インターネット空想の森美術館
☆森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館☆
漂泊する仮面
森の空想通信
<23>
有楽椿(うらくつばき)
隣家の当山さんから、有楽椿を一枝いただいた。うすべに色の端麗な椿である。
有楽椿は、日本原産の藪椿と中国から渡来した椿との交雑種といわれ、豊臣秀吉、
千利休時代には茶花として珍重され、織田信長の末弟、織田有楽斎が茶室「如庵」の
路地に植えたことからその名がついた。
織田有楽斎は、本能寺の変の後、秀吉に仕え、秀吉没後は徳川方に付き、関が原の
戦いの勲功により大和三万石の知行を得るが、大阪夏の陣の前に京都東山へ隠棲した。
茶の湯は利休に学び、のちに「有楽流」と呼ばれる一派をひらいた。茶室如庵で、
その変転の人生を回想しながら過ごす有楽斎の目を、この淡い色をした椿が慰めたこ
とであろう。
西都市尾八重地区は、米良山系の一角にある小村である。かつては秘境・米良荘と
呼ばれた僻遠の地で、南北朝時代、この地へ落ち延びてきた南朝の皇子「懐良(かね
なが)親王」の伝説を伝える。北朝に敗れた後醍醐天皇は第七皇子懐良親王に南朝再
興の夢を託し、九州へと送ったのである。親王に随従してきた都の舞人が伝えた神楽
が米良神楽の源流とされ、その流れをくむ尾八重神楽も伝わる。
尾八重地区は、中世の山城を中心に形成された集落形態を今にとどめる山岳の村で
ある。村には、有楽椿が点在し、なかでも樅木尾の椿は、幹回り2、4メートル樹高10
メートルにも達する見事なものである。推定樹齢は600年。早春の陽を浴びて大樹一杯
に花を咲かせているこの木の前に立つと、有楽椿は中世の武人が持ち込んできたもの
であるという村人の話が虚構ではないということが実感できる。
当山さんは、明治の中期ごろ、茶臼原の台地に石井十次と一緒に入植し、初期友愛
社の仕事を支えた開拓者の三代目である。現在は、九州山地に通う山の仕事師だ。有
楽椿は、米良の椿の実を拾ってきて育てた。庭には、山採りの蘭や花木が植えられ、
四季を通じて花を咲かせる。
昨春、東京・有楽町(有楽町には織田有楽斎の屋敷があった)に隣接する画廊で九
州の仮面に絵画・古陶磁を添えた展覧会を企画した時、私は当山さんの庭からいただ
いた有楽椿を、薩摩・苗代川焼の「黒もん」と呼ばれる古い壷に活けた。都市のギャ
ラリー空間に、九州山地の風が吹き抜けた。
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椿一番館ギャラリー
九州山地・米良山系の一角に位置する美しい村、尾八重(おはえ)の中心部に、藪
椿の大樹がある。幹回りは、大人が二人がかりで抱えるほどもあり、高さは20メートル
を越える。早春、真っ赤な落花が、村の道を埋める。
藪椿の大木に寄り沿うように、白い山茶花の木がある。これも巨樹である。京都・
詩仙堂の樹齢千年といわれる山茶花を以前見たことがあるが、この尾八重のものはそ
れをはるかに上回る。椿と山茶花とが数本ずつ、それに楠と椨が混ざって、小さな森
を形成している。樹下には、磐座(いわくら)の名残だと思われる巨石群があって、
真っ白な御幣が奉げられた祠がある。
村の要ともいうべき位置にあるこの椿の大木を背にした一軒の空家があった。それ
は昔の郵便局だったが、村人の大半が去ったあと、用途をなくして、倉庫代わりにな
っていた。その空家を半年がかりで改装し、展示空間とした。作業は、市民ボランティ
アグループ「尾八重エコプロジェクト」と村の住人などが行った。荷物を片付け、壁
を塗り、床板を補強し、手製の照明器具に明かりを入れると、たちまちそこは素敵な
民家ギャラリーとなったのである。
村の人たちも集まり、酒を汲み交わす交流の場ともなった。家を守り、村の歴史を
見守り続けてきた椿の大樹にちなみ、「椿一番館ギャラリー」と名づけた。ここから、
交流と村の再生が始まってほしいという願いも込められた。私は1986年から15
年にわたり「由布院空想の森美術館」を運営したが、目指したものは、地域とアート
の協調であった。私は湯布院で見た夢を、いまだに追い続けている。
空想の森美術館が開館して1年目の頃、私は、町の植木屋で一本の藪椿を買った。
枝一杯に花をつけたその姿に一目ぼれしたのである。椿は、その年は、盛大に花を咲
かせたが、翌年、葉がしおれ、急速に弱った。無理な移植がたたっのだ。小枝を伐り
落としたり、根に落ち葉を被せたり、水をやったり、数年にわたって私は世話を焼き
続けた。すると木は勢いを回復し、再び花を咲かせた。2001年5月――空想の森
を去る時、私はこの椿に向かって、さよなら、時々会いに来るからね、と言って別れ
た。今も、あの椿は、真っ赤な花を咲かせているだろうか。
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漂泊者の残像
昨年の夏、九州山地に残る美しい村「尾八重」の集落で、「九州の民俗仮面展」と
名づけた仮面の展示をした。古い民家を改装した「椿一番館ギャラリー」に、南北朝
から室町、江戸初期ごろの仮面80点を展示したのだ。神楽や呪術的祭祀、民間の祭
りなどに使用された仮面を飾った空間は、たちまち古代と現代を結ぶ異次元空間とな
り、遠い神楽囃子に似た響きさえ聞こえた。
その展覧会の初日に、その男の人は訪ねてきた。昔の農具である「箕(み)」を売り
にきたのだ。私はすぐに、
―山嵩(サンカ)の末裔ではないか…
と思った。それとなく訊いてみると、その人は、先祖代々、この仕事を続けていると
いう。そして九州山地の村こそ、大事な得意先なのだという。山嵩とは、山に依拠し、
籠や箕を作ることを生業とした漂泊民のことである。山から里へ下り、また里から他
の土地へ、そして山へと移動をくり返す彼らは、縄文の系譜をひく狩猟・採集の民、
木地師等の工芸集団、傀儡子等の芸能集団などとの関連がみられる非定住民で、昭和
中期ごろまではその存在が確認されたが、今はすでに滅び去った幻の民だとされてい
る。名前や住所を聞き、カメラを持ち出した私に警戒感を示して、その人はすぐに立
ち去ったが、箕を肩にしたその姿は、あざ
やかな残像となって残った。
南北朝伝説を秘め、優美な尾八重神楽を伝える米良山中の尾八重地区は、中世の山
城を中心に形成された山岳の村である。私もまた、ここに似た大分県の山間の村で育
った。私が小学校四年の春、家族は村を下った。転々と移り住む家が、その時々の私
の家であり、引っ越すたびに、そこにあったものを片付け、壁を塗り、絵画や古い道
具類などを展示して、居心地の良い空間を創り出す。次第に私はその技術を身につけ
た。300点の仮面を収集し、それを展示した「由布院空想の森美術館」はその会心
作だったが、銀行によって清算の対象とされ、すでに幻の美術館となってしまった。
いつか私は、あの人の住む村を訪ねようと思う。非定住民であった彼らが、どのよ
うな「家」に住んでいるのか、箕作りを職業とし、みずから「旅の者(もん)」と表
現する彼等の仲間は21世紀の今日も実在するのか…それらのことを確かめたいと思
う。
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漂泊する仮面
横を向いた不思議な仮面に出会ったのは、今から20年ほども前のことだ。
