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                            企画展
                    
南の島の古陶と精霊神

                        アートスペース繭
                会期 2011年10月31日~11月9日(日曜休廊)
                     東京都中央区京橋3-7-10
                     TEL 03-3561-8225

 幾つかの偶然と、幸運が重なって、種子島焼の優品、沖縄の壷屋や八重山の古陶などを二年ほど手元に置き、眺めるという至福の時間を得た。
文禄・慶長の役と呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮半島出兵の折、従軍した佐賀藩・鍋島氏、薩摩藩・島津氏などが連れ帰った朝鮮陶工は、異国の土地に居住させられその技術を求められた。悲運の陶工たちによって創生された陶磁器は、唐津・伊万里、白薩摩・黒薩摩などの名品を生み出し、日本陶芸の源流を形成したのである。
 「種子島焼」とは、島津氏が連れ帰り、苗代川に居住させられた陶工の一部がさらに南へと移住させられたという説と、島津氏とともに従軍した種子島氏が連れ帰ったものという説がある。鉄砲伝来の島としても知られるこの島の土で焼かれた日常雑器や祭器、花立などは鉄分を多く含み、赤味を帯びて硬く、渋い。戦後、発見されたこの滋味深い陶器は好事家の間でたちまち評判となり、島から搬出され尽くして「幻の古陶」となった。私のもとへ来た一群の珍品は、この時期に入手したコレクターが長年秘蔵していたものであった。
 ある一日――。私は種子島焼の「森の神」とも「窯の守り神」ともいわれる小さなオブジェを窓辺に置き、はるかな南の島を思い、望郷の念を抱いて仕事を続けた陶工たちの心情を思った。10cm足らずのこの小さな焼物は、二本の角を持ち、小さな丸い目が虚空を見つめている。すぼめた口と思われる突起には、渦巻きを思わせる呪的な文様が刻まれ、その足元にも押し寄せる海波のような造形が認められる。脇に立つ、柱状の突起物には穴が開いており、花入れ、または線香立てのような用途を連想させる。
 まことに愛らしいこの小像は、やはり、島の精霊神あるいは陶工たちの守り神であろう。日向灘の浜から拾ってきた破船の断片に乗せると、風化した船体の一部は光を受けて波のように揺れ、付着した貝殻は、磨耗した果てに、王宮の供物を飾る螺鈿細工のように輝いた。その望郷の舟は、ゆらりと南へ向けて漂い流れはじめた。

 上記企画展の会期中、日本橋・人形町のウィークリーマンションを借りて、会場の京橋・アートスペース繭まで毎日通った。人形町は古い町で、私は存分に江戸情緒の名残を楽しみ、毎日、小文を書いてブログに載せた。文を書き始めると、人形町界隈はかつて影響を受けた洲之内徹氏の馴染みの町であったことが思い出され、さらに骨董とアートと文化活動の交錯などへと、連想が広がっていった。アートスペース繭での企画展はすでに10年を経過しており、その間に出会ったり別れたりした骨董や人との縁も数を重ねていたのである。これを機縁に、ここに「がんじいの骨董手控え帖」という一ページを設け、追想や新しい出会いなどを書き留めてみることとした。私は骨董とアートと文化財とを同一線上にあるものと考えている。世間の認識とは多少のずれがあるかもしれないが、ここは我流を通させていただくこととする。「がんじい」とはがんこじじいでもインドの平和主義者ガンジーをもじったものでもなく、がんばるじじいの略称である。では、どのようなときにがんじいはかんばるのかというと、冬、毎週土曜日ごとに神楽の場に通い、徹夜で絵を描き続け、仮面の起源や源流について思いを巡らし、村人と交流すること。夏、山深い渓谷に分け入り、ヤマメを追うこと(ちなみに今シーズンは210匹の釣果があった)、そして骨董と遊ぶこと等々である。
 では本文へとご案内いたします。

[骨董手控え帖<21>]
つれない話

昨日、青葉ヤマメを二日間でやっと二匹釣った(つまりさっぱり釣れなかった)話を書いたが、
少し書き残したことがあるので補足。
二日目の釣りがあまりにも不調だったので、釣れないのは、その日自分より先に釣り上ったらしい先行者や連休中にどっと繰り出した釣り客、または降り続いた雨による増水などのせいにして、
―あの瀬まで釣ってダメならやめよう・・・
と決めて狙ったポイントで、激流を泳ぐ威勢のいいヤマメがかかった。上流の瀬から下流の浅瀬へと、ハリを咥えたまま水流に乗って流れ下る奴を、その勢いのままぐいと手元に引き寄せ、
やっと釣り上げたのである。
元気一杯に暴れた割には、期待したほどの大物ではなく、18センチほどの並のサイズだったが、肩幅ががっしりと盛り上がり、体高も高い見事な奴だった。これが「青葉ヤマメ」である。瀬に出て存分に泳ぎ、採餌を繰り返したこの季節のヤマメが、もっとも美しく、食べても美味い。この貴重な一匹を、(また会おうぜ)と胸の中で小さく声をかけながら水に放つ時の気分もまた悪くない。
「釣り」を「狩り」と同義に考える山の男たちは、リリース(すなわち釣っては放す遊び感覚の釣り)という考え方にはすんなりとは同調できないが、小物や釣果の少ない日の獲物などは、あっさりと放つのだ。資源の保護もまた狩人たちが心得るべき作法の一つなのである。
ところで、今回は不漁だったが、4月の8日、9日、10日の三日間、郷里から釣友二人が来て釣った時には、同じ川で三人合わせて100匹の大台を突破するほど釣れたのである。しかも、この日は三人とも、何匹も釣り落としや合わせ損ねがあり、釣り尽くしたというわけではない。だから、川にヤマメがいないということはあり得ないのだ。それなのに、少し条件が変わればまったく釣れないという、これもまたヤマメ釣りの玄妙かつ繊細な特徴である。たぶん、来週頃には、水量も減り川が静けさを取り戻し、水棲昆虫の発生が回復して、ヤマメたちもどこからか出てきて、活発に採餌活動を再開するだろう。そのころ、また来ることを楽しみに、竿を収めることとしよう。


