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きのこの森で

 久しぶりに、あざやかな色彩で森を彩るきのこに出会った。シロハツ、クロハツ、ベニタケ、ホウキタケ。ヌメリイグチ、キイロイグチ、ヤマドリタケ。オニフスベ、ドクツルタケ。

 目の前に次々と現れるきのこの名を確認し、判別しながら、私は森を歩く。シメジやマツタケにはお目にかかれなかったが、シロハツを食べてみたい衝動にかられた。ヌメリイグチやヤマドリタケは「イグチ」の仲間で、少し不気味な外見と独特のエグい味が敬遠され、普段食卓には上らないが、調理の仕方によっては珍味ともなるれっきとした食用きのこである。フライパンにバターをひき、炒めて、瀬戸の絵皿などに盛れば、とろりとしたぬめりとさっくりとした歯ざわりが楽しめる。

 真っ白なサッカーボールのような球状のきのこは、オニフスベの幼菌である。食べられるという人もあるが、こんな気味の悪いものをわざわざ食べる気にはなれない。ドクツルタケは純白の肌も美しい森の美人だが、食べると、三日以内にコレラ状態になって死ぬという。古来、美女や初めての山での収穫物には、十分注意を払うようにと言い伝えられる。

 「きのこ」は、大型の菌類である。ウィルスを含む「菌類」は、第三の生物とも呼ばれる。植物や動物などの「有機物」でもなく土や鉱物などの「無機物」でもない第三の生命体。その菌類のはたらきとは、有機物を無機物に変換すること、すなわち、寿命を終えた動物や植物などを土に還すのが菌類なのだ。菌類が存在しなければ、この地球上には腐敗も分解も発生せず、死体の山が築かれるというわけだ。

 「毒きのこ博士」の異名をもつT君という友人がいた。彼と私とは、よく一緒に山に入り、正体不明のきのこを採集した。二人は、きのこと菌類に関する互いの説を開陳しながら、料理をする。だが、私たちの食卓に近づく仲間はいない。やむなく二人は、決死の冒険者となって、鍋に箸を伸ばした。そして時折軽い中毒による幻覚症状を示したが、命を失うほどの重症ではなかった。

 この秋、私が出会ったきのこの森とは、愛知県豊田市の「豊田市民芸館」の森のことである。同館で開催される「九州の民俗仮面展」9/7〜11/28))のため、200点余りの仮面とともに出かけ、展示を終えたひととき、民芸館を取り巻く森の散策を楽しんだのである。

 「民俗仮面」とは、神社や村などに伝えられていた古い仮面のことで、神域の守護、神楽、民間の祭祀などに使用された。日本の古代史や芸能史、アジアの仮面文化とも関連するこれらの仮面は、不幸にも明治の廃仏毀釈や戦後の混乱などによって流出し、古美術の業界やコレクターの間などを転々としていた。私は、二十年の年月をかけて収集し、整理し「由布院空想の森美術館」(1986〜2001)に展示したのだが、2001年に同館は閉館となり、再び私は仮面たちと各地を巡る旅を続けているのである。

 豊田市民芸館は、民芸運動の創始者・柳宗悦ゆかりの建物を移築した第一民芸館を中心に、重厚な建築群が、森の中に点在する情趣あふれる施設である。信長、秀吉、家康など、戦国の英雄たちが拠点とした古跡も近く、中部地方の芸能の分布地にも近接する。九州の仮面たちは、この森に展示されたことをことのほか喜んでいるように見える。

故郷の村のこと、湯布院の町で過ごした二十数年のこと。仮面たちの帰着点・・・。

幻覚症状の中を漂うきのこ中毒者のように、さまざまな光景を眼前によみがえらせ、回想しながら、私はきのこの森を歩く。


花酒の旅

 山を越えた。峰は金色に光り、涼しい風が吹き渡り、遠い山脈は藍紫色に染まっていた。九州山地・米良の山脈には、南北朝伝説を秘める神楽が伝わり、今なお猪狩りや鹿狩りの古俗を残す村が点在する。 
 秋が深まり、私は米良を訪ねる機会が増える。産卵を終えて川を下る山女魚を観察し、きのこの生える森を歩き、神楽笛に誘われて、谷をさかのぼり、峠を越えて、深い山塊に抱かれた村を訪ねるのである。
 険しい崖に、白い花が咲いている。
 早咲きの白山菊(シロヤマギク)である。私は車を停めて、それを手折り、空き缶を探して水を入れ、運転席の前に飾る。風に揺れる小花が、旅の道連れとなる。戦国の武将は、戦陣の中にさえ茶室をこしらえて風流を極めた。私は、愛用の四輪駆動車の車中をささやかな風狂空間と見立て、旅を続ける。
 旅先で出会った折々の花を採取し、酒に漬け込み、「花酒」を作る。これにより、旅は一層、情趣を深める。
 五節句のひとつ「重陽」は、陰暦九月九日(新暦の十月初旬)に行なわれる祭りで、菊の節句とも呼ばれる。京都の町屋では、五月五日の端午の節句以来の「薬玉」を「ぐみ袋」に懸けかえ、室礼を整えて邪気を祓うという。古代中国から伝わり、宮中の儀礼としてとり入れられたものが、町人の習俗として定着したものであろう。
重陽に菊の花を採り、酒盃に浮かべて飲んだことは、漢代にはすでに行なわれていたという。九の字の重なる佳節を嘉し、飲食したこと、農事を終えた好季節を喜び、茱萸の袋を肘につけて野山に出て菊酒を飲み邪気を祓ったことなどに由来するという。
 昨年漬けた、白山菊の酒瓶を取り出し、ガラスの杯に注ぎ、飲んでみた。一年を経た酒は、まろやかな舌ざわりと芳醇な香りで、私を酔わせた。
 「花酒」の作り方は、福岡市在住の画家・O氏から習った。果実酒用のホワイトリカーに、四季折々に採取した花びらの部分だけを漬け込む。三ヶ月〜半年を過ぎたころ、花びらを取り出して、捨てる。酒精と、花の色と、ほのかな甘味とが封印されてさらに半年、「時の旨味」を加えると、繊細な味わいをもつ花酒が出来上がる。密造酒に該当するかどうかは、判断が分かれるところである。
 桜酒は、燈火に浮かぶ夜桜の淡い色と葉桜の香りが絶妙に溶け合った風合いとなり、椿酒は、極上のブランデーのような色と香りを醸し出し、楮酒は、こくのある甘味で舌をとろかすばかりでなく、縄文人も飲んだらしいという最新の考古学のデータ、不老長寿と精力増強の秘薬としても用いられたという古記録などにより、われわれを幻惑する。
 私に花酒の作り方と効用を伝授した画家・O氏は、自宅に一石(一斗の10倍。すなわち一升瓶100本分)の花酒を秘蔵していると言っていた。O氏の奥様は1960年代、九州・日本の美術界に旋風を巻き起こした「九州派」の主力メンバーとして知られた美人画家であったが、重い病を患っていた。それで、私は、O氏の花酒は、奥様の病を癒すための装置のひとつに違いない・・・と思ったものだ。
 2001年5月、私は二十数年を過ごした湯布院の町を離れて、宮崎へと移り住んだ。そしてこの地から、再び各地を巡る旅へと出かける。20年をかけて収集した300点の「九州の民俗仮面」の起源を求め、祭りや山の村を訪ね、人に会うのである。採集した花も増え、花酒の瓶も50本を越えた。