旅先の骨董屋で見つけたその仮面は、鹿児島県大隈半島の神社に伝わっていたもの
だという。風化作用によって一個のオブジェと化したようなその面は、真一文字に引
き結んだ口の端に小さな牙があることから、「鬼面」の一種だと思われた。右眼は斜
め前方をにらみ、左眼は大きく崩れ落ちて仮面の眼としての機能を失っていた。そし
て、そのぽっかりと空いた空洞の奥に、見知らぬ世界が広がっていた。この瞬間、私
は、「仮面史探訪」という異界への旅の入り口に立っていたのである。
湯布院の町の古い街道沿いの空家を改装して小さな古道具の店を開店してすぐのころ
であった。この町に住みついた私が、ようやく自立し、古い布や古伊万里の食器、古
家具や民俗資料などを収集する旅を始めたのがこの時期である。かつて「湯の坪街道」
と呼ばれたその地域は、通る人も稀な寂れた商店街であった。
「古民藝」「古布」「生活骨董」などというジャンルが開拓され、私の集めたもの
が売れはじめた。旧街道沿いの町にも客が増えた。私は、近所の商店の改造計画や町
並みのデザイン、看板作り、植栽計画などを語り合う会に参加した。それが「湯の坪
街道デザイン会議」であった。ここから、私は九州を巡る仕入れの旅へと出かけ、そ
してまたこの町と帰ってきた。子どもの頃故郷の村を離れ、転居を繰り返した私は、
ようやく安住の地を得たと思っていた。
横向きの仮面を入手したことをきっかけとして、集まった仮面が100点を越えた。
田舎の骨董屋や古美術のオークション、コレクターなどを訪ね、少しずつ買い集めた
のである。調べてみると、仮面たちには不幸な過去があることがわかった。明治の神
仏分離令、修験道廃止令、廃仏毀釈などの荒波と、第2次世界大戦の敗戦による宗教
感の喪失などにより、捨てられたり、売られたり、あるものは盗難にあったりして、
神社や村の旧家などから流出したのである。
数百年の間、日本の伝統文化を伝え続けてきた仮面が、古美術店の店先や好事家の
間などを転々とする商品となり、漂泊していた。私の収集に拍車がかかった。そのこ
とが「由布院空想の森美術館」の設立へとつながるとは、意外な展開であった。
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仮面文化の十字路
私がはじめて入手した一個の仮面―横を向いた鬼面―は、「邪視の面」ではないか、
と民俗学者の谷川健一氏はいう。古代、人の眼は呪力を持つと考えられた。邪視もま
た、呪力を持つ眼だったのである。
古代中国の「鬼」とは、病気や事故、戦争などで死んだ人の霊が地にこもり、悪霊
となった「悪鬼」であり、長寿を全うして死んだ部族の長老や武将などが一族や村を
守る祖先神となった「善鬼」であった。善鬼は、強い呪力によって悪鬼・悪霊を鎮め
たのである。善鬼が悪鬼を追う「追儺(ついな)」の祭りは、中国からアジアへ分布
し、日本へも伝わった。
横を向いた不思議な仮面に出会ったことから、仮面史の源流を探り、神楽の起源を
訪ねて九州の祭りを巡る私の旅は始まった。仮面の収集も100点に達した。注意深
く分類してみると、それらの仮面は、中国・アジアの仮面文化と密接に関連し、九州
の古代国家生成の物語「日向神話」と関連する資料であり、日本の伝統芸能である能
・狂言の発生以前の形態をとどめ、縄文文化と弥生文化の間に横たわる「仮面史の空
白期」という謎を埋める資料であることなどがわかってきた。私は、アジアと九州・
日本を結ぶ「仮面文化の十字路」に立っていたのである。
コレクターT氏が現われたのは、このころのことである。T氏は、私の集めた仮面
を売ってほしいと言った。私は、これは九州の神々であり、不幸な経緯によって流出
し、漂泊を続けていたものだから、九州に残すべきであり、売買の対象にはできない、
と断った。するとT氏は、では、自分が資金を提供するから、それを展示する美術館
を共同で造ろうではではないか、と言った。これが、一気に「由布院空想の森美術館」
の設立へとつながっていった。湯の坪街道の、小さな古道具屋の二階の部屋で交わさ
れた、二人の契約であった。
1986年4月――由布岳の山麓を山桜の花が彩っていた。空想の森美術館の建設
工事が始まって一週間目のことだ。オーナーのT氏が急死し、資金が消えた。分解の
危機に直面した美術館の建設を私が事業の代表者となって引き継ぎ、仮面を展示の中
核に据えた。九州の仮面たちが私と仲間たちを救ってくれたのである。T氏は、少し
斜めに視線を動かす癖のある人であった。
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山と森の神々
横を向いた不思議な鬼の面と、それに連なる100点の仮面を私に提供してくれた
のは、白髪白髭の老人であった。私はそのころ、湯布院の町で小さな古道具の店を開
店していて、各地へ出掛ける収集の旅を続けていた。たまたま通りがかった旅先の骨
董屋の店先にあった仮面を手に取り、おそるおそる値段を聞くと、店主が、
―その面は貴方に進呈しよう
と言ったのである。老人は、一生をかけて古美術の収集を続けてきたが、老齢に達し
限界を見極めたので引退することを決し、小さな骨董屋を開いてコレクションを売却
しているのだと言った。そして、各地の古美術のオークションなどで、私が木の神像
や狛犬、木地物の器などを買い集めるのを見て、自分の若い頃に似た集め方をする若
者だ、と思っていたというのであった。
―私の夢を貴方に託すことにしよう…
老人の生涯をかけた仮面コレクションが、こうして私の目の前に現われた。
1986年8月―「由布院空想の森美術館」はオーナーの急死というアクシデント
を乗り越えて開館した。私は美術館長と経営のトップというふたつの役割を務めるこ
ととなったが、それを「天の声」と解釈し、運営にあたった。「九州の土俗面(のち
に民俗仮面と改称)」と名づけた100点の仮面を展示の中核とし、現代美術の作家
との連係による「絵画室」、写真ミュージアム「フォト館」、九州の古布を展示する
「木綿資料館」、民具や古家具、九州の古陶磁などを集めた「日本の道具館」、絶版
になった文庫本コレクションによる「絶版文庫図書館」などを周囲に配置した。北向
きの窓からは由布岳の原生林が見え、南向きの窓からは、湯布院の町並みが望まれた。
外部の景観を借景として室内空間に取り込んだこの木造の美術館に仮面たちはよく似
合った。時折、神楽歌に似た響きさえ聞こえてきた。漂泊を続けてきた山と森の神々
たちが、居心地の良い場所に納まったのであった。
謎の老人とは、九州山地の村や祭りの場などで時々会い、仮面を譲ってもらったり、
仮面にまつわる話を聞いたりした。仮面の収集が300点に達した時、老人は、これ
で私の役割は終わった、と言って、山中に消えた。空想の森美術館開館後、5年を過
ぎたころであった。私は、あの老人は山の神様の使いだったのだろう、と思っている。
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王の仮面
先年、鹿児島県国分市の上野原遺跡から、縄文時代早期にこの地方で定住生活が開
始されていたことを示す住居跡や土器などが発掘され、従来の縄文史観を書き変えた。
そこに立ち、錦江湾に浮かぶ桜島とその向こうに広がる黒潮の海を望み、眼を転じて
北方に連なる霧島山系の山々を眺めれば、古代南九州の文化風土の豊かさがわかる。