由布院空想の森美術館の展示風景(当時)

[「骨董と遊ぶ町」の続き
私がこの町で暮らすようになったのは、いまから17年前(注・現時点では30年ほど前)のことだ。その頃は、ちょうど「ゆふいん音楽祭」、「湯布院映画祭」などが始まったばかりだったから、疾風怒濤のごときその運動の渦の中に、私はたちまち巻き込まれた。それは小さな田舎町が、歓楽型の観光地への道を捨て、〝文化〟という概念を基軸にした〝町のかたち〟を模索する、過激な実験の現場であった。だから、この町の人々はいつも忙しく走り回っており、とても、さきに述べたような文人趣味などにうつつを抜かしているような暇はないように思われた。けれども、そのころ私が町なかに開店した小さな店「古民藝糸車」には、だれかれとなく人が立ち寄り、ちょっと目につくものなどあれば、買ってくれるのであった。町のなかで、自分が手がけたものたちが、さまざまなかたちで居場所を獲得していくのを見ることは、楽しみなことであった。印判の鉢、古伊万里染付の食器類、そば猪口、古絣、古い仮面や掛軸に至るまで、じつにさまざまなものが田舎の民家や蔵の中などにはまだごろごろ転がっており、それらの多くは、見捨てられ、埃を被っていた。私は、町から村、草深い山里へと分け入り、それらを蒐集した。小さな店はたちまち雑多なものであふれたが、それらのものをこの町の人たちは面白がって買ってくれた。時代の流れのなかで用途を失い、忘れ去られようとしていたものが、この町の人々の手で、新たな用途を与えられ、現代生活のなかへよみがえっていくありさまをみることが、私は嬉しいのであった。
そば猪口はコーヒーカップに。古伊万里の中皿は鍋ものの取り皿に。苗代川の一升徳利は格好の花入だし、唐津の半胴甕は傘立にうってつけである。また、古い絣が旅館の壁面を飾るタペストリーになったり、この地方で昔使われていた石臼が火鉢に転用され、
しんしんと鉄瓶の湯の音を立てていたり。
このような使用法は、いまではすっかりおなじみの景色となったが、当時は、斬新な転用の手法として目を奪った。この町の人たちは、音楽も映画も、そして骨董さえをも、たちまち〝遊び〟に変えてしまう達人ばかりだったのだ。そしてその高雅な遊び心こそ、この町の生活スタイルを決定づける性格であり、古くからこの町に受け継がれてきた文人精神なのではないか、
と私は思ったものであった。
ところで、くれぐれも断っておかなければならないが、湯布院の人々が、日常、掛軸の掛けられた部屋で、書物を堆く積み上げ、煎茶の道具だてなどした古色蒼然タル空間で思索に耽っていたり、箪笥や箕笠や糸車などを飾りたてた(いわゆる民芸調という)舞台装置で客を迎えたり、というような生活をしているわけではない。むしろ、私やその後この町に出現した六軒もの古美術商(注・その後20店以上に増え、その分、贋作を巡る騒動や取引上のトラブルが多発した)が納入した夥しい数の古道具類は、どこへ消えたかと思わせるほどひっそりと町に溶け込み、目立たない。そして、重厚な日本家屋のなかにはバロック音楽が流れ、田園風景のなかを西欧風の辻馬車が走り、点在する小さな画廊や美術館を、若い女性が訪ね歩く。
ここは、モダンアートの展覧会などが似合う町でもあるのだ。
いま、私は、日当たりの良い、わが「由布院空想の森美術館」の窓辺で、静かに本を読んだり短い分を書いたりする日々を送っている。館内には、私や私の仲間たちが蒐集した、「九州の民俗仮面」を中心とした民俗資料、古布、古道具、現代絵画のコレクションなどが、各室に分かれて配置されている。遠くに湯布院の町並みを望み、背後には秀麗な由布岳が聳える、木立のなかの美術館で、このような生活ができる私は、まさに果報者というべきである。この美術館の成り立ちと湯布院の町で展開されてきたさまざまな運動との関連などは、また別の機会に述べることになるが、この町を拠点に、九州各地を走り回った、私の道具屋としての約10年間の体験は、美術館運営のための貴重なフィールドワークとなったのであった。九州文化の祖形を尋ね、また、湯布院という土地に流れる文人精神を知り得たことが、私たちの美術館の設立に際し、その性格を決定づける大きなはたらきをした。歴史という時間軸を背景に、前衛的な実験が次々と行なわれる壮大な遊びの空間。それが湯布院という町だと私は思っているのである。]


由布院空想の森美術館/木綿資料館(当時)

*気恥ずかしさと、懐かしさが複雑に交錯した気持ちで読み返し、この文を転写した。このころが、湯布院の町と人々がもっとも美しく輝き、皆が理想郷のような町ができると信じていた最後の時代であったかもしれない。その後の湯布院の変容については私は語る資格を有しない。
(2012年5月/高見)