  秋の魚

 夏から秋へかけて、山も海も、荒れ、騒いだ。記録的な暴威をもたらした台風や、集中豪雨、異常な高温現象などが相次いで列島を襲ったのだ。けれども、九月も半ばを過ぎると、渓谷を渡る風は涼しくなり、水は澄んで、ようやく静けさが戻ってきた。山が、少しずつ秋の色に染まりはじめる。暴風に痛めつけられた木々は、例年よりも早く葉を散らす準備を開始し、落葉する間際の短い期間、紅葉するのである。
―山の色を見て、餌を替えよ。
 毛鉤釣りの名手であった私の父は、川辺へと出かける私に助言した。鹿を狩り、鮎や鯉、山女魚などの川魚を追って一生を終えた父は、老いて、川辺に立つことがかなわなくなってからも、その心は、つねに川瀬や奥深い渓谷を遊んでいたものとみえる。
 私は、山女魚(ヤマメ)を狙って、釣りの準備を整えている。山女魚は産卵期を迎えるため、101日から禁漁となる。9月月末の釣りは、今期最後の釣りなのだ。
 私の生まれた山の村(大分県日田市)では、山女魚のことを「エノハ」と呼んでいた。晩秋、榎の葉が黄葉するころ、山女魚は谷を下る。産卵を終え、海に帰ろうとする太古の習性の名残だという。山女魚とともに流れ下る榎の葉と、魚の体側にある斑紋が混交するさまを、釣り人はエノハと形容した。
 この日は、木浦(大分県宇目町)から見立(宮崎県日之影町)を経て高千穂へと向かう道へと車を走らせ、谷に入った。私は2001年5月に湯布院町から宮崎県西都市へと移住した。運営していた「由布院空想の森美術館」が、種々の事情の重なりにより閉館のやむなきに至ったのだ。その後は、宮崎と大分を往復する日々を繰り返している。途中でわき道にそれ、渓流に竿を出したり、スケッチブックを広げたり、山深い村の祭りを訪ねたりすることで、私は複雑な心境を整理することができたのである。
 木浦地区は、近世まで銅や錫を産出した鉱山のあった所で、「宇目の唄げんか」という子守唄が残っている。鉱物資源の搬出でにぎわう山間の町に、近隣の山村から奉公にきた娘たちが、子供をあやしながら歌ったのである。裕福な家の子を背負い、貧しい自分の家を思う娘たちが、羨望と嫉妬と子供に対するいささかの愛情とを交錯させながら、谷の向こうとこちらで交互に歌う子守唄は、哀調を帯びて山峡に響いた。
 山を眺め、今はあの世とやらで釣りを楽しんでいるはずの父の言葉を思い出し、クリ虫を用意した。山栗が落ち、クリ虫が這い出して地中にもぐるこの時期、山女魚は猛然とこの黄色い虫を追う。渓流の釣りは、生態系を観察し、季節の移り変わりを感じ取り、魚の習性と彼らのその日の食卓=採餌行動を「読む」ことで、その効果と味わいを深める。
 二本の川が合流する地点に、一軒の廃屋があり、川と家の境に、楓の大木が枝を広げている。すでに紅葉が始まっている。静かに息を整え、竿を振る。一投、二投。はらり、と楓の葉が水に落ちる。その葉の流れに沿うように、餌を流す。小さな魚信。間髪を入れずに、合わせる。ギラリ、と水底で魚体が反転し、竿が撓む。良型の山女魚だ。ぐいと抜き上げ、手にとり、ナイフを取り出して、ぐさりと止めを刺す。そしてすぐに腹を裂き、軽く塩をふり、内臓を水に流す。流れた内臓を追う小魚や川蟹の姿が見える。竹製の魚篭に笹の葉を敷き、魚を入れる。私の獲物は旨味を増す。
 釣果は、冷凍室に保存しておくと、秋の夜の自慢話の種となる。古伊万里の皿に乗せ、しばし
の釣り談議の後、土鍋に湯を沸かし、軽く昆布ダシをとって、静かに山女魚を入れる。そのスープは、ほのかな塩味と渓谷の香りがして、絶品である。

(読売新聞2004年11月19日付「くらし版」掲載分)

中国・少数民族の村を訪ねる旅 

     

森の空想通信(森の空想エッセイのページからの続き)

