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このコーナーの文は、加筆・再構成し
「精霊神の原郷へ」一冊にまとめられました

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 森の空想ミュージアムの出発

山鳩の声が聞こえる。中庭に、直径2メートル、高さ30メートルほどもある楠の大樹
があって、それと高さを競うように、杉、檪、栴檀などの樹木が枝を広げなが
ら、建物の周囲を取り巻いている。鳩は、その森のどこかに巣をかけていて、
鳴き声を響かせているのである。時折、木立をかすめて飛ぶ鳥の姿もみえる。
 「空想工房」と名づけたこの建物は、かつて「石井記念友愛社」の子どもたち
が生活した園舎で、友愛社の新館が完成した四年前から、空家となっていた。屋
根に楠の落ち葉が分厚く積もり、なかば廃墟化しつつあったこの施設を私どもが
借り受け、旧・由布院空想の森美術館の所蔵品を展示する場として利用を開始し
たのは、2001年5月のことだ。以後、周辺の山野に自生する楮を採集し、
糸をとり、布に仕上げる「木綿(ゆふ)を織る」をはじめとする
染織ワークショップ、「竹と石の造形」「石積みアート」「流木アート」
などのアートワークショップを行い、染織工房とアトリエを兼ねた創作の場、
地域の皆さんとの交流の場などの機能を持ちはじめている。「石積み」は、
近辺の道路工事などの折りに出る捨て石を積み上げて建物の補強を
兼ねたデザインを施し、建築物としての再生をはかるものである。

 工房の裏手を東西に走る古道がある。高い木立と濃い枝葉に囲まれたこの道を、
「緑の空想散歩道」と呼ぶこととした。枝を払い、ワークショップで制作された
オブジェなどを点在させると、そこは快適な展示空間となったのである。この道
を200メートルほど西へ歩くと、「祈りの丘空想ギャラリー」に着く。用途を失い、
二十年ちかく放置されていた古い教会を、近隣のアーティストたちとの共同作業
によって修復し、絵画展を中心とした企画展を行うギャラリーとして開館したも
のである。この三つの空間を総合して「森の空想ミュージアム」と位置付け、
新たな私どもの活動の拠点とした。

 石井十次(1865〜1914)は、高鍋町で生まれ、岡山市で医学の道を志
すが、明治21年、四国遍路の母親から1人の児童を預かったことを機縁として、
児童福祉・教育事業に着手、先駆的な仕事を行った。石井十次が、「岡山孤児院」
を中心とする事業を故郷・高鍋の町に近い穂北・茶臼原台地に移転したのは、明
治27年から同45年へかけてのことである。東に日向灘の潮音を聞き、西に九
州山地を望むこの地で、十次は、「福祉・教育・農業・芸術」の融合による理想
郷づくりの夢を描いたのである。49才という早過ぎる十次の死、第二次世界大
戦などにより、中断された十次の夢は、その後多くの人の努力によって、現在は
社会福祉法人「石井記念友愛社」として再興され、運営されている。十次の曾孫
にあたる現・理事長の児嶋草次郎氏は、その理念をもっともよく受け継ぐ人であ
る。湯布院を去ることとなった私と、施設群を整備し、十次の構想の実現に向か
って活動を開始した草次郎氏とは、こうして出会った。

 友愛社の森では、ここを創作活動の場とした作家たちの生活がすでに始まって
いる。それを支持する地域の人たちとの交流も生まれている。石井十次の夢が、
まるで地下水脈のようにこの地に流れ続けていて、今、こうしてさまざまなかた
ちで湧出し、出会い、交差し、接近を始めたのだ。一見、領域を異にするかにみ
える「福祉」と「芸術」とが豊かな自然環境に抱かれて「創る」「学ぶ」「癒す」
などという価値観を共有し、ゆるやかに合流しながら、21世紀型の地域づくり
とミュージアム活動の融合を模索する。それが「森の空想ミュージアム」の出発
点である。その現場に立っていることを、私は幸福に思っている。

                   *

 この文は、2001年9月24付けの「西日本新聞」に掲載されたものである。
湯布院を離れたのが5月10日で、「森の空想ミュージアム」の開館が5月20
日であるから、私はわずか10日で新しい美術館を設立したわけだ。大型トラッ
ク4台、ワゴン車5台、乗用車10台分の荷を一気に運び、展示し、20日のオ
ープニングの日には、友愛社主催の春のオリエンテーリングで訪れてきた200
人を超える来客、湯布院から駆けつけてくれた仲間などを迎えたのだから、まこ
とに荒っぽい仕事ではあったが、コレクションさえあれば「ミュージアム」はい
つでもどこでも出発できる、という信条を実地に行ったのだということもできる。
この土地に住みはじめてすぐに、私は、ゆったりと流れる時間や、私のような脛
に傷を持つ“落人”をやさしくおおらかに迎えてくれたこの地の人々、山や海、
豊かな産物などが、ずたずたに傷ついた心を暖かく癒してくれていることに気づ
いた。そして、あの忙しく走り回り、戦い続けていた湯布院という町での日常は
一体何だったのか、という新たな問いも生まれた。しかし、それもまた記憶の彼
方にかすむ風景のように、ぼやけてしまいがちである。古代、この地に漂着した
ニニギノミコトや、海神の国で帰ることを忘れてしまった海幸彦などはこんな心
境だったのではないか、とさえ思えるのである。そこで私は、記憶が風化する前
に、湯布院で体験したさまざまなことや、湯布院から各地へ出かけた旅の記録な
どを整理する作業を開始した。すると、1996年頃から、しばしば私はこの地
を訪れており、多くの方々と交流を続け、そのことを折りにふれ書きとめていた
ことがわかった。それらの記録を見ながら、私は、
―ああ、やはり来るべくしてこの地へ来たのだな…
という思いをつよくした。それらの文を再録・加筆することから、
この新しい土地での私の一歩が始まる。


友愛社正面玄関

森の空想通信

<1>

 陽のあたる部屋

 暖かな日差しが、窓から射し込んでいる。「森の空想ミュージアム/空想工房」と
名づけた、現在の私の住居は、6年前(1996年)まで、社会福祉法人「石井記念
友愛社」の子どもたちが住んでいた寄宿舎で、一昔前の山の分校を思わせる構造とな
っている。
1階の南側に3部屋と職員室風の部屋、北側にも同じ構造の部屋があって、
渡り廊下が南北の建物をつないでいる。廊下の横に大きな食堂と、いまだに五右衛門
風呂を使う風呂場がある。子どもたちと職員、合計20人ほどが暮らしていた施設だ
から、なにもかもが大掛かりだ。南と北の建物は2階建てとなっていて、
二つの棟の間が広い中庭になっている。
中庭には、高さ20メートルを超える楠の大木があり、家のほぼ半分を覆っている。
私は南棟の2階の3部屋を使っている。その三つの部屋には、書籍類と「由布院空想
の森美術館」(1986―2001)の15年間の活動を記録した資料、300点を
越える「九州の民俗仮面」などが詰め込まれている。つまり私は、300点の仮面た
ちと起居をともにしているわけだ。夜中に資料整理をしたり、読みかけの本を読んだ
り、仮面を取り出して眺めたりするのは悪くない。
 私が寝室に使っている部屋の、東側の壁の最上部に、横長の窓があって、その窓か
らは朝日が射し込んでくる。南側の大きな窓からは、午前から午後へかけて、たっぷ
りと陽光が供給され、部屋は暖められる。この部屋の、窓際の机に座り、
短い文を書いたり、本を読んだりするのが好きである。
 2001年5月――空想の森美術館の15年を含む湯布院での25年間の活動を終
えて、私は湯布院からこの地へと移り住んだ。それは、楠の若葉が青々と輝く5月の
ことだった。あれから、2年半あまりの時間が経過し、今、私は開きはじめた水仙の
花や、冬枯れの森、庭一面の椿の落花などを見ている。一見、平凡にみえる窓外のけ
しきこそ、疲れた果てた私の目をもっともなぐさめてくれたものであった。
 小学生のころ、私は皆が校庭でドッジボールやソフトボールなどに興じている時、
1人で校舎の中にいて、窓辺で本を読んでいるのが好きな子だった。今こそ私は、日
当たりのよい森の一角で、本来の居場所を取り戻したような気がしている。

<2>  

森の小径

 窓の下を子どもたちが通る。
 友愛社の小学生たちが近くの茶臼原小学校へ通う時間である。
「おはよう」
 と声をかけると、皆声をそろえて元気よく、
「おはようございまーす」
と挨拶を返し、さっさっ、と急ぎ足に通り過ぎて行く。帰りは、午後3時から5時
ごろになることが多い。登校時と違って、二人、三人とばらばらに帰って来る。そ
して、繋がれている隣の犬に話しかけたり、草花を摘んだり、
歌を歌ったりしながら、のんびりと帰って行く。
「こんにちは」
「お帰り」
「ただいま帰りました」
 私たちは、短い挨拶を交わす。「友愛社」は、両親に恵まれない子どもたちが、
共同生活をしながら、保育園、小学校、中学校、高校と通い、
卒業したら社会へと出て行く。
施設全体が、大きな家庭のようなものだ。「日本の福祉事業の先駆者」と呼ばれる
石井十次が始めた初期の友愛社の主たる事業は災害や戦争などで両親を失った「孤児」
の「救済」だったが、現代における家族の形態は多様で、両親がいても、いわゆる
「救済が必要な状況」になる子も多いという。非行を重ねたり、いじめに遇ったりし
て、行き場を失って送り込まれてくる例もあるという。さまざまな問題を抱えた子ど
もたちが、共同生活をするうち、厳しい作業や規律にもなじみ、明るく素直な少年・
少女へと矯正されてゆく。もともと素直な子が多いところへ、心の傷を負った子が入
り込むため、すぐにやさしい心を取り戻すのかもしれない。
 当初、自給自足をめざした友愛社は、広大な敷地を持っている。森に囲まれた敷地
内には田んぼや茶畑が広がり、子どもたちが暮らす本館「天心館」や石井十次資料館、
保育園などの施設が点在する。学校から帰った子どもたちは農作業や敷地内の清掃、
花の手入れや牛の世話などをする。その厳しい日課が彼等・彼女たちを鍛え、まっす
ぐな心を育むのだ。湯布院を出て、この地へ辿りついた私もまた、森へ入り、木を切
り、草を払い、森の小径をつくる作業に没頭するうち、次第に気力を回復した。あの
ころ、やはり、私も深く傷ついていたのかもしれない。

