インターネット空想の森美術館
☆森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館☆
NDEX 九州民俗仮面美術館空想の森コレクション高見乾司の本 九州神楽紀行
高千穂・秋元エコミュージアム
町づくりと美術館/由布院空想の森美術館の15年 リョウとがんじいの渓流釣り日誌 遼太朗の 美術館日記 遼太郎の 釣り日記 自然布を織る |
[再生する森] 「小さな焼畑」 <2>焼畑と光合成の関係について ここで、焼畑や焚き火の煙と環境問題について、初歩的な議論を一席。 現今、庭での焚き火や、日本古来の農法であり、アジアにも残存する「焼畑」に対して、二酸化炭素を排出して、地球環境に害をなす、という批判が相次いでいる。私の中庭での焚き火や今回の焼畑にも同様の批判が寄せられることがある。が、私は、そのような人々に対して、植物は有機物が排出する二酸化炭素を葉から吸収し、光合成を行うことで、酸素を排出する。植物が排出する酸素によって、私たち人間を含めた地球上の生物が生きて呼吸し生存しているのだ、これは小学校四年生か五年生の理科で勉強した程度の問題だ。と反論する。すると多くの人が、あ、そうだった、というような顔をして、頷くのである。 念のため、インターネットフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)で、「光合成」を検索してみた。結果は以下のとおりである。 、 ■光合成(こうごうせい/ひかりごうせい、:photosynthesis)とは、主に植物や植物性プランクトン、藻類など、光合成作用をもつ生物が行う、光エネルギーを科学エネルギーに変換する生物化学反応のことである。光合成生物は光から変換した化学エネルギーを使って水と空気中の二酸化炭素から炭水化物(糖類:例えばショ糖やグルコースや澱粉)を合成している。また、光合成は水を分解する過程で生じた酸素を大気中に供給している。(中略)光合成では水を分解して酸素を放出し、二酸化炭素から糖を合成する。光合成の主な舞台は植物の葉である。[光合成1]
m mm <3>戦闘機の飛ぶ空の下で 前記・インターネットフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)の「光合成」の項では、「年間に地球上で固定される二酸化炭素は約1014kg、貯蔵されるエネルギーは1018kJと見積もられている。」と続けられている。数字をみただけではなんのことかわからないが、地球上では、人間が生活上排出する二酸化炭素の総量が大幅に貯蔵許容量を上回り、地球の環境・生態系に悪影響を及ぼし、ひいては人類の存亡に関わる問題にまで進展しているということは、わかる。すでに小学生でも知っている21世紀の共通認識といえよう。環境教育の必要性が叫ばれ、市民生活でも、ゴミの分別収集や焚き火の制限など、多くの取り組みがなされている。私も、中庭でのささやかな焚き火にさえ気を使い、ビニールやプラスチックなどの科学製品が混入しないよう、配慮する。自動車産業を筆頭とする企業も、存続をかけて環境問題に対応する製品の開発に取り組む。国家レベルでの環境会議も開催される。それらは、大変結構なことで、ますますその精度を上げ、熱心に取り組んでいかねばならないと私も思うのだが、ここにひとつ、見落とされている重大な問題点がある。それは、人類が行う「戦争」によって消費されるエネルギーの計算と、そのことによる環境への影響度のことである。ここはソバ畑だから、多くのことを言うのはやめよう。一発の弾丸が発射されるたびに火薬が消費され、爆弾が落とされ、火災が起こり、油田が爆破される。 一回の戦争で費やされるエネルギーと排出される二酸化炭素の量はいったい、どのくらいになるのだろうか。このことを計算したり研究したりした学者も環境保護団体も政治家もいないのだろうか。私はそのことが不思議なのだ。戦争にはそれぞれの理由があり、当事者はそれぞれの正義を掲げて闘う。私の友人の画家は、「かつて正しい戦争などなかった」と言ったが、現代の戦争は、もはや「敵」だけではなく、「味方」をも、すなわち人類そのものをも滅ぼす次元の段階に至っているということを自覚してはいないのだろうか。