<16>

羌(チャン)族の村へ

 深い峡谷に沿った道を遡り、さらに支流に沿って車を走らせた所にその村はあった。
 岷(ミン)河と呼ばれるその大きな河は、長い間、長江(揚子江)の源流であると
信じられてきた。残念ながら、近代の科学的調査により、長江源流の座は雲南省を源
流部とするべつの川に譲ったが、いずれにしても、チベット山脈の東端から流れ出し、
四川盆地へと注ぐこの大河が、長江の支流のひとつであることに変わりはない。
 岷河の上流部には、チベットの山々を映す多くの湖と滝が雄大な景観をつくる「九
塞溝」がある。岷河の中流部の町・汾川(ブンセン)で、二本の川が合流している。
汾川は、物資と人とが集まる峡谷沿いの小都市である。市内にはバザール(市場)が
あって、多くの人で賑わっていた。爆竹が鳴り、山から谷へと反響した。この日は、
中国の正月「春節」の前日であった。爆竹の音は、悪鬼を追い、善鬼を招いて良い年
を迎える祝いの音であった。
 汾川から西方へ、岷河の本流を逸れてさらに険しくなった支流沿いの道を遡った所
が、羌族の村・桃坪(トーピン)村であった。石造りの堅固な村である。村全体が砦
の機能を持つことから「山塞」と呼ばれる。
 羌族は、もともと黄河上流域で羊を追い、狩りをして暮らした遊牧民族で、「羊」
をその守り神とし、姓とする。村の入り口や家の扉などに掛けられる羊の頭骨がその
名残りである。羌族は、繰り返される戦乱を逃れ、この地域へと移動した。上流域の
チベット族、下流の四川盆地を支配する漢族に挟まれた山岳地帯を拠点とし、石の要
塞のごとき村を築いて独自の文化と生活様式を守り通したのは、彼らがもともと山岳
民族だったからである。
 村長さんの孫娘という龍小涼さんが、村を案内してくれた。迷路のような石垣の道
は、家と家をつなぎ、山の斜面を上へ上へと登ってゆく。村の背後には、さらに高い
山岳が聳える。その大きな山塊を越えて行く家族が見える。汾川の町で買い物をし、
いま、春節の村へと帰って行くのだ。
 軒には、色とりどりの三角の旗が飾られ、門には、対聯(トイレン)と呼ばれる紙
が貼られる。赤い紙に墨で黒々と春を寿ぐ祝詞が書かれたものだ。小涼さんの妹、龍
達々(リュウ・タンタン)さんがひっそりと家の掃除をしていた。山岳に咲く一輪の
花のような風情であった。

<17>

風の村

 バザール(市場)で、籠に一杯の果物を売っている老婆に出会った。町の裏手に高
く聳えている山から、その日収穫したばかりの果物を売りに来ているのだと思われた。
 私は、ポケットに入っていた1元硬貨を取り出し、身振りで、このお金で買えるだ
け、その果物を売ってくれ、と言った。一個または三個ほどももらえば十分だったの
だが、老婆は、持ちきれないほどその林檎に似たみずみずしい果実をくれた。30分
ほどして再びバザールの雑踏の中で私たちは会った。すると彼女は、袋一杯の饅頭を
みせて、
――あなたの先ほどのお金で、私の今日1日分の食べ物が買えたのよ。
と言うような意味のことを言った。私たちは互いに笑みを交わし、手を振って別れた。
 羌(チャン)族は、もとは黄河上流域を本拠とした民族だが、繰り返し中原地方を
襲う戦乱と漢族の圧迫に追われ、長江(揚子江)上流の山岳地帯へと移動したのだと
いう。中国の古代史書ならびに作家・宮城谷昌光氏の小説によれば、春秋戦国時代末
期、「晋国」の皇子「重耳」は、父王に追われ、40年にわたる亡命生活を送った。
途中、羌族の村に立ち寄る。放浪の皇子を迎えたのは、白馬に乗った山岳民族の若者
たちであった。重耳はこの村の娘を娶り、穏やかな歳月を送るが、故国に政変が起こ
り、迎えの使者が来る。帰国した重耳は天下を平定し、中原の覇王となるのである。
 羌族の村は、石で固めた堅固な要塞としての機能を持っているため、「山塞」と呼
ばれる。一つの村に500戸から1000戸ぐらいが住む。村の中で牛や羊、鶏など
を飼う。村の裏手の急峻な斜面にわずかな耕地がある。石と土で固められ、家と家と
が互いに連結された村の中はまるで巨大迷路だ。ひとつの家にも小部屋が幾つもあっ
たり、大部屋があったりする。家族や来客などが集まる大部屋には、古い鬼の面が飾
られていた。今は使われなくなったという「追儺(ついな)」の面であった。追儺と
は、善鬼が悪鬼を追うという儀礼である。
 背後の山から小さな爆竹の音が聞こえた。その音に誘われ、岩山を登って行くと、
老人が一人、春節に行う先祖の祭りをしていた。挨拶をすると、にっこりと笑い、強
い酒をコップに注いでくれた。山岳を渡る風の音が、詩人の言葉のように響いていた。

<18>

自由旅

 旧式のバスは、大きな川沿いの道を遡って行った。川に沿って道が大きく曲がった
所でバスを降りて、歩いた。群青色の水流を見下ろす崖の道で、私を追い越そうとし
た馬車が止まったので、道を尋ねた。御者は、白と青のコントラストも鮮やかな民族
衣装を着た若い娘さんであった。その娘が帰って行く村が、私の目的地であった。
 中国四川省の省都・成都市から東方へ車で2時間ほどの所に「棉陽」という都市が
ある。ここは唐時代の詩人・李白の出身地である。李白は、25才の時、この生まれ
故郷の町を出て、長江(揚子江)流域を放浪した後、徂徠山に隠棲し、酒と詩作の日
々を過ごした。
 李白の詩とその生涯に思いを馳せながら、大きな川沿いの道を、さらに遡上する。
その川の名は、誰に聞いてもよくわからなかったが、四川省の名山を歌った李白の詩
「峨眉山月歌」にある平羌江ではないかと空想しながら旅を続ける。
 川沿いには、網で魚を獲る漁師の姿がみえ、黒い平石を採取する村や大きな採石場
も見えた。その手掘りの採石場は、私が若い頃働いたことのある石切り場に似ていた。
川辺で砂を掬い続けている一人の男がいた。砂金を採集しているのだという。川を遡
るにつれ、時間が30年、50年と逆戻りするような感じだ。
 「自由旅」とは、気ままな旅を楽しみながら中国各地の文化にふれ、少数民族の村
を訪ねる交流の旅である。友人が開設した「イエイテン」という旅行社の仕事を手伝
いながら、、私は仮面文化の源流を求め、日本文化の原型を訪ねて中国を巡る旅を続
けている。ここでは、日本で体験したことが、はるかな時の彼方にある。私自身が、
すでに時空を遊ぶ旅人となっているのだ。
 この川の源流部にある「白馬郷」は、チベット族の村である。村に着くと、村人は
素朴な家庭料理でもてなしてくれ、私を案内してくれた娘さんが、仲間を集めて白馬
族の舞踏を披露してくれた。小川では、民族衣装を着た老婆が、洗濯をしていた。古
い家並みが続く斜面を登り、山の中腹に立つと、雪で銀色に山頂を化粧したチベット
の山々が見えた。ロバの背に荷物を満載して峠を越えて行く家族とすれ違った。鈴の
音が、風に乗って山の向こうへと消えた。