<3>

家を守る木

 屋根の上には、分厚く落ち葉が積もっていた。
 中庭の楠の大樹が大量に葉を降らせ、次第に積み重なって、ひょっとしたら、「トト
ロ」という妖怪はこんな家にこそ棲むのではないか、と思わせる風情だったのである。
あまつさえ、古い瓦には苔が生え、もとは灰色だった屋根を緑色に染めている。空家
になってわずか四年ほどの年月が過ぎただけだというのに、もう、この建物は廃墟化
しつつあるのだった。私がこの家(「森の空想工房」と名づけた現在の住居)
をはじめて訪れた時のことだ。
――さて、どうしよう…
と思いながら、内部を見せてもらった。すると、外から見ていた感じとは随分違いが
あることに気づいた。それは、まだこの建築物には「呼吸している」あるいは「生き
ている」という感触が残っていることであった。そして北側の建物と南側の建物とを
つなぐ廊下に立って、中庭を見ていた時、突然、稲妻のようにひらめくアイデアがあ
った。それは、建物全体を覆うかのように聳えている楠の枝という枝に、たとえばチ
ベットの山岳を彩る祈りの旗「タルチョー」のように、あるいは映画の「幸福の黄色い
ハンカチ」のラストシーンのように、色とりどりに染められたさまざまな布を飾って、
その下で焚き火を焚き、料理をし、音楽を聴きながら酒を酌み交わしている…という
イメージである。その前提として、この中庭を中心とした建物全体が、「染織」と「ア
ート」の工房でなければならない。屋根や壁や室内を修復することも、このミュージ
アムの出発のための大事なプログラムである。私の新しい出発地点をここに決めよう。
 この構図に基づき、湯布院で長年一緒に仕事を続けてきた横田康子に来てもらうこ
とにした。彼女は、湯布院の山野に分け入り、楮を採集し、糸を採り、由布院の地名
の起源ともなった古代の布「木綿(ゆふ)」を再現した染織家だ。横田に続いて、先祖
の位牌が入った仏壇を背負った母と、老犬「コロ」もやってきた。いずれも、住んで
いた家が銀行による「不良債権回収」の対象となり、処分され、行き場を失ったのだ。
 大きな木に抱かれる家で、落ち葉を掃いたり、片付けものをしたり、壁を装飾した
りするうち、三人と一匹は、笑顔を取り戻した。楠の大樹は、家を守る木であった。

<4>

火を焚く煙

 午後、森へ行く。
 友愛社の敷地の一角、「森の空想工房」と名づけた私の住んでいる家の前に、どっ
しりと控えている里山の森だ。石井十次と初期の入植者たちが植えた杉が暗い森を作
っていて、その杉の森に混成する楠、栗、樫、椨などの巨木が、うっそうと葉を繁ら
せている。長い間、人間の手が加わっていない森の中は、大きく曲がったまま成長し
た杉や、枯れたまま化石のような枝を転げている栗の木、無数のキノコを発生させて
いる倒木などが、複雑にからみ合い、重なり合って、すでに原始の森へ
と帰る過程を示し始めている。
 私は鉈を腰に差し、鋸と鎌を持ってこの森を歩く。山で育ち、山仕事をして暮らし
た経験をもつ私の身体は、すばやく反応し、森の空気に同化しようとする。作業は、
まず森への導入路を造り、けもの道を見つけて、そのあるかなきかの細い道沿いに繁
る小枝を払うことから始まる。そして立ち枯れの杉や桧、栗や山桜などに鋸を入れ、
伐り倒す。激しい音を立てて木が倒れる。なぎ倒された小潅木の枝葉と、大木の切り
株から、強い臭気が発散され、森の空気をかき乱す。それこそ、懐かしい
山仕事の香りである。私の肺は、それを深々と呼吸する。
 作業を繰り返すうち、森の道が切り開かれてくる。私はその道を行き来し、薪を運
び出す。太い幹も、小枝も、丹念に集め、薪の束にして、空想工房へと運び込む。中
庭には、石積みの竃をこしらえてある。そこで盛大に火を燃やすのだ。竃には、大き
なステンレスの鍋がかけられ、糸や布が染められることもあるし、料理を作って楽し
むこともある。焚き火の煙が立ち昇り、森へと漂い流れてゆく。
煙の行方を眺めながら、私はぼんやりと時を過ごす。
 木々の間を縫い、明るい南国の空へ吸い込まれてゆく煙を見つめていると、忙しく
走り回っていた湯布院での日常が、遠い異国での出来事のように思われてくる。本物
の自分はここにいて、湯布院という町も、そこで過ごした二十数年という時間も、も
しかしたら異次元の世界での体験だったのかもしれない、と思うのだ。その昔、ここ
「ヒムカ」の地に漂着したニニギノミコトや、南九州・ワダツミのクニへと旅したヒ
コホホデミノミコト(すなわち山幸彦)のように、私は時を忘れているのだろうか。

<5>

友愛社と石井十次の夢

 社会福祉法人「友愛社」は石井十次(1865−1914)が開いたわが国で始め
ての本格的な福祉施設である。石井十次は、宮崎県高鍋町に生まれ、現在の岡山市で
医学の道を志すが、ある村で診療所の代診をしている時、貧しい四国巡礼の母親から
子供を預かったことを機縁とし、明治20年、孤児救済事業を開始する。最盛期には
1200人の孤児を収容したという岡山孤児院を、故郷高鍋の町に近い茶臼原の台地
へと移転を開始したのは、明治27年のことだ。十次は、この地で、農業と教育、そ
して芸術活動が融合する福祉の理想郷づくりの夢を描いた。
 私たちがこの友愛社の森へ来たころは、楠の大樹が大量の落ち葉を降らせていた。
楠や樫、椎、椨などの照葉樹は、春から初夏へかけて落葉する。その後、若芽が芽吹
いて、輝くばかりの青葉を繁らせるのである。落葉する直前、古い葉は、つかの間、
黄葉する。そして、太陽の光を浴びながら、はらはらと散り続けるのである。
 私たちは、その落ち葉を拾い集めてダンボールの箱に入れ、保存した。
夏には涼しい木蔭の下で竹や石、流木などを集めて絵を描いたり、
苧麻や葛などを採集して麻糸を紡いだり、葛布を織ったりした。
秋には、大風で落ちた枯れ枝を集め、焚き火をした。
火のまわりにはいつも人が集まり、歓声と笑い声が響いた。秋が深まり、朝晩の冷え
込みが厳しくなると、食堂の薪ストーブに、保存しておいた落ち葉や枯れ枝をくべ、
火を焚いた。とろとろと燃える火が、室内を暖めた。そのような、淡々と繰り返され
る日常が、私たち――私の家族と一匹の犬―の疲れた身体と心を癒した。
 私たちが住むこの家「空想工房」は、友愛社・先代理事長の児嶋琥一郎氏(石井十
次の孫・1928―1992)が建てたものである。琥一郎氏こそ、
戦後、友愛社の仕事を復興させた偉人である。
 石井十次の死と第2次世界大戦によって中断を余儀なくされた十次の夢は昭和20
年、高鍋で終戦を迎えた琥一郎氏によって「石井記念友愛社」として再開され、現在
に至っている。氏は、古美術を愛し、大きな木の近くに家を建てることを好んだ趣味
人でもあった。この家は、戦後の荒廃した子供たちの心と生活を立て直す場であり、
友愛社再生の拠点でもあったのだ。

<6>

緑の空想散歩道

 染織とアートの工房として活動を開始した「空想工房」の裏の小道は、
杉や桧、楠、樫などの常緑樹に覆われているから、一年中、緑に埋もれていて、
静かだ。今は、白いサザンカの花びらが一つ、二つと落ちていたり、野生のマンリョウが
赤い実を輝かせていたりするだけで、通る人も稀である。
 引っ越して来てすぐの頃だが、私はこの小道を散歩していて、何気なく後ろを振り返っ
た時、木々の枝と枝が交差し、人や車の通る部分だけがぽっかりと明るい空洞となって、
見事な真円を形づくっていることに気づいた。まるで禅宗の高僧が、筆で一気に描いた
「円窓」のような。それで、私はこの道を「緑の空想散歩道」と名づけ、近所の子どもた
ちと一緒に作ったオブジェを飾ったり、種々のアートパフォーマンス
を行ったりする場とした。すると、緑は一層、輝きを増した。
 この小道を西に向かって少し歩くと、古い教会を改装し、絵画展などを行う展示空間と
した「祈りの丘空想ギャラリー」がある。この建物は、石井十次と初期の友愛社の人たち
が祈りを捧げた教会だったが、20年ほど空家になっていた。崩壊が進んでいたこの教会
を現代美術の作家や近所に住む建築家などに手を借り、補修し、壁に漆喰を塗り、窓を入
れ替えると、そこは小さいけれども清澄な空気が漂うギャラリー空間となったのである。
「祈りの丘空想ギャラリー」という名に、ここで敬虔な祈りを捧げた多くの人々の気持ち
がそのまま残り続けてほしいという思いを込めた。 「空想工房」と「祈りの丘空想ギャ
ラリー」を結ぶ「緑の空想散歩道」を総称した地域ミュージアム「森の空想ミュージアム」
が、こうしてこの地での一歩を踏み出した。 この一連の行為を友愛社の現在の理事長で
ある児嶋草次郎氏は、優しい眼で見守り、同意して下さった。草次郎さんは、湯布院を去
ることとなり、行き先を求めて九州を巡る旅を続けた後、立ち寄った私に、
「どうぞ、ここへおいで下さい。
私たちは貴方たちのような芸術家=アーティストをお待ちしていたのです。」
と言って下さった。それにより、石井十次以来の、福祉と芸術の森構想が実現に向かうだ
ろう、ともおっしゃった。暖かい言葉であった。その言葉に応える仕事が、
ここから始まればいい、と私は願った。

