森の空想ミュージアム
九州民俗仮面美術館
山と森の精霊仮面
文・写真 高見乾司
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九州民俗仮面と祭りへの旅 <七> 荒神問答 [1]椎葉大薮神楽の荒神出現 鈴がじゃらん、と鳴り、刀身がきらりと光った。二人の舞人が、右手に鈴を持ち、左手で印を切りながら舞い終えると、腰に差していた刀をすらりと抜き放ち、重厚な舞を舞い始めたので 大薮地区は、広大な椎葉の山塊の南端にあたる位置にあり、米良の山脈と境を接する。椎葉の中心地上椎葉から車でおよそ一時間半。美郷町南郷区神門(みかど)から大河内経由で約一時間。西米良村村所から一時間。車が喘ぎながら登るような坂道を登りつめた、標高800〜900メートルの山地に、18戸の民家が点在する。村に腕利きの猟師が6人。豪勢な猪・鹿料理は彼らによって供給される。太鼓の音が心地よいリズムを刻み、美しい笛の音が流れた。五色の幣で装飾された神楽宿の中は、人いきれと獣肉の匂いで充満した。ここは、山中の夢幻鏡である。 工 前号で登場した大藪神楽の「芝引」は、榊の枝を腰に差して登場し、重厚な舞を舞った後、神主と芝引きをして退場する。その後、神楽は、米を乗せた盆を手に舞う「みくま」、岩戸番付の「手力」「戸取」などを経て猪面を被った二体の猪が出て狩人と格闘の場面を演じる「猪舞」、弓矢を取って舞う「森」に至り、「森」の後半「矢の手神楽」で榊を持った村人数人が御神屋に乱入し、乱舞する。荒ぶる舞が終わると、榊柴を持った数人が、神主と「神前を荒らすことは許せない」、「樽一本で許して下さい」という問答をする。 この黒い荒神は樽に腰掛けて神主と問答をする。問答では、まず荒神が神楽で自分が支配する「山」を荒らされたことについて文句をいう。それに対し神主が土地を寿ぐ祝詞を述べ、御神屋の由縁を説き、「鬼神」の出現のわけを訪ねる。荒神は、 [3]「山探し」の面と荒神 私が20年以上をかけて集めた300点の仮面のなかに、長い間所在不明になっていた面がある。それは(写真1)の荒神面で、赤黒い光を放つ、彫りの深い重厚な仮面である。旧・由布院空想の森美術館(1986−2001)を閉館し、湯布院から宮崎へと移り住んだ後、4年を経て現在の「九州民俗仮面美術館」を開館することができたが、その開館のための準備のさなかに雑多な荷物の中から、ひょっこりとその面は出てきた。赤い布に包まれていた。
中庭で焚き火をするのが好きである。周辺の森から伐ってきた枯れ木や建物を覆っている大きな楠から散ってくる落ち葉を掃き集め、燃やすのである。 焚き火の習慣は今も続いている。大きな木は、大雨の後や台風が通り過ぎた後などに、大量に枯れ枝や落ち葉を散らすため、燃料は際限なく供給されるのだ。 「三宝荒神」とは、古代インドの土着神である夜叉神の信仰が仏教とともに渡来し、古来の山岳信仰、星宿信仰、神道、密教、修験道などの要素が混交し、日本独自の発展を遂げた神である。五行の中央神あるいは星宿神としての宿神、荒魂(あらみたま)を宿す土地神、竈神として信仰される火の神などの性格を合わせ持つ。
