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連載/山と森の精霊仮面
文・写真 高見乾司

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                        猿田彦
                 

[1]高千穂神楽の猿田彦               

 古びた板壁を午後の日差しが照らしている。寂びた社殿に、ひょう、と笛の音が響く。続いてどどん、と太鼓がとどろき、しゃらん、と鈴の音が鳴る。樫や椎、楠、椨などの大樹がつくる黒々とした森に抱かれた神社で、静かに神事が始まったのだ。

 舞人の麻の衣が風を呼ぶように翻ると、本殿の奥の白い御幣が、かすかに揺れた。
「神」という観念が、多様化し、ゆらぎ、危うさやもろさをあわせ持つ現代社会において、この高千穂の山中の「神寂びた」一角で行われていることが、はたして「神に会う」行為であるのかどうかは判定しがたいが、ここにたち現れる「神」が偶像化された特定の人物や古代史の英雄などでなく、自然界の精霊のごときものをさすのだとすれば、その御幣がわずかに揺らいだ一瞬こそ、まさに神の降臨した瞬間であったのだろう。神楽の舞人――奉仕者、祝子、太夫などと呼ばれる――は、山や森や岩陰などの空間に潜むひそやかな気配を察知し、呼び醒ます呪術者の末裔であり、「神=精霊」と人との交歓の場「神楽」を現出させる俳優<わざおぎ>なのである。
宮崎県高千穂町三田井浅ケ部地区の磐下権現神社に伝えられる「浅ケ部神楽」は、山中の神社での神事の後、「猿田彦」に先導された神々が、白鉢巻も凛々しい棒術、白刃術等の人々に続いて村里を巡り、神楽宿へと舞い入る。
 ここでいう「神々」とは、猿田彦、山の神、荒神、地主神などの「国つ神」、天照大神、邇邇藝命、天鈿女命、手力男命などの「天つ神」である。総勢三十人にも及ぶ舞人が、各々神面(「おもてさま」と高千穂地方では呼ばれる)を着けて行進するさまは、圧巻である。神楽とは、天照大神神話から天孫降臨伝承、神武伝承を経て、大和王権にいたる古代国家生成の物語を語りながら、土地の歴史・風土の記憶を語り継ぐ、長大な叙事詩であり、演劇なのである。

 夜神楽は、猿田彦の「彦舞い」から始まる。
「猿田彦」とは、記紀神話の天孫降臨の段に登場する「国つ神」である。天と地の境に立ち、邇邇藝命一行を迎えた猿田彦は、天鈿女命との劇的な出会いにより、一行を筑紫の日向の高千穂へと導く。これにより、猿田彦は、先導神・道開きの神となるのである。彦舞いはこの故事をふまえる。赤い顔・高い鼻の仮面を着けた猿田彦は、四隅に榊が立てられ、中央天井に「雲」と呼ばれる天蓋が吊るされ、青、赤、白、黒(紫)、黄の五色の御幣などで飾られた御神屋(神庭)に舞い入り、御神屋を右回りに回った後、中央に据えられた一斗枡の上に乗り、赤と金襴の麗々しい衣装で、右手に鈴、左手に大幣を持ち、四方を清める舞を舞う。
 続いて、「太殿」「神降し」「鎮守」などの静かで格調高い招神・鎮魂の舞が舞われ、夜も更けるころ、「入れ鬼神」、「地割り荒神」、「山森(大山祇命)」「五穀」「天鈿女命」などの仮面神が続々と登場する。太鼓は早調子となり、笛の音が山間に響く。仮面は、人が神に変身する装置であり、観客を一気に神々の世界へといざなう呪具なのである。


[2]南の猿田彦               

 猿田彦は、謎の神である。出雲で生まれ、九州で邇邇藝命一行を迎え、天鈿女命と結ばれて伊勢へ行き、その地の土公神となり、アザカの海でヒラブ貝に手を挟まれて溺れ死ぬ。
 記紀神話の天孫降臨の段では、次のように記述される。
天照大神から神鏡を授かり、高天が原から豊葦原の中つ国へとやってきた邇邇藝命一行は、天と地の境である「天八衢」に立つ神に出会う。背の高さは七尺(古代の尺度によれば2メートル余)、顔は赤く、鼻の長さは七(あた)(同70〜80センチ)目は赤カガチ(漿、蛇の目、鏡などの解釈がある)のように輝く、異相の神・猿田彦である。
 猿田彦の威容を恐れた邇邇藝命は、天鈿女命に対し、「汝はたおやかな女ではあるが、立ち向かう神にその面の力で勝つ神である。行って、天孫の天降る道になぜ立ちふさがるのか問いなさい」と告げる。そこで天鈿女命が、その愛らしい笑顔で猿田彦に向かい、衣の裾を押し下げて陰部をあらわにして、敵意のないことを示すと、猿田彦は、「我は国つ神である。ここに出現したのは、天つ神の御子が天降ると聞き、御前に立つためである」と言い、筑紫の日向の高千穂の国へと案内するのである。南九州を舞台とした古代国家生成の物語「日向神話」の幕は、こうしてドラマチックに開く。
 一見、怖そうだけれど女性に弱く、渡来の民を自国に案内する平和主義者。国境や村の境、宮廷や神社の前などに立つ守護神。我らが愛すべき猿田彦は、これらの故事により「先導神」「航海神」「縁結びの神」「道祖神」「天狗」などの諸相を獲得し、日本列島にあまねく分布する民衆神となる。