<19>

雲南の春

 なだらかな丘をいくつも越えた。小さな湖があり、湖上を静かに霧が流れていた。
 湖畔の村にも、赤土の多い小山にも峠道にも、黄色い花が咲いていた。花の名を訊
ねると、「ホァン・フア(黄花)」という答が返ってきた。ミモザの仲間のギンヨウ
アカシアだと思われた。雲南省の省都・昆明から石林へ行く道であった。
 昆明は、一年中を通じて平均気温が16度前後と温暖な気候であることから、「春
城」と呼ばれる。奇勝・石林は、日本の秋吉台(山口県)や平尾台(福岡県)などと
同じく、石灰岩の奇岩が林立するカルスト台地である。この地域には、漢族の他に、
少数民族イ族の村が点在する。
 松樹凹村という村は、赤土の煉瓦で固められた壁が連なる小さな村だった。秋に収
穫された大量のトウモロコシが、大木に鈴なりに吊り下げられ、村を装飾していた。
村を歩くと、どこからともなく人が出てきて、一軒の家に集まった。水ギセルを常用
している老人や、畑仕事を中断してきたお婆さんなどが、胡弓や、九州・宮崎県地方
の「ゴッタン」と呼ばれる三味線に似た楽器などで、即席の演奏会を開いてくれた。 
 中年の婦人が着ていた民族衣装を譲ってほしい、と言ってみたら、奥の部屋に寝て
いたその家の老婆に、売ることについての許可をもらえ、といわれた。交渉してみる
と、その半ば死の床についているかとみえた老婆は、法外な値段を言った。そして徐
々に値をさげてきた。なかなか、したたかで商売上手な家族であった。
 白龍潭村の祭りを見た。イ族の村では、2月の1日から10日ごろまで、春節の祭
りがさまざまに行われるのだ。
 この地方には高い山がなく、なだらかな丘陵地帯が延々と続いている。その広大な
野を越え、丘を越えて、近郷近在から、夥しい数の人が集まってくる。広場の周囲や
道の両脇は、出店で大賑わいだ。
 祭りの場では、大きな舞台が設えられ、その舞台で、いくつもの民族が次々に舞踏
や音楽を披露していた。舞台の外では、広場や丘で思い思いに歌を歌い、踊りの輪を
作っていた。私も楽器を手渡され、その三味線のような楽器を不規則にかき鳴らし、
踊った。歌は、男の組と女の組とに別れて歌い合う恋の歌、「歌垣」であった。

<20>

雲南の古都

 青い山塊がずしりと横たわっている。その山脈に沿って白い村が点在する。漆喰と
白い石を多用した白壁の民家が、背後の青い山に映えて村を白くみせているのだ。ゆ
るやかに煙が立ち昇っている。山は「蒼山」と呼ばれる。山麓一面の菜の花畑である。
 古都・大理は、雲南省の中部やや西寄りに位置する静かで美しい町である。「風花
雪月の地、山紫水明の城」とは、標高3500メートル級の蒼山を背後に控え、その蒼山
を擁する雲嶺山脈から流れ下る水を集めた淡水湖「?海」を望むこの町の美しさに対
して、人々が贈った賛辞である。
 大理には、白い家・白い民族衣装を好む白族を中心に、多くの民族が住む。古来、
この地を訪れた旅人も多い。13世紀、シルクロードを踏破し、「東方見聞禄」を著
したベネチア人・マルコポーロも足跡を残し、中国の半数以上の名山・大河を旅した
明時代の旅行家・除霞客は、この町の風光を愛し、半年も滞在したという。
 周囲7キロにも及ぶ石の城壁に囲まれた町「大理古城」は、古代白族の先住民「西
耳河蛮」の建設によるものを、唐時代に中国長安の市街配置を参考にして城壁を築き、
都城としたものである。今も、この城壁に囲まれた町で、多くの人々が暮らしている。
城壁の上に立つと、市街地の向こうに?海が見える。背後には蒼山が青く霞んでいる。
山から吹き降ろしてくる心地よい風に吹かれながら、古代都市の面影と民族興亡の歴
史をしのぶ。私は、アジアを旅する一人の旅人となっている。
 町には多くの観光客も訪れるため、瀟洒なギャラリーや土産物を売る店などが軒を
連ねる一角もある。そこでは、白族の民族衣装を着た女性やガイド嬢なども混在する
が、観光地にありがちな押しつけがましい販売戦略はみられないので、安心して散策
を楽しむことができる。路地の入り口で、小さなアルバムを持って誘いをかけてくる
女性がいた。その人に導かれ、瓦屋根の家と家の間を巡り、迷路のような路地を抜け
て民家の2階の部屋を訪ねた。そこは、表通りとはまた別の味わいを持った民族衣装
やアンティーク雑貨などを集めたコレクションハウスであった。私はこの店で、少数
民族の祭りに使われる「追儺(ついな)」の面を買った。それは、日本の仮面劇の原
型を示す仮面であった。