[がんじいの骨董手控え帖<20>]
青葉ヤマメに会った日



山も谷も、青葉の香りに満ちていた。
実際、照葉樹の森は椎の花が満開で、むせ返るような花の匂いが川辺にまで
漂い流れていたのである。
若葉は、初夏の陽光を浴びて輝き、ひととき、釣り人の足を止めさせる。渓谷に立ち、眩しい光を反射する水辺や新緑の木々を眺めるのも、この季節の釣りの楽しみのひとつである。
5月8日、連休明けのこの日は、西米良村小川の谷はひっそりと静まっていたが、
魚影は薄く、アタリもほとんどみられない。
連休の間、釣り人に追い回されたヤマメたちは、川のどこかに潜み、
まだ採餌活動を再開していないのだろうか。
それとも、今年は3月初旬以来、一週間ごとにまとまった雨量の雨が降り、川が増水を繰り返したため、水棲昆虫が流されたり発生が抑制されたりして、ヤマメの棲息環境に
異変が起きているのだろうか。
釣れない日は、釣り師は、自分の腕前は棚に上げて、
いろいろとその原因を究明しようとする。
―川が変だ・・・?
この日、私が下した判断は、これであった。
2時間ほど釣って、釣果は一匹。
次の日、同じく西米良村村所の谷(一ツ瀬川の本流)に入ったが、やはり前日と状況は変わらない。川辺の風景はあくまでも美しく輝いているが、釣れるのは10センチ前後の小物と
ウグイやハヤばかり。
先行者の足跡と、川虫を採集した痕跡がある。いつもなら、
―これでこの谷はダメだ、
と判断し(釣れないのを他人のせいにして)釣りやめるか谷筋を変えるかするのだが、
―今日のような日は、先行者があっても多少の釣りこぼしがあり、それが釣れるのだ・・・
と、強気のイメージを描き、釣り進むことにした。
糸を普段は使うことのない0、4ミリの細さに替え、ハリもオモリも最小のものに付け替え、餌も川虫を採集して、慎重に、かつ叮嚀に釣り上る。が、渓は、しん、として獲物は姿を見せぬ。
2時間ほど釣ったところで、やっと一匹、来た。浅瀬が岩を越えて激しく流れ落ちる直前、その水流に乗って餌を追い下ってきた奴が、がつん、と餌を咥え、身を翻して下流の瀬へと走ったのだ。
軽く合わせると、五月の光を一心に集めたような銀色の奴が、ギラリと光りながら、上がってきた。
この一匹で十分。
鮮烈な「青葉ヤマメ」をひととき掌の中で泳がせ、流れに放った。

[「骨董と遊ぶ町」の続き]

小林秀雄が、晩年の十年間を通い詰めたことで知られる、玉の湯旅館。雑木林に包み込まれた小道がこの旅館への導入路である。熊谷守一の筆跡による木額を目じるしに玄関を入ると、正面に宇治山哲平の抽象画。待合室の板壁には冬青・小林勇の色紙が掛けられてあったり、古小鹿田の大甕に木の枝がどさりと生けられていたりするこの宿も、斬新な感覚と文人趣味とが見事な調和をみせる。主人・溝口薫平氏は、中谷氏と並ぶ湯布院町・町づくり運動のリーダーで、山歩きや昆虫などを愛する学者肌の人である。食膳に添えられた青竹の箸、その箸を飾る草花の箸置きにさえ、主人・溝口氏の粋な気配りが見てとれる。とろとろと燃える暖炉の日を見つめながら、溝口氏の話に耳を傾ける時間が得られるならば、それは、この町を訪れた旅人にとって、
まさに至福の時間というべきである。
無量塔(むらた)という風雅な名を持つ茶亭は、ゆったりとした民家のなかにながれるような時間にわれわれを誘い、季節ごとの素材を惜しげもなく古伊万里の食器に盛り付けて楽しませてくれる。店内にはモーツァルトのピアノ曲が流れ、ひとは、いつしか、異郷をさまよう
風流人と化している自分を発見するであろう。
(*注 この頃(1984年頃)は、無量塔は、まだ湯布院盆地の北端・金鱗湖の近くにあり、食事処として営業していた。店主の藤林晃司氏は、私と同郷の友人であったから、二人は何かと連絡を取り合いながら事業を展開した。私も、食器の選定(主として古伊万里の器)、手描きのランチョンマット、石造りの看板制作など、得意のジャンルを生かした協力をした。後に無量塔は、空想の森美術館の隣接地に高級旅館として新規開店し、絶大な人気を獲得、湯布院を代表する旅館となった。二人は文字通り盟友として仕事をしたのである。それからおよそ十年後に、空想の森美術館は閉館を余儀なくされ、藤林氏には多大の迷惑をかけたまま私は湯布院を去った。が、最終的に彼の所有となった300点の「九州の民俗仮面」のうち90点が九州国立博物館の所蔵品として買い上げになったことで、私は責任の一端は果たせたものと思っている。が、その後に藤林氏は癌を発症し、あっという間に他界した。あまりにも惜しまれる早逝であり、もっともっと、彼とは語り合える機会があったものをという無念の思いを抱かざるを得ないが、人の運命というものは、
まことにはかり難いものがある。)