「三宝荒神」の源流を、古代インドに求めることができる。山本ひろ子著「異神」(平凡社/1998)では、南北朝期成立の「神道雑々集」(天理図書館吉田文庫蔵)その他の資料によりこの渡来の荒ぶる神の原型を示す。その概要は 諸塚村南川神楽の「三宝荒神」は、深夜に登場することから「夜中の荒神」とも呼ばれる。当日の昼過ぎから始まった神楽は、梅の枝を背に華麗に舞う「天神」や弓矢を採り荘重に出現する「八幡」などを経て、すでに十時間以上が経過しているが、続々と村人や遠来の拝観者が集まって来て、神庭はぎっしりと人で埋め尽くされる。かがり火が煌々と御神屋を照らす。白い舞衣を着け、御幣と鈴を持った連舞(荒神呼び出しの舞)が出て、飛鳥のように舞うと、まず「舞荒神」が登場する。続いて、古い型染め更紗の千早を着て腰に榊を差した「一荒神」が重々しく登場し、神主と問答をする。その問答の中に
十六夜の月が中天にかかった。諸塚神楽には「お日待ち」の神楽と「月待ち」の神楽があり、ここ小払地区の神楽は「月待ち」だという。月は、古老の言葉どおりに黒々と連なる諸塚の山脈を照らし、山腹にひっそりと眠る村々を明るくして、神楽の場に一層の賑わいをもたらした。諸塚山は、「太白山」とも呼ばれ、北斗七星信仰の遺構が確認されているという。「新刊諸塚村史」には、昭和初期ごろの村内の山林の80%が焼畑であったことが記録されており、広大な諸塚山系の山々に依拠する人々は、狩猟や焼畑農耕によって生計を立てていたことがわかる。厳しい山地の生活を基盤とする人々によって奉祭された神楽は、日月星辰を祀り、「山の神」「荒神」「稲荷」「水神」「火の神」などを祭りの主神とし、記紀神話、修験道や仏教説話などの影響を受けながら伝承されたのである。 ところで、「三宝荒神」の始まる前に二体、後に二体の「舞荒神」と呼ばれる荒神が出現し、荒々しい舞や飄軽な舞などを披露する。多くは、村人が扮しているため、ひやかしの声や拍手、笑い声が絶えない。豪壮な作風の荒神面や古風を残す荒神面などがあって私は数年前から注目しており、機会があるごとに伝承者や村の人に名前や由来などを訊ねたが、その正体は不明であった。ところが今年、「あれは、昔、集落ごとに居った荒神様じゃよ」という古老の言葉を聞くことができ、納得した。舞荒神とは備中荒神神楽の場に勧請される「天荒神」「地荒神」「伽藍荒神」「湯荒神」「臍緒荒神」「牛王荒神」「竈荒神」などと性格を同じくする土地神であろう。「舞荒神」は威厳のある恐ろしげな神だが、森の奥の巨岩や巨樹の下の祠、水源などに鎮座し、村を守する親しみ深い神でもあった。 [7]天の神・地の神の語り 銀鏡神楽や中之又神楽などの米良山系の神楽には、「はらかき荒神」と呼ばれる荒神が登場する。九州では、激しく怒ることを「はらかく」と表現する。要するに、荒神は怒っているのである。金襴の派手な衣装を着け、荒神杖(金剛杖、面棒などとも呼ばれる)を持って出現し、腰を深く曲げて上体が八の字を描くほど激しく振りながら怒り舞う。そして太鼓(籾俵や樽などの所もある)に腰掛けて、地面に突き立てた荒神杖を扇子でぱしり、ぱしりと打ちながら、神主と問答をする。 前項までにみてきたように、荒神問答の前半部分では、荒神が渡来の祭祀者である神主に様々な問いを発し、神主が答える。銀鏡の荒神の語りには「吾は三界の棟梁なり」という詞章、中之又の荒神も「吾は三界の棟梁」を名乗り、「御鏡は日神、勾玉は月神、剣は星宿なり」と語るくだりがあって理解を深める助けとなる。 西米良村村所神楽の荒神問答には、荒神問答の後半部の重要な詞章があるのでみておこう。扇子で面棒を三回叩いた荒神は、おもむろに「しからば 注連のあらまし申しあぐるでござろう 注連とは天の五行に八本のしゅで(幣帛) 地の五行に五本のしゅで 彼の注連に天地五行のしゅでを捧げて この内に注連は勧請し奉る たとえば諸道に品々の法を書き入れて用い 其の上を封じたるを注連というがごとし」と述べる。