<21>

鬼の原郷

 中国雲南省の古都・大理で、「追儺(ついな)」の面を買った。それは、少数民族
の祭りに使用される古い面で、日本の仮面文化の原型とも関連するものであった。
 近年、中国各地の古代遺跡から仮面の発掘が相次いでおり、これまでに明かにされ
ていなかった謎の部分の解明が進みはじめた。少数民族の村にひそかに伝えられてき
た仮面の使用例と合わせて、アジアの仮面史に新たな光が当たりはじめたのだ。
 中国・周時代の歴史書「周礼(しゅらい)」には、熊の毛皮を被り、黄金の四つ目
の仮面をつけて祭りの行列を先導する「方相氏(ほうそうし)」という俳優(わざお
ぎ)の姿が記録されている。方相氏が演じるのは、伝説の王朝「夏(か)王朝」の王
「黄帝」の行列の様子である。黄帝は、鬼神を集め、象に引かせた車に乗り、軍神の
siyuu(しゆう)が先導をつとめ云々とある。方相氏は、このsiyuuの役を演じたもの
である。
 周から春秋戦国時代ごろの中国では、「善鬼」「悪鬼」という思想が確立してい
たらしい。善鬼とは、部族の長老や武将uどが長寿を全うして死に、祖先神となったも
のである。悪鬼とは、病気や事故、戦争などで死んだ人の霊が、地にこもり、悪霊と
なったものである。この善鬼が悪鬼を追う儀礼が「追儺(ついな)」の祭りで、方相
氏は善鬼の性格も合わせ持つ。追儺の祭りは、五行思想、老荘思想、道教などと混交
しながら、アジアに広く分布し、日本へも伝わった。福岡県太宰府天満宮の「鬼すべ」、
同久留米市玉垂宮の「鬼夜」、大分県国東半島の「修正鬼会」、奈良東大寺の「修二
会」などがそれである。
 私は、約20年間をかけて九州に伝わる古い仮面300点を収集した。そしてその
起源や用途を調べるため、九州各地の村を巡り、祭りを訪ねた。仮面は、祭りの主役
として古代国家生成の物語を語り、その土地の歴史を伝え、また、呪力をもつ神面と
して生活儀礼につよい影響を与え続けてきたものであった。取材を重ねるうち、それ
らの九州の仮面が、アジアや中国の歴史・文化と密接に関連しながら伝承されてきた
ものであることも次第にわかってきた。
 雲南の古都・大理の町を見下ろす石の城壁の上に立ち、今、私は鬼の原郷を旅して
いることを実感している。

<22>

雲南の月

 中国雲南省の古都大理から北方へ向かう道沿いに「周城鎮」という名の村がある。
 少数民族・白(ペー)族の村である。赤土で出来た土壁と、漆喰で固められた白い
壁のコントラストが美しい。村の中心部に、「万年樹」と呼ばれる大樹を囲む広場が
ある。広場はバザール(市場)となっていて、多くの人で賑わっている。肉や野菜、
美しい布や衣類、雑多な生活物資などが盛大に積み上げられ、売られている。次々に
荷を運んで来るトラックや馬車、二輪車などが、混雑に拍車をかけている。屋台から
饅頭や日本のチマキに似た蒸しパン、炒飯や野菜炒めなどを買ってきて、樹下のテー
ブルで地元の人と並んで食べる。旅はこうして味わいを深めてゆく。
 周城鎮からさらに北へ向かい、雲南山脈を越える。道端で、小さな祭りに出会った。
黒い民族衣装の女性たちが、天の神と地の神に祈りを捧げているのだという。近ごろ、
雲南省を貫通して走る高速道路が開通したため、鹿や狸、兎などが車にはねられる事
故が絶えず、人間もまたしばしば事故に遭遇する。そのたびに、この村の女たちは天
神地祇に祈るのだ。
 ナシ(納西)族の町・麗江は、玉龍雪山から流れ出た清らかな水が、三本の疎水と
なって町を潤す古都で、世界遺産にも登録されている。石畳の道沿いに木造土壁造り・
瓦屋根の古民家が軒を接し て立ち並び、古き良き時代の中国の古 代都市の姿を髣髴と
させる。
 町にはギャラリーや作家の工房、ナシ族料理のレストランなどが立ち並び、幻の古
代象形文字ともいわれるトンパ(東巴)文字が門や壁を飾っている。
 小さな工房でアクセサリーを造っている若者と知り合った。彼は、奥さんと一緒に
私を自宅に招待してくれた。レストランでは日本の川虫に似た虫や川ノリなどの料理
を食べた。観光とは、こうでなくてはいけない。日本の多くの観光地が失ったものが、
雲南の村にはまだ残されている。彼らは、もっとも大切な資源が、風景であり、歴史
であり、民族の個性であるということを、良く知っているのだ。
 町を離れる時、雲南の山脈に細い月がかかっていた。月は、トンパ文字を象嵌した
銀のアクセサリーを思わせた。

 