南九州には、「王面」と呼ばれる仮面群がある。その多くは神社に奉納され、柱や
鴨居、壁面などに飾られ、神域を守護した。祭りの行列を先導するものや、神社のご
神体として本殿に安置されているものなどもある。いずれも、つよい呪力を持つ。こ
れらの王面は、神社の創建とともに制作されたもの、その後、信者等によって奉納さ
れたと思われるものなどがあり、鎌倉、南北朝、室町ごろの年号の入った仮面が分布
することから、民間に伝承される仮面の最も古い層に属するものと考えられている。
「王」の観念は、古代中国では早い時期に発生していたようである。殷時代から春
秋戦国時代ごろの遺跡から、布や黄金の仮面を被った王の遺骨が発掘されていること
から、王と仮面の関係がうかがえる。この場合の仮面は、死者の霊を鎮め、死者を守
る僻邪(へきじゃ)の面である。古代の王とは、天界を支配する天帝と地上を支配す
る地神の間に立ち、天の声、地神の意志を伝える霊性をそなえたシャーマンであった。
古代中国の王の観念は、ニニギノミコトの天孫降臨伝説からカムヤマトイワレヒコ
ノミコト(神武)の東征伝説へと連なる古代南九州神話(日向神話)の時代に流入し
たと考えられる。そのことを示唆する五色の仮面などが現存する。
古代南九州とは、現在の熊本県南部と鹿児島県、宮崎県を含む広大な地域で、「古
代隼人文化圏」とも呼ばれる。隼人とは南風(ハヤ)に乗ってきた人=ハヤヒトを意
味する。黒潮文化圏を往来した南九州先住の民であろう。ニニギ一族=天孫族と隼人
族は熾烈な戦いを繰り広げるが、一部は融合しヤマトへ至り、一部は在地勢力として
残存する。隼人族もまたつよい呪力をもつ民族として天孫族からは恐れられ、独自の
仮面文化も持ち合わせた。王面と隼人の仮面の系譜を探れば、日本の基層文化である
「縄文」の仮面文化と渡来の仮面文化の接点を見出すことができるかもしれない。
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道化
「ヒョットコ」「猿面」「狐面」「河童面」など、神楽に登場し、ひょうきんな役
割を演じ、時には鋭い風刺精神も発揮する仮面がある。ヒョットコは古代タタラ製鉄
の火を司る火男であり、猿は山の神の使い、狐は稲荷神の使い、河童は水神の使いで
ある。これらの仮面を私は「道化」と分類した。新しい文化(稲と鉄)を持ち、流入
してきた渡来の民族に支配されながらも、先住の民としての誇りと抵抗精神を失わな
い、山の民や縄文人の末裔の残像をそこに見たのである。それは、滑稽さと少しの勇
敢さと一抹の哀れさを合わせ持った仮面であった。
300点の「九州の民俗仮面」を収集し、展示の中核としたことで、「由布院空想
の森美術館」は地域文化とのかかわりと町づくりとの協調をテーマとした美術館とし
て、方向性を獲得し、来館者も増えた。仮面の用途と起源を訪ね、祭りの源流を訪ね
て九州を巡る私の旅も続いた。
一方、湯布院の町には観光客があふれ、開発ブームが到来した。鄙びた通りだった
湯の坪街道には土産物屋が建ち並び、個人美術館ブームに乗じたファンシーグッズを
並べた美術館や贋作を展示した美術館などが出現した。空想の森美術館の開館10周
年を過ぎたころのことである。私は、「博多発湯布院行き」と名づけられた特急列車
「ゆふいんの森号」の列車ギャラリーに連結する湯布院駅アートホールの運営を中核
とし、町内で誠実な運営を続ける美術館やギャラリーなどの情報ネットワークシステ
ムを確立すること、それらの施設が連係したアートフェスティバルの提案など、懸命
に湯布院観光の俗化現象とアートのビジネス化現象に対抗した。乱開発現象に抗議す
る展覧会「メールアート展」や日出生台高原へのアメリカ軍の実弾演習場移転に反対
する企画展なども行った。それは、「音楽が響き美術館や静かな宿泊施設群が醸し出
す上質の観光地」という当初の「湯布院の町づくり」が目指した方向性の上に立つ美
術館として、発言と行動を控えることのできない問題であった。
皮肉なことに、これらの行動を続けるうち、空想の森美術館は過激な言動と体制批
判を繰り返す「反体制美術館」という位置に置かれ、孤立していった。私は、いつの
まにか、湯布院という舞台の上で踊る「道化」と化してしまっていたのである。
<31>
空想の森、旅へ
四囲を高い山に囲まれ、風景は藍色に霞み、音楽が流れ、町を観光客が散策する不思
議な町・湯布院。かつては「神様が置き忘れた宝石のような町」と形容されたこともあ
る町。この町で、私は闘病期間の3年間を含め、約28年間を過ごした。そして多くの
ことを学んだ。
「町づくり」という運動体の中に飛び込み、その理論と実践を体験したこと。国をあげ
て経済的発展と都市化の方向へ走っていた時期、自然と協調した地域づくりという主張
は、あざやかな思想であった。古美術・古民芸と民俗学を独習し、日本列島の基層文化
に触れたこと。美術館の運営と多くの人との出会い。いずれも、私にとって貴重な学習
の現場であった。
仮面史を巡る旅を続け、縄文の仮面文化と弥生以降の仮面文化の間に横たわる千年の
空白期をテーマとした「火の神・山の神」(海鳥社)、南九州に分布する豊饒の神とし
ての田の神と女面の文化、境の神・猿田彦の伝承を追った「豊饒の神・境の神」(同)
の2冊をはじめ、数冊の著作が生まれことも、嬉しい収穫であった。
一方で、町は混迷の度合いを深めた。「バブル」と呼ばれた時期も過ぎ、米軍の実弾
演習場移転問題で町は二分され、美術館の運営も次第に厳しさを増していた。空想の森
美術館の開館15年が近づく頃のことである。私は、九州を巡る旅に出掛ける回数が多
くなった。山深い里で、淡々と、祭りを伝承し続け、小雪の舞い込む御神屋で神楽を舞
う村人の誇り高き姿に、感動したのである。それは、俗化の速度を早め、経済の原理に
組みひしがれ、誇りを失ってゆく湯布院観光の対極にある美しさであった。相次いで提
出した経営改革案は採用にならず、この時期、私は美術館運営の終局を予感していたし、
亡命先を求める戦国時代の城主のような心境で旅を続けていた。
こうして、空想の森美術館の終幕はやってきた。「空想の森美術館を湯布院に残そう」
という呼びかけに応じて、たちまち1000人を超える賛同者が寄金の申し入れをして
下さったが、それも銀行に認めてはもらえず、私は300点の仮面を背負って、「空想
の森美術館」とともに旅に出ることとなったのである。仮面たちの原郷である「南の地」
のどこかで、新しい空想の森の出発があることを確信しながら。
<32>
対話する仮面
湯布院から宮崎へ――空想の森美術館の閉館とともに再び漂泊の旅に出た300点
の仮面は、宮崎県西都市の「森の空想ミュージアム/空想工房」と名づけた私の部屋
でダンボールの箱に入れられたまま、およそニ年の時を過ごした。私は、この際だか
ら仮面たちとじっくり会話を交わすつもりだったが、仮面たちはひっそりとして、と
くに何かを語りかけてくるというふうでもなかった。
驚いたのは、税務署がやってきた時だ。古今東西の例をみるまでもなく、徴税史は
容赦なく、その実務を遂行する。私は、税の設定(それは空想の森美術館の建物と土
地を売却した分の消費税に相当する滞納分)や徴収した税金の使途について、異議を
申し立てる言葉とその根拠を持ち合わせているが、今回はそれを棚上げし、当日の経