それに続き神主は、「されば天の五行に八本のしゅでは 水・火・木・金・土の五行なり 吐・火・加・心・以・真・多・如の八神に捧げ (以下略) 」と五行八宿の理を述べる。荒神は、「それは神事礼法に垂れ合う物を 白蓋というなり 是すなわち天を恐れ 地を恐るるをいう 天上幸いおこないの時は 天の御影 日の御影というなり(中略)これによりて人々母の胎内に宿る時、えなをかむいて宿ること全くこれに同じ(中略)それいかんとあらば その母百味百毒を食するとも 懐胎の子は一味の毒にあたらず 是天地一同相の理想に同じ これによりて白蓋の形を作る 天の二十八宿 地の三十六金土 合わせて六尺四寸に形取るなり 色相をあらわすこと 五色五行の形なり(以下略)」
[1]だご花と土地神の舞 鹿児島県志布志町田の浦地区は、志布志湾からははるかに遠く離れた山間の村である。山宮神社は、低い里山に囲まれた田の中にあり、まるで昔話の舞台のような鎮守の森が、神域を守っている。鳥居をくぐって参道を進むと、社殿の入り口や拝殿、本殿の両脇などに飾られた華やかな「だご花」が目を楽しませてくれる。だご花とは、米の粉を丸めて作る団子の花のことで、祭りの日、地区の各集落から奉納されただご花が境内を飾ることから、この春祭りは「だご祭り」と呼ばれて親しまれているのである。 山宮神社の主祭神は、天智天皇で、ご神体は赤・白・黒の漆塗り陰陽一対の木像である。なにゆえ、このような辺地に天智天皇が祀られているのかは不明だが、この祭りは、天智天皇が狩りを好まれたという故事にちなむ。毎年、二月の卯の日に神事として地区の宮谷狩倉(かくら)で狩りを行い、獲物を仕留めると、それを担いで獣の鳴き声を発しながら社殿を三回巡り、近くの川に浸けておき、神前に供えたという。 祭りは、場を清め、祓う「彦舞」から始まり、赤と黒の鬼神面を着けた二人の少年の舞「童鬼神(わらべきじん)舞」、黒の鬼神面を着けた少年による「児鬼神(こきじん)舞」と続く。神楽は、霧島神舞系の神楽と高千穂・椎葉・米良などの山地神楽の要素が混交している。「片手剣舞」「神随(かんずい)」「十二神剣舞」などの刀を採り物とする舞が全体を構成し、前述の少年による鬼神舞の他、「金山鬼神舞(赤の鬼神面)」「地割荒神舞(青の鬼神面)」「鉾鬼神舞(赤の鬼神面)」などが配置され、五行の神と荒神祭祀が混交する。地割荒神舞の中に白い女面を着けて舞う「霧島舞」があり、神楽全体を通じて霧島神の縁起が語られる。「田の神舞」では白の鬼神面を着けた田の神と農夫に扮した田吾作が、滑稽に田作りの様子を演じる。 だご花は、祭りが終わると氏子や拝観者に配られる。これを食べると一年間の無病息災が約束され、田の畦や水口などに立てるとモグラ防ぎや虫除けになるという。高千穂峰を主峰とする霧島連山は、九州の南端に聳える「神の山」である。霧島の神は、天孫降臨伝承・五行思想・仏教等の渡来の神を包含しながら、土地神としての威信を保ち続けている。 それは、ただの木片か、古い建築物のかけら、あるいは、屋外に長い間放置されて風化した神像の残欠のように見えた。行きつけの古道具屋の軒下の、雨が降れば雨だれに打たれ、雪が積もれば雪の下に埋もれそうな場所に無造作に置かれていたのだ。 この連載「銀鏡神楽の七鬼神」の項で、猪が御神屋に出現し、「ニタズリ」など猪の所作を繰り返して暴れ回り、「七鬼神」の一神である「山の神」に取り押さえられる場面について触れた。