森の空想ミュージアム
九州民俗仮面美術館
山と森の精霊仮面
文・写真 高見乾司
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九州・民俗仮面と祭りへの旅 <2> 猿田彦 [1]高千穂神楽の猿田彦 古びた板壁を午後の日差しが照らしている。寂びた社殿に、ひょう、と笛の音が響く。続いてどどん、と太鼓がとどろき、しゃらん、と鈴の音が鳴る。樫や椎、楠、椨などの大樹がつくる黒々とした森に抱かれた神社で、静かに神事が始まったのだ。 舞人の麻の衣が風を呼ぶように翻ると、本殿の奥の白い御幣が、かすかに揺れた。 夜神楽は、猿田彦の「彦舞い」から始まる。 [2]南の猿田彦 猿田彦は、謎の神である。出雲で生まれ、九州で邇邇藝命一行を迎え、天鈿女命と結ばれて伊勢へ行き、その地の土公神となり、アザカの海でヒラブ貝に手を挟まれて溺れ死ぬ。 邇邇藝命一行と猿田彦との出会いの地すなわち天孫降臨伝承に関連する地点は、以下のように、南九州に点在する。
上記の事例に着目し、私は足かけ五年ほど、南九州の猿田彦の事例を追っていた時期がある。「猿田彦は南の王である」と題したその時の紀行文や仮面史の源流を巡る考察は、あまり注目されなかったが、私は今でもその時の直感は正しいと思っている。そして、謎の神・猿田彦に導かれた私の旅は、その後、予想もしなかった展開をみせるのである。 [3]猿田彦に導かれた旅 宇治土公貞明・猿田彦神社宮司(猿田彦直系の大田命の子孫)、鎌田氏、谷川顧問の他、小島櫻禮(民俗学)、小松和彦(同)等をゲストに迎えたフォーラムは、熱気に満ちていた。まず、鎌田氏、谷川氏、小松氏より、猿田彦の原郷ともいうべき九州で行うフォーラムの意義、猿田彦という神の多様性や地域性などについて概括する講演があった後、それを迎えた九州の研究家たちが、九州各地に点在する猿田彦の事例について発表を行った。それにより、@北部九州の猿田彦は、大宰府・宗像・宇佐・国東半島と連環する地域軸の上に、天照大神伝承・神武東征伝承と微妙な重複をみせながら、「火の王・水の王」の進行とともに分布する。A中部九州には阿蘇信仰に関連する事例が見られるが、分布密度は希薄である。B南九州では、霧島信仰圏の分布を中心に、薩摩半島中部から南部(古代阿多人の居住地域)、大隈半島中部(古代大隈隼人の居住地域。鵜草葺不合尊から神倭伊波礼毘古命=神武に至る伝承の分布地域)に分布がみられ、南下するほど伝承は古形を示す。C薩摩半島南端の開聞岳・野間岳をシンボルとする海洋民の伝承や南島・黒潮文化圏との連環がみられること。等々の興味深いデータが浮上した。九州の猿田彦神がその大きな実像をともなって立ち顕れた感があり、今後の猿田彦研究に重要なテーマを提供したのである。 この時期、空想の森美術館は、経営存続が困難な局面に遭遇していた。私は、心血を注いで育て上げた、300点の仮面を展示する空間を失おうとする境目に立っていたのであった。そのことを知った鎌田東二氏と猿田彦大神フォーラムの仲間たちが、「空想の森を湯布院に残そう」というメッセージを全国に向けて発進して下さった。そしてそれに呼応してたちまち1000人を超える支援者が集まったが、金融機関からその再建案は認めてもらえず、私は仮面たちとともに湯布院を去った。荷物を積んだトラックの荷台に、山桜の花が散りかかった。
それから、五年の月日が流れた。私は各地で「九州の民俗仮面展」を企画し、仮面たちとともに旅を続けたが、今、この宮崎・茶臼原の台地の一角に「九州民俗仮面美術館」を開館することができた。先導神・猿田彦もまた、安堵の表情を浮かべ、壁面を守っている。 [4]黒潮の海と笠沙の岬 眼前に、紺青の東シナ海がひろがっていた。 記紀に記された「笠沙の岬」と想定される地点は二つある。その一つは、西都市都萬神社の近くの「御舟塚」。他の一つは上記の鹿児島県笠沙町野間半島である。前者は、市街地の中の小さな空き地にぽつんと石碑が立っているだけのはなはだ心細い史跡である。近くに木花咲耶姫を祀る都萬神社や、邇邇藝命との出会いの地・逢初川などの史跡はあるが、肝心の、西都原古墳群の築造年代が現時点では五世紀頃のものとされていて、伝承と考古学のデータが合致しない。天孫族=邇邇藝命一行が、どこから来て笠沙岬へ向かったのかは、古事記の記述では具体性を欠くが、日本書紀には、「筑紫の日向の襲の高千穂から笠沙御前(岬)へと向かった」となっているから、現在の鹿児島県曽於郡すなわち霧島山系の高千穂峰を中心とした地域から「笠沙」と呼ばれる地域へと向かったと考えるべきである。細部の検討を省略し、邇邇藝命の一行がまず南九州の地に第一歩を記した地点として、笠沙の岬への「漂着」と「上陸」を想定するならば、海流の関係や、その後の薩摩半島・開聞岳周辺から大隈半島・鵜戸神宮周辺地域へと展開する伝承、黒潮文化圏を往来した隼人族との関連、さらに海人族・安曇族や伊勢信仰との連環などがみえてきて、すっきりとわかりやすくなる。そしてその地点とは、やはり日本最西端の野間半島「笠沙」であり、その場所こそ、邇邇藝命と猿田彦の出会いの場ではないか。ある晴れた朝、大きく膨らんだ山桜の蕾を見て、私は急に、 黒瀬の浜に立ち、地元の人に会って、土地に伝わる話を聞き歩いてみると、この地域に、分厚い邇邇藝命伝承が残されていることがわかる。邇邇藝命が漂着した場所「打寄瀬」、上陸して立った地点「立瀬」、上陸の祭に舞を舞った「舞瀬」、通過した地点「神渡」などの地名が黒瀬海岸一帯に残っており、黒瀬地区には「神渡」という姓の家が現在も十数戸存在するという。さらに、黒瀬海岸から山伝いの道を登った野間岳山腹に「宮ノ山」があり、そこが、邇邇藝命が初めての宮居とした「笠沙宮」の跡だと伝えられる。照葉樹に覆われた道を登ってみると、積石式の住居跡や墳墓、ドルメンと思われる岩窟式の墳墓跡などがあり、山地民の居住地に移住してきた渡来人の住居跡であったことは想像できる。 |
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(SINCE.1999.5.20)