東巴(トンパ)文字に出会う旅

 大きな太陽が、西の山脈に沈むと、たちまち空は深い藍色に変わり、細い月が、古
い街の上空を装飾した。標高5500メートルの主峰をもつ玉龍雪山は、夕陽に照ら
され、山頂の雪を銀色に輝かせたが、すぐに雲に隠れて見えなくなった。
 古都「麗江」は、雲南省の西北部、チベット山脈の東南端に位置する高原都市で、
宋時代の建築様式を今に残す古代都市である。標高2500メートルの高地にあるこ
の街は、人口約4万人、総面積2、5キロメートルにも及び、黛色の瓦
と白壁の民家が軒を連ねる。かつては街そのものが「寨=城」の機能をもつ「城市」
であった。
 玉龍雪山から流れ下った清流は、麗江で三本の水路となり、さらに幾本もの疎水と
なって街を潤す。雲南・チベット・四川の三つの地方の文化が交わり、かつて「茶葉
古道」が通る交易の地でもあったこの地は、先住民族ナシ(納西)族の文化を色濃く
残す。四方街を中心に、網の目のように街中を走る石畳の道沿いに、お洒落なギャラ
リーや骨董屋、民族衣装を売る店、ナシ族料理のレストラン、民家を改装した客桟
(旅館)などが立ち並び、散策する旅人の目を楽しませるのである。
 中心街から少し離れた骨董屋街を散歩していたら、呼び止められた。
―ナシママの店、安いョ(ナシ族の母さんの店の品は安いですよ、というほどの意)。
 聞き覚えのあるその声は、古い民族衣装や民具などを売る店の店主のものであった。
ナシ族の衣装を着た中年の婦人は、前回、立ち寄り、買い物をした私のことを覚えて
いてくれたものとみえる。彼女のしゃべれる日本語は、上記のひとつだけだが、私と
彼女との会話は、それで足りる。
 ナシ族の古代文字「東巴文字」は、店の片隅の棚に、ひっそりと置かれていた。同
行の一人がそれをみつけたのだが、一目見て、私はすぐに値段の交渉を開始した。老
練な狩人にも似た骨董業者が、この獲物を逃すはずがない。私は、ほぼ相手の言い値
で買う次第となったのである。けれどもそれは、ナシ族の祭祀に用いられた経典で、
古い時代(明末〜清初ごろ)に制作され、司祭の家に伝えられていたものであった。
そのことは、その夜の「ナシ古楽」の演奏会で、ナシ族の最高司祭が手にし、演舞し
たこと、翌日訪れたナシ族民族博物館に同種のものが展示されていたことなどにより、
あきらかになった。私は、またとない買い物をしたのである。
 東巴文化は、ナシ族の伝統文化で、千年以上の歴史をもつ。東巴文字は、ナシ族の
原始宗教とチベット仏教、漢族の民衆宗教である道教などが集合した「東巴教」に保
存されたことにより、現代に伝えられたのである。東巴とは、「智者」を意味し、ナ
シ族原始宗教の語り手であり、祭祀者である。彼らは、古代象形文字である東巴文字
によって描かれた東巴経典を駆使し、祭祀を行う。東巴の祭りは、玉龍雪山の神を祭
る「山神祭」、天の神を祭る「天祭」、死者の霊魂を鎮める「風祭」などの他、正月
の祭りである「署祭」、結婚祝い、新築祝い、病気の祈祷や占いなど、さまざまな祭
儀を行うのである。
 ナシ族民族博物館には、これらの祭儀の飾り付けがあったが、それは、九州山地の
神楽の御神屋の飾り付けや、四国山地に伝わる祈祷儀礼「いざなぎ流」などとよく似
ていた。なかでも、心中した男女を送る祭りの飾りは、目をひくものであった。一対
の男女の人形(ひとがた)があって、その周囲を五色の幣が飾り、東巴文字を書いた
上部の尖った板(木牌。アイヌの通じ棒や日本の神官がもつ杓などと関連)が立てら
れ、祭壇が設けられて、その祭壇の両脇を龍頭が守護している。これが心中した男女
を送る鎮魂の祭儀なのである。古来、中国では、同姓のものは結婚できないなど、多
くの制約があり、悲恋を生んだ。ナシ族の若者は、心中すれば、神の山である玉流雪
山のある地点で結ばれ、天の国で幸せに暮らすことができると信じている。それで、
心中が多いのだという。
 鮮やかな東巴の祭儀によって魂を送られる恋人の物語は、哀しくも美しく、旅情を
一層、深いものとした。

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 国際交流センター成都事務所

   

 2002年7月、大分県大分市に本社を置く株式会社野田建工は、国際交流センター成都事務所を開設した。古来、すぐれた歴史と文化をもち、友好と交流を続けてきた中日両国の一層の親善と交流を深めることを目的としたものである。この交流センターは、日本語と日本文化の講習を行いながら、中国の歴史・生活文化・祭り等の研修、人材の相互派遣等の活動を行っている。