<7>

祈りの丘へ

 梅の花がちらほらと咲き、ウグイスの笹鳴きが聞こえて、早春の陽射しが身体と心
を温かくする。私と老犬コロとは「緑の空想散歩道」を歩き、
「祈りの丘空想ギャラリー」へと向かう。
コロは、湯布院にいた頃は勝手気ままに暮らした犬であった。掌に乗るほど小さかっ
た彼がやってきたのは、「空想の森美術館」が開館して間もない時期だったが、その
頃、我が家には、名犬とうたわれた黒犬の「サブ」がいたし、サブの子の「ロック」
もいた。先住の二匹は賢い犬で皆に可愛がられていたから、コロはなんとなく居場所
を得ない様子で、成犬となってからは家に居つかず、湯布院の町を転々とした。ケン
カを繰り返し、牙が欠けたり、片方の耳がちぎれたままになっていたりした。よその
家で居候をきめこんでいた時期もあった。コロが帰ってきたのは、
サブとロックが相次いで死んだ後であった。
ようやく居場所が定まったかに見えた彼の身の上を、空想の森美術館の閉館と宮崎へ
の移住という運命の激変が襲った。老いた犬は新しい土地にもなかなかなじまず、湯
布院で身につけた無頼の気配を漂わせて、ふてくされたような眼をして周囲を睨んで
いた。 それでも、半年が経ち、1年が過ぎる頃には、行動も性格も、落ち着きを見
せてきた。 私は、散歩しながら、「鶏を獲るなよ」とか「猫を追うな」、「そんな
畑を荒らすような走り方をするな」などと犬に語りかけるのだったが、彼もまた、こ
の土地では、他者に迷惑をかけないように、穏やかに暮らすことが最も肝要なことだ
ということを心得たらしく、引き綱から解放されて広々とした森を駆け回る時以外は、
まことにおとなしく、私の前後を歩くのである。
 「祈りの丘空想ギャラリー」とは、石井十次や友愛社の初期の開拓者の人々などが
祈りを捧げた古い教会を改装して絵画展などを行うギャラリーとしたものである。小
さな尖塔があり、内部にはわずかな明かりがあるだけの空間は、清々しく心地よい。
気に入った作品が壁を飾っている時など、私が室内で少し長く時間を過ごすと、外を
歩きまわっていたコロがそっと入ってきて、私の顔を見上げる。
 その眼が、深く静かに澄んで、美しい光をたたえている。 

<8>

楽屋裏で聴いた音楽

 古い教会を改装した小さなギャラリー「祈りの丘空想ギャラリー」の横を通り過ぎ、
さらに西へと散歩の足を伸ばすと、小さな泉に出会う。この泉は、友愛社の理事長・
児嶋草次郎氏によって「宇宙の泉」と名づけられている。
 その泉の周辺からは、多数の石器や土器のかけらなどが出土したことがあり、泉に
沿って「赤道(あかみち)」と呼ばれる古道が通っていることから、ここが古代人の
居住した地域であることが推測されるのである。明治27年、石井十次が岡山から故
郷高鍋の町に近いこの茶臼原台地に移転を開始し、最初に事務所を設立したのも、こ
の辺りであった。その名残りが古い教会である。十次は、この地に立ち、ここが宇宙
へ向かって開かれた土地であることを確信したのであろう、と草次郎氏は推理する。
 かつて武者小路実篤は、九州探訪の折り、ここを訪れ、この地の風物に心を惹かれ、
さらに木城の峠を越えて石河内へと向かい、「日向新しき村」を建設した。この場所
に立つと、神々しい光のようなものが見える、という人もいるし、心が洗われるよう
な清澄な感じを受ける、という人も少なくない。私もまた、湯布院を去る事が決定的
となり、行く先を求めて九州を三巡する旅を続けた後、ここに立ち、多くの人が言う
「光」を見た思いがして、「そうだ、この場所を新たな出発の地としよう」
と決めたのであった。
 音楽家の早川広志さんが、訪ねてきたのは、私たちがここへ住み始めた2001年
の夏のことであった。その年の秋には、「祈りの丘空想ギャラリー」での演奏会が実
現した。飄然と現われた彼もまた、この森の住人となったのである。
 バロックフルートやリコーダーを得意とする早川さんは、チェンバロなどの古楽器
との共演や現代音楽との即興演奏などもこなす、不思議な音楽家である。私は、会場
の設営をしたり、受付をしたりしながら、楽屋裏で膝を抱えて聴いたり、外の芝生で
風に吹かれながら演奏を聴いたりする。まだ有名になる前の、初期の「湯布院音楽祭」
10年間ほど実行委員を務めたこともある私は、あの頃もこんなふうにして音楽を聴
いていた。あの小さな町の小さな音楽会―演奏家と実行委員と聴衆とが一緒に音楽を
作り、音楽を聴く喜びに満ちていた―あの頃求めていた音楽が、今、ここにある。

<9>

帰る旅

 「呪いの木」と呼ばれている一本の枯れ木がある。名前は不気味だが、この木がだ
れか特定の人物とか、世間とかを呪っているわけではない。落雷に打たれて枯れ、そ
の後キツツキが巣穴を掘ったり昆虫の棲み家になったりして穴だらけになったため、
近くの茶臼原小学校へ通う子どもたちが、あだ名をつけただけなのだ。寿命を終え、
土に還ろうとする老木の姿は明るく、飄軽でさえある。樹下には、若木が芽吹き、育
ちはじめている。
 私は、大分県日田市の山奥の村の出身である。私が小学5年になった年、私の家族
は山を下った。春の雨が、村を煙らせていた。家の前を流れる小川を弟の手を引いて
渡った時から、私は帰る家を失った。以後、転々と移り住んだ土地は、いずれも私にと
っては異郷であった。
 1976年――病気治療のために訪れ、住むこととなった湯布院の町は、鄙びた湯
治場で、まだこの頃は観光客の姿も少なく、この町の人たちはやさしく私を迎えてくれ
た。四囲の山も家並みも、深い藍色に染まるこの町の風景が、私に回復の時を与えて
くれたのである。ところが、一見静かにみえる町は、じつは、不思議な魅力をそなえ
た人々が集まり、地域の特性を生かした集客方法や店舗デザイン、食文化、もてなし
の極意などについて語り合う、活気にあふれた町であった。それがのちに「湯布院の
町づくり」と呼ばれる理論と実践の発生期で、私はたちまちそのエネルギーに満ちた
運動体の中に身を投じたのである。
 それからの20年間は、あっという間に過ぎた。小さな古民藝の店を開店し、自立
したこと。「空想の森美術館」の設立。湯布院から各地へと出掛ける収集の旅。そし
て、この町の住人となれたことがうれしくて、「湯布院へ帰る」と言うようになって
いた私。その後、観光客であふれるようになった町。バブル経済と呼ばれた狂騒の時
期。経営に行き詰まり、湯布院を去ることとなった「空想の森美術館」。
 いま、私はその残務を整理するために、湯布院へと行く。そして、湯布院が再び帰
ることのない土地になってしまったことを淋しく思いながら、宮崎へと帰る。私も、
湯布院という町も、慌ただしく過ぎた時間の経過の中で、変わってしまったのだ。

<10>

三方境

 「でんたろう」と名づけられた、古い木柱が一本、立っている。
 社会福祉法人友愛社の理事長・児嶋草次郎さんの命名によるこの木は、昔の電信柱
である。脇には「木の電柱はまもなくこの世からなくなります。私はここでのゆりっ
子を見守り続けます」と書かれた立て札がある。のゆりっ子とは、のゆり保育園の園
児たちのことである。 まるで宮沢賢治が描く童話の世界のよう
な情趣を漂わせるこの辺りは、昔、「三方境」と呼ばれた所であるらしい。今でも、
西都市穂北と木城町椎木と高鍋町中尾という三つの地域が境を接している。このよう
な場所は、昔から「魔が潜む」とか「気が立つ」などといわれ、境の神が建てられたり
した土地のようだ。日向二千基と呼ばれる大古墳地帯――神々が眠る土地――のほぼ
中心部に位置し、西に九州山地の山々を望み、東に日向灘の潮音を聞くこの場所を、
私はことのほか気に入っている。
 私は、この三方境から湯布院へと行き、帰って来る。短い旅である。その往復を繰
り返しながら、私はさまざまなことを思う。
「湯布院の町づくり」と呼ばれた運動と理念に理念にもとづき、「由布院空想の森美
術館」が生まれ、そして15年という年月にわたって活動を展開し、忽然と消え去っ
たことも、私=筆者・高見という一人の人物がこの町で過ごした時期があったことも、
九州の片隅の小さな町で起こったささやかな出来事でしかなかったのだ。現に、私と
空想の森美術館が湯布院の町から消えても、町そのものは十分に機能し、人々は元気に
暮らし続け、観光客はあふれている。
 私が湯布院の町を離れなければならなかったのは、私が経済の原理に疎く、急激な
時代の変化に対応する能力に欠けていたからだろう。ただ、私が湯布院のことを思う
たび、感傷的な気分になるのは、初期の湯布院の町づくり運動があまりにも美しく、
純粋で、私はその理想像となら心中してもよいとさえ思っていたからだ。だから、「美
術館」という機能を経済の原理を優先する経営形態に従属させることを拒み続け、つ
いには失墜の憂き目をみたからだ。私は観光産業という市場原理に敗北したのだ。だ
が、私には、そのこと嘆いている暇はない。私は、経済=お金の時代から文化=心の時
代へという分岐点に、今、立っているのだ。