米良系神楽の中之又神楽や尾八重神楽では、同様の番付が神楽後半の人気番付として組まれており、猪面を着けた猪二頭が、御神屋に現れ、いずれも猪の所作をして暴れた後、御神屋の外に出て、村人や拝観者の間を回る。番付名は「獅子荒神」となっているが、いわゆる里の芸能として舞われる獅子舞ではなく、「猪荒神」である。同じく米良系神楽の村所神楽では「大山祇命の舞」となっており、山の神である大山祇命が暴れる猪を取り押さえ、楽屋へと連れ帰る。 「収集地高千穂・山の神」という古ぼけたシールが貼られた仮面がある。それは二十数年前に南九州のコレクターから一括して購入した100点の中の一つで、鬼神面の一種である。高千穂神楽歌では、「谷が八ツ 峯が九ツ 戸は一ツ 鬼の棲家はあららぎの里」 高千穂の先住神=荒ぶる神に「鬼八」がいる。伝承によれば、神倭伊波礼彦命(神武天皇)の兄の三毛入野命が、二上嶽ふもとの乳ケ岩屋に住む悪神(鬼八)が里人に害をなすので退治し、首と手足と胴体に切り分け、郷内三ケ所に埋めたと伝えられている。その埋めた場所を「鬼八塚」という。ところが鬼八の霊は、死後も生き返り、霜を降らせて農作物に害を与えた。これを鬼八のたたりと怖れた里人は、毎年処女を生贄として捧げ、鬼八の荒魂を慰めた。戦国時代に日之影郷中崎城主の甲斐宗説が、乙女の身代わりに猪肉を神饌として供え、これを機に人身御供の風習は止んだという。これが猪掛祭りの起源である。 当日朝八時前、高千穂神社において竈払い式があり、三斗三升三合の米が炊かれ、神官や巫女さんが木の鉢につぎ分ける。氏子は、天真名井や御塩井桜川妙見社などにかけぐり(竹の筒に入れた酒)やしめ縄を掛けに行く。鬼八塚には猪肉を持って行き、捧げる。この時、氏子の中の二人が、長い槍で「ホーイ、ホイ」の掛け声で天を突きながら神社をそれぞれ反対方向に三周する。次に神社を出発した神事の一行は、鬼八の首を埋めたと伝えられる高千穂神社東方の「鬼八塚」に行き、神事を行う。 神楽は、御幣を結んだ竹笹を両手に一本ずつ持ち、左、右、左と振りながら [4]狩法神事シシトギリ 西都市銀鏡神楽では、祭りに先立って、狩人たちが山に入り、猪を狩る。祭りの前一週間の間に仕留められた猪の頭は「贄(にえ)」として神前に捧げられる。毎年、十二月十二日の御神屋作り、十三日の式一番「星の舞」から始まった神楽は、十四日夕刻の「面様迎えの行列」を経て、式二番「清山」から式三十一番「鎮守(くりおろし)」まで、夜を徹して舞い継がれる。舞庭には篝火が焚かれ、供えられた猪頭を照らし続ける。十五日の昼頃、式三十二番「シシトギリ」が奉納される。これは、この村に今も伝わる猪の巻き狩りの様子を滑稽な所作や狩りの言葉などを交えて演じるものである。神社の脇にある社務所の裏手から現れた爺と婆が、それぞれ木製の弓を持ち、「ほっ、ほーい」と山に響く声を掛けながら、御神屋に設えられた「山」に向かう。「ほっ、ほーい」。遠い山脈から山彦が返る。 爺は、馴染みの猟師の名を呼び、位置の確定を指示する。これをカクラ(狩倉)のマブシワリという。シシトギリとは、猪の足跡をたどり、猪を遠巻きに巻いて(囲んで)仕留める古式の狩りを再現してみせる演劇であり、山人の厳粛な神事である。そして、爺と婆を演じるのも、指名される狩人も、この村で狩りを行う実在の猟師なので、その演技や掛け声は真に迫って、観客を、あたかも狩りの現場にいるような心理に誘うのである。やがて狩り場(狩倉)に着いた爺と婆が繰り広げる猪狩りの様子は、それが夜を徹して舞われ続けた神楽の後であるだけに、演者も観客も、実際の猪猟に参加しているような興奮状態となり、
