をみせると、足元を見られ、値段を吊り上げられて、負け戦となることは必定である。要するに、私は、この猪面と思われる物体を、ガラクタ並みの値段で入手したいのである。ところが、海千山千の老店主は、すでに私の反応と顔色を読み取っていたらしく、
 「おお、さすがにあんたは良い物に目をつけなさる。それは米良の猪面じゃ」
 と見え透いたお世辞を言い、先手を打って物件の正体と出所を明かし、私の思惑を封じて、まともな古美術品の価格で売りつけたのである。老練な古道具屋に一本取られたかたちとなったが、私は珍品を手にして、満足であった。それは、米良系神楽や高千穂神楽などの「猪荒神」の舞に登場する猪面の古作であった。

この連載「銀鏡神楽の七鬼神」の項で、猪が御神屋に出現し、「ニタズリ」など猪の所作を繰り返して暴れ回り、「七鬼神」の一神である「山の神」に取り押さえられる場面について触れた。米良系神楽の中之又神楽や尾八重神楽では、同様の番付が神楽後半の人気番付として組まれており、猪面を着けた猪二頭が、御神屋に現れ、いずれも猪の所作をして暴れた後、御神屋の外に出て、村人や拝観者の間を回る。番付名は「獅子荒神」となっているが、いわゆる里の芸能として舞われる獅子舞ではなく、「猪荒神」である。同じく米良系神楽の村所神楽では「大山祇命の舞」となっており、山の神である大山祇命が暴れる猪を取り押さえ、楽屋へと連れ帰る。
 高千穂神楽の猪荒神は「山森」という演目の途中で現れる。山森は龍神の舞といわれ、青龍、白龍、赤龍、黒龍、黄龍の五王が、鹿を狩り、その皮で太鼓を作る物語で、青、白、赤、黒の四王は荒神であり、黄龍が大山祇命=山の神すなわち猪荒神である。山人が追い出した猪と山の神との闘争が面白おかしく演じられた後、山の神が猪の上に乗り、退治して追い払う。古くは、御神屋を飛び出した獅子(猪)は民家を巡り、お神酒を振る舞われたり、餅やお賽銭、蜜柑、お菓子などを貰って明け方になってようやく帰って来たという。民家を来訪する猪は、山の神の使者として歓迎された。

[3]鬼八伝承と猪掛祭り                   

「収集地高千穂・山の神」という古ぼけたシールが貼られた仮面がある。それは二十数年前に南九州のコレクターから一括して購入した100点の中の一つで、鬼神面の一種である。高千穂神楽歌では、「谷が八ツ 峯が九ツ 戸は一ツ 鬼の棲家はあららぎの里」
 と歌われるように、この険しい山間の地に降臨(渡来)し、支配者となった民族(稲作民=天孫族)にとって、古来、そこに居住し、狩猟・焼畑を生業とした先住民たちは、反乱を繰り返す「荒ぶる神=鬼神」として恐れられ、谷の奥、山塊の果てに封じ込められるべき存在であった。高千穂神楽「山森」の後半では、猪荒神が登場し、暴れ回る猪を取り押さえる場面があるが、この猪荒神も土地神であり、鬼神である。表記の面は、これらの「荒魂」を形象化した鬼神面であろう。 

 高千穂の先住神=荒ぶる神に「鬼八」がいる。伝承によれば、神倭伊波礼彦命(神武天皇)の兄の三毛入野命が、二上嶽ふもとの乳ケ岩屋に住む悪神(鬼八)が里人に害をなすので退治し、首と手足と胴体に切り分け、郷内三ケ所に埋めたと伝えられている。その埋めた場所を「鬼八塚」という。ところが鬼八の霊は、死後も生き返り、霜を降らせて農作物に害を与えた。これを鬼八のたたりと怖れた里人は、毎年処女を生贄として捧げ、鬼八の荒魂を慰めた。戦国時代に日之影郷中崎城主の甲斐宗説が、乙女の身代わりに猪肉を神饌として供え、これを機に人身御供の風習は止んだという。これが猪掛祭りの起源である。