    

<11>

時を支配する者

 友愛社の森を散策し、福祉と芸術の出会いによる理想郷の実現を夢想し、楽天的に
なっている私のもとへ、届くのは、請求書の山であり、銀行からの「精算」の手順に
ついての連絡だ。まだ私の身体は修羅の場にいて、「金」に追われている。経営に失
敗し、失墜した事業――由布院空想の森美術館の運営――のトップとして、免れ得な
い責任を私は負い続けなければならない。
 苦しまぎれに、「時」と「金」の関係などを考えてみる。以下は梅棹忠男著・知の
ハンターたち」(講談社/1989)を読みながら、私がこのごろ考えたことである。
 かつて「時」は神のものであった。天文学に基づいた時の観測により、「王」は神
の代役として政治を行った。古代の政治は、農事の決定、狩猟や軍事に関する決断など、
国の命運を占うことに直結していた。それは「神」の意志を読む行為であり、「時」
は神が支配するものであった。王は、神の意志の代行者だったのである。その、時を
司り、「政治=まつりごと」を行う場が「神殿」であった。時はやがて王の代行者と
してのシャーマン=司祭がはかることとなり、シャーマンは神の声を暦や時計、鐘、
狼煙などで市民に告げた。「時の共有」すなわち「共同体の時=市民の時間」はこう
して発生する。市民を支配していた王の権力は、やがて市民の中の有力者である「商
人」のものへと移行してゆく。「利子」の発生である。利子とは時の関数である。
「タイムイズマネー=時は金なり」とは、まさにこのことをいうのである。
「時」が神のものであった時代には、利子という考え方は存在しない。たとえば商人
が一万円を貸して一年後に千円の利子を得たとする。その千円はどこから出てきたか。
キリスト教の教会にいわせると、一年という時の経過の中からその千円の利子が生ま
れたのだとすれば、商人は神の時を盗んだもの、ということになるのである。しかし
ながら、貨幣経済が市民社会を支配するようになると、商人が時を支配し、利子によ
って商人の利益はますます膨張する。「金融」という金を貸して利子を得ることを専
業とする職種も発生し、やがて、商人、金融業者、政治家が密接な関係を持ちながら
社会を支配するようになる。現代日本の構造がまさにそれである。借りた金額の3倍
以上の金を返済し、なお利子に相当する分を払えず苦闘する私は、
何を盗んだことになるのだろうか。

<12>

「白圭」の利

 私は作家・宮城谷昌光氏の小説の愛読者で、氏の著作の大半を読んでいる。宮城谷
氏は、中国古代の史書に記された人物をモデルに、鮮やかな歴史絵巻を我々の前に描
き出し、魅了するのだが、なかでも「孟賞君」(講談社・全五巻/1995)
の出だしは衝撃的である。
「田文」(のちに孟賞君と呼ばれる)は、生まれてすぐに実の親に捨てられる。その直
後に「風洪」という壮士に拾われるのである。物語はここから急展開し、じつは斉の
国の大臣の息子であった田文が父の跡を継いで孟賞君と呼ばれる名宰相となり、「食客
数千人」と呼ばれた、学者、兵法家、武芸者、壮士、商人などの異能集団を駆使して
国家の動向に影響を与えてゆくさまを描いてゆく。
 ここではその長大な物語に深入りする暇はないが、前半部で主人公にもまさる魅力
を発揮する「風洪」を通して「商人」と商人が生み出す「利」について考えてみる。
「壮士」すなわち遊侠の徒であった風洪は、田文を拾ったことにより運命が激変する。
彼が拾った子を最初に預けたのは、「鄭某」という商人の家であった。「商人」とは
「しょうひと」と呼ばれる古代中国の「商(殷)」の国の人を指す。彼らこそ、貨幣
と物とを交換することにより、利益を生み出すという行為を開始した人々である。
 風洪が生きた時代は、商の国が滅び、周王朝も衰退して、各地に戦乱が起こり、の
ちに「春秋戦国時代」と呼ばれる動乱の時代であった。ここで風洪の生涯を数行に縮
めるという暴挙を試みる。鄭家の養子となった風洪は「白圭」と名を変え、商人とし
ての道を歩み出す。白圭が行った商業とは、農産物と武器との交換であり、武器の戦
地への輸送であった。莫大な利益を得た白圭が、晩年に行ったことは、なんと、黄河
の改修事業であった。それは「農」の事業でもあった。本来、国家が行うべき事業を、
白圭は個人で実行したのである。彼の「利」はその事業に注ぎ込まれた。
 さて、ここで現代日本の商業と金融、利子の算出方法やその回収方法、あるいは
「利」の正しい使途などを考察する手順となるのだが、とてもとても、現代の商業人
は、二千数百年も前の壮士あがりの1人の男に及ぶべくもないという
実態に思い至り、私は言葉を失うのである。

<13>

失われた「時」を探しに

 「時」の関数が「利」であり、「時」を支配したものが、「利子」を得るものであ
る、とか、「物の価値の交換あるいは物の移動」が「商い」であり「利益」を生むの
である、などと考え、「利」とは正しい使途を持つべきである、などと考えていたら、
たちまち頭が痛くなった。やはり私は、「利」を算出し、経済を語るには不向きだ。
 私の家は、私から数えて三代前までは地方でも有数の資産家で、山越えで隣村へ行
くのによその土地は踏まずに行ける、といわれたほどであったという。ところが、私
の祖父の代でそのほとんどを失った。山林の売買や芝居・村相撲などの興行、競馬な
どに入れ揚げた祖父が、生涯の大半を遊び暮らし、蕩尽したのである。わずかに残さ
れていた田畑も、私たち兄弟四人が育つ過程で、食費や税の対象として切り売りされ、
私の家族は山を下った。「戦後」から「高度経済成長」へと向かう時代であった。
 20代前半――私は郷里の町で山から石を切り出す「石切り場」の仕事をしながら、
詩を書き、絵を描いていた。よい仲間に恵まれた、幸福な時期であった。かつて広瀬
淡窓という教育者を出し、文人気質を残す風土に対する愛着と、芸術への憧れ、祖父
と父が最後まで行っていた「先山(さきやま)」と呼ばれる山林の開拓や鉱山探索な
どに通ずる仕事への興味などが混在しながら、私を生まれた土地に縛りつけていた。
 「高度経済成長」から「日本列島改造」へ。国家の指導者が唱えた理論は国を大き
く動かした。それは、戦争によって荒れ果てた国土の復興でもあったし、失われた自
信を回復する民族的欲求でもあっただろう私たちの石切り場も需要の沸騰に沸いたが
「白ろう病」という職業病の発生により、私は「青春」という時を奪われた。
 病気の治療のため訪れた町が湯布院であり、その時期が「町づくり運動」の勃興期
であり、その経過の中から「由布院空想の森美術館」が生れた。が、次に来る「バブ
ル経済」と呼ばれた狂騒の波は、「文化活動による町づくりへの貢献」という私の夢
と美術館経営を呑み込み、時の彼方へと運び去った。湯布院から宮崎へ――時の流れ
に押し流されるように、拠点を移動した私は、今、ゆったりと流れる時間の中で、ウ
グイスの初鳴きを聞きながら、失われた「時」を探す旅のことを考えている。

<14>

回復する「時」

 私は、幼い頃から、自分の家は三代前までは村一番の資産家であり、祖父が一代で
その財産を蕩尽したのだ、という話を聞かされて育った。その影響で、個人が所有す
る土地や家、有価証券や金銭などの財産すなわち有形の資産は、限りのあるものだ、
という意識を持つに至った。没落した家の歴史に対する反発心が、精神活動の結果と
しての芸術作品=歴史に記録され後世にまで伝えられる「無形の財産」への憧れとな
り、文学に親しみ、美術の道へと接近していく少年期の私を育てたのである。
 青年期――私は故郷の町の石切り場で働きながら詩を書き、絵を描いていた。流れ
る雲を見つめ、空を眺め、石の声を聞き、キャンバスに向かう日々は楽しかった。し
かし時は高度経済成長期であった。建設材としての石材の需要は急騰し、私は身体を
酷使して、「白ろう病」という職業病の発生により、「廃人寸前」と診断を下された身体
となって湯布院の病院へと送り込まれた。そこで出会ったのが「湯布院の町づくり=
文化による地域づくり」という理論と運動であった。この町での再起が、
「由布院空想の森美術館」の設立へとつながった。
 ここまではよかった。私は、文化活動によって地域が活性化し、湯布院という山間
の小さな町が新しい地域像を獲得しながら立ちあがってゆくさまを目撃し、その運動
の中に身を置くことのできたことに感動したのである。けれども、増え続けた観光客
は町にあふれ、野も山も田園も、開発の波にさらされた。田んぼ一枚(一反部あたり)
一億円の値がつき、地上げ屋が殺到し、札束が乱れ飛び、政治家が暗躍し、町は狂奔
した。「バブル」と呼ばれた狂騒の時代の到来であった。私も、伐り払われ、売りに出
された美術館周辺の森を「開発に歯止めをかける」という名目で買った。市場に出回
っていた不思議な仮面たちも買い集めた。ゴム印と簡単なサインだけで、一億円前後
の金を三度も借りたのである。私もまたバブルという時代に踊った男の1人であった。
 大切な友人にも湯布院の町にも、大変な迷惑をかけた挙句、私は20年をかけて収
集した300点の「九州の民俗仮面」を持って宮崎へと移住した。今、静かな森の片
隅で、短い文を書いたり、絵を描いたりしながら過ごす日々は、
私が失った「時」を回復するために必要な時間なのだろう。