西都市銀鏡神楽の「シシトギリ」は、猪の巻き狩りの様子を滑稽味をまじえて再現する狩法神事である。弓と矢を持った豊磐立命(爺)と櫛磐立命(婆)による当意即妙のやりとりは、古式の狩り言葉による呪法でもあろう。私がはじめてシシトギリを見たのは、今から十数年前のことだが、私は、爺に自分の祖父の姿が重なった。私の故郷の村では遠い昔に途絶えた狩りの作法がそこに残っており、今も生き続けていることに感動したのである。猪を仕留めて帰る爺の後姿に、私は、 西米良村村所神楽にも「シシトギリ」は伝わっている。米良山には、「西山小猟師」という古文書が伝わっており、別名「狩面」とも呼ばれるこの祭儀は、この古文書にもとづいて行われる狩人の秘儀である。古くは、猟師、氏子、氏子総代、神官等が相談の上、祝詞を奏上し、山の神である「コウザキ様」に猪肉1斤(約600グラム)を供える「狩場立ての方式」を行った。これが、「狩面出しの願い」であった。「狩面=シシトギリ」とは、山に依拠し、山に生きる猟師たちの厳粛な神事であった。 カクラに到着すると、まず山の神が祭壇に向かい、神事を行う。山の神はすぐに退場する。続いて、ヤマクロが「そもそも 古より此方七人の七甲崎には 地生甲崎 所主の甲崎 千才人門の甲崎に掛い 奏楽申す」と唱え事をする。後ろの四人は神妙にそれにならう。次に、ヤマクロが [6]中之又神楽の鹿倉舞 風に混じって、遠い神楽笛のような音が聞こえた。それは、雄鹿が雌鹿を呼ぶ声かもしれなかったし、猟師が吹く「鹿笛」かもしれなかった。天空をきらきらと光るものが横切り、山の端をかすめながら落ちて行った。私はそれを、光のかけらに乗って高い山の頂から向こう側の山の峰へと移動する「カリコボーズ」という山の精霊だろう、と思った。真っ赤に紅葉した山柿の葉を一枚、拾った。森の中に身をひそめていると、普段聞くことのない音が聞こえ、里では見ることのできない事象に出合うことがある。 九州脊梁山地の猟師たちは、猪や鹿を狩る「狩場」のことを「カクラ(鹿倉―狩倉)」と呼ぶ。カクラとは、文字通り狩りの領域であり、山の神の支配地である。カクラ=狩倉は、「神座(かむくら)」でもあり、「神楽」の語源のひとつだとも考えられている。 この鹿倉舞は、中之又神社の大祭「中之又神楽」にも奉納される。各集落の鹿倉様が、次々に神楽の場に出現し、鹿倉舞を舞うのである。かつては、米良山系の山々で行われていた鹿倉祭りと鹿倉舞は、今ではここ中之又が伝えるだけとなった。この祭りが終わると、山は本格的な狩りの季節を迎える。 [7]稲荷は山の神だった ―山神の使いは赤き狐面 西都市銀鏡神楽の式十二番「六社稲荷大明神」では、六社稲荷神社の神主が、ご神体である白の稲荷面を着けて舞う。銀鏡神楽三十三番が終了した翌日の十二月十六日に、銀鏡川の河原で猪の頭を焼き、山の神に捧げる神事「シシバマツリ」が行われるが、同じ時刻、山中の六社稲荷神社で神楽が奉納され、前日の銀鏡神楽に出現したものと同じ神面が出る。六社稲荷は、米良山の地主神と崇められる。銀鏡神楽式十三番「七社稲荷大明神」では、赤褐色の稲荷神が出現し、舞う。資料には、七社稲荷は山の神で「七鬼神」の首座に座す神とあり、祭神は「狩倉七神崎神」である。社伝は、昔、山から五穀をくわえて下って来た狐が、湿地で稲の穂を落とし、そこが稲の稔る土地になった、と陸稲栽培から水稲栽培へと移行する稲作の起源を伝える。 私の手元に、巻物をくわえた白狐にまたがり、稲の束を担いだ老翁の像がある。これが稲荷神の古形である。稲荷とは、山の神で、狐はその使い(眷属神)である。