写真左/茶寮無量塔の玄関 写真右/茶寮無量塔の器
写真は「九州の骨董屋さん」掲載より転載


[がんじいの骨董手控え帖<19>]
郷愁のソバ猪口(3)
骨董と遊ぶ町




この青い小さな逆Uの字が連続したような文様を「みじん唐草」という。
いわゆる「唐草」とは、蔦や葡萄の蔓などのつる草を表す文様だが、その起源は、
遠くアラビアにまで求められるという。いわゆる「アラベスク」である。
シルクロードを経て渡来した文様は、日本で多様な変化をみせ、
古伊万里の器においても、「蛸唐草」「花唐草」などの
秀逸なデザインを生み出した。
みじん唐草もそのひとつであるが、これもまた、愛らしい文様である。もともとの発想(デザインの原型)が何なのかは判然としない。中期の伊万里には手描きのものもあるが、これは明治期の印判手である。幕末から明治初期頃流入した「コバルト」の釉薬が大流行し、文明開化のモダニズムと江戸以来の更紗の技法などが絶妙に出合って、このような意匠となったのである。
湯布院の天井桟敷という喫茶店で働いていた頃、私はこの手のそば猪口をキリマンジャロ専用として愛用した。アフリカ大陸最高峰の山で採れるという酸味の強いコーヒーの味と、この南の海を浮遊する小さな生命体のようなデザインがよく似合うと思ったものである。長い療養生活を経て働き始めてすぐのころ、旅館の女中部屋の裏の三畳ほどの部屋に住み、屋根裏部屋の喫茶店で終日コーヒーを入れる仕事をしたのだが、朝の一杯は、自室に据えた手引きミルで粉を挽き、「詩人のコーヒーの淹れ方」で丹念に淹れたコーヒーを喫し、出勤したのである。

その頃のことを「骨董と遊ぶ町・湯布院」というタイトルで、別冊太陽「日本骨董紀行1 九州の骨董屋さん」(平凡社/1991)という雑誌に掲載してもらったものがあるので、多少の筆を加えながら採録する。湯布院を離れてすでに11年が過ぎたが、当時を懐かしむというよりも、「文人趣味に裏打ちされた高度なもてなし術」という湯布院の本質はここにあり、それはいまだ失われてはいないだろう、という楽観的観測と、ひょっとしたら、それはもうとっくの昔に霧散してしまった幻像だったのかもしれないという疑念とを同居させながら、私はこれを読み返しているのである。

『「骨董と遊ぶ町・湯布院」
古来、湯布院という町は、文人墨客の多く遊んだ土地である。

乙女らが はなりの髪を 木綿(ゆふ)の山 雲なたなびき 家のあたり見む(万葉集)

大夕立来るらし由布のかきくもり(虚子)

九州の旅に出て
私は油布の嶺を越えた
嶺の霧は深かった
ふもとの村の霧の中で
娘が水を汲んでゐた
いづこの農家の庭にも咲く
紅い叢花
霧の中で
娘が花を摘んでゐた
身も心も淡く濡れそぼって(後略/津村信夫)

南から、大分川沿いに遡行する道。西から、水分峠を越えてくる道。北からは塚原峠越えの道。
そして東からは由布の峠を越える道。険しい道中の果てに辿り着いた山間の美しい町。
なだらかな草原。屹立する由布岳。流れて行く雲。小さな湖。そこから生まれる霧。清明な温泉。まるで東洋の仙境を思わせるこの町の景観構造こそ、多くの旅人や文人たちの足を止めさせるものである。そしてこの町に暮らす人々のこまやかな上官は、
旅人をゆったりと包み込み、とらえて離さない。
一度この土地を訪れた者は、どこかへ置き忘れてきた自身の原郷に
巡り合ったのではないかと錯覚する。それが、この湯布院という町なのである。
文人といえば、ここ大分(豊後)の地には、かつて豊後文人と呼ばれた多数の
文人・画家などが輩出した。
わが国ではじめてしっぽく式と呼ばれるテーブルを囲む食事法を導入し、頼山陽などをもてなしたといわれる田中田信。南画の奥義を極め、豊後南画と総称される一大画家集団の領袖として君臨した田能村竹田。門弟数千人を誇った学窓・咸宜園を開いた教育者広瀬淡窓。ひとり国東の地で天地と対峙し、宇宙の真理を究明した哲学者三浦梅園。これらの人々を囲む有名無名の文人・画人、知識人たちが、江戸中期から明治へかけて、この大分(豊後)という土地で、一大文化圏を形成していたのである。そして彼らの足跡は、当然この湯布院(当時は由布院)へも及び、
その与えた影響は、いまでもこの町に生きている。
例えば、旅館・亀の井別荘。
ここは、六十余年の歴史(当時。今では百年近い歴史というべきであろう)を持つ、この町でもっとも古い旅館で、文字どおり多くの文人たちが逗留した宿である。当主の中谷健太郎氏は、雪の研究で名高い中谷宇吉郎の甥御にあたることから、宇吉郎博士の居宅であった「雪安居」という茶室風の建物を邸内にさりげなく再現し、遠来の客や地元の若者などが集う「場」として提供してあることなども、この宿の奥ゆかしさを証明するものである。同じ邸内にある、喫茶「天井桟敷」。江戸時代の造り酒屋を移築した豪壮な建物の二階の一室にあるこの喫茶店の中央には巨大な円形のテーブルがあり、そこには古伊万里染付の大鉢が置かれ、野の花が投げ入れられている。窓から、藍色に霞む由布院の山が見える。ここで喫する一杯のコーヒーこそ、
われわれを桃源の境地に遊ばせるものである。


[がんじいの骨董手控え帖<18>]
郷愁のソバ猪口(2)
胸中山水

染付け山水のそば猪口を愛好している。
白地に藍で描かれた山水の染付けは、古伊万里の器にはもっとも好まれた図柄で、
製作された数量も多く、ことさら珍しい文様と言うわけにはいかない。骨董の世界では、
希少・珍奇をもって価値観の上位となすものであるから、染付け山水のそば猪口ごときを所蔵しているからといって、大して自慢にはならない。が、毎朝、一杯のコーヒーを喫むために用いる器として、あくまでこの山水のそば猪口を重用することについては、いくつかの自分史的理由がある。