 邇邇藝命一行と猿田彦との出会いの地すなわち天孫降臨伝承に関連する地点は、以下のように、南九州に点在する。
@現在の宮崎県高千穂町。高千穂町内だけで20座の神楽を伝え、神話に関する地名・神社等も多い。Aもう一つの天孫降臨の地と考えられている霧島山系の高千穂の峰を中心とした地域。こちらは、地理的な位置付けや伝承の密度などが記紀の記述に近く、民俗学者等の支持は多い。霧島山麓には猿田彦がその所領を見回ったことを起源とする祭り「メンドン回り」が伝わり、猿田彦屋敷跡も存在する。B邇邇藝命の上陸地点であり木花咲耶姫との出会いの地とされる鹿児島県笠沙町・笠沙岬。C同様に笠沙岬と伝えられる地点(御舟塚)があり、木花咲耶姫に関する伝承地も多く、邇邇藝命の陵墓と伝えられる男狭穂塚古墳、木花咲耶姫の陵墓と伝えられる女狭穂塚古墳等を擁する宮崎県西都市西都原古墳群一帯。D邇邇藝命がその地方を治めたとされ、邇邇藝命を祀る可愛(えの)山稜のある鹿児島県薩摩川内市可愛山稜と新田神社周辺等々。

 上記の事例に着目し、私は足かけ五年ほど、南九州の猿田彦の事例を追っていた時期がある。「猿田彦は南の王である」と題したその時の紀行文や仮面史の源流を巡る考察は、あまり注目されなかったが、私は今でもその時の直感は正しいと思っている。そして、謎の神・猿田彦に導かれた私の旅は、その後、予想もしなかった展開をみせるのである。

                  

[3]猿田彦に導かれた旅   
             
2000年11月――由布岳の山麓は、紅葉に染めあげられていた。窓から差し込む夕日が、あざやかに猿田彦の高い鼻を照り輝かせ、はらはらと散る落ち葉が、その赤い顔を装飾した。「旧・由布院空想の森美術館(1986〜2001)」で開催された「猿田彦大神フォーラム/九州の猿田彦」の会場風景である。
 同フォーラムは、伊勢市の猿田彦神社に本部を置く本格的な研究会で、代表世話人に神道学者の鎌田東二氏、顧問に哲学者の梅原猛氏、民俗学者の谷川健一氏を迎え、民俗学者、神話学者、神道学者、音楽家、美術家、地域史研究家などの気鋭のメンバーが世話人となり、「国つ神・猿田彦」について調査と研究を重ねている会である。私も猿田彦の仮面を多数収集・展示し、九州の猿田彦事例を追う旅を続けている過程で、フォーラム発足当初(1996)にこの会と出会い、その縁で、この年の「九州の猿田彦」が実現したのである。

 宇治土公貞明・猿田彦神社宮司(猿田彦直系の大田命の子孫)、鎌田氏、谷川顧問の他、小島櫻禮(民俗学)、小松和彦(同)等をゲストに迎えたフォーラムは、熱気に満ちていた。まず、鎌田氏、谷川氏、小松氏より、猿田彦の原郷ともいうべき九州で行うフォーラムの意義、猿田彦という神の多様性や地域性などについて概括する講演があった後、それを迎えた九州の研究家たちが、九州各地に点在する猿田彦の事例について発表を行った。それにより、@北部九州の猿田彦は、大宰府・宗像・宇佐・国東半島と連環する地域軸の上に、天照大神伝承・神武東征伝承と微妙な重複をみせながら、「火の王・水の王」の進行とともに分布する。A中部九州には阿蘇信仰に関連する事例が見られるが、分布密度は希薄である。B南九州では、霧島信仰圏の分布を中心に、薩摩半島中部から南部(古代阿多人の居住地域)、大隈半島中部(古代大隈隼人の居住地域。鵜草葺不合尊から神倭伊波礼毘古命=神武に至る伝承の分布地域)に分布がみられ、南下するほど伝承は古形を示す。C薩摩半島南端の開聞岳・野間岳をシンボルとする海洋民の伝承や南島・黒潮文化圏との連環がみられること。等々の興味深いデータが浮上した。九州の猿田彦神がその大きな実像をともなって立ち顕れた感があり、今後の猿田彦研究に重要なテーマを提供したのである。