緯のみを記す。彼等は、すばやく100点の仮面を差し押さえ、写真にとり、箱詰め
の作業をはじめた。私はそれに立会いながら、一個ずつの仮面に、
―必ず帰って来いよ…
と語りかけた。すると仮面たちは、
―わかった。必ずここへ帰って来る。
と応えたのである。税務署の担当者が、その声を聞いたのかどうか。要約していえば、
仮面は、差し押さえの手続きをされただけで、私の手元に置かれたのである。銀座の
画廊「飛鳥」での仮面展に応援出品してほしいという依頼を受け、荷造りをした時に
も似たようなことがあった。選抜した10点の仮面を部屋に並べ、
―いざ、出陣。と声をかけたら、彼等は、
―おう。
と勇ましく応えたのだ。その展覧会で、日本民藝館の学芸員・尾久彰三氏の眼にとま
り、同館での「九州の民俗仮面展」が実現したのである。東京へ向けて旅立つ時、盛
大な鬨の声があがったことはいうまでもない。
東京での展覧会に先立ち、私は九州山地の美しい村・尾八重の「椿一番館ギャラリ
ー」と照葉樹林文化の町・綾町のギャラリー「雑木林」で同名の展覧会を行った。九
州の山の神様に挨拶をして東京へとでかけよう、という心づもりであった。この時、
たしかに、仮面たちと重畳たる九州の山々との間に響き合う言葉を、私は聞いた。
<33>
九州の民俗仮面展
湯布院から宮崎「森の空想ミュージアム」へ、そして九州山地の村から綾町のギャラ
リーを経て東京へ――まるで戦国の落ち武者のような漂泊を続ける仮面たちは、幾度
かの危機をしのぎながら旅を続けた。税務署に差し押さえられた100点の仮面も、
無事救出された。日本民藝館での「九州の民俗仮面展」へ向けて出発する仮面たちの
表情は、勇壮かつ賑やかであった。
展示の助っ人として、甥の高見俊之に九州から出てきてもらった。彼は、空想の森
美術館の最終局面まで、よく裏方の仕事を務めてくれ、仮面のデータ整理などもして
くれた。私は彼と一緒に、かつての空想の森の壁面を再現できることが嬉しかった。
民藝館の学芸員・尾久彰三氏をはじめ、スタッフの皆さんも喜んで手伝って下さった。
尾久さんは、7年ほど前、空想の森美術館の仮面たちの前に立ち、一日中動かずに見
て下さったという縁がある。尾久氏は、仮面たちとの再会を心から喜んでおられた。
展示は、神楽等の演劇に使われた「演劇仮面」、神社に奉納され、神域を守護した
「信仰仮面/王面」、道ひらきと境の神「猿田彦/鼻高面」、神がかりして神を招く
「女面」、能・狂言等の演劇の起源を物語る「翁面」、先住民の残像「道化」という
ふうに、六つのグループに分け、広い民藝館の空間に配置した。展示が進むにつれ、
会場に九州の山の気配が満ちてきた。尾久さんが、
―神聖な響きのようなものが聞こえる…
とおっしゃった。この日、会場にいたものは皆同じような感じを抱いたようであった。
展覧会が始まると、多くの客や知人・友人が訪ねて来てくれた。私は毎日、会場に
通った。仮面たちは、晴れの舞台を得て、生き生きと輝いてみえた。そして観客は、
「九州の神々の声を聞いた」「日本人の魂に触れた思いがする」「ぜひとも九州に残
すべき収集品である」などと様々な反応を示したのである。仮面と観客との対話が始
まっていた。これこそ、私が確認したかったことである。この300点の「九州の民
俗仮面」は、日本の古代史、芸能史と関連する資料であり、歴史の証言者として人々
に語りかける力を持ち、しかも美しい美術品であるということ。これが私が20年を
かけて集め、整理し、考え続けてきたことの答である。そして次代へと手渡す渾身の
コレクションの「いのち」なのである。
■この続き「森の空想通信<34>以降」(西日本新聞連載分)
は「森の空想ギャラリー」のページから「森の空想アート塾」の
ページへ、さらに「自然布を織る」のページへと続き、このペー
ジへと帰ってきます。
森の空想通信
<42>
小さき祭り
峠道にかかる三叉路には、「鹿の角笛」という標識がかかっている。小さな峠
を越えるころ、「へっぴり越し」という道しるべに出会う。峠を越え、曲がりく
ねった山道を下って行くと、「つむじ曲がり」という看板が迎えてくれる。これ
らの愉快な道案内は、宮崎県木城町石河内にある「木城えほんの郷(さと)」へ
とわれわれを導いてくれる木製の案内板なのである。
「つむじ曲がり」と名づけられた曲がり角で、視界が開ける。眼下に、深緑色
の水を湛え、大きく蛇行しながら流れ下る小丸川が見える。右岸に見えるのが
「えほんの郷」である。左岸の丘陵部に武者小路実篤が大正7年(1918)に
拓いた「日向新しき村」がある。その向こうに重畳と連なる山脈は、九州脊梁山
地の山々である。椎葉を源流とする小丸川は延々と流れ下り、ここで向きを変え、
日向灘へと注ぐ。
暖かな春の陽射しを浴びながら、「えほんの郷」でゆっくりと本を読む。ここ
は子どものための森の図書館である。童心に帰り、深い山脈を眺め、木立を渡っ
てくる風に吹かれて過ごす一日は、格別である。
本を開きながら、「新しき村」のことも気にかかる。開村からほぼ一世紀を経
て、今ではニ組の夫婦だけが住み、時折、気まぐれに迷い込む観光客や、自然主
義志向の若者などを迎えているという村。開拓者たちが当初目指したユートピア
づくりの夢は、すでにかたちを変えているが、静かに土を耕し、読書と書画を楽
しむ人が住んでいるという姿に、理想郷づくりの精神は受け継がれているいう見
方もできる。
ある日、峠を越えて行くと、道が川辺にさしかかる所に幟旗が立っていた。祭
りの日であった。旗は、人々を川向こうの道へと誘導していた。私も参詣者に混
じって歩いた。ニキロほどもある崖の道である。すれ違うたびに人と人とが身体
を横にして道を譲る。崖下は小丸川の急流である。この険しい道を登りつめた所
に「滝の妙見神社」があり、神楽が奉納されていた。神社の裏手に、細い水流が
落下する美しい滝があった。小さな祭りは、滝の水神を祀るものであった。新し
き村の住人・松田省吾さんが、裏方に混じって文字を書いておられた。参拝者の
名を記したその紙が、古い社の板壁や鴨居に張られていった。それは、神が宿る
御幣のように、山風に揺れた。
<43>
鹿祭りの里
風に乗って、笛の音が聞こえた。
その音は、峠の向こうから聞こえてくるようでもあったし、渓谷を覆う照葉樹
の森から届くようにも思えた。雄鹿が雌鹿を呼ぶ声に似ていた。私は猟師が吹く
鹿笛を連想したが、それは、山里に伝わる神楽の笛だったかもしれない。
昔、縄文時代の狩人たちは、鹿笛をつくった。発情期に雄鹿が鳴く声に似せた
音で、雌鹿を呼び、仕留めたのである。鹿笛は、長崎県対馬の遺跡や青森県の遺
跡などに出土例があり、全国的な分布がみられる。大分県九重町飯田高原にある
町立歴史民俗資料館には、近代まで地元の猟師が使っていたという鹿笛が保存さ
れている。晩年まで鹿を追って暮らした私の祖父も、持っていた。その音は、や
さしくも哀しみを帯びて聞こえる。
宮崎県木城町中之又地区は、米良山系の東端に位置する。北は椎葉の山脈に連
なり、東部は日向市に近接する。椎葉を源流とする清流小丸川の中流部にあたる。
中之又とは、七つの谷が集まる所を意味し、その谷が一つに合流して、小丸川に
注ぐのである。
中之又は、古式の鹿刈りを伝える村である。鹿狩りは、数人の熟練した猟師が、
シガキ(鹿垣=猪垣)と呼ばれる鹿の通り道へと獲物を追いこみ、それを仕留め