その一、私の部屋の片隅に、古い桐箪笥が置かれている。明治期の大川箪笥である。
祖母が嫁入りの時に持ってきたものと同じ様式のものである。
私は子供の頃、その祖母の嫁入り箪笥のすべての引き出しを順番に開け、引き出しの
一段一段を踏み段にして最上部まで登り、一番上の引き戸に描かれていた山水の絵を
クレヨンでなぞるという事件を起こしたことがある。大事な箪笥を台無しにして、
その時は大層叱られたことを覚えているが、なぜかその絵はいつまでも消されずに残った。
家族それぞれに荷物を背負い、山の村を去った後も、箪笥は行く先々に運ばれたのである。
その後、引越しを重ねるうち、どこかで箪笥は行方知れずとなった。
勘案すれば、大人になって絵を描くようになり、さまざまに絵画の理屈や様式、描法などを体験した後、今、九州脊梁山地の山々に通って風景画や神楽の絵を描いている私は、幼少時より50年という年月を経ながら、まったく成長も進展も果たしていないのだということがわかる。
由布院空想の森美術館(1987-2001)を閉館し、宮崎へ移り住んで3年目の頃、私は軽い脳梗塞を発症した。若い頃に患った「白ろう病=振動障害」との合併症であり、幸い、初期の症状だということで命に別状はなく、薬と食事療法で治るということだったが、立っていても寝ていても目眩がするのには閉口した。ただ、座っている時だけはその厄介な目眩が止まるので、胡坐をかいた姿勢で、絵筆を動かした。白い画用紙に、墨を含ませた筆を横に引き、あるいは縦に引くだけの単純な行為である。その時だけ、目眩も忘れ、病のことも過去のことも忘れた。ある時、その、縦と横の線が交わるあたりの墨のにじみや、偶然に落ちた墨点、たっぷりと含ませた水によるぼかしの効果などから、立ち現れてくる形象が見えた。その「かたち」は、故郷の村の風景であり、旅先で出会った忘れがたい場面の数々であった。「胸中山水」というべきその風景をなぞる日々が、私の目眩を治した。

そのニ、故郷の町(大分県日田市)の石切場で働き、絵を描き、詩を書き続けていた私は、その過酷な労働と生活形態によって「白ろう病=振動障害」という病を発症し、湯布院の病院へと送り込まれた。「廃人寸前」と大学病院で宣告されたほどの劇症は、社会復帰できるまでに足掛け5年の時日を要した。病棟の窓から見える湯布院の風景は、遠景に由布岳が聳え、秀麗な由布の峰を四辺の山々が取り巻き、いつも青みかがっていた。その東洋の仙境のような景色を眺めながら、散歩の途中で買ってきた明治期の印判手や山水染付けのそば猪口で飲む院内配布の茶でさえも、傷んだ心身を癒してくれたものだ。そのころは、300円とか500円という値段で、
これらの鮮麗な絵柄を有する器が買えた。

長い療養生活を終え、縁があって湯布院の老舗の旅館・亀の井別荘に就職し、「天井桟敷」という喫茶店で働くこととなった。そこが、初期の「町づくり」と呼ばれた湯布院の文化運動の震源地であったことは、その後の私の人生に大きな影響を与えてくれた。古い民家の屋根裏を改造したこの喫茶店で、私は終日、コーヒーを淹れる仕事に従事したのだが、この天井桟敷でコーヒーカップとして使われていたのが、古伊万里のそば猪口であった。
そして山水染付けの猪口は最高級の豆・ブルーマウンテン専用であった。
(この辺のことは「骨董と遊ぶ町」というタイトルで別項を設ける)

その三、そもそも「そば猪口<ソバチョコ>」という呼称には誤りがある。この様式の器は、民家の蔵などから箱入りで収集される際には、ほとんどの場合、「向付」という箱書きがあるからだ。大きさも、とてもそばのタレを入れるには適しないものがあるし、第一、この器群が製作された江戸時代に、全国規模で「蕎麦屋」が現在見られるような営業形態をとっていたとも考えられない。そば粉は、地方においては主として飢饉や不作の年に集中的に作られる作物であり、供給も、流通も今のように大規模なものであったとは考えられない。すなわち、現在、骨董業界で「そば猪口」として流通しているものは、本来は「向附」として造られたものなのである。
しかしながら、この「そば猪口」という命名は民芸運動の主宰者・柳宗悦によってなされたものであり、柳翁も、「そば猪口」の収集を機縁の一つとして「民衆の美」という美学を発見し、「民藝」という理論を樹立することになったというのであるから、いまさら目くじら立ててみても始まらない。多様な美と魅力を持つ「そば猪口」は「そば猪口」として楽しめばよいのである。

その四、表記に掲げた10点のそば猪口は、湯布院時代に愛用していたものと、当地へ来た後、たまたま出合って買い求めたものなどである。湯布院を出る時、「無一物」になることを覚悟した身ではあったが、一度はミュージアムショップの商品として棚に並んだが売れ残ったり、引越しの時にも貰い手がなかったり、出会った途端に惚れ込み乏しい懐具合と相談しながら買ったりしたものなどは、やはり手元に置き、一杯のコーヒーとともに慈しむのである。
この愛らしい器たちによって、今日という一日に一幅の絵に等しい彩りが添えられて、穏やかに終わることができれば、それこそ無上の幸というべきであろう。


[がんじいの骨董手控え帖<17>]
郷愁のソバ猪口(1)
詩人の珈琲の淹れ方




朝、一杯のコーヒーを淹れる。
至福のひととき。
コーヒーの淹れ方は、故郷の町の画廊喫茶の店主の方法を習得した。
そのオヤジは苦みばしった渋い男で、詩人で、元・左翼運動の闘士だということだったが、
普段は物静かで、はにかんだような笑顔で若者たちに接してくれた。
顔に刻まれた深い皺と、肩まで垂らした長い髪と、時々鋭い光を放つ眼などが、
画廊と喫茶とが連結された空間によく似合っていた。
まだ二十代前半だった私たちは、その店に通いつめ、絵のこと、文学のこと、音楽のこと、
酒やコーヒーに関する薀蓄などを聞かされ、学んだ。