稲荷神社は、京都の伏見稲荷をその象徴として広く普及し、その数は3000に近く、八幡、伊勢、天神に次いで全国第四位の分布数を誇る。屋敷神として祀られる小さな祠まで数えあげれば、首座を占めるかもしれない。山から下ってきた稲荷神は、稲作の神として里人の信仰を集め、商売繁盛の神として町民に崇敬されて、庶民の間に普及した。 椎葉神楽では、「稲荷神楽」はほぼ全域に分布し、狐面を着けて舞う着面の舞と、仮面を着けない直面舞の二通りがある。いずれも狐が飛び跳ねるような躍動感のある舞で、前半で鈴と扇を持ちゆっくりと舞い、後半は舞衣を脱いで手に持って舞い、最後に腰に差していた幣を採り、激しく舞う。狐が餌を拾うような所作、「虫除けの舞」といわれる「蝗拾い」の所作などが織り込まれている。十根川神楽では、雌雄一対の狐面の舞があり、途中で面を外して舞う。十根川では、稲荷神楽に用いた御幣を猟師が貰い、持ち帰る。稲荷神楽の後に芋が振る舞われる所もあり、狩猟、焼畑などの習俗と稲荷神楽が関連していることがわかる。大河内神楽、大藪神楽などの唱行では、 と歌われる。2005年の諸塚村南川神楽では、松原地区の稲荷神社で神事を行った後、一行が神楽宿へと舞い下り、終夜、神楽が舞われ、最後に稲荷神の舞があってすべての神楽が終了した。この稲荷神もまた土地の守護神であり、山の神であった。 [8]山から下って来る神 柳田国男が椎葉を訪れ、「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を著したのが、明治41年(1908)。佐々木喜善の話を筆記し、岩手県遠野郷を旅行し、「遠野物語」を書いたのが、明治43年(1910)。日本の「民俗学」はここに誕生した。 「平地人を戦慄せしめよ」という言葉には、山地民を先住民=神の末裔と認識し、畏敬の念と憧れを抱いているようにも見え、先見性もみてとれるが、実際には、山地民の文化は蛮異の習俗、未開の現地人の珍奇な風習という視点で貫かれている。明治期における中央のエリートが見た山人観とはこんなものであったのだろう。その後百年を経過し、民俗学は大きく進展したが、山神・山人を巡る新しい論考は現れず、柳田の時代には身辺に散見されたサンカ、マタギ、木地師などの漂泊民や芸能者、神楽や祭りなどは衰亡・衰退の一途をたどり、現在は、その痕跡さえたどることは困難な時代となっている。私はこの連載中、九州脊梁山地に分厚く残る神楽や山神の祭儀などを記録してきたが、それは、これらの祭りや祭儀が、決して時代遅れの文化などではなく、美しい自然に抱かれ、自然と共生する生活の中から生み出されたものであり、そこに生きる人々の誇り高い精神性などに裏打ちされたすぐれた文化であることを確信し、感動したからである。 諸塚村戸下神楽では、十年に一度の大祭の折、神楽に先立って「山人神事」が奉納される。まず山人役と白装束に白鉢巻、五色の襷をかけた介添え役が山に入る。そこは神事を行う者以外は立ち入ることの許されない山神の領域である。しばらくして、コーン、コーンと鉈で木を伐る音が響いて来る。神の木(榊)を伐る音である。山人は、蔓草を全身に纏い、榊を手に持ち、一気に山を駈け下る。山神が里に降臨したのである。山人は神楽の御神屋で、神官と長々と問答をする。その後、夜を徹して神楽が舞われるのである。 福岡県豊前市には、神社から山人が榊を担いで神の柿の木まで走る「山人走り」という神事があり、大分県国東半島にも山中の祠で神事をした後、鼻高(猿田彦)の面を榊につけた山人が集落を巡る「山人走り神事」が伝わっている。