る。鹿の逃げ道や逃げる方角などには、ある種の法則があり、それを天文の知識
や修験山伏の呪法などをもとに体系化したものが鹿狩りの作法であり猟師の秘伝
であるという。
中之又地区に伝わる「鹿倉(かくら)祭り」は、この鹿狩りの作法が修験道や
山の神祭りと習合し、伝えられたものである。鹿の角と鹿倉面が奉納された山中
の鹿倉神社に、種々の御幣が奉げられたあと、鹿倉面をつけた「鹿倉舞い」が奉
納される。鹿倉=カクラとは、狩り倉を意味する。山の神が支配する狩りの領域
である。鹿倉舞いは、中之又神社の大祭の折りにも、神楽33番の演目の一つと
して奉納される。
中之又の中心部から米良へと向かう山道の途中に小さな祠がある。そこは、三
方が断崖になっており、深い渓谷を挟んで、前方には黒々とした山が迫る。祠の
裏手の一坪ほどの平地に立つと、崖の下で合流する二つの谷と、天空を通り過ぎ
る光が見える。私が笛の音を聞いたのは、この「神の座=鹿倉」にもっとも近い
場所であった。
<44>
春神楽
鹿児島県大隈半島の南端、佐多岬の岩礁で、釣りをしたことがある。九州の祭
りを訪ねる旅の途上であった。太平洋の荒波が岩を洗う磯で、朝から昼過ぎまで
糸を垂らしたが、一匹も釣れなかった。私を案内してくれた釣り人は、私にそこ
で釣るようにと指定したまま、自分は他の場所で次々と釣り上げていた。私は、
頃合いを見計らって、自分の意思でポイントを選び、岩に付いていた虫を採り、
針に付けて、放り込んだら、たちまち赤い大きな魚がかかった。はじめての海釣
りでの獲物は、金眼鯛に似た大物であった。渓流釣りの勘があたったのか、まぐ
れ当たりだったのかはいまだに判然としない。
宮崎県北郷町潮嶽神社の春祭りでは、魚釣りの神楽が奉納される。潮嶽神社は、
海幸彦を祀る神社で、山幸彦との戦いに破れた海幸彦が、この地に漂着し、晩年
をこの地で過ごしたことに由来するという。魚釣り舞は、能面の「若男」の面に
似た美しい仮面をつけ、釣り竿を持った舞人が、優美に舞う。これが海幸彦の舞
いであろうか。
宮崎県日南市宮浦神楽の魚釣り舞は、若男の面をつけた少年が、右手に釣り竿
を持ち、左手を目の前でぐるぐると回し、渦巻きを起こすような身振りをしなが
ら舞う。海神の呪力を思わせる所作である。
南九州の春神楽は、海沿いの町や村、宮崎市周辺や霧島山系北麓の平野部など
で盛んに舞われる。海沿いの神楽を「海の神楽」、平野部の神楽を「里の神楽」
と分類することも可能である。里の神楽には、歪んだ顔の翁面をつけた田の神が、
滑稽な所作をし、農作業の手順を演じ、子孫繁栄を祈願する田の神舞が奉納され
る。歪んだ顔の翁とは、先住民の代表としての土地神であろう。田の神は、農事
を占い、豊作を予言し、村やクニの繁栄を寿ぐのである。それは、新しい文化を
持って流入し、この地方を支配することとなった渡来の民に対し、服属を誓う儀
礼でもあった。
服属儀礼としての海幸彦の舞や田の神舞などがやがて芸能化し、田楽や申楽を
生み、能・狂言などへと進化してゆく。九州山地の「山の神楽」が岩戸神話を題
材とし、古代国家成立の物語を演じながら演劇の古形をとどめていることと対比
しながらみれば、春の神楽もまたおおいなる謎を秘めていることがわかるのであ
る。
「九州の民俗仮面」展
とき 2003年10月7日―12月20日
ところ 日本民藝館(東京都目黒区駒場)
【日本民藝館での展示より】
日本の美術史に「民藝」という美の論理を確立した先駆者・柳宗悦によって創設された「日本民藝館」は、現在も日本美の本質を求めて収集・展示・研究活動を続けているすぐれたミュージアムである。この日本民藝館に展示された、200点を越える「九州の民俗仮面」は、訪れた人に衝撃を与えた。天孫降臨の地・九州に伝えられ、神話や土地の起源、村や人の物語などを語り伝えてきた古面は、さまざまな事情により流出し、漂泊を重ねていたのだが、南九州のコレクターたちから「旧・由布院空想の森美術館」へと引き継がれ、さらに「森の空想ミュージアム」へと移転し、時の記憶をつむぎ続けていたのだったが、日本民藝館という「晴れの舞台」ともいうべき場を得てはればれと輝いて見えたのである。2003年10月11日には、宮崎県西都市から駆けつけて下さった「銀鏡(しろみ)神楽」の皆さんにより、神楽五番が上演され、会場に神々の気配と山の空気が流れて、一層神秘性を増した。神社などに奉納され、神域や村などを守護したと思われる「王面」、古代の物語を神楽などの演劇によって伝えてきた「演劇仮面」、道開きの神「猿田彦」、能面や狂言面などの原型を示す「翁面」「女面」「道化」など、仮面の用途・性格などを分類し、コーナー別に分けた展示手法も成功して、仮面史を巡る旅を楽しむことができる展覧会となった。会場を訪れた人からは、「神々の声が聞こえる」「音楽に似た響きが漂っている」「日本人の魂の原点に触れるような気がする」などという感想が寄せられ、好評であった。
【仮面文化の十字路】
高見乾司
九州は、民間に分布する神楽面、呪術や祈祷などの民間祭祀に使われた種々の信仰仮面などが数多く分布し、さまざまな芸能や民間信仰、神話・伝説などと混交しながら伝承される、いわゆる「民俗仮面」の宝庫であり、「仮面文化の十字路」と形容される。北部九州の修験道・放生会・修生鬼会などと関連する仮面群、九州脊梁山地の狩猟・焼畑文化・神楽などとの習合がみられる仮面文化、南九州の「黒潮の道」・古代神話との接点をもつ仮面分布などが、アジアの仮面文化と連環しながら残存し、濃密な分布をみせるからである。九州の民俗仮面は、神話や村の起源、狩猟や焼畑などの生活習俗と密接に関連しながら、その土地の歴史を語り、伝え続けてきた。これらの仮面は、長い年月、個人の家や村、神社などに保存されたり、使用されたりし続けてきたため、風化にさらされ、磨耗し、人間の手や肌の痕跡をとどめて、「時の造形」あるいは「風土の記憶」というべきつよいメッセージを発信しながら、見るものに衝撃を与えるのである。
日本の仮面文化は、縄文時代の遺跡から発掘される「土面」、仏教とともに渡来し、貴族などの上層部によって保護・伝承された伎楽面・舞楽面などの「渡来仮面」、武士階級によって保護された能面・狂言面などの「伝統芸能仮面」、そして上記「民俗仮面」の四つの形態に大別される。土面は、土偶とともに縄文時代の祭祀儀礼と密接に関連したと考えられるが、弥生時代に入ると、その姿は日本列島から消える。そして、日本の仮面文化は仏教とともに渡来してくる伎楽面・舞楽面等の渡来仮面の登場を待つまで、空白期をもつのである。渡来仮面は、寺院・寺社・宮中などの儀礼に関連する芸能に付属して使用され、後の仮面芸能に大きな影響を与えたが、その後徐々に衰退し、現在ではわずかにその使用例を伝えるだけである。渡来仮面の影響を受けながら、民間の神楽や田植え祭りと習合し、田楽・猿楽へと発展しながら完成された能・狂言は武士階級に保護され、日本を代表する伝統芸能として高い完成度と様式美をもつ能面・狂言面を創作し、その後の民間芸能にも大きな影響を与えた。「民俗仮面」は、庶民の生活、信仰とともに生まれ、伝えられてきたものである。そしてそれは様式化されることなく、多種多様の相貌をみせる。縄文時代の土面文化とどこかでつながっているのではないかと思わせるものさえ存在する。民俗仮面の多くは、村や神社、家などに「神」として伝承される例が多いことも古型を保ち続けてきた重要な要素である。世界の仮面文化を俯瞰すると、仮面は悪霊が宿ると考えられ、祭りや祈祷・呪術などに使用された後は火で浄化され(つまり焼却され)るため、残存する例がきわめて少ない。村の神や神楽に登場する神々、家の守り神などとして伝えられてきた日本の民俗仮面は、貴重な資料であり文化遺産であるということができる。