豆は、市販の浅煎りの豆が入手できればそれでよろしい。
手挽きミルが理想的だが、電動ミルでも、挽きながら目盛りを段階的に変化させ、
粉が不ぞろいになるように加減して挽けばよい。
紙フィルターに一杯の粉を入れ、その粉全体が漏斗状のくぼみをつくるように手で均す。
すなわち蟻地獄のような形状の粉山を作るのである。
この準備が整うと、赤いポット(ポットは「詩人の赤」でなければならぬ)から、
湯滴を、ぽつりとその真ん中に一滴。
そしてひと呼吸おき、真ん中の一点から「のの字」を描くように湯を注ぎ始める。
ゆっくりと注ぎ続けると粉がふっくらと膨らんでゆく。
まるで火山の噴火をみるように、膨張が極まるころ、
すっとポットを引き、給湯を止める。
すると、膨らんだ豆は急速にしぼみ、噴火口のようなくぼみができる。
この機を逃さず、再び給湯を開始。
あとは、この小さな小さな噴火口の真ん中をめがけて、湯を注ぎ続けるだけでよい。
サーバーの中心点に、抽出された純度の高いコーヒーが落ちてゆく。
濃い琥珀色の液体の上面を、直径5ミリほどの透き通った琥珀色の粒々が転がり始める。
この現象が立ち現れる時が、もっとも美味くコーヒーが淹ったときである。

これが、私が学んだ「詩人のコーヒー」の淹れ方である。
あれから、三十数年が過ぎている。
私は毎日、同じ方法でコーヒーを淹れ、
古伊万里山水染付けのそば猪口で喫む。
遠い故郷の風景が、そば猪口の絵柄の向こうで藍色に霞む。


[がんじいの骨董手控え帖<16>]
高千穂焼酎「暁」とよろけ文猪口


*昨日の続き
上出来のシイラの切り身の朴葉焼きには、やはり焼酎が合う。
とは言ったが、私も今では缶ビール一本で良い気分になって寝てしまうほどの弱虫であるから、
焼酎なら小さな猪口一杯ほどでよろしい。そのささやかな酒量を十分に楽しませてくれるのが、
高千穂焼酎「暁」と両掌に包み込まれてしまうほどのサイズの「よろけ文猪口」である。

高千穂町内に20座が点在する高千穂神楽は、毎年、11月下旬から翌年の2月初旬まで、各地区で順次開催されるが、多くの神楽が上演を終え、新しい年を迎えてすぐの1月第2週に開催されるのが「河内神楽」である。積雪や凍結もあるこの時期の高千穂行きは相応の覚悟を必要とするが、雪の積もった山里の小雪の舞い込む民家で見る神楽もまた、得がたい風趣がある。
河内地区は高千穂盆地の西端、五ヶ瀬・熊本方面へと抜ける旧街道の交点に位置する。三叉路があるその中心部は往時の賑わいの面影を残す古い建物などがある。神楽は、この古い町並みを見下ろす熊野鳴滝神社から舞い降ろし、民家へ舞い込んで、終夜、舞い継がれるのである。
その熊野鳴滝神社の近くに、普通の民家と見分けがつかないほどの小さなアカツキ酒造がある。
アカツキ酒造の焼酎は、米焼酎である。芋焼酎が大部分を占める宮崎県内の焼酎メーカーで米製の焼酎を作っているところはきわめて珍しい。その存在すら知られていないと言ってもいい。だが、このアカツキ酒造の米焼酎「暁」は知る人ぞ知る、美味い焼酎なのである。
一度、その酒蔵を見せていただく機会があったが、斜面に建てられた家の、階下へ階下へと降りて行くごとに部屋があり、そこが一部屋ずつ米を貯蔵したり蒸したりする部屋、焼酎を蒸留する部屋、出来上がった酒を貯蔵する部屋などに分かれている。地下室ではなく、斜面に建つ家の、それがやむを得ない構造なのである。太い梁に支えられた、南向きのその一部屋一部屋の構造が、この地の風や空気や湿度、山気、神楽囃子などと響調して、美味い焼酎を産出するのかもしれない。昔ながらの製法が厳密に守られているその珠玉のような焼酎は、かすかな甘みさえ含有する上品かつマイルドなその味を愛する人々に慈しまれて、ひっそりと造り続けられているのであった。
神楽を見に行くたびに立ち寄り、「暁」の四合瓶をニ、三本買っておく。
それがあまり減ることもなく半年も過ぎると、「暁」はますますやわらかさを増し、うまくなる。
それを時々、好みの器とともに愛でる。至福のひとときではないか。



「よろけ文猪口」。高さ5センチ、口径6、5センチ、高台径3センチのまことに愛らしい猪口である。古伊万里によくみられる、このくねくねとした文様は「よろけ文」と呼ばれるが、じつは、もともとはこれは「龍」なのである。上部のぐるぐる巻き文様は雲。口辺の内側にも渦巻きのような雲。よくもまあ、これだけ抽象化されたものだ。そしてその抽象化された形象を「図案」として愛でた日本人の美的感受性に、今夜は拍手を送りたい気分である。盃を重ねると、ふわりとその雲が動き、
それにつれて身体が揺らぐ。もはや龍などどこにもいない。