この森の近くには航空自衛隊の基地があるので、しばしばソバ畑の上空をジェット戦闘機が低空飛行する。現時点では、私はそのことに対して意見を申し述べる機会も権限も有しないので沈黙を守るしかないが、爆音を聞くたびに、私は空を見上げ、嘆息するのである。 3333333333333333 uuuu <4>中国・少数民族の村のソバ畑 最初の焼畑から一週間が過ぎた日に、宮崎市佐土原町から鈴木遼太朗君が来た。遼太朗君は今中学一年生でサッカー部に入り、練習に明け暮れているので、なかなか来れないが、去年までは休みのたびに来て、美術館作りを手伝ってくれたり、一緒に山女魚釣りに行ったりした。最初は館内を全速力で走り回るただのやんちゃ坊主だったが、自然の中での生活や渓流を分け入る釣行などで、逞しく、礼儀もわきまえた少年に育った。焼畑では、火入れの前の防火線作りから火入れへと進む作業を手際よく進めてくれた。しかしながら、この日は朝まで雨が降っており、枯れ葉や草は湿っていたので、煙がもうもうと上がるばかりで燃えなかった。この日の焼畑は失敗であった。 翌日、よく乾いた頃合を見計らって火を入れると、たちまち燃え上がり、燃え尽きた。 それから五日ほど後、水俣市から川部岬さんが手伝いに来てくれた。川部さんは、「自然布」などの染織の勉強に通ってきている人である。この日も順調に作業は進み、都合三ケ所の焼畑・ソバ畑が出来た。そして、それぞれの畑に蒔かれた種子は直ぐに芽を出し、成長し、花を咲かせた。私は、毎日何度もソバ畑へ通い、その様子を飽かず眺めるのである。 中国四川省成都市の北方、揚子江の源流のひとつともいわれる「泯江」中流部に住む少数民族「羌(チャン)族」の村を訪ねた時のことである。川添いの道を遡上していて、ソバ畑を見つけた私は、思わず大声をあげて車を停車させ、走ってそこまで引き返し、畑の縁に立った。それは、日本ソバの純白の花とは違って淡紅色の花だったが、茎や葉は、まぎれもなくソバのものであった。標高二千メートルの山里に咲くソバの花と、その向こうを流れ下る泯江の水流、真っ青な空の色など、忘れがたい旅路の風景である。。 ソバ畑に行くのが楽しみである。なにしろ、家から100メートルほどの距離だから、散歩を兼ねて一日に何度も出かけるのである。ソバの花が満開になったころから、さまざまな虫たちが集まってくるようになった。蜂だけでも、十種以上を数えたし、蝶もシジミ蝶の仲間やモンシロ蝶、アゲハ蝶など、やはり十種以上が飛んでいた。もう渡りの季節を過ぎたはずなのに、こんなに多くの蝶が晩秋の森に残っているのが驚きであった。蜂は、蜜を集めるミツバチだけでなく、黒い蜂やスズメバチなども集まってきている。彼らは、勤勉なミツバチと違ってただ蜜を吸うだけの目的でやってきているもののようだ。じっと耳を澄ますと、無数の羽音が聞こえる。米良の山脈が、遠くに霞んでいる。 <7>花酒 ある一日。「花酒」の瓶を抱えて、森へ行く。 「花酒」とは、焼酎(ホワイトリカーが良い)に花びらを漬け込んだだけのものだが、半年を過ぎると、花の蜜が溶解し、花びらの色が酒にほのかな彩りを添えて、極上の酒となる。たとえば、薮椿の花びらを漬け込んだ酒は、濃密なブランデーのように、四月の深山に咲く黒文字の花を採集し、漬け込んだものは、ポーランドのウォッカ「ズブロッカ」のような香りと味に。そしてソバの花の「花酒」は、北の海を眺めながら飲むスコッチのように。ただの花びらと無色・無臭・透明のホワイトリカーが、変身を遂げるのだ。 この花酒の作り方は、湯布院で「空想の森美術館」を運営していたころ、ある画家から教わった。画家は、自宅に一升瓶50本分を越える花酒を貯蔵していると言っていた。画家の奥さんは、かつて「前衛」でならした女流画家だったが、末期の癌に冒され、闘病中であった。私は、老画家が、奥さんの口にほんの少しずつ、季節ごとの花酒を運びながら、その行為自体が病魔を調伏する呪法であるかのように、過ぎ去った二人の時間や、多くの出来事などを眼前に描き出しているのだろうと空想した。そしてそれはなんと甘美で美しい時間だろうと思ったものだ。以後、私も花酒を作った。そして遠来の客や美術論を語り会う仲間などに振る舞った。