当日朝八時前、高千穂神社において竈払い式があり、三斗三升三合の米が炊かれ、神官や巫女さんが木の鉢につぎ分ける。氏子は、天真名井や御塩井桜川妙見社などにかけぐり(竹の筒に入れた酒)やしめ縄を掛けに行く。鬼八塚には猪肉を持って行き、捧げる。この時、氏子の中の二人が、長い槍で「ホーイ、ホイ」の掛け声で天を突きながら神社をそれぞれ反対方向に三周する。次に神社を出発した神事の一行は、鬼八の首を埋めたと伝えられる高千穂神社東方の「鬼八塚」に行き、神事を行う。
神事が終わると、高千穂神社拝殿に戻り、笹振り神楽が舞われる。神前には日之影町大人の狩場で獲れた猪が供えられている。古来、大人の狩場が十社大明神(高千穂神社)の狩場(狩倉)であった。この日奉納されたのは100キロをゆうに越える大猪であった。猪は田畑を荒らす害獣でもあったが、冬季の貴重な栄養源として狩猟の対象となる獲物であり、山の神の使いとして崇められる聖獣でもあった。

神楽は、御幣を結んだ竹笹を両手に一本ずつ持ち、左、右、左と振りながら
「しのべや たんぐあぁん さぁりやさそう まぁどかや ささふれ たちばな」
という歌(「鬼八眠らせ歌」と伝えられる)を歌いながら、始めに宮司、次に神官、続いて神楽の舞人(奉仕者)、氏子代表の合計七人により、七回、舞われる。笹の音と歌とが、拝殿の中に呪文のように響く。この笹振り神楽こそ高千穂神楽の原型といわれる。鬼八は、心ならずも渡来の神に従属したが、「霜宮鬼八荒神」として手厚く祀られ、今も高千穂の自然神として人々の心の中に生き続けているのである。

[4]狩法神事シシトギリ
 
 男たちが帰って来た。庭先にドサリと獲物が置かれた。三十貫(100キロ)はあろうかという大猪であった。
「今年の初猟は、大猟じゃ」
「山の神様の恵みじゃ」

 集まって来た村人たちの歓声が上がる。たちまち火が焚かれ、解体が始まる。毛が焼かれ、鋭利な刃物で削ぎ落とされると、猪は仰向けにされ、その日の狩りのが呪文を唱えながら、愛用の山刀を首の付け根にズブリと刺し、正中線(腹部の中央線)に沿って一気に切り下げる。獣皮の焦げる匂いと血の匂いが充満し、男たちの瞳に火の色が映る。
 首と胴、四肢が切り離され、細心の注意をはらって心臓が取り出される。「フク」「コウザキ」などと猟師言葉で呼ばれる心臓には、四つの切れ目が付けられ、首の血を塗りつけた「血旗」とともに山の神に捧げられる。今年の豊猟を祈願する厳粛な神事である。少年期に体験した山の男たちの祭儀は、鮮烈な記憶として私の眼底に焼きついている。

西都市銀鏡神楽では、祭りに先立って、狩人たちが山に入り、猪を狩る。祭りの前一週間の間に仕留められた猪の頭は「(にえ)」として神前に捧げられる。毎年、十二月十二日の御神屋作り、十三日の式一番「星の舞」から始まった神楽は、十四日夕刻の「面様迎えの行列」を経て、式二番「清山」から式三十一番「鎮守(くりおろし)」まで、夜を徹して舞い継がれる。舞庭には篝火が焚かれ、供えられた猪頭を照らし続ける。十五日の昼頃、式三十二番「シシトギリ」が奉納される。これは、この村に今も伝わる猪の巻き狩りの様子を滑稽な所作や狩りの言葉などを交えて演じるものである。神社の脇にある社務所の裏手から現れた爺と婆が、それぞれ木製の弓を持ち、「ほっ、ほーい」と山に響く声を掛けながら、御神屋に設えられた「山」に向かう。「ほっ、ほーい」。遠い山脈から山彦が返る。
 「ほっ、ほーい、どこそこのだれそれどんは○○の峠にってくれーい」「ほっ、ほーい」
古い翁面を着けた爺(豊磐立命)は、この狩りを差配するであり、マブシ(射手)の役割を演じる。媼面を着けた婆(櫛磐立命)は、セコ(勢子)の役をつとめる。
「ほっ、ほーい、だれそれどんは、何々の木のそばに回ってくれーい」

爺は、馴染みの猟師の名を呼び、位置の確定を指示する。これをカクラ(狩倉)のマブシワリという。シシトギリとは、猪の足跡をたどり、猪を遠巻きに巻いて(囲んで)仕留める古式の狩りを再現してみせる演劇であり、山人の厳粛な神事である。そして、爺と婆を演じるのも、指名される狩人も、この村で狩りを行う実在の猟師なので、その演技や掛け声は真に迫って、観客を、あたかも狩りの現場にいるような心理に誘うのである。やがて狩り場(狩倉)に着いた爺と婆が繰り広げる猪狩りの様子は、それが夜を徹して舞われ続けた神楽の後であるだけに、演者も観客も、実際の猪猟に参加しているような興奮状態となり、
「ほっ、ほーい、大きな猪が獲れたぞーい、皆の衆、迎えに来てくれーい」
 と四囲の山々に声を響かせながら帰る爺と婆に、盛大な拍手と喝采を送るのである。