<15>

ゆるやかな「時」

 左巻きという名を持つ魚がいる。鯛に似た磯魚で、体側に左巻きの縞模様があるこ
とから、その名がついたものだと思われる。世の中や人に対して素直でない――つむじ
曲がり――という意味での左巻きではないだろう。雑魚あつかいされている魚だが、
味は、鯛にも引けをとらぬ、と私はひそかに思っている。
 私は週に一度か二度、近くの町へ出かけて、魚を買ってくる。宮崎県の東部は太平
洋に面していて、豪快かつ多様な海岸美をみせる。その豊かな海に面した多くの漁港
から、多種類の魚が大量に水揚げされる。その魚が、即日、漁港近くの市場や魚屋な
どで販売されるのである。新鮮で、価格は驚くほど安い。
私は悠然と中庭で焚き火をして、出来た熾火で焼き、食べる。
 野菜は、友愛社の子どもたちが育てたものを届けてくれたり、母が耕した「ばあち
ゃん農園」で出来た無骨なもの、あるいは100円市場と呼ばれる農産物直売所で買
うものなどで足りる。黒潮と南国の太陽が味付けをしてくれた食物をいただきながら、
私はこれが本当の「ご馳走」だと思う。
 その土地で生産された食材を得、自然に抱かれて暮らす生活スタイルがスローライ
フと呼ばれて、社会的にも認知されはじめた今、私たちは、子供の頃体験した、遊び
や採集生活が本来の意味での財産だったのであり、そこにある自然そのものが宝物だ
ったということに、ようやく気づいたのだ。
 静かな湯治場から一躍人気観光地へと変貌し、客が殺到しはじめたころ、湯布院は
開発熱に沸いた。空想の森美術館設立の3年後、銀行は、建物の評価を建築費の3倍
に見積もり、地価を購入時の価格の6倍に膨張させて、融資を実行した。これが、「バ
ブル」と呼ばれた時期、私の周囲や湯布院の町、そして日本列島という風土の上であ
まねく行われた金融の実態であった。
 不良債権とは、上記のような狂乱の時代の置き土産だろう。国と銀行はその時期の
融資形態のまま「回収」を迫る。中小企業の経営者や保証人たちが苦しめられ、経済
の復興を鈍らせているのは、不良債権という架空の「利」の累積によるものではない
か。バブル経済破綻後10年以上の時が過ぎ、ゆったりと流れはじめた時間とそれを
支持する人々の価値観が生まれた時、それに対応する合理的な「利」の算出方法があ
るのではないか、と思うことしきりである。

 

*「森の空想通信」の第16回以後は「国際交流」のページ
に連載、その後、「漂泊する仮面」「森の空想アート塾」「森
の空想ギャラリー」「自然布を織る」のページを経て、この
ページに帰ってきました。

森の空想通信

<45>

千通の手紙

 机の上に、いつも住所録を置いてある。
 さほど筆まめではない私だが、毎年、年賀状や季節の挨拶をやりとりする相手、
20代前半までを過ごした郷里の友人、湯布院の町で小さな古民芸の店を開店し
ていたころの常連客、個展や企画展の案内状を差し上げる相手などの住所は、
大切に保存しているのである。
 22才の時、郷里の画廊で油絵の個展をした私に、予言者のような画廊のオー
ナーが、絵の仲間や私の作品を観に来てくれる友人たちを観察した後、厳かに告
げた。
―君は絵描きになるには不器用だし、金に縁のある男にもみえないが、友には恵
まれている。大切にすることだ。
 はじめての個展では絵が二枚売れただけだったが、私はその一言がとても大切
なものに思えて、以来、ずっと友人に対する通信だけは欠かさぬようにしてきた。
 その習慣がおろそかになっていた時期がある。「由布院空想の森美術館」を開
館し、多くの来館者を迎えるようになってからのことだ。けれども、美術館の経
営が行き詰まり、閉館に追い込まれようとした時期、「空想の森を湯布院に残そ
う」という運動が起こり、たちまち集まった千人に及ぶ支援者の名簿には、懐か
しい友人たちや空想の森で出会った人々の名が連ねられていた。それが、どんな
に嬉しかったか。湯布院から宮崎へと移転した後、私は、
住所録を見つめ、しばしば物思いにふけった。
―あの人もいる。ああ、彼も応援してくれていたのだ。この人とは、
十年以上も会ってはいなかったのに…
 机の上の住所録は、私の宝物となった。
 千通の手紙を出し続けることは、かなりの根気と、覚悟のいる事業である。さ
さやかな収支に含まれる切手代の比重も軽くはない。それでも、折りにふれ、少
しずつ、発信することを心がけている。昨年は、日本民藝館での「九州の民俗仮
面展」の企画が実現したので、本州方面の方々へ近況報告
を兼ねた案内状をお送りした。
 宮崎で出会った人、九州の民俗仮面展開催中に出会った人などを加え、住所録
の名は千人を越えた。宛名は、パソコン印字はせず、すべてペンで書く。
 インクの色が紙に滲んでゆく、ほんの少しの時間、
私は、一人一人と再会をはたしている。

<46>

書きかけの手紙

 この2年半の間に、何度も、手紙を書きかけてはやめ、
また書いては破り捨てた。
 2001年
5月に「由布院空想の森美術館」を閉館し、二十数年を過ごした湯
布院の町を去る時、挨拶も交わさずに別れた人が多かった。あまりに慌ただしい
日々だったし、この時期、冷静さを欠いていた私は、癒しの町を標榜する湯布院
という町の「町づくり」という理論はこんなにも非情だったのか、という気分さ
え、持ち合わせていたからだ。だが、時間が経つにつれ、それは間違いであり、
湯布院の仲間たちには破綻をきたした美術館の運営やその後の処置
については何の罪も責任もないばかりか、むしろ、大半の人が
―空想の森を守れなかった
と心を痛めてくれたのだ、ということがわかってきたからである。
私は、何という罰当たりな考えでいたことだろう。
 人生の半分以上の時間を過ごした町を離れる時、そこで出会った人々に別れの
挨拶もできなかったということは、痛みをともなう悔いとなって私を責め続けた。
それで、折々に手紙を書き、無礼を詫び、近況報告をしようと思って便箋をひろ
げるのだが、数行書いただけで、紙面が曇り、ぱたり、とペンが止まるのである。
 廃人寸前といわれた身体を引きずるようにして、入院した私を、暖かく包み込
むように迎え、治療を続けてくれた病院の人たち。退院し、社会復帰の場を探す
私に、その扉を開いてくれた人。「町づくり運動」の先輩や仲間たち。「湯の坪
街道」の人々。山野を歩き、釣りに明け暮れた日々、いつも一緒だった友人。熱
烈なアート論議を交わし、行動をともにした創作家たち。
最後まで、経営の助言をしてくれた人…。
 大切な友人や恩人の顔を思い出し、古い映画を繰り返し観るように湯布院で過
ごしたさまざまな場面を思い描きながら、私のペンは、いつまでも動かない。
 この連載エッセイが中盤にさしかかるころから、手紙や電子メールなどで便り
をいただくことが多くなった。うれしいことである。やはり、皆、私と空想の森
美術館のことを気にかけてくれていたのだ。町づくりのリーダー・中谷健太郎氏
からも、一枚の葉書が届いた。昨秋、出版した「九州の民俗仮面」(鉱脈社)の
ことも祝ってくださり、「これでひとつの区切りだね」と書かれていた。
万感こもる言葉であった。