九州の仮面文化は、前述したように北部、中部脊梁山地、霧島山系を含む南九州の三地域に大別され、それぞれ、大陸文化や日本の古代神話等の影響を受けながらも、異なった地域色があるようにみえる。
北部九州は、修験道の霊地として栄えた英彦山・求菩提山を中心に、今も多くの神楽を伝える。豊前神楽と総称されるそれらの神楽では、「御先(みさき)」と呼ばれる鬼神面をつけた神が祭りの行列を先導し、湯立て神楽を舞う。この地方には、山から下ってきた「山人(やまど)」と呼ばれる神人が、集落や神域を巡る「山人走り」と呼ばれる祭りもある。福岡県太宰府天満宮の「鬼すべ」、同久留米市の「鬼夜」、同筑後市熊野神社の「鬼の修生会」、大分県国東半島に分布する「修生鬼会」などは、中国古来の仮面芸能「儺戯(ヌォシ)」を起源とする「追儺(ついな)」の儀礼である。北部九州の仮面文化は、仏教とともに渡来した仮面文化が政権の移動とともに日本の中央へと伝播し、さらに日本独自の芸能へと発展していく過程に関係し、その原型をとどめながら残存しているようにみえる。
九州脊梁山地は、高千穂・椎葉・米良など、広大な照葉樹林に包まれた地域で、文字通り、九州の骨格を形成する山脈である。ここには、いまなお、狩猟・焼畑の民俗が残り、神楽を伝える。高千穂神楽は、記紀神話を核とした格調高い神楽で、町内に20の神楽座があり、天孫降臨の物語に沿って終夜、舞い継がれる。椎葉神楽は、村内に26座が伝わり、狩猟・焼畑の民俗、修験道の古風などと習合しながら伝えられる。米良山系には、懐良(かねなが)親王にまつわる南北朝説話を起源伝承にもつ神楽が伝わる。西米良村村所の村所神楽では、懐良親王と思われる大ぶりの仮面をつけた神が登場し、西都市銀鏡(しろみ)地区の銀鏡神楽には、猪狩りの習俗と懐良親王伝説を背景とする中世の様式を示す神楽が混交する。木城町中之又神楽では、鹿狩りの神事である「鹿倉舞」が、神楽と習合する。米良系神楽は、古式の狩猟民俗と中世の神楽とが習合し、伝承される貴重な事例である。
霧島山系には、霧島修験と関連する「霧島面」と呼ばれる大型の仮面が分布し、鹿児島県西部の川内市・新田神社に伝わる仮面群との共通項をもつ。天孫降臨伝説と関連するこれらの面は、ニニギノミコトに随従してきた古代氏族の祖神を意味する。そして南九州に分布するニニギノミコトからヒコホホデミノミコト(山幸彦)、ウガヤフキアエズノミコトを経てカムヤマトイワレヒコノミコト(神武)に至る古代神話と密接に関連する。霧島以南の薩摩・大隈半島には、猿田彦伝承にちなむ事例、古代隼人族の残像をとどめる「弥五郎どん」と呼ばれる大仮面とともに「神王面」「王面」などの奉納仮面があって圧巻である。これらの仮面は「黒潮の道」を通じたアジアとの交流を思わせる。
「旧・由布院空想の森美術館(1986−2001)」は、これらの民俗仮面の収集と展示・研究を中心に大分県湯布院町においてその活動を展開してきたが、種々の事情によって2001年5月に閉館、現在は「森の空想ミュージアム」(宮崎県西都市)として引き続きその活動を継続している。宮崎県西都市茶臼原地区は、東に日向灘を望み、西は西都原古墳群に隣接し、米良神楽や椎葉神楽、高千穂神楽などの分布地域である九州山地にも近接する。300点を超える仮面コレクションは、仮面文化の源郷ともいえる土地で、静かに時の記憶をつむいでいたのである。
このような経緯をふまえ、2003年10月7日から12月20日までの会期で、「日本民藝館」(東京都目黒区駒場)においてこの仮面コレクションが「九州の仮面」展として公開されることとなった。日本民藝館の創設者、故・柳宗悦氏は、そのすぐれた審美眼により、無名の工人たちが生み出した作品や庶民の生活道具などがもつ美しさを「用の美」ととらえ、「民芸」という美の論理を確立した先駆者である。日本の古面に対する関心も高く、仮面の収集、後進の考察の指針となる論考などもある。日本民藝館は、柳宗悦の民芸理論を継承する熱心な研究家や愛好家に支えられ、現在も収集・展示・研究活動を行っている。
この日本民藝館で、九州の仮面群が一挙に公開されることは、今後の研究・保存と活用などに大きな価値と方向性を与える機会となるであろう。ちなみに、「森の空想ミュージアム」のある社会福祉法人「石井記念友愛社」は、日本の福祉の先駆者として知られる石井十次(1865―1964)によって設立され、現在も「福祉と芸術の融合による理想郷づくり」をその理念に掲げて福祉活動を継続している。石井十次の福祉活動は、その人柄と理念に感銘を受けた倉敷紡績(当時)の大原孫三郎によって支援されたという歴史をもち、日本の美術界に大きな影響を与えた「大原美術館」(岡山県倉敷市)や、この「日本民藝館」も大原の支援によって設立されたという縁をもつ。私(筆者・高見)は、1976年より大分県湯布院町に在住し、湯布院の「町づくり」と呼ばれた運動に参加しながら、九州をくまなく歩き、古民芸・民俗資料の収集、神楽や村祭り等の調査を続ける過程で、「九州の民俗仮面」と出会った。それらの仮面は、かつてさまざまな事情により流出したものが、南九州のコレクターたちによって集められ、散逸の危機を免れていたものである。その民俗仮面との出会いと収集活動が、「由布院空想の森美術館」の設立につながり、多くの人との縁が結ばれ、いま、西都市茶臼原の友愛社の森の一角から日本民藝館の展示へとこの仮面たちを導くことができたのである。さらに私は、2002年より中国少数民族の村を訪ねる旅を重ね、九州・日本の仮面の起源と直結する「儺伎(ヌォシ)」の面に出会う機会にも恵まれた。多くの縁に結ばれて、いままた、「日本民藝館」の展示へと旅立つ仮面たちの旅がどのようなものになるか、興味尽きない。
*この文は「日本民藝館」発行の機関詩「民藝」2003年10月号に掲載。
【空想仮面展】
「九州の民俗仮面展」は、10月の「日本民藝館」での展示へむけて、ついに始動した。まずは、
九州山地の美しい村「尾八重(おはえ)」、続いて照葉樹林文化の里「綾町」そして、西都原
古墳群、茶臼原古墳群、持田古墳群などの中心地点に位置する「森の空想ミュージアム」へ。
神々の原郷で開催される一連の展覧会を「空想仮面展」と名づけた。以下はその記録である。
■「九州の民俗仮面展」―1
宮崎県尾八重/椿一番館ギャラリー
2003年8月22日―8月24日
「九州の民俗仮面展」は、西都市尾八重地区の古い民家を改装した「椿一番館ギャラリー」での展示により、
開始された。尾八重地区は、九州山地の秘境米良山系の一角にある古い村で、中世の山城を中心に形成され
た集落形態を今に残す、美しい村である。南北朝伝説を起源伝承にもつ優美な「尾八重神楽」も伝わる。椿
一番館ギャラリーは、この村の中心部にある旧・郵便局を改装したもので、西都市の市民グループ「尾八重
エコプロジェクト」の皆さんが半年がかりで改装に取り組み、村と都市を結ぶ交流拠点を兼ねたギャラリー
として2002年9月に開館したものである。その後、絵画展や竹・木などを使って照明器具を作るワークショッ