 野田建工社長の野田正一氏は、若いころから中国文学に親しみ、ことに「三国志」を愛読。世界各地への旅行を続けた後、10年ほど前からは中国各地を旅行し、一層中国への思いを深めてきた。筆者(高見乾司)と野田君とは、中学・高校時代をともに過ごした同級生で、とくに、高校2年の夏に決行した九州一周旅行は鮮烈な体験となった。野田君が、近所のゴミ捨て場に放置されていた古自転車を拾ってきてそれを修理し、山中君というもう1人の友人を誘って、旅立ったのである。現金の持ち合わせは3人で1000円。それぞれの自転車に米を一升ずつと鍋・釜をがらがらとぶら
下げた、俄仕立ての冒険者たちは、郷里・大分県の日田市から中津市へ出て、国道10号線を一路南下し、大分市、佐伯市を経て、日向の国・宮崎県へと向かったのである。
 夜の宗太郎峠越え。はじめて見た日向灘・太平洋の大波。かつて「ヒムカ」と呼ばれた地での記念すべき最初の夜を太平洋を望みながら過ごそうと、延岡市郊外の浜辺で野宿した私たちの一行は、たちまち、もの凄い蚊の大群に襲われた。流木を拾い集めてバリケードのごとき遮蔽装置を作り、火をつけてその盛大なたき火に囲まれて眠ろうとしたが、蚊は容赦なく襲ってきて、早々に退散しなければならなかった。ようやく見つけた無人の家(それは地区の公民館のような建物だった)に侵入して眠りについたが、深夜、私たちを目覚めさせたのは、階下で始まった花札賭博であった。全身に入れ墨をほどこした若い衆が、酒瓶を乱立させ、鬼の宴会よろしく丁丁発止の勝負を繰り広げている。恐る恐る覗き見していた私たちはすぐに見つかり、
「なんだ、お前たちは」
と凄まれた。オシッコをちびりそうになりながら、
「大分から来た無銭旅行の高校生です」
と答えた私たちに、ヤクザの若衆は案外やさしい笑顔を向け、
「そうか、なかなか感心な若者たちだ。これでアイスクリームでも買ってきて食べな。釣り銭は旅費の足しにでもせい」
と、開放してくれたのである。
―ここは、やさしい人たちの国なんだ・・・
われわれの旅は、素晴らしい旅となった。青島海岸で泳いだこと。日射病にかかった野田君と私たちの一行を宿舎に招き、泊めてくれた富田さんという若い造園研修生のこと。道を尋ねるために立ち寄ったら、蜂蜜の入ったお湯をご馳走してくれたお婆さん。桜島の麓の一軒家で台風の通過を待ったこと。霧島山中で出会った神楽。そのどれもが、輝くばかりの青春の思い出である。人はだれでも、人生の方向を決定する出来事に1回だけ出会うのだとしたら、この20日間の九州一周旅行こそ、私と野田君の一生に強く影響を与えた出来事であったといえる。
 スケッチブックをヤッケの胸ポケットに入れ、写生をし続けた私は、画家の道を目指し、その後湯布院町への転居と「湯布院町・町づくり運動」との出会いにより、「由布院空想の森美術館」の設立に至った。野田君は、そのまま旅を続けるかのごとき漂泊の青年期を送ったが、のちに住宅のリフォームを主体とした「野田建工」を設立、わずか十数年で見事な企業に育て上げた。その彼が、人生の仕上げともいうべき仕事として取り組んだのが、「国際交流センター成都事務所」と「ieiten国際交流館」である。成都事務所は、前述のように日本語の講座を中心としたボランティアによる交流事業であり、「ieiten国際交流館」は、大分駅前に事務所を置く中国少数民族の村を訪ねる交流ツアーを企画する会社である。「イエィ・テン」とは「野・田」の中国読みである。
 私と野田君とが久しぶりに会い、大分市の都町という繁華街をぶらぶらと散策したのは彼がこの事業の構想を固め、私が、種々の事情によって「由布院空想の森美術館」を閉館し、宮崎県西都市茶臼原台地にある「石井記念友愛社」の森の一角で「森の空想ミュージアム」としての活動を開始した2001年の夏のことであった。この夜、二人は多くを語り合ったわけではない。彼は私に、この仕事を手伝えないか、という提案をしてくれた。巨額の負債を残しながら次なる展開を模索する私に対する、彼なりのさりげない支援の申し出であった。私は、「九州の土俗面」と名付けた300点におよぶ仮面コレクションを空想の森美術館の展示品の中核とし、その調査と研究を主たるテーマとしてきた経緯があり、九州山地や中国少数民族の村に残る仮面文化は、アジアの仮面史と日本の仮面史・芸能史を結ぶ重要なデータであるという認識をすでに得ていたので、中国奥地への旅はいつかは実現させたいと願い続けていた課題でもあった。その「夢」が、彼の仕事を手伝うことによって現実のものとなり、さらに彼の事業の手助けができるのであれば、三十数年の空白期を経て二人が同じ旅をはじめることともなる。私は心中深く感謝しながら、彼の申し出を受け、中国・四川省成都の土を踏んだのである。

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   武候祠と変面劇

 四川省の省都である成都市は、四川盆地の西部に位置する巨大都市で、四方に山岳を控え、揚子江上流域の豊富な水と鉱物資源、広大な土地とそこから産出される物産などを集め、古来「天府の国」と呼ばれた豊かな国である。現在の人口は一千万人を超える。ニ千八百年前の周時代に古蜀文明が栄えた。後漢末期、世が乱れ、各地に騒乱が起こる。これを機に劉備玄徳・関羽・張飛の三傑が「桃園の誓い」によって起ち、後に諸葛孔明を軍師に迎えて漢王室の再興と天下平定の夢をかけて各地を転戦しながら、力を蓄える。しかしながら、同時期に現われた魏の曹操、呉の孫権もまた文武を兼ね備えた勇者であった。激闘を繰り返したのち、孔明の「天下三分の計」によって劉備は「蜀」の国を興す。「三国時代」の幕開けである。「三国志演義」等によるその物語は、中国の歴史書に等しい支持を集め、日本でも幅広い読者層をもつ文学書となった。白帝城による玄徳の死、五丈原による孔明の死などにより、蜀の国は滅亡に向かい、三国時代も終わるが、民衆は長くその物語を語り継ぎ、英雄たちを祀った。成都市内にある武候祠はその代表的史跡である。ここには、劉備・関羽・張飛とともに孔明も合わせて祀られ、参拝者が絶えることがない。武候祠の一角には、劉備を祀る陵墓、三国時代の遺物を展示する資料館もあって、はるかな三国志の世界に思いを馳せることができる。

 成都市内には、武候祠をはじめ数々の歴史遺産がある。かつて詩人・杜甫が暮らしたという「杜甫草堂」、前蜀皇帝・王建を祀る「王建墓」、古代水利施設「渡江堰」、四川省の歴史と文物を展示する「四川省博物館」、五斗米道発祥の地「青城山」等々見所は多いが、武候祠からさほど遠くない場所にある道教寺院「青羊宮」も見ごたえがある。唐代に創建され、清朝期に再建されたというこの寺院には訪れる人が絶えず、道服を着た道教僧の姿を見ることもできる。「道教」とは、周時代から春秋時代へかけて成立したとみられる「五行思想」を骨格とし、後に出現した思想家「老子」「壮子」の思想と習合し、前漢時代に完成された宗教である。「五行」とは、要約すれば「木・火・土・金・水」の五つの元素が宇宙・森羅万象を形成するすべての基本であるという考え方で、「空」 「無」 「無為自然」など、日本でも馴染み深い「老壮思想」と合わせて東洋の宗教哲学・自然観の骨格をなす思想となった。日本の鬼追い=追儺の祭りや節句、神楽の御神屋飾り、御幣を捧げる神祭りなどを思えばわかりやすい。「五斗米道」とは、初期道教集団である。文字どおり五斗の米を持って信者が集まったことにその名が由来する。五斗米道は、漢室と世の中の乱れを憂い、黄色い布を頭に巻いて蜂起した世直し的結社「黄巾党」の思想的背景をなす。のちに「黄巾の乱」と呼ばれるこの決起が、後漢時代の終末を継げる大乱の契機となり、劉備・関羽・張飛の挙兵、この地における「蜀国」の建設と三国時代の到来など、歴史の変転の発火点となったこと、そのゆかりの「青城山」が現存し、多くの信者を集めていることなどを思うと、ニ千年の歴史ドラマが眼前に髣髴と甦るようで興味が尽きない。