[がんじいの骨董手控え帖<15>]
シイラの身を朴(ホオ)の葉の包み焼きに



買い物に立ち寄ったスーパーで、シイラの切り身を見つけた。
「川南漁港獲れ」というシールが付いていた。
シイラという魚は、1メートルほどにもなる大型魚で、頭が丸くて全体が扁平で、全身が褐色のまだら模様で、見た目が悪く、あまり尊敬される魚ではない。釣りの対象魚としては人気があるが、食用としては加工品に回される程度の低い位置づけである。
が、身はスズキに似た白身でクセのないやさしい味がする。
川南漁港は、太平洋に面した日向灘沿岸の中心部に位置するから、
暖かい海に生息する魚類の鮮度のよいものが揚がるのである。
イキのいい切り身を見た瞬間、
(朴の葉の包み焼きにしてみよう)
というアイデアがひらめいたので、買ってみた。



早速、森へ行ってみると、朴の若葉が芽吹き、葉を広げたばかりであった。
西日を受けて、その広くて厚い葉が輝いていた。
柔らかな葉を数枚いただき、それに味噌を少量敷き、シイラの切り身を包んで、さらにアルミホイルで包み、焚き火の後の熾火で焼くこと30分。香りの高い、朴葉の包み焼きが出来上がった。
朴の木は、高地に分布する落葉高木だが、三年前、我が家の前の杉の森が切り払われた後に100本以上が植林され、立派な「朴の森」として育ち始めているのだ。
秋には紅葉した葉で布を染め、冬は落ち葉を集めて野草茶の原料に加えた。
出来上がったシイラの包み焼きを、染付の7寸皿に盛り付けた。
この皿は、遠景に島が描かれ、中景には海と帆掛け舟、近景に干し網と松林に囲まれた漁家が描かれたさわやかな食器である。裏面に何の装飾もないさっぱりしたこの皿は、その収集される地域(広島市江波地方)にちなみ久しく「江波焼・江波皿」と呼ばれていたが、近年、「伊万里」であることが判明した。佐賀県塩田町の志田地方で焼かれ、伊万里港から積み出された「志田焼」だったのである。長年続いた古九谷論争が、有田の窯跡からの磁片出土で決着がついたことに類似するが、有田・伊万里の底知れない地力に驚くばかりである。もっとも、広島市江波にも窯跡があり、磁片の出土もあることから、あくまで「江波は江波」を主張する研究者もいるようである。

朴の若葉は、すでに高い香りを有している。
シイラの切り身を味噌で焼いたことは、信州の「朴葉味噌」の伝統をアレンジしたものだが、
シイラの淡白な味と味噌と朴の葉の香りがほどよくマッチして、思いがけないご馳走となった。

[がんじいの骨董手控え帖<14>]
仮面・アート・骨董

昔を懐かしんでいるのでも、もうすぐ死ぬかもしれないからこのことだけは言っておこう、というのでもないとお断りした上で、洲之内徹氏のことに関して、もう一度だけ書いておく。没後20年以上を経た今も洲之内さんの随筆「きまぐれ美術館」は読み継がれており、新たな読者を獲得しているということが、嬉しいのだ。このしみじみとした嬉しさは閉館して11年が過ぎた「由布院空想の森美術館」がいまだに多くの人の気持ちの中に生き続けているという現象に対する感慨と似ている。
以下の記事は、ファッション雑誌「hi fashion(ハイ・ファッション)」2009年4月号に掲載された美術批評家椹木野衣(さわらぎのい)氏の文である。全文を転載する。我が家(九州民俗仮面美術館)は戦後に立てられた古い家で、中庭に樹齢数百年といわれる楠の巨樹が聳えており、その枝が家全体を覆っているので、強風が吹くたびにその枝が落ちて瓦を割り、雨が降るたびに雨漏りがする。先日の大雨の時も、寝ている二階の部屋に大量の雨水が落ちてきて、大事にしていた
資料や書物類がずぶ濡れとなった。その中にこの「ハイファッション」もあったのだ。
判読不能となる前に、何らかの形で記録しておきたいと思ったのである。


写真は「ハイファッション」掲載分

『[九州の古仮面]
  椹木野衣
洲之内徹(1913-1987)を評論家と呼んでよいものか気がひける。が、小林秀雄が絶賛したことでもわかるように、「気まぐれ美術館」で知られる連作エッセイは、過去に書かれた美術評論のうち、いまなお読むに値する数少ない文章だと思う。故人となってもうだいぶ経つけれども、読み直すたび、意外な発見に出くわすのだ。最近でもそういうことがあったので、今回はそれについて書いておく。
九州・大分の由布院美術館(今年-2012年3月に閉館)にまとまった絵のコレクションが遺された佐藤渓について書かれた文章でのことだ。そのなかで洲之内は、湯布院町在住の高見乾司さんという魅力的な人物との交遊について書いていて、しかもその方が近々「空想の森美術館」というアートスペースを立ち上げようとしていることを記していた。気になって調べてみると、その美術館は゛86年に実際に開館、順調に活動していたが、いろいろあって2001年に閉じられ、高見氏も宮崎に居を移し、新たに教会の建物(正確には旧・教会および石井記念友愛社の子供たちが暮らした古い寮)を改装して「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」を開いたことを知ったのである
(その経緯や活動は「インターネット空想の森美術館」で公開されている)。また、
その著作を通じて氏が古代九州の民俗学の研究者であることや、その活動の一環として作者不詳の古仮面を個人的な眼力を頼りに300点以上にもわたり蒐集・公開していること。
さらにはここにも大変な苦労があったこともわかった。
うかつだった。そんなミュージアムが最近まで存在していたとは知らなかった。もっとも、そのホームページには朗報も載せられていて、昨年(2008年)その仮面コレクションのうち90点を九州国立博物館(福岡県太宰府市)が購入し、遠からず常設展示でお目見えする日も近いのだという。
眼力ということでは洲之内にもズバ抜けたものがあり、結果的にそれは日本の近代美術の内容のうち、決して退かせぬ一角を占めるに至ったわけだが、自分の眼だけを頼りに集めたものが、いつしかアカデミズムをも揺さぶってしまうというのは、最高の批評行為ではないだろうか。
私は日頃、美術というよりもアートと呼ばれるような世界で活動している。そうすると、何かこじゃれたようなアートの情報には事欠かなくても、こうした地方でのできごとからは期せずして距離ができてしまいがちだ。けれども、今本当に必要なのは、両者を攪拌するような価値の創出だろう。そんなとき、洲之内のエッセイは、何か突然起きた事故のように私の活動に介入してきて、
その方位をぐいっと変えてくれるのだ。
そういうわけで高見氏の古仮面は未見だが、公開されたあかつきにはぜひ足を運んで、文化財などという構えた見方ではなく、高見氏の眼になったつもりでじっくり眺めてみるつもりだ。それまでは、高見氏の実弟である、高見剛氏が撮影したこれら仮面群の写真で代わりにしようと
写真集(「九州の民俗仮面」鉱脈社)も購入した。
が、本を開いて驚いた。代わりどころではない。一枚一枚がおそろしく迫ってきて、
とにかく写真として超弩級の代物なのだ。みなさんも今見ているページの写真に
きっとギョッとしていると思うけれども、こういう有無をいわせぬ力というか存在することの
奇異というか、そういうものこそ、21世紀のアートに真正面から突き合わせてみたい気がする。
*文中( )内の一部は高見・注』