[5]狩面とヤマクロの話

 西都市銀鏡神楽の「シシトギリ」は、猪の巻き狩りの様子を滑稽味をまじえて再現する狩法神事である。弓と矢を持った豊磐立命(爺)と櫛磐立命(婆)による当意即妙のやりとりは、古式の狩り言葉による呪法でもあろう。私がはじめてシシトギリを見たのは、今から十数年前のことだが、私は、爺に自分の祖父の姿が重なった。私の故郷の村では遠い昔に途絶えた狩りの作法がそこに残っており、今も生き続けていることに感動したのである。猪を仕留めて帰る爺の後姿に、私は、
「爺様、良かったなあ、良かったなあ」
 と声をかけ、頬を伝う涙をぬぐいもせずに歩いたものである。

 西米良村村所神楽にも「シシトギリ」は伝わっている。米良山には、「西山小猟師」という古文書が伝わっており、別名「狩面」とも呼ばれるこの祭儀は、この古文書にもとづいて行われる狩人の秘儀である。古くは、猟師、氏子、氏子総代、神官等が相談の上、祝詞を奏上し、山の神である「コウザキ様」に猪肉1斤(約600グラム)を供える「狩場立ての方式」を行った。これが、「狩面出しの願い」であった。「狩面=シシトギリ」とは、山に依拠し、山に生きる猟師たちの厳粛な神事であった。
 「狩面(シシドギリ)」は神楽最終盤の式三十三番に上演される。出番が近づいた演者たちは、「狩面宿(昔は宿が決まっていた。現在は村所公民館内)」に集まり、接待を受ける。やがて社人の吹くほら貝の音が聞こえるとそれを合図に、それぞれ、コー、コー、コーと犬を呼びながら別々の道を通って神楽の御神屋へと向かう。これは、猪の足跡をトギリ(たどり)ながら狩人がカクラ(狩倉・鹿倉などと表される狩場のこと)へ向かう様子を表している。演者は、「山の神」と「ヤマクロ」「ヨスケ」「カスケ」「ゴスケ」「センコ」の五人である。山の神は鬼神面を着けた大山祇命である。ヤマクロは行事(当日の狩りの、ヨスケとカスケがマブシ(射手)、ゴスケとセンコはセコ(勢子=獲物を追う役)である。猟師たちは古式の狩り装束に身を包み、それぞれ真っ黒の仮面を着けている。

 カクラに到着すると、まず山の神が祭壇に向かい、神事を行う。山の神はすぐに退場する。続いて、ヤマクロが「そもそも 古より此方七人の七甲崎には 地生甲崎 所主の甲崎 千才人門の甲崎に掛い 奏楽申す」と唱え事をする。後ろの四人は神妙にそれにならう。次に、ヤマクロが
「今からカクラ立てするど。耳入れて聞け」
 とカクラ立て(カクラ言い渡し)をする。山に点在する猪の通り道に、狩人を配置するのである。やがて賑やかに昼食が始まるが、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。猪が立った(犬が追い立てた)のである。ここからが狩人たちの腕の見せ所である。猪は竹で拵えられたオブジェであり、犬は箒、鉄砲は杵という「見立て」ばかりだが、実在の猟師たちが演じる狩りの様子は真に迫り、また滑稽でもあり、会場は爆笑に包まれる。山人たちの祈りは山の神に通じ、今年の豊猟が約束されたのである。

[6]中之又神楽の鹿倉舞

風に混じって、遠い神楽笛のような音が聞こえた。それは、雄鹿が雌鹿を呼ぶ声かもしれなかったし、猟師が吹く「鹿笛」かもしれなかった。天空をきらきらと光るものが横切り、山の端をかすめながら落ちて行った。私はそれを、光のかけらに乗って高い山の頂から向こう側の山の峰へと移動する「カリコボーズ」という山の精霊だろう、と思った。真っ赤に紅葉した山柿の葉を一枚、拾った。森の中に身をひそめていると、普段聞くことのない音が聞こえ、里では見ることのできない事象に出合うことがある。
 私は、鹿を追う猟師の一団とともに山を移動し、「勢子」(犬を連れて山に入り、鹿や猪などの獲物を追い出す役割の猟師)が追い立てた鹿を、シガキ(猪垣=獣の通り道)で待ち伏せしているのである。私のいる場所は、「八幡様のカクラ」と呼ばれるシガキである。
 私の視線の向こうには、銃を手に、薮蔭に身をひそめる狩人がいる。精悍な横顔を午後の陽射しが照らしている。