 この時期、空想の森美術館は、経営存続が困難な局面に遭遇していた。私は、心血を注いで育て上げた、300点の仮面を展示する空間を失おうとする境目に立っていたのであった。そのことを知った鎌田東二氏と猿田彦大神フォーラムの仲間たちが、「空想の森を湯布院に残そう」というメッセージを全国に向けて発進して下さった。そしてそれに呼応してたちまち1000人を超える支援者が集まったが、金融機関からその再建案は認めてもらえず、私は仮面たちとともに湯布院を去った。荷物を積んだトラックの荷台に、山桜の花が散りかかった。

 それから、五年の月日が流れた。私は各地で「九州の民俗仮面展」を企画し、仮面たちとともに旅を続けたが、今、この宮崎・茶臼原の台地の一角に「九州民俗仮面美術館」を開館することができた。先導神・猿田彦もまた、安堵の表情を浮かべ、壁面を守っている。


[4]黒潮の海と笠沙の岬               

眼前に、紺青の東シナ海がひろがっていた。 
 沖は、厚い雲に覆われ、空と水平線との境は、渋い銀鼠と濃い藍色とが混交して、重厚な文様を描きだしていた。陸地に近づくにつれ、雲は薄くなり、その切れ間から漏れる光線が、海面を照射した。はるかな崖下には白波の打ち寄せる岩礁があり、光の矢が降り注ぐと、波は銀色に輝いた。そこが、邇邇藝命上陸伝承を伝える黒瀬の浜であった。

 記紀に記された「笠沙の岬」と想定される地点は二つある。その一つは、西都市都萬神社の近くの「御舟塚」。他の一つは上記の鹿児島県笠沙町野間半島である。前者は、市街地の中の小さな空き地にぽつんと石碑が立っているだけのはなはだ心細い史跡である。近くに木花咲耶姫を祀る都萬神社や、邇邇藝命との出会いの地・逢初川などの史跡はあるが、肝心の、西都原古墳群の築造年代が現時点では五世紀頃のものとされていて、伝承と考古学のデータが合致しない。天孫族=邇邇藝命一行が、どこから来て笠沙岬へ向かったのかは、古事記の記述では具体性を欠くが、日本書紀には、「筑紫の日向のの高千穂から笠沙御前(岬)へと向かった」となっているから、現在の鹿児島県曽於郡すなわち霧島山系の高千穂峰を中心とした地域から「笠沙」と呼ばれる地域へと向かったと考えるべきである。細部の検討を省略し、邇邇藝命の一行がまず南九州の地に第一歩を記した地点として、笠沙の岬への「漂着」と「上陸」を想定するならば、海流の関係や、その後の薩摩半島・開聞岳周辺から大隈半島・鵜戸神宮周辺地域へと展開する伝承、黒潮文化圏を往来した隼人族との関連、さらに海人族・安曇族や伊勢信仰との連環などがみえてきて、すっきりとわかりやすくなる。そしてその地点とは、やはり日本最西端の野間半島「笠沙」であり、その場所こそ、邇邇藝命と猿田彦の出会いの場ではないか。ある晴れた朝、大きく膨らんだ山桜の蕾を見て、私は急に、
――そうだ、野間半島に行ってみよう、と思ったのである。

黒瀬の浜に立ち、地元の人に会って、土地に伝わる話を聞き歩いてみると、この地域に、分厚い邇邇藝命伝承が残されていることがわかる。邇邇藝命が漂着した場所「打寄瀬」、上陸して立った地点「立瀬」、上陸の祭に舞を舞った「舞瀬」、通過した地点「神渡」などの地名が黒瀬海岸一帯に残っており、黒瀬地区には「神渡」という姓の家が現在も十数戸存在するという。さらに、黒瀬海岸から山伝いの道を登った野間岳山腹に「宮ノ山」があり、そこが、邇邇藝命が初めての宮居とした「笠沙宮」の跡だと伝えられる。照葉樹に覆われた道を登ってみると、積石式の住居跡や墳墓、ドルメンと思われる岩窟式の墳墓跡などがあり、山地民の居住地に移住してきた渡来人の住居跡であったことは想像できる。
 私は、山桜の咲きはじめた野間半島を巡り、濃密な邇邇藝命伝承に圧倒される思いだったが、肝心の笠沙という地名は古い記録には見当たらないということ、鉱山探索に関連した猿田彦伝承は残されているものの、猿田彦を祀る田中神社はすでに跡形もなく、猿田彦がこの地の人であるとする伝承は残っていないことなどの弱点も浮上してきた。半島を彩る山桜の花影とともに猿田彦は謎の時空へと遠ざかったのである。

                     

*この文は、西日本新聞宮崎県版「みやざき/民俗仮面と祭り」(2006年5月15日〜6月5日)に連載されたものです。九州の民俗仮面考「海神の仮面」のページへと続きます。、

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(SINCE.1999.5.20)