[がんじいの骨董手控え帖<13>]
アートな狛犬たち/洲之内徹氏が見た狛犬(3)



この狛犬は、両手両足が失われている。
それゆえ、自力で立つことができない。本来の目的である山深い神社の本殿を守護するという役目は、とうの昔に果たせなくなっている。もはや親しい仲間でさえ彼の力で「守る」ということは不可能だろう。だが、一点のオブジェとしてこの狛犬を見るとき、尽きせぬ魅力が彼の身辺に漂う。「風化」は、時間と記憶とを彼の内奥に刻印し、彼の故郷であるはるかなシルクロードの果ての、
古代オリエントの空へまで、観る者をいざなうのである。
黒潮打ち寄せる日向灘の海辺から拾ってきた石に「空」の一文字を書き、
それを彼の顎の下に置いてあげると、この変遷を重ねてきた狛犬は
たちまち穏やかな表情となって、私に安堵の吐息を吐かせた。



日本民藝館(東京・駒場)の元学芸員・尾久彰三氏に「これは骨董ではない」
(晶文社/1999)という一書がある。民藝館の創設者・柳宗悦なきあと、
その思想や美学などを忠実に受け継ぎ、「貧好き(貧乏な数奇者)」を自他ともに
認めながら収集を続けておられる尾久氏は、まさにコレクター魂の結晶とも民芸の
申し子ともいうべき人である。その尾久さんが、「民芸」と「骨董」との混同を嘆き、
怒りをぶつけたのがこの書物である。民衆の使用した道具類、生活用具などに
「美」を見い出した柳宗悦の理論は、当時としてはまったく新しい美の観念であり、
価値観の提示でもあったが、それがおよそ百年の時を経て、「骨董」として取り引きされるまで、
経済的価値を高めてきたのだ。骨董業界の慢性的な在庫不足という事情もあるが、
やはり、「そこに美神が宿る」とさえ尾久さんがいう「民芸という健全なもの」が、
札束が飛び交い丁々発止の駆け引きが繰り広げられる「骨董」という妖しげで
おどろおどろしい世界の中に引きずり込まれてしまうことに対しては、
ひと言、物言いを付けたい気持ちなのだろう。
ちなみに、尾久さんの手元にも、上記二点の仲間である狛犬が一体あり、座辺でのどかな風情を漂わせている。以前、京橋の「アートスペース繭」に出品したものをお買い上げ下さったものだ。交渉が成立し、この猫かツチノコのように変容したチビの狛犬を大切に抱き抱え、
連れ帰る時の尾久さんの嬉しそうな笑顔が、今も忘れられない。
(本物の「もの好き」がここにいる)
と私は、その時思ったものである。



春の一日、一群の狛犬を「九州民俗仮面美術館」の窓辺に出し、並べてみた。穏やかな陽光の下で、彼らは、肩を寄せ合い、山男たちが歌う山の歌でも歌い出しそうな雰囲気である。

今からおよそ30年前、これらの狛犬を、私の部屋で見た時、洲之内さんは、
「いいねえ、これが、こんなふうに残されてきたということもまた、日本人の美意識の産物なんだね」
と言いながら、丹念に測光し、旧式のニコンで撮影した。それが「モダンジャズと犬」というタイトルで「気まぐれ美術館」に掲載されることになるとは、その時は夢にも思わなかったが、私にとってその時間はとても幸福なひとときであり、古民芸・骨董というジャンルに身を置きながら、空想の森森美術館の設立準備を進めるための「眼の規準」を確信した時でもあった。洲之内さんの眼には、骨董とか民芸という区別さえなく、ただ「一点のアート」としてこれらの狛犬を見たのである。

その後、空想の森美術館が開館し、狛犬も展示品の仲間入りをして、コレクションの総数は30点ほどに達したが、同館の閉館と共にその多くは散り散りとなった。いつの間にか狛犬は骨董業界の人気商品の一つとなり、売りに出せば、一定の価格で確実に売れるため、別れを惜しみながらも手放したのである。戦いに敗れた戦