 九州脊梁山地の猟師たちは、猪や鹿を狩る「狩場」のことを「カクラ(鹿倉―狩倉)」と呼ぶ。カクラとは、文字通り狩りの領域であり、山の神の支配地である。カクラ=狩倉は、「神座(かむくら)」でもあり、「神楽」の語源のひとつだとも考えられている。
 木城町中之又地区は、古式の鹿狩りを伝える村であることは、この連載ですでに触れた。七つの谷の集まる所といわれるこの村の、谷沿いの道を遡って行くと、そこは行き止まりとなっていて、小さな集落がある。集落の裏手は、米良の山脈に連なる深い森である。集落にはそれぞれ、屋敷原、筧木(ひゅうぎ)、中野、松尾、弓木などという名がある。その集落が尽きる所、すなわち森の始まる所に、小さな祠がある。それを土地の人々は、「鹿倉様」と呼ぶ。屋敷原の鹿倉様は「屋敷原鹿倉神社」、筧木は「筧木鹿倉神社」である。
 それぞれの鹿倉神社に伝わる「鹿倉祭り」は、毎年、十一月中旬に開催される。この日、祭りを主催する家に猟師たちが集まり、家の裏手にある鹿倉神社に種々の御幣を供え、「鹿倉舞」を舞うのである。御幣は、「モリ」と呼ばれる人形御幣である。荒神弊、水神弊、庚申幣、コウザキ弊など、その種類は十種類以上もあり、それぞれ、人の形や神の形をしている。荒神、水神、庚申などの神は森の中に置かれた石である。磐座信仰の名残をとどめるこれらの石が点在する森にある三メートル四方ほどの小さな社が鹿倉神社である。森の中のすべての神に御幣を捧げた一行は、鹿倉神社のお堂に入り、神事を行った後、神楽を奉納する。まず、静かな神迎えの舞。続いて祠から取り出し、清められた鹿倉面を着けた鹿倉舞。最後に祝いの舞。この三番の神楽こそ、この日奉納されるすべての番付であり、鹿倉神降臨の舞なのである。

この鹿倉舞は、中之又神社の大祭「中之又神楽」にも奉納される。各集落の鹿倉様が、次々に神楽の場に出現し、鹿倉舞を舞うのである。かつては、米良山系の山々で行われていた鹿倉祭りと鹿倉舞は、今ではここ中之又が伝えるだけとなった。この祭りが終わると、山は本格的な狩りの季節を迎える。

[7]稲荷は山の神だった

 ―山神の使いは赤き狐面
 西米良村児原(こばる)稲荷神楽に登場する赤・白一対の狐面に触発され、私は上記のような句を作ったことがある。同村狭上(さえ)稲荷神楽では、真っ白の大きな狐面が登場し、続いて黒褐色の「宿神」(宿神については別項で詳述)が出現、荘重に舞う。

 西都市銀鏡神楽の式十二番「六社稲荷大明神」では、六社稲荷神社の神主が、ご神体である白の稲荷面を着けて舞う。銀鏡神楽三十三番が終了した翌日の十二月十六日に、銀鏡川の河原で猪の頭を焼き、山の神に捧げる神事「シシバマツリ」が行われるが、同じ時刻、山中の六社稲荷神社で神楽が奉納され、前日の銀鏡神楽に出現したものと同じ神面が出る。六社稲荷は、米良山の地主神と崇められる。銀鏡神楽式十三番「七社稲荷大明神」では、赤褐色の稲荷神が出現し、舞う。資料には、七社稲荷は山の神で「七鬼神」の首座に座す神とあり、祭神は「狩倉神崎神」である。社伝は、昔、山から五穀をくわえて下って来た狐が、湿地で稲の穂を落とし、そこが稲の稔る土地になった、と陸稲栽培から水稲栽培へと移行する稲作の起源を伝える。