<47>

花酒の客

 梅の枝にわずかに散り残っていた花が、風に飛ばされ、淡い空へと舞い上がっ
て行った。桜の蕾が一杯に膨らみ、開花の瞬間を待っている。この時期、桜の小
枝を採取し、絹糸を染めると、早春の空と花びらの色とが同化したような、
輝くばかりの桜色に染まる。
 春風に誘われるように、来客が増えはじめるのがこのころである。山女魚を狙
う釣りの仲間。地元の画家や写真家。九州の民俗仮面収集の過程で知り合った仮
面研究者や祭り取材で出合った人。自然布織りと草木染めの
ワークショップ参加者。森のアートに集まる子どもたち。
―友あり遠方より来たる また楽しからずや
と孔子は「論語」のなかで歌った。
―同朋友あり自ずから相親しむ。君は川流を汲め 我は薪を拾わん
と詠ったのは、わが郷土の先哲・広瀬淡窓である。幕末、淡窓の私塾「咸宜園」
には、門弟数千人が集い、天下国家を論じ、詩・書・画・風月を愛でた。友人を
迎え、語り合う一夜こそ、人生における最上の時間である。
 私もまた、客を迎えるために森へ薪を拾いにゆく。家の周囲が深い森だから、
散歩のついでに担いでくればいい。水は、九州山地の湧水を求める。山菜や海の
魚も豊富な恵み多い土地で、私は、とっておきの「花酒」で来客をもてなす。花
酒とは、四季折々の花を採取し、35度の果実酒用の焼酎に漬け込んだ酒のこと
だ。桜の花。梅の花、藤の花、アカシア、花筏。昨年は浜木綿や野萱草も漬けた。
いずれも、繊細な花の味わいと香りがあって、美味である。なかでも、椿の花を
漬け込んだものはブランデーのような味となり、高山の樹林に咲く黒文字の花を
漬け込んだものは、ポーランドのウォッカ「ズブロッカ」
のような味と香りとなって、出色である。
 思えば、湯布院で過ごした二十数年間を、私は客を迎えることに費やした。町
づくりイベントによる観光客の誘致。古民芸店の店主としてものを売る仕事。入
館料収入による美術館の運営。それらは、いずれも「客」が「金」に換算された。
この時期、私の時と金と客の関係は正しく機能しなかった。
 いま、私は、お金とは無縁の客を迎え、酒を汲み交わし、釣りの自慢話をし、
アート談議に熱を上げ、仮面論を深め、ときには世界の情勢についても論じる至
福の時間を得た。花酒の客は、熟成された「時」の旨味
と価値を知る、真の友人である。

<48>

雲のゆくえ

 草焼きを終えた黒々とした土に、若草が芽吹いている。古墳の丘の上には、白
い雲がぽっかりと浮いている、大小数百の古墳が点在するこの地方の春は、のど
かで、宇宙的でさえある。九州山地を越えてきた西風が、丸くて白い雲を発生さ
せ、その幾つも幾つも連なった雲が、太平洋から吹き上げてきた
南風に出会って、北東の方角へと運ばれて行く。
 たとえば、一つの古墳を造るためには、土木工事や石材加工に優れた技術をも
つ専門集団、埴輪などの副葬品を造る技術者などが必要だろう。鎮魂儀礼や天文
学の知識を持ち合わせた呪術集団もいる。その集団を養うための農産も欠かせな
い。古墳地帯には、現代人の想像をはるかに超える古代人の知恵や時間などが累
積しているのだ。そしてその集積された「気」は、この地域の時空を支配してい
る。ある年の冬、西都原古墳にある女狭穂塚(木花咲耶媛の墓と伝えられる)の
近くを散歩していて、松虫の音を聞いたことがある。すべての景色は枯草色で、
もうとっくに虫の季節は過ぎていた。墳丘の中から聞こえてきた、たった一声の
それは、地の声のように思えたものだ。不思議な雲は、
天の気と地の気とが合一するところに発生するのであろう。
 のどかな雲を浮かべる大地の片隅を、母と二人で掘り返す作業を続けている。
土中の宝や古代の遺物を狙っているわけではない。木を植えているのだ。町へ出
たついでに、柑橘類や柿の木など、果樹の苗木を買ってきて植える。周辺の森や、
家の脇などに生えている小さな木も、畑の縁や空き地の隅などに移植する。今年
は、柚子、枇杷、椿、栴檀、栗などを植えた。柚子は、捨てた種子が発芽したも
ので、枇杷は、竹林に埋もれて枯死寸前となっている
古木の下に生えていたものである。
 私は、1986年から15年にわたり、湯布院で「空想の森」という森を育て
続けた。工事現場や裏山の原生林から、種々の樹木を移植したのである。その木
が育ち、小さな森を形成するまでにおよそ10年の時間を要した。深々と美術館
の建物を包み込んだ森は、花を咲かせ、キノコを発生させ、実を生らせ、私たち
と会話をはじめた。その森と別れて、私はいま、この地で木を植える作業を再開
している。雲のゆくえを見ながら、それもまたよし、と思う。

<49>

「農」の美学

 畑を耕していたら、ジャガイモが一個だけ出てきた。昨年の夏ごろ、埋めてお
いた生ゴミの中から芽が出て、頼りなげな白い花を少し咲かせていたのだが、土
中には、けなげな実りが果たされていたのであった。母が、その芋を二つに切り、
切り口に灰を塗って、大切に畝に沈め、土を被せて、
―これで二株ほどは穫れるじゃろう…
と、笑う。
 私たちの畑は、もとは友愛社の子どもたちが遊んだ運動場で、長い間、空き地
となっていたため、ススキやヨモギなどの根ががっしりと地面に食い込み、踏み
固められていた土をますます堅くしている。その堅固な土面を鶴嘴で掘り起こし、
平鍬でならし、木灰と野菜葛と腐葉土と牛糞を埋めて、
どうにか作物が育つ土壌としたのである。
 その畑が、荒地と大差のないしろものであることは、たちまち繁茂し、広場を
埋め尽くす草と野菜との区別のつきがたい状態になること、収穫されたものは、
スイカ一個、トマト五個、ダイコン少々、キュウリ五籠程度であったことなどに
より、あきらかである。しかしながら、キュウリは夏の食卓を涼しくしてくれた
し、スイカは格別の甘さで私たちを喜ばせ、ダイコンはひりりと辛くてご飯の旨
味を増してくれるなどして、野菜が本来自然界にあったもの
だということを再認識させてくれたのである。
 私は小学校六年の夏、二つ年下の弟と二人で竹やぶを畑にしようと試みた。今
から四十数年前のことである。それは、三代前までは大地主といわれた私の家に
最後に残された猫の額ほどの荒地であった。夏休みを犠牲にした私と弟の奮闘の
結果としての開拓地は十坪ほどもなく、しかも、翌年には再び盛大な竹やぶに戻
った。私たちの掌のマメと腕の痛みの代償は、村の大人たちの冷笑であった。以
来、私は「農」に対してある種の距離感と、憧れと畏敬の念を抱き続けてきた。
山地の石垣や棚田をみればその美しい造形に驚嘆し、黒い土に刻まれる畝の列
に目を楽しませ、整然と刈り込まれた茶畑や、宮崎平野の空を区切るダイコンの
掛け干しを見ながら、「農は二千年のアートである」と呟いたりするのである。
 私と老母の畑は、美学などとはほど遠い素人菜園だが、少しずつ鍬を入れ、収
穫物を得るようになるにつれ、少年期に抱いた農業への
拒絶感が薄れてゆくのがうれしい。

<50>

渓流の音

 雨の日は音楽を聴く。演奏に混じる雨音を聞きながら、釣り道具を持ち出し、
竿の手入れをしたり、仕掛けを作ったりするひとときは、格別である。
 20年ほど前に買ったクォードESLというスピーカーの機嫌がすこぶるいい。
音楽好きの友人が放出した中古のスピーカーは、ここ数年、音が途切れたり、夾
雑音が入ったりする気まぐれな状態が続いていたのだが、何かの拍子ですっと軽
く音が出て、復活した。柔らかな音色を良く再現するこのスピーカーは、室内楽
やバロックの曲を聴くのに適している。
 今年の2月29日は雨だった。それで、一日中音楽を聴き、釣具の点検をした
のだ。山女魚釣り解禁日(3月1日)の前日の雨音は、渓流の音を連想させ、時
として男どもを狩場へ急ぐ猟犬のような心持ちにさせる。こんな日は、シューベ
ルトのピアノ五重奏曲「鱒」などを聴きながら、心境を穏やかに保つのがよい。
 当地での釣りの先達は、近くに住む木工家の小島君である。彼はルアーフィッ
シングの名手で、宮崎県内のポイントを熟知していた。彼のルアーは、大川や淵
ばかりでなく、渓谷の瀬でさえ、巧みに泳ぐ。激流の中から
飛び出してくる山女魚を私は何度も目撃した。
 小島君の先導によって私は、九州山地の山襞深く分け入ることが出来た。そし
て多くの山女魚との出会いを果たし、植物分布や地質、
地名の起源などを知ったのである。
 昨年、最も多く訪ねたのは、「名貫川」という中規模の川である。尾鈴山を源
流とするこの川は、川幅は細いけれども奥行は深く、魅力に富んでいた。「月の
輪熊」のものだと思われる生々しい爪あとが大木に残されていたこともある。
「尾鈴」とはカムヤマトイワレヒコノミコト(神武)が東征の折、山麓を通り、
尾に鈴をつけて嶺を越える馬の夢を見たことにちなむという。「矢研ぎ」という
古代製鉄との関連を思わせる地名もある。放流ものとはあきらかに違う、天然も
のの、虹色の山女魚が、ぎらりと魚体を輝かせながら水底からあがってくる時、
新鮮な感動に私の身体はふるえた。
 山に入り、渓谷を歩き、魚を追う日々が、私に、山育ちの男としての健康な生
活感覚を呼び戻してくれた。なにものにも代えがたい喜びであった。

<51>(最終回)