プ、尾八重神楽見学と神楽スケッチなどの企画を連続しておこなってきた。今回は九州の民俗仮面展と「星
を見る会」のジョイント企画となった。折から、火星が約六万年ぶりに地球に最接近する日とあって天文フ
ァンも含めた35人が集まり、静かな村は久しぶりに賑やかな一日となったのである。
1日目、私は米良山脈の尾根沿いの道を車を走らせ、尾八重の集落に着いた。まだ誰も来ていない部屋に入り、
仮面の入った箱を空けはじめる。ひとつずつ取り出される仮面は、湯布院から西都市茶臼原の「森の空想ミュ
ージアム」へと運ばれて、ダンボールの箱の中で静かに時の記憶をつむぎ続けていたのだ。いま、九州山地の
一角、米良の山へとやってきて、久しぶりに空の色、山の気配、風の音などを感じ取って、仮面たちは俄然、
いのちの輝きを取り戻したようにみえる。私は丁寧に埃を払い、壁に掛けてゆく。すると、かつて村の郵便局
だったこの家の、事務室や畳の間、土間などの空間が、幽玄な雰囲気に満ちた幻想的な空間へと変貌をはじめ
る。仮面展示の醍醐味はこの瞬間にあるのだ。
夕刻、「星を見る会」の参加者が次第に集まってきた。仮面の前に佇み、じっと見つめる人、カメラを手に、
仮面がつくるさまざまな表情を写し始める人、料理の準備を始める人など、思い思いの行動が始まる。地区の
区長、壱岐覚さん夫妻がブタ汁とおにぎりをふるまって下さった。まるでオブジェのような石積みの壁が残る
土間で作られた料理が、畳の間に運ばれ、焼酎がコップを満たして、たちまちそこはさかんな交流の場となる。
この夜、私は「星を見る会」にちなみ、星宿信仰と仮面祭祀の話をした。いまのところ、直接仮面祭祀と古代
の天文学を結びつける資料はないが、たとえば、熊本県小川町・日吉神社の正月神事である「面取り神事」で
は、目隠しをされた子どもが神社の拝殿に置かれた「日の王(赤)・水の王(青)・風の王(緑)」の面を取
り、その年の天候を占う。たとえば、まず最初に子どもが取り上げた面が赤(日の王)の仮面であればその年
の春は日照りが続く、となり、次に取り上げた面が緑(風の王)の仮面であればこの夏は大風に注意、という予
報となるのである。これなどは、古代の五行思想をもとにした仮面祭祀であり、天候と農事を占う祭りであろ
う。展示された仮面のなかに、この小川神社の仮面と同種のものがあり、さらに、赤・黒・白の三色の仮面も
あったので、参加者の関心は一層つよまった。この三色の仮面とは、大分県国東半島の神社に伝わっていたも
ので赤い仮面は南方神・火の神で「朱雀」をあらわし、黒い仮面は北方神・水の神で玄武、白い仮面は西方神・
白虎をあらわしたものだと思われる。五行思想とは、古代中国春秋時代ごろにはすでに発生していた思想で、
木・火・土・金・水の五行によって宇宙は成り立ち、宇宙間のものはことごとくこの五行の変化によって生ず
るという理論である。この五行思想は日本へは六世紀ごろ渡来し、以後、朝廷の祭祀、戦国大名の軍事・祭祀、
さらには民間の祭儀に深くかかわった。仮面祭祀と五行思想の関係は密接なものがあり、星宿信仰との関連も
当然考慮しなければならない研究課題なのである。この夜は、火星大接近を間近に控えた日でもあり、宮崎科
学技術館の瀬之口先生の星座のお話も精密かつわかりやすいものだったので、興味はますます深まったのであ
る。午後九時ごろ、それまで曇っていた空が晴れ上がり、星が瞬きはじめた。参加者は、山の尾根近くにある
そば畑へと出かけて行った。私は1人で会場に残り、80点の仮面を展示した部屋に寝た。深夜、私は何度も
目覚めた。目覚めるたび、窓の外に赤く輝きながら移行してゆく火星が見えた。そして、仮面たちは、荘厳な
歌でも歌っているような表情で、山の夜を見つめていた。
■「九州の民俗仮面展」―2
宮崎県綾町北俣/ギャラリー・カフェ雑木林 2003年8月25日ー8月31日
「九州の民俗仮面展」は、九州山地の美しい村「尾八重」の椿一番館ギャラリーでの展示に続き、綾町のギャラリー・カフェ雑木林(ざっつ・ぼっく・りん)へと移動した。綾町は、照葉樹林文化とクラフト、有機農業を核として町づくりを展開し、全国的にも高い評価を得た。日本の多くの地方都市が、町づくりや村起こしと称した「イベント」による観光客誘致に狂奔し、「バブル経済」と呼ばれた経済の沸騰期を過ぎて集客力も生産力も低下し、その弊害に悩んでいる昨今、地道な「ものづくり」によって地域文化と経済の活況を生み出してきた綾町の歩みは、特筆すべき地域づくりの歴史といえよう。その初期の運動を牽引した初代綾町長、故・郷田實氏のお孫である郷田晃平さんが運営するギャラリーが雑木林である。甘い珈琲の香りが漂い、モダンジャズが流れ、お洒落なクラフト作家の陶器や藍染めの服、木の椅子やテーブルなどが並ぶ生活空間に、仮面たちは違和感なくとけ込み、居心地がよさそうである。このギャラリーは町の中心部にあり、近くには、この地域で生産された有機農産物を売る「手づくりほんものセンター」もあって、多くの来場者でにぎわう綾の文化の発信拠点となっている。訪れた人たちは、思いがけない仮面との出会いを楽しんだり、仮面の起源や用途を巡る話に聞き入ったりしている。この時期、綾町は、「照葉樹林」を「世界遺産」に登録し、後世に残そうとする運動と、電力会社が建設しようとする送電用の鉄塔を巡る問題で揺れていた。会場を訪れた晃平さんのお母さんで郷田實さんの娘さんでもある郷田美紀子さんは、仮面たちを見て、「綾の森を守るために山の神様が応援に駆けつけてくれたみたい」と感激していた。山と森の神々は、まさに九州山地・尾八重の山から、綾という里に下り、またあらたなメッセージを発信しはじめたのである。
■「九州の民俗仮面展」―3
宮崎県西都市穂北/森の空想ミュージアム 2003年9月1日―9月15日
九州山地の古い村「尾八重」から照葉樹林とクラフトの里「綾町」へ、そして西都原古墳群、持田古墳群などの大古墳地帯の中心地点に位置する茶臼原の台地へ。ここは、石井十次の志をひきつぎ、「福祉と芸術の融合による理想郷づくり」を理念に掲げて活動を継続する石井記念友愛社の森の一角である。300点の「九州の民俗仮面」は、二年前、湯布院からこの地へと移転し、その原郷ともいえるこの地で静かに時の記憶をつむぎ続けていたのだが、この秋、「日本民藝館」での企画が実現し、旅に出ることとなった。この尾八重から綾、茶臼原へと連続する企画は、300点の仮面の所有者である旧・由布院空想の森美術館主・高見乾司(筆者)の一行を暖かく迎えてくださった友愛社と宮崎のみなさんへのお礼の気持ちも込められた公開である。もともと、南九州のコレクターによって集められ、その後縁あって由布院空想の森美術館の展示品となってかろうじて散逸を免れていた仮面たちの、そのふるさとでの久々の顔見世でもある。展示は、かつて友愛社の子どもたちが暮らした家の、玄関から廊下へ、そして居間へ、さらに木立の中へと拡大していった。森の中で、仮面たちは、その懐かしい空気を呼吸し、降るような蝉の声を聞き、風に吹かれて、うれしそうである。
【九州の民俗仮面との出会いと由布院空想の森美術館の15年】
横を向いた仮面に出会った。
仕入れを兼ねた小さな旅に出て、帰りに立ち寄った馴染みの骨董屋の店先に、その不思議な面はひっそりと置かれていたのだ。