 ある一夜、青羊宮に隣接する劇場で開催された「四川劇」をみる機会を得た。四川劇のなかには「変面」と呼ばれる仮面劇があり、五色の仮面が瞬時に変化しながら舞を舞うもので、劇そのものおよび演舞者、仮面等は国宝に指定され、絶対の秘密とされているという。 私を四川劇に誘ってくれたのは、成都市内にある「西南民族学院」という国立大学の長野里見先生と学生たちである。同大学は、中国少数民族の歴史・文化の研究を主体とする大学で、当然ながら少数民族出身の学生が多い。長野先生は日本から来た若い女性教師だが、イ族出身のジェノムノ君やチワン族出身の藩麗星さんなどとまるで親しい友人か気心の知れた仲間のように接する、明るく活発な方である。市内の料理店で激辛の四川料理を楽しんだあと、私たちは、古い竹の椅子に座って劇をみた。 
  四川劇は、四部によって構成されている。第一部は「雑伎」と呼ばれる手品や曲技などである。日本の平安時代に流行した「田楽」は、このようなものであったのかもしれない。第二部は夫の浮気を奥さんが手厳しく責める風刺劇で、日本の「狂言」との共通項をもつ。第三部「木偶伎」では、日本の「文楽人形」に似た操り人形が、中国の故事に由来する劇を演じる。日本の傀儡子舞との関連など探ってみたい芸能である。この人形劇の終盤、五色の「変面」をつけた人形が登場し、被っている面を瞬時に変化させたり、火を吹いたりと派手なパフォーマンスを繰り広げる。これが「変面劇」の先触れ的演目である。観客の興味と興奮が最高潮に達すると、いよいよ第四部「変面劇」の開始である。
 まず、きらびやかな衣装を身にまとい、宝冠を被り、緑色の仮面を被った演者が登場、静かな舞を舞う。神楽の神迎えの演目を思わせる舞である。仮面は、歌舞伎の隈取りを思わせるくっきりとしたデザインで、これも神楽面に類似する。日本の神楽の原型は、中国周時代の歴史書「周礼」に記された「方相氏(ほうそうし)」に求めることができる。方相氏とは、熊の毛皮を被り、黄金の四つ目の仮面をつけた神で、地の霊すなわち悪鬼を追う「追儺神」である。方相氏が演じるのは、古代中国の伝説の王朝「夏」の王であった「黄帝」に従う武将の中の「蚩尤(しゆう)」である。蚩尤は軍神であり、黄帝に率いられた神々の先払いをつとめる。黄帝―蚩尤の伝説が方相氏の演劇として引き継がれ、追儺劇として定着したものであろう。

 中国における「儺儀(ヌォシ)」すなわち「追儺(ついな)」とは、「鬼」の観念が演劇化されたものである。中国古代の「鬼」とは、長寿を全うした老人、あるいは武将の霊が家や村を守る祖先神「善鬼」となり、病気や事故で死んだ人の霊や戦死した人、制圧された先住民の霊などが祟りをなす「悪鬼」となって地に潜むという思想である。善鬼が悪鬼を追う儀礼が「儺(ヌォ)」の祭りで、儺儀すなわち追儺の祭りもまた周ないしは春秋時代には成立していたと思われる。儺儀は、中国からアジア全域に伝わり、日本にも渡来し、今日にいたるまで伝えられている。節分の「福は内・鬼は外」や、奈良・東大寺の「修ニ会」、大分県国東半島の「修生鬼会」、福岡県太宰府天満宮の「鬼夜」などがそれである。

 さて、四川劇の「変面」は、このように古代の祭祀儀礼の面影を残しながら伝わっているのであるが、なんといってもこの演劇の最大の見せ場は、五色の仮面が瞬時に変化することである。五色の仮面とは、緑・赤・黒・黄・青であり、その五色は五行の木・火・土・金・水に対応する。登場順はかならずしもこの順番とはかぎらないようであるが、目にもとまらぬ速さで変化するその仮面の構造も仕掛けも、だれも見破ることはできない。なかでも、赤い面を被った神は、突然、ごうっ、と火を吐いて、観客の度肝をぬく。日本の火の神「金山彦命」に相当する神であろう。日本の神楽では、大分県九重町の「玖珠神楽」に「五穀舞」という演目があって、五色の面をつけた神が登場し、次のような神歌を歌う。

◇東方神(緑色)
―東方に向かいて方をたずぬれば、方は木のえ、きのとの方なり。さあればこの方の大神は、久々能智之命(クグヌチノミコト)と申す。大神に礼拝をしたてまつる、五穀成就したまえ。
◇南方神(黒色)
―南方に向かいて方をたずぬれば、方は火のえ、ひのとの方なり、さあればこの方の大神は加具土之命(カグツチノミコト)と申す。大神に礼拝をたてまつる、五穀成就したまえ。
  以下、西方神(赤色・金山彦之命)、北方神(青色・水波能女之命)、中央神(黄色・埴安之命)と登場し、神歌を歌いながら五穀成就の舞を舞うのである。玖珠神楽は江戸初期に高千穂から伝わったとされる伝承をもち、古格を残す神楽である。この玖珠神楽と四川劇の「変面」が直接関係しているとはいえないが、方相氏・儺・五行等の系譜に連なる演劇であることは間違いない。私は、経済的破綻をきたした美術館の主としてまるで追い払われるように湯布院を
退出せざるをえなかったのであるが、300点の「九州の土俗面」はあくまで手放さず、背負って出た。そして九州山地のどこかにその展示場を求めて東奔西走し、さらにはこの四川の地までやってきたのだったが、ここでこのような仮面劇をみることができ、あらたな意欲と闘志が湧いてきた。私は今、まさに仮面文化の原郷に立っているのである。


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(SINCE.1999.5.20)