石を積む

 一晩中、降り続いていた雨は、昼前には小降りになってきた。釣り竿が、出番
を待っている。私は出かけなければならない。
 3月1日――山女魚の解禁日ほど、釣り人の心境を複雑にさせるものはない。
この日、魚の数をはるかに上回る釣り人が川辺を騒がせ、長い冬の眠りから覚め
たばかりの、まだ覚醒状態に至らぬ魚たちを追いつめる。魚たちにも多少の油断
がある。彼らは、腹がへっているのだ。釣り師という天敵が水辺から去り、深い
淵に粉雪が降り込み、木枯らしが谷の木々を揺すりながら過ぎて行く季節をじっ
とやり過ごしていた魚たちは、南風が吹き、水が温むと同時に猛烈な空腹感に襲
われ、餌を求めて浅瀬へと泳ぎ出す。そこへ、さまざまに工夫を凝らした餌が投
げ入れられる。不覚にも彼らは飛びつく。
 私は解禁日の釣りをあまり喜ぶものではない。この時期の魚を狙うのは、なん
となくフェアでない気がする。だから、軽く川に挨拶をするつもりで出かける。
ふくらみはじめた猫柳や、高い崖に咲く藪椿にでも出会えれば、それでじゅうぶ
んだ。と、いうような、殊勝な心がけで川辺に立つのだが、いざ竿を振ると、狩
人の末裔としての本能が目覚めて、つい、本気を出す。そして、釣れる。釣れれ
ば嬉しいし、仲間が集まれば自慢話もしなければならぬ。
釣り師の心は、陰陽綾をなす。
 釣果に恵まれない時は、石を拾ってくる。九州山地・米良山系の山や谷筋には
板状の石があり、これが、棚田の石垣や、民家の土台石などに使われ、美しい風
景を形成する。私はこの石を運び、家の修復をしたり、絵や書を書きつけたりす
る。子どもたちと行うストーンアートの素材ともなる。
 石を積み上げてゆく作業は楽しい。壁の補強から開始された石積みは、やがて
壁そのものに及ぶ。流木と組み合わせて、建物自体がオブジェ化してゆくのだ。
石を積みながら、私は、アートと空間表現としての環境芸術やリサイクルアート、
福祉等のジャンルとの連係がはじまれば、スポンサーの経済力によって支配され
てきた平面芸術の限界を超え、新しい時代が切り開かれるかもしれない、などと、
少し大げさなことを考える。「森の空想ミュージアム」とは、こんな私の空想癖
を再生する機能も持っているのだと思うと、暖かな気持ちになる。


2003宮崎創美/全国セミナール

「福祉と芸術の融合」をめざして

 高見乾司(2003宮崎創美/全国セミナール世話人)

1.南阿蘇から宮崎へ

2002年8月、南阿蘇で開催された「創美南阿蘇全国セミナール」には、全国から
約250人の参加者が集まり、盛大に開催されました。アルゼンチンタンゴに酔い、
阿蘇の外輪山を彩る打ち上げ花火に感動し、もちろん、子供たちの絵にさまざまな思
いや感想を重ね合わせ、そして友情を深めながら過ごした、2002年創美第39回
南阿蘇全国大会からはやくも半年以上がすぎました。南阿蘇での代表者会議で、「次
の開催地はどこに?」というテーマが難問化しつつあるように思えた時、思わず「瑛
九の出身地宮崎で」という提案をした私は、あとで(しまった)と頭を抱えましたが
あとの祭りとはこのこと。その後、鹿児島創美のみなさんの全面的なご協力をいただ
きながら少しずつ準備を進めてきました。私が「宮崎で全国創美を」と発言したこと
には、いくつかの理由があります。そのことを記して、
「2003年創美宮崎全国セミナール」へのご案内とします。

2.瑛九と宮崎

ご承知のように日本の前衛美術の先端を疾風のように掛け抜け、後進に多くの影響を
与えた画家・瑛九は、「創美」とも深いかかわりをもちます。コレクターとして知ら
れた久保貞次郎・画家北川民治の出会いによって出発した創美は、同時期に瑛九を加
え、オノサトトシノブ、池田満寿夫、?嘔などの前衛美術集団とともに銭後の美術教
育に大きな影響を与えたのです。その瑛九は、宮崎県出身なのですが、青年期に東京
へと出てしまったこと、宮崎の美術が具象絵画を中心に展開されたことなどの理由に
より、瑛九と宮崎画壇との縁は薄かったようです。そのため、現在では、瑛九と創美
のことが語られる機会は宮崎では皆無といっていい状況です。しかしながら、今なら
まだ、瑛九と行動をともにした人、当時の瑛九を知る人などがいます。
この人たちと
初期創美の先輩方を交え、瑛九のことを語り、宮崎と瑛九と
創美のことを記録にとどめられれば創美の今後の活動にとって
大切な資料・指針になるのではないか、と思うのです。

3.石井十次と友愛社/「福祉と芸術の出会いによる理想郷づくりの夢」

2003宮崎創美/全国セミナールは、宮崎県木城町と西都市にまたがる広大な茶臼
原台地に敷地をもつ社会福祉法人「石井記念友愛社」のご協力
をいただきながら開催されます。

石井十次(1865―1914)は、宮崎県高鍋町に生まれ、日本ではじめて孤児院
を設立するなど、児童福祉の先駆的事業を行い、日本の福祉の父とも呼ばれます。当
初、岡山と大阪を中心に福祉活動を行っていた十次は、1994年(明治27年)よ
り故郷茶臼原の台地に移転を開始。農業と教育そして芸術が出会う福祉の理想郷をつ
くろうとしたのです。友愛社はその十次の理想と理念を引き継ぎ、現在も福祉活動を
継続しています。友愛社の敷地は35ヘクタールにおよび、敷地内には約50人の児
童が生活する天心館を中心に石井十次資料館、のゆり保育園、ひかり保育園などの施
設が点在しています。のどかに牛が鳴き、小鳥がさえずり、ゆったりと雲が流れるこ
の地には、不思議な光が満ちています。それは、西都原古墳群、茶臼原古墳群、持田
古墳群などの古墳地帯に囲まれ、神楽などの芸能を伝える九州山地を背後に控え、日
向灘の黒潮の響きを聞くこの土地が、古代の記憶と開拓者の夢、
現代の時間などをつむぎ続ける場所だからでしょう。

4.由布院空想の森美術館から森の空想ミュージアムへ

「旧・由布院空想の森美術館」は、1986年8月から2000年5月までの15年
間、大分県湯布院町でさまざまな活動を展開しました。そして1996年には、創美
全国セミナールを湯布院町で開催し、その協賛会場のひとつとなりました。私(筆者・
高見)と創美の出会いはこの時だったのです。子供たちの絵画について熱心に討議し、
研究を重ねる創美のみなさんの姿に心を打たれ、私はその年から会員の一人としてそ
の後の創美の活動に参加させていただくこととなりました。空想の森美術館は、残念
ながら種々の事情の重なりによって閉館しましたが、その時、「空想の森を湯布院に
残そう」という支援運動やその後の展開に声援を送り続けてくださったのも創美のみ
なさんでした。空想の森美術館はそうした経緯を経て、この茶臼原の友愛社の森の一
角で、「森の空想ミュージアム」として活動を再開することができたのです。私たち
を暖かく向かえてくださったのは、現在の友愛社の理事長の児嶋草次郎氏やその仲間
のみなさんでした。児嶋氏のもとへは、「わたくし美術館」主宰の尾崎正教さんや現
代美術の作家などとともに何度も訪れ、「福祉と芸術の出会い」に着いて語り合った
時期もあります。これもまた不思議な縁といえるかもしれません。

5.福祉と芸術の森で

森の空想ミュージアムとは、かつて石井十次や茶臼原台地を開拓した初期の入植者の
みなさんなどが祈りを捧げていた旧・教会を改修した「祈りの丘空想ギャラリー」、
友愛社の子供たちが生活をしていた古い宿舎を改修して染織と自然布の工房として利
用する「空想工房」、そしてその二つの施設を結ぶ散策空間「緑の空想散歩道」のこ
とです。空間や地域そのものが制作と展示の場となることによりそこは「ミュージア
ム」となるという考え方にもとづくものです。この地域にはすでに木工家、音楽家、
染織家、有機栽培の農家、楽器の修理職人などが住んでおり、友愛社の活動と連係し
た制作活動と生活を送っています。これまでに、染織、ダンボールアート、竹や石を
使ったアート、森の竹や木などを使った楽器作り、森の小屋づくりなどのワークショ
ップも開催され、多くの親子が参加してくださっています。

2003宮崎創美全国セミナールでは、この森の空想ミュージアムを中心にさまざま
なワークショップや企画展などを行いながら、友愛社の見学、高鍋町内にあるホテル
での研修会などを行う予定です。福祉と芸術と創美の活動が出会う時、そこからまた
素晴らしい実験が始まるでしょう。みなさん、ぜひご参加下さい。

2003創美宮崎全国セミナールを終えて

【感動の出会い/宮崎県ではじめて開催された創美全国セミナール】 

「2003創美宮崎全国セミナール」は、8月1日〜3日までの3日間、宮崎県木城
町「石井記念友愛社」、同西都市「森の空想ミュージアム」、
同高鍋町「ホテル四季亭」の三会場において開催された。
1日目は、まず森の空想ミュージアムに全国から参加者が次々に集合。近くの草原へ
出かけ、採集してきた草や木の葉で布を染める「草木染ワークショップ」、地元の竹
で笛をつくる「森の笛ワークショップ」、日向灘の海岸で拾った石や森から採集して
きた木の枝などを組み合わせ、ペインティングする「ストーンアート」、ダンボール
を利用してオブジェを作る「ダンボールアート」の四つのコースに分かれたフィール
ドワークを楽しんだ。身近にあるものや普段見捨てられがちな素材が、アーティスト
たちの指導により、見違えるようなアート作品に変身。明るい笑い声が会場に満ちて、
「2003創美宮崎全国セミナール」の幕が開いたのである。

その後、主会場であるホテル四季亭に移動。大広間のテーブルを囲んだ交流会では、
美味しい食事を楽しみながら、遅れて到着してきた参加者を迎える握手、1年ぶりの
挨拶などが交わされ、会員やゲストの紹介、早川広志さんのフルートの演奏などもあ
ってなごやかなひとときとなった。続いて会員の射矢淳一さんの講演「ひまわり園で
の実践をとおして」では、障害をもつ人たちと射矢さんの心の交流、そこから生みだ
されてくる絵の魅力などが、会場に展示された絵を見ながら語られた。身体の小さか
った射矢さんご自身も、戦時中、「一人前」の子供として扱われなかったという体験
をもつこと、そのことが障害者の美術に取り組む契機になったこと、1人の人間とし
て障害者と付き合い、心と心が触れ合ったとき、素晴らしい絵が生まれる瞬間となる
ことなどのお話は、参加者の胸に染み入るような言葉となって響いたのである。