いずれも、消滅が危惧される秘儀だが、現代人を戦慄させるなあざやかな光芒を放ち続けている。 [9]火の祭りと火の神舞 蒼天を斜めに区切る稜線が、朝日を浴びてきらきらと光っていた。峰を越えた光は、無数の矢となり、きらめきながら落ちてきて、霜柱を抱いた土を照射した。その黒々とした地面に突き立てられた一本の白い幣は、昨夜から今朝まで、夜を徹して舞われた神楽の御幣であった。そこは、あきらかな焼畑耕作地であり、御幣は「火の神御幣」であった。 椎葉村十根川神楽の式二十八番「火の神」では、出演者全員が舞面を着け、火の神御幣と鈴を手に、台所から舞い出て、御神屋で激しく舞い、次に外へと舞い出る。仮面は当日使用された鬼面や道化面などが着用される。そして、入り口付近で面を外し、酒盛りをする。酒宴が終わると、御神屋に戻って一舞し、正面を拝んで終わる。同じく椎葉の尾前神楽の式二十五番「火の神神楽」では、台所からフシの木(ヌルデの木)で作られた男女二体の「火の神人形」を二人の舞人が持って出て、舞う。始めに御神屋で舞い、拝殿内でも舞う。この時、仮面を着けた村人たちが榊枝を持って乱入し、互いにスミを付けながら乱舞する。この間、神官が台所の竈の前で祝詞を上げ、火の神御幣を納める。尾手納神楽の式二十四番「朝神楽・火の神」では、四人の舞人の内二人が火の神御幣を持ち、他の二人は木のこぶを持ち、御神屋で舞い、さらに舞人四人が太鼓とともに台所へ行き、酒の振る舞いを受け、ふたたび御神屋へ帰って舞う。向山日添神楽の式二十九番「朝かぐら」では、笠を被り白の舞衣を着た舞人の一人が火の神・水神・お釜三方大幸神の弊を持ち、二人が福の神、一人がおきえの舞を舞う。二人は拝観者に大豆を配り、台所で舞って舞い納める。この後、舞人、村人、拝観者が総立ちとなり、「願成就」の神楽を舞う。 高千穂神楽の火の神は、「地割」の中に組み込まれており、神面を着けた荒神が台所から舞い出る。諸塚神楽では、竈荒神といわれ、火伏せの舞いとして民家の台所に入って舞われる。銀鏡神楽では海神の舞いとも水神の舞ともいわれる「おきへ(沖逢)」に組み込まれ、火伏せの舞として台所で舞われる。村所神楽の「火の神」では、仮面を着けた舞人二人が注連の前で舞った後、火の神御幣を持った二人が、賄い部屋へ入って舞う。いずれも、山に依拠し、火と密接な生活をする山人の生活の中から生まれた火の神信仰である。 椎葉では、向山日添地区の椎葉秀行・クニ子夫妻が経営する「民宿焼畑」(現在は長男の勝・ミチヨ夫妻が継承)を中心として、焼畑農法が続けられてきた。私が見た焼畑の野の御幣は、日添神楽の火の神御幣であった。私は、昨年(2006)の日添神楽で舞人を務めた勝氏の真後ろに座り、一晩中、神楽を見続けた縁で、翌日、「民宿焼畑」で一夜を過ごすという幸運を得、勝さんと囲炉裏端に座り、語り合ったのである。少年期に、私は一度だけ、焼畑を体験したことがある。父に連れられ、故郷の村の奥山に入り、火入れをしたのである。沢を挟んだ大きな二つの山から山へ、父は、風向きを測り、空の色を観ながら、火入れをし、迎え火を放った。たちまち炎が燃え上がり、山は火炎に包まれた。火の色を映して赤く輝く父の顔は「火の神」に見えた。勝さんと語りながら、私は、今は失われた故郷の村の藁屋根の家の下にいるような懐かしさに、胸を熱くしたのである。 |
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(SINCE.1999.5.20)