世界中を演奏旅行で巡っているビオラ・ダ・ガンバの奏者が、花酒を飲みながら演奏し、こんな美味い酒は世界のどこにもない、と嘆息した時など、無上の幸福感に酔いしれたものだ。 湯布院から宮崎へと移転してきて、訪ねて来てくれる客は減ったが、私は花酒の数を増やし続けた。小さな瓶も含めると、その数はすでに百本を越えた。今日、持ち出してきたのは、米良の山から頂戴してきたソバの花を漬けたものだ。米良山系の一部と椎葉の山には、今も焼畑が残り、ソバが栽培される。私の小さなソバ畑からも米良の山脈が見える。蜂の小さな羽音が聞こえる。ソバの白い花に埋もれて、まずは一杯。琥珀色の酒が舌を転がり、喉に落ちてゆく。 <8>アジアの辺境で ―ゴールデントライアングルの焼畑― 象に乗って、峠を越えた。タイの山岳民族の村を訪ねる旅の途上であった。象は、メコン川の支流を一時間ほども小さな船で遡上した川沿いの村で飼われていて、仕事がない時には、付近の山で草を食べたり、川に入って泳いだりしていた。客があれば、背に乗せて悠然と山を越える。かつては熱帯雨林に覆われていた山は、繰り返される木材の伐採によって、草地の多い平坦な山容となっていた。それでも、道が奥山にさしかかれば、密林の中をトンボに似た蝉が飛び、小さな村が見えると、その周辺から立ち昇る焼畑の煙が見えた。広大な山は、焼畑をしなければ、たちまちジャングルとなり、人が踏み込むことは出来なくなるという。焼畑は、細々と暮らす村人の生活を支えながら、この地域の生態系を維持しているのであった。 豊かな森で暮らしていた象は、森から樹木が切り出され始めると、その運搬に使われ、樹木が切り尽くされると、観光客相手の送迎手段としてしか生きる道はなくなり、きわめて不自然な生き方を強いられている。象使いの老人は、「この仕事がなくなれば、象も私たちも生きていく場所さえなくなるのです」と複雑な表情で彼等の置かれている現状を語った。 タイ・ラオス・ミャンマー三国が国境を接する地域(中国雲南省とも近接する)は、かつてゴールデントライアングル(黄金の三角地帯)と呼ばれ、麻薬の栽培地帯として世界にその名を知られた所だ。各国政府の徹底した取り組みによって、現在は麻薬の栽培や取引はほぼ根絶し、かつて地下組織が張り巡らされ、非合法の暴力集団が暗躍した森や山は、果樹やコーヒー、お茶などの栽培地帯となっている。ゴールデントライアングル地点という場所さえあり、そこに立てば、メコン川に面した三つの国を同時に眺めることができる観光スポットになっているほどだ。ただそれは、うわべだけのことかもしれない。ウーロン茶とコーヒー豆を栽培する小奇麗な村には、NGOの名を借りたキリスト教の布教集団が入っていて、小さな教会があり、その土地に伝わる古い民俗・文化は姿を消していた。翌日、訪ねた村は、まだ電気も通っておらず、家屋は屋根も壁も床も竹で出来ている原始的な生活形態を残す村だった。少女は全裸で水浴びをしていたし、村の女は、足踏み式の籾すり機で脱穀をしていた。男たちは出かけていて、村の周辺からは焼畑の煙が立ち昇っていた。そして、そこから先は、私たちが踏み入ることは出来ない場所であった。その風景を、私は美しいと感じたが、それは通りすがりの旅人のひとときの旅情にすぎない。私は、国道沿いの古道具屋で、明らかに麻薬の吸引具とみられる象の形をした陶器を、土産に買ったりしたのだ。ひとたび、山を越え、隣村に入れば、そこは軍政下にあるミャンマーである。その村では古い仮面を使った祭りが続けられているという。が、連れて行くことはできるが帰れるかどうかは保証しない、と、案内者は言う。アジアの辺境の村で、今もなお続けられている「焼畑」やその周辺の民俗を、文明の側から眺めるだけでは、その実態を理解することは不可能であろう。 癒しの森の出会い/妖精からの贈り物」 |
Copyright(C)1999
by the YUFUIN FANCY FOREST MUSEUM OF ART
森の空想ミュージアムホームページ(http://www2.ocn.nejp/~yufuin以下)
に含まれるすべてのデータについて無断で転載・転用することを禁止します。
◆リンクについて、非商用目的なものに限り自由です。リンクを張られる際は
takamik@tea.ocn.ne.jpまでご一報ください。編集・高見乾司
(SINCE.1999.5.20)