 私の手元に、巻物をくわえた白狐にまたがり、稲の束を担いだ老翁の像がある。これが稲荷神の古形である。稲荷とは、山の神で、狐はその使い(眷属神)である。稲荷神社は、京都の伏見稲荷をその象徴として広く普及し、その数は3000に近く、八幡、伊勢、天神に次いで全国第四位の分布数を誇る。屋敷神として祀られる小さな祠まで数えあげれば、首座を占めるかもしれない。山から下ってきた稲荷神は、稲作の神として里人の信仰を集め、商売繁盛の神として町民に崇敬されて、庶民の間に普及した。

 椎葉神楽では、「稲荷神楽」はほぼ全域に分布し、狐面を着けて舞う着面の舞と、仮面を着けない直面舞の二通りがある。いずれも狐が飛び跳ねるような躍動感のある舞で、前半で鈴と扇を持ちゆっくりと舞い、後半は舞衣を脱いで手に持って舞い、最後に腰に差していた幣を採り、激しく舞う。狐が餌を拾うような所作、「虫除けの舞」といわれる「拾い」の所作などが織り込まれている。十根川神楽では、雌雄一対の狐面の舞があり、途中で面を外して舞う。十根川では、稲荷神楽に用いた御幣を猟師が貰い、持ち帰る。稲荷神楽の後に芋が振る舞われる所もあり、狩猟、焼畑などの習俗と稲荷神楽が関連していることがわかる。大河内神楽、大藪神楽などの唱行では、
「そもそも稲荷ごんぜんな 山にも千年 陸が地にも千年 三千年の甲を経させ給ふ 其の時下野の国那須の原に追わる金毛九尾の狐狸と共に三千世界 今世界をかけ廻らせ給ふて 十穀の種津物を降し 秋の垂穂 五穀成就なし給ふ神とこそ敬われ給ふなりよう」

 と歌われる。2005年の諸塚村南川神楽では、松原地区の稲荷神社で神事を行った後、一行が神楽宿へと舞い下り、終夜、神楽が舞われ、最後に稲荷神の舞があってすべての神楽が終了した。この稲荷神もまた土地の守護神であり、山の神であった。

[8]山から下って来る神

 柳田国男が椎葉を訪れ、「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を著したのが、明治41年(1908)。佐々木喜善の話を筆記し、岩手県遠野郷を旅行し、「遠野物語」を書いたのが、明治43年(1910)。日本の「民俗学」はここに誕生した。
 柳田は、遠野物語の序文で、「山神・山人」について、次のように述べている。
「―略―国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ―後略―」
 以後、柳田は、「山民の生活」(明治42年)、「山人考」(大正6年)、「山の人生」(大正14年)等において、綿密に山神・山人に関する伝説・伝承・資料を採集し、分析を試みている。柳田の山神・山人観は、「上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入り又は山に留まって、山人と呼ばれた」という視点を基軸とし、その内訳を「@帰順朝貢に伴う編貫(同化)、A討死、B自然の子孫断絶、C信仰界を通過し、百姓と併合、D長い歳月の間に人知れず同化、E次第に退化し今尚山中を漂泊」の六種に分類している。

「平地人を戦慄せしめよ」という言葉には、山地民を先住民=神の末裔と認識し、畏敬の念と憧れを抱いているようにも見え、先見性もみてとれるが、実際には、山地民の文化は蛮異の習俗、未開の現地人の珍奇な風習という視点で貫かれている。明治期における中央のエリートが見た山人観とはこんなものであったのだろう。その後百年を経過し、民俗学は大きく進展したが、山神・山人を巡る新しい論考は現れず、柳田の時代には身辺に散見されたサンカ、マタギ、木地師などの漂泊民や芸能者、神楽や祭りなどは衰亡・衰退の一途をたどり、現在は、その痕跡さえたどることは困難な時代となっている。私はこの連載中、九州脊梁山地に分厚く残る神楽や山神の祭儀などを記録してきたが、それは、これらの祭りや祭儀が、決して時代遅れの文化などではなく、美しい自然に抱かれ、自然と共生する生活の中から生み出されたものであり、そこに生きる人々の誇り高い精神性などに裏打ちされたすぐれた文化であることを確信し、感動したからである。

諸塚村戸下神楽では、十年に一度の大祭の折、神楽に先立って「山人神事」が奉納される。まず山人役と白装束に白鉢巻、五色の襷をかけた介添え役が山に入る。そこは神事を行う者以外は立ち入ることの許されない山神の領域である。しばらくして、コーン、コーンと鉈で木を伐る音が響いて来る。神の木(榊)を伐る音である。山人は、蔓草を全身に纏い、榊を手に持ち、一気に山を駈け下る。山神が里に降臨したのである。山人は神楽の御神屋で、神官と長々と問答をする。その後、夜を徹して神楽が舞われるのである。