さらに、島崎清海さんの講演「瑛九と創美運動」では、貴重な発言があった。島崎さ
んは、瑛九の家のすぐ近くに自宅があったことなどの縁により、瑛九やその仲間たち
と接触、創美の設立後、事務局長をつとめた経歴をもつ、われわれの大先輩である。
1911年、宮崎市に生まれた瑛九
(本名・杉田秀夫)は、1925年に中学を中退し
て上京し、日本美術学校に入学。以後、帰郷と上京を繰り返す。1927年・16才
の時には、宮崎にいながら「みづゑ」「アトリエ」などの美術誌に美術評論を書いて
いることから、その早熟ぶりがうかがえる。1929年には再び上京し、以後193
3年まで、オリエンタル写真学校入学、写真評論の執筆、木版画の制作、油絵の制作、
独立展・ニ科展への出品(いずれも落選)など、活発な創作活動を展開。1934年、
帰郷。エスペラント語を学習。このころ、コレクターの久保貞次郎が宮崎を訪れ、瑛
九との交流が始まる。1936年から1938年へかけて、フォトデッサンの制作、
自由美術家協会の設立に参加など、さらに活発な活動が続き、1951年のデモクラ
ート美術協会の結成に至ります。この時期、久保貞次郎、北川民次、瑛九が出会い、
「創美」の設立に結びつくのである。特筆すべきは、1952年に、久保コレクショ
ンによる世界の児童画の展覧会が宮崎市・延岡市・都城市・小林市・日南市・妻(現
在の西都市)・高鍋町を巡回し、これに関連して、瑛九は講演や日向日日新聞(現在
の宮崎日日新聞)に児童画論を書くなど、積極的なかかわりがみられることである。
そしてこの年、栃木県の久保邸で創美設立についての話し合いが行われ、瑛九も参加、
5月、創美設立会員になる。初期創美のダイナミックな運動と瑛九のかかわり、宮崎
との関連などは、いままで語られる機会がなく、宮崎県の美術史における「空白」と
なっていた感があるので、今回、創美設立50年を経てはじめて宮崎県で創美の全国
セミナールが開催されたこととあわせて、貴重な資料となったのである。

【“絵を見る喜び”に満ちた一日】

2日目は朝から年令別子どもの絵を見る会。各地から、子どもの絵を持った保育士さ
んたちが集まり、作品をずらりと床に並べて、熱心な討議が始まりまった。これが創
美の活動の骨格であり、創美の「いのち」である。私は、この子どもの絵を見る会に
ついて、昨年の南阿蘇全国セミナールと前回発行の機関紙上で、「カウンセリングの
要素がつよいのではないか」という発言をした。それは、担当者が自分のもってきた
作品についての情報をさきに述べ、それについてベテランの会員が答えるという図式
となっているため、若い保育士さんの悩みにベテラン会員が答えているという印象が
強かったからである。この問題は、8月31日の代表者会議の議題となり、今回のセ
ミナールの課題のひとつとすることが決定。それをふまえ、今回は皆でよく絵を見た
上、現場の担当者の発言を多くとり入れるという方式がとられた。ひとつの提案に対
してすばやく反応し対応する、創美の精神と機能は生きていると私は思い、
うれしくなったのである。

「私の好きな子どもの絵との出会い」というプログラムもまた、今回のセミナールで
の重要な提案だった。創美のセミナールでは、心の問題や家庭・環境の問題などさま
ざまなテーマをもった子どもの作品を担当者が持ち寄るケースが多いため、「絵を見
る」という行為そのものが重苦しい雰囲気になることが多い。しかしながら、子ども
の絵というのは、本来、お花畑に咲く花のように明るく美しく、輝きにみちているも
のなのだ。そこで、各自、自分の好きな一枚の絵を持ち寄り、絵を見ることの楽しさ
や絵画教育における可能性などをともに考えよう、というのがこの企画であった。こ
の試みは、6月に同所で開催された「九州フレッシュマンセミナール」でも実験され、
その時には事前のミーティング不足や時間不足などの理由により不完全燃焼の感があ
ったのだが、これについても代表者会議で討議され、「良い絵を選ぶということは多
数決により順位を決めることではない」というコンセンサスが得られて、今回は順調
に進行された。会場の壁面一杯に張り出された絵を前に、参加者たちは、自分の好き
な絵を選び、挙手する。手をあげるという行為そのものが、自分で絵を見て、好きな
絵を選ぶという意志表示なのである。そして、挙手が多かった子どもの作品も、少数
しか挙手のなかった作品についても、それぞれ、なぜ好きなのか、どこにひかれたの
か、その絵が生まれた背景はどうだったのか、だれがその絵を選び、ここに持ってき
たのか等々、さまざまな質問と分析がなされる。1才児の作品に、挙手は少なかった
けれども個性あふれる絵があり、私はその絵について、1才の時から人間の子どもは
絵を描きはじめ、このようにつよい個性が現われるのだ、ということに感動し、その
ことを指摘した。すると会場から、大きな拍手が起こった。持ち寄られた絵の数が少
なかったことと、当日集まった作品の中から選ばれた絵が多かったことなどにより、
全体的には作品の片寄りがみられたが、“絵を見る”という
喜びと興奮が会場に満ちたひとときであった。

【絵を見るということそして絵を所有するということ
―「大人の絵を見る会」の今後に思いをこめて】

朝からたっぷりと絵を見続けた1日は、「大人の絵を見る会」で締めくくられた。今回
は、創美でおなじみの北川民次や瑛九、池田満寿夫等の作家の作品、会員の射矢さんと
高橋さんがお持ち下さった障害をもつ方たちの作品に加えて、地元の画家・染織家たち
に出品をお願いした。西都市在住の弥勒祐徳(みろくすけのり)氏は現在
82才。寝たき
りの奥さんを介護しながら、九州山地の神楽に通い、作品を制作し続けてきた作家であ
る。その土俗的かつ素朴な画風は、山の民が伝える祭りのゆたかな情景をみごとに表現
している。宮崎市在住の水元博子氏は猫や花や人物がさりげなく交感する空間をお洒落
に描き出す女流画家。延岡市在住のアーナー恵子氏は、ベニヤ板、ステンレス、ダンボ
ールなどを素材に、コラージュの技法を駆使し、家やお店などをファンタジックな空間
に変えてしまう現代美術家である。高鍋町在住の永友陽子氏は、子どもたちのためのア
ート塾で、子どもたちと一緒に絵を描き続けている下鳴きあふれるアーティストである。
森の空想工房で染織の仕事を続ける横田康子氏は葛や楮、藤、苧麻などの自然素材を採
集し、糸をつくり、染めて織った作品を出品。私
(筆者・高見)も墨とインクによる小品を
出品した。弥勒氏は油絵の貴重な作品を賛助出品して下さった。その他の皆さんは、
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目のフィールドワークの講師として、さらに参加者の一人としても後方から支援して下
さった。これらの方々の作品を会場に展示し、「創美美術展」のような趣向で各地から
おいでになる皆さんをお迎えし、絵に囲まれ、絵を見、絵について語りながら
3日間を過
ごしたいと私は願ったのである。さらに、現役の作家たちと出会い、絵について語り、
そして、一枚の絵を入手できる機会があれば、それは最高の出会いとなる、とも私は考
えた。けれども、その意図は、準備不足やミーティング不足、時間が足りなかったこと
などの理由により、十分には実現できなかった。かつて創美には、多くの美術家が参加
し、絵の見方や子どもたちのための絵画教育について発言し、影響を与えた。そして、
創美の会員たちは彼らの作品を購入することで、彼らの芸術活動を支援し、育て、世に
送り出す役割を果たしたのである。現在の創美は、その機能が著しく低下しているので
はないか。美術作品を鑑賞することと所有すること、「鑑賞的価値」と「経済的価値」
との問題は大変デリケートで難しい問題だが、今後、画家や市民など、保育者以外の創
美への参加のこととあわせ、論議し続けるべき問題だと私は思っている。

【福祉と芸術の出会い/石井記念友愛社で】

最終日は、会場を「石井記念友愛社」に移して開催された。友愛社は、孤児の父と呼ばれ、
日本の福祉事業のさきがけともいわれる故・石井十次の創設による社会福祉施設で、現在
も約
50人の子どもたちと、それを指導し支える職員の皆さんが生活をともにしている。広
大な茶臼原台地に福祉と農業、芸術が響調する理想郷をつくろうとした十次の夢は、みご
とに引き継がれているのである。石井十次が岡山から移築した、「方舟館」と「静養館」
それに隣接する建物群は、
100年の歳月を刻み、ここで生活した人たちの喜怒哀楽をしみ
こませて、静かなたたずまいをみせている。その中の静養館で、現理事長の児嶋草次郎さ
んの「石井十次の夢」と題された講演をきくことができた。草次郎さんは、石井十次の曾
孫さんであり、十次の娘婿・児嶋虎次郎画伯のお孫さんにあたる人で、この友愛社を守り、
新しい時代感覚も加えて育ててきた人である。その福祉の現場ひとすじに歩いてきた人の
お話は、深い感動とともに参加者の心にしみたのである。

                         

   

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(SINCE.1999.5.20)