風化して崩れ落ちた仮面の片方の目は、なかば空洞化していて、そのぽっかりと空いた穴の奥に微妙な光のようなものが宿っているような気がして、私は手に取ってみたのである。この瞬間、私は仮面史を巡る謎の時空へと一気に引き込まれ、九州を巡る長い旅に出ることとなったのである。その一個のオブジェと化したような面を手にした時、私は、瞬時に私を襲ってきた「買いたい」「自分のものにしたい」という衝動を抑えることができなかった。おそるおそる値段を聞いてみると、
「その面はあなたに進呈しよう」という思いがけない答えが返ってきた。店主は、雑多なものが置かれた店内で、時代を経た神像彫刻のような姿勢で座っている静かな老人だったが、時折、時代物の木の器や狛犬、古文書、神楽面や老人自身の化身ではないかと思われるような神像、修験関係の資料など、珍しいものを取り出して見せてくれた。私は手ごろな値段のものだけを選んで少しずつ買い集めていたのだが、集まるにつれて、その一群はなんとなく「山の気配」のような趣を漂わせはじめた。もともと、この地方の山中の村の出身であり、そのころ柳田国男の「遠野物語」や「山人」の話などを読んでいた私は、柳田のいう「平地人を戦慄せしめる山人」とは、山に依拠し、このような文物を生み出した人々だったのではないか、と思ったのである。
このころ私は、「由布院空想の森美術館」の設立構想の仕上げにかかっていた。空想の森美術館とは、由布岳の山麓に現代美術・日本の古美術・写真・個人の蔵書などを展示する美術館群を建設し、開発によって著しく変貌しようとしていたこの地域を芸術の森にしようという構想の中核施設である。1974年ごろから療養のためこの町の病院に通い続けていた私は、1976年からこの町の住人となり、当時、この町を湧き立たせていた「湯布院の町づくり」運動と深く関わりながら、古民芸の店を開店、その後、謎のコレクターT氏との出会いもあって、「空想の森構想」の夢が実現へと向かっていたのであった。
私は土地の買収や建築設計の基本プランづくりなどを急ぎながら、展示品の収集に走り回っていた。その時期に出会った一個の仮面こそ、この美術館の性格と私の人生の方向とを決定づけたものであった。私は「閑山」と名乗るその老古美術商のもとへ通い、九州各地の神社や山間の民家などに伝わっていた仮面を買い求めた。閑山老人は、そのころすでに八十才を越えていると思われた。問わず語りに、九州の仮面を集めて仮面美術館を造ることが自分の生涯の夢だったと語る老人は、私にその夢を託すことにした、と言って笑った。
「だから、あの時、あの面を進呈したのじゃよ。あなたは私の若いころの集め方によく似た収集をなさるお人じゃ。」
各地の神楽で使用されたと思われる神楽面、神社に奉納され、ご神体として伝わっていたと推察される奉納面、雨乞いや祈祷、村の祭りなどに使われた使われた面、祭りの行列を先導する猿田彦等々、さまざまな仮面が収集された。「九州の土俗面」と名づけられたそれらの仮面群を私はこの新しい美術館の展示の核とするつもりであった。それにより、この美術館は、鮮烈な個性をもったミュージアムとなる。全面的な資金援助を申し出てくれたT氏もその方向には賛成してくれた。T氏と私とは、古民芸収集の過程で出会い、長い時間をかけて「空想の森の夢」を語り合っていたのだ。ところがある日、T氏は、集められた仮面を関西の自宅に一度運びたい、と言った。収集欲に歯止めがかからなくなりそうな気配を見せはじめていたT氏に、私はやんわりと牽制をしなければならなかった。
「“骨董地獄”という格言があるのをご存知ですか?」
「おっと、そうだったな、クワバラ、クワバラ。今の私にその傾向があるというのだね。」
「いや、なんとなく、この仮面たちが九州から出るのを渋っているような気がするのです。」
「うむ、その気分はよくわかる。私も少しわがままを言いすぎたようだ。」
「骨董地獄とやらに堕ちるのは私でしょう。」
「その折にはぜひとも同道したいものだ。」
「では、地獄の果てまで道連れといきましょう。」
この会話のわずか二週間後、T氏が急死し、建設工事が進んでいた空想の森美術館そのものが空中分解の危機に直面したことをどのように解釈すればいいのだろうか。思いもかけなかった事態は、建築を請け負った工務店、不動産業者、設計士などを巻き込んだ大型の倒産劇に発展する局面であった。私は銀行との折衝や関係者との協議を続けながら、閑山老人に対して、仮面の返却を打診した。この時点で、まだ支払いの大半が残っていた。その支払い財源も、建設資金も、すべてがT氏とともに消えたのだ。
電話の向こうで閑山老人は言った。
「仮面は返却する必要はない。その面はあなたに託したのじゃ。売って資金繰りに充当してもよいし、方針どおり展示品にしてもよろしい。あなたの裁量にまかせる。」
返事を待たずに電話は切られた。その場に関係者が集まっていた。
「聞いたとおりです。皆さん、一緒にやってくれますか。」
間髪をいれず皆が応じた。
「やりましょう!」
こうして空想の森美術館は開館したのである。
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1986年8月に開館した「由布院空想の森美術館」は、2001年5月まで、約15年間の活動を行った。その展示の中核を「九州の土俗面」が占めたことはいうまでもない。オーナーの死去により、展示品も運営資金もゼロの状態となったこの美術館を救ったのは、九州各地から集められてきた100点の仮面たちであった。その仮面たちは、あるものは明治期の廃仏毀釈の波に翻弄されるように放出され、またあるものは第2次大戦後の混乱期に売却されたり、あるものは不幸にも盗難にあって流出し、転々とその居場所を変えたりしていたものたちであった。それが一堂に集められ、新築なった木造美術館の真っ白な壁面に展示されると、遠い祭り囃子のような、あるいは山の彼方から聞こえてくる神楽歌のような、かすかな響きさえ空間に漂わせて、居心地がよさそうであった。以後、15年の間に、九州全域から集められた仮面200点を加え、資料とフィ―ルドワークも充実して、空想の森美術館は独自のスタイルを確立したのである。
仮面に関する企画展やシンポジウム、出版なども積極的に行った。仮面展示と民俗資料の収集、現代美術の作家との連係による展覧会、「フォト館」での写真展、古民芸の展示などを核とし、「湯布院音楽祭」との連係、「湯布院の町づくり運動」との協調、地域と美術館とが連係してゆくさまざまな事業なども積極的に行った。美術館設立の動機のひとつに過剰な開発に抗議する意味と変質を続ける「観光の町・湯布院」への批判精神も含まれていたから、環境問題やバブル経済沸騰期における政治的な混乱、沖縄のアメリカ軍基地の湯布院への移転問題などに対しても積極的な発言を行った。
湯布院での15年のことを思うと、湯布院を離れて2年が過ぎ、こうしてこの文を書いている今も、胸がしめつけられるように苦しくなる。やはり私は空想の森の15年間を含めた湯布院での25年間を深く愛しているのだろう。そのことは、いずれまたどこかで語る機会もあるだろう。いずれにしても私は今も300点の仮面たちと一緒なのだ。あの空想の森での15年間が300点の民俗仮面コレクションを完成させるために必要な時間だったと思うことにして、次の行動―日本民藝館での九州の仮面展―へと移ろう。
◇この文は、2003年10月に刊行の「九州の民俗仮面」(鉱脈社)に収録。)
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