福岡県豊前市には、神社から山人が榊を担いで神の柿の木まで走る「山人走り」という神事があり、大分県国東半島にも山中の祠で神事をした後、鼻高(猿田彦)の面を榊につけた山人が集落を巡る「山人走り神事」が伝わっている。いずれも、消滅が危惧される秘儀だが、現代人を戦慄させるなあざやかな光芒を放ち続けている。

[9]火の祭りと火の神舞

 蒼天を斜めに区切る稜線が、朝日を浴びてきらきらと光っていた。峰を越えた光は、無数の矢となり、きらめきながら落ちてきて、霜柱を抱いた土を照射した。その黒々とした地面に突き立てられた一本の白い幣は、昨夜から今朝まで、夜を徹して舞われた神楽の御幣であった。そこは、あきらかな焼畑耕作地であり、御幣は「火の神御幣」であった。

 椎葉村十根川神楽の式二十八番「火の神」では、出演者全員が舞面を着け、火の神御幣と鈴を手に、台所から舞い出て、御神屋で激しく舞い、次に外へと舞い出る。仮面は当日使用された鬼面や道化面などが着用される。そして、入り口付近で面を外し、酒盛りをする。酒宴が終わると、御神屋に戻って一舞し、正面を拝んで終わる。同じく椎葉の尾前神楽の式二十五番「火の神神楽」では、台所からフシの木(ヌルデの木)で作られた男女二体の「火の神人形」を二人の舞人が持って出て、舞う。始めに御神屋で舞い、拝殿内でも舞う。この時、仮面を着けた村人たちが榊枝を持って乱入し、互いにスミを付けながら乱舞する。この間、神官が台所の竈の前で祝詞を上げ、火の神御幣を納める。尾手納神楽の式二十四番「朝神楽・火の神」では、四人の舞人の内二人が火の神御幣を持ち、他の二人は木のこぶを持ち、御神屋で舞い、さらに舞人四人が太鼓とともに台所へ行き、酒の振る舞いを受け、ふたたび御神屋へ帰って舞う。向山日添神楽の式二十九番「朝かぐら」では、笠を被り白の舞衣を着た舞人の一人が火の神・水神・お釜三方大幸神の弊を持ち、二人が福の神、一人がおきえの舞を舞う。二人は拝観者に大豆を配り、台所で舞って舞い納める。この後、舞人、村人、拝観者が総立ちとなり、「願成就」の神楽を舞う。

高千穂神楽の火の神は、「地割」の中に組み込まれており、神面を着けた荒神が台所から舞い出る。諸塚神楽では、竈荒神といわれ、火伏せの舞いとして民家の台所に入って舞われる。銀鏡神楽では海神の舞いとも水神の舞ともいわれる「おきへ(沖逢)」に組み込まれ、火伏せの舞として台所で舞われる。村所神楽の「火の神」では、仮面を着けた舞人二人が注連の前で舞った後、火の神御幣を持った二人が、賄い部屋へ入って舞う。いずれも、山に依拠し、火と密接な生活をする山人の生活の中から生まれた火の神信仰である。

 椎葉では、向山日添地区の椎葉秀行・クニ子夫妻が経営する「民宿焼畑」(現在は長男の勝・ミチヨ夫妻が継承)を中心として、焼畑農法が続けられてきた。私が見た焼畑の野の御幣は、日添神楽の火の神御幣であった。私は、昨年(2006)の日添神楽で舞人を務めた勝氏の真後ろに座り、一晩中、神楽を見続けた縁で、翌日、「民宿焼畑」で一夜を過ごすという幸運を得、勝さんと囲炉裏端に座り、語り合ったのである。少年期に、私は一度だけ、焼畑を体験したことがある。父に連れられ、故郷の村の奥山に入り、火入れをしたのである。沢を挟んだ大きな二つの山から山へ、父は、風向きを測り、空の色を観ながら、火入れをし、迎え火を放った。たちまち炎が燃え上がり、山は火炎に包まれた。火の色を映して赤く輝く父の顔は「火の神」に見えた。勝さんと語りながら、私は、今は失われた故郷の村の藁屋根の家の下にいるような懐かしさに、胸を熱くしたのである。

<九>「道化」のシリーズへと続く

*この文は、西日本新聞宮崎県版「民俗仮面と祭り(2007年2月9日〜6月10日)に連載されたものです。

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(SINCE.1999.5.20)