穏やかな春の午後
末松正樹展開幕


咲き競っていた山桜の花も散り、いつの間に葉桜となった。かつてこの茶臼原の大地を切り開き、「福祉と芸術の融合による理想郷づくり」の夢を掲げた石井十次とその仲間たちが敬虔な祈りを捧げた旧・教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」の空間は静謐な空気感に満たされた。第二次世界大戦のさなか、逃避中のフランス・スペイン国境の町で捕虜となり、一年間をホテルの一室に拘束されたまま、絵を描き続けた画家・末松正樹の作品が、ギャラリーの壁面に並んだ時、そこには時代を超越した清澄な音楽のような響きと、微かにゆらぐ風のような気配が漂ったのである。


新潟県新発田市生まれの末松正樹は、14歳までを郷里で過ごすが、15歳の時、父親の宮崎県立宮崎中学校への転勤にともない宮崎に移り住み、三年間を過ごす(1924−1926)。南国の明るさや、当時武者小路実篤によって開かれていた「日向新しき村」、県内に横溢していた活発な芸術文化の気風などが、北国育ちの正樹に大きく影響を与えた。当時の宮崎は、新しき村に集まった芸術家たちが草土舎風の絵を描いて宮崎市でグループ展を開いたり、茶臼原では石井十次の友愛社が開拓を進めたりしていた。正樹は、この時期に本格的に絵筆を持ちキャンバスに向かったり、カンディンスキーの「芸術論」を読んだり、茶臼原在住の光瀬俊明が発行していた雑誌「生活者」を愛読したりした。

その後、山口、郷里新発田などを転々とするが、23歳の時(1931年)上京。絵画や音楽、詩、舞踏などの仲間と交流する。ことにドイツの舞踏「ノイエ・タンツ」との出会いがその後の運命に決定的な影響を与える。31歳の時(1929年)、日本の舞踏を紹介する一行の一員として渡欧し、パリで過ごす。ここでも多くの芸術家たちとの出会いがある。が、第二次世界大戦が勃発し、当時マルセイユ領事館に勤めていた末松は、帰国せず、ドイツ占領下のフランスで過ごすこととなる。そして大戦末期にスペインに脱出を図る途中、国境の町ペルピニャンで拘束され、一年間をホテルの一室に監禁されて過ごす。この俘虜時代に、踊る人の群像を描き続け、それが次第に抽象化されていった。
今回展示された作品の多くは、その時期に描かれたものである。ペルピニャンでは、ドイツ軍に協力したフランス人も捕まって銃殺されるなど、生死の境に身を置くが、作品群からは、「戦争」の音は聞こえず、むしろ静かな詩情と音楽のような響きさえ聞こえてくるのである。末松の身の処し方を、絵に逃避した、とか、芸術に救いを求めたという見方をする人もいるが、私は、この画面に漂う静謐な空気感こそが、末松正樹の絵の資質であり、作家としての体質だと思う。家族との葛藤や、女性遍歴、「弱さ」や「卑屈さ」などもまた一人の画家の一面ではあろう。だがそれらを含めた全体が末松正樹という画家・舞踏家なのであり、そして残された素描群に漂う清澄な音楽性と詩情こそが、この画人の特質であろう。
穏やかな春の午後、作品を展示しながら私が抱いた感想は、以上のようなものであった。

終戦の翌年(1946)、末松正樹は日本に帰国した。独学で絵を習得し、舞踏家としても活動した末松は、戦後の日本でフランス美術や映画を紹介する文章を発表し、画家としても活躍した。マルセル・カルネの映画を「天井桟敷」と訳したことでも知られる。復興期の日本の芸術・文化の指針となる活動を展開した文化人の一人であったといえよう。今、その末松正樹の美術史的掘り起こし作業が始まっているという。この展覧会を機に、宮崎での末松の軌跡に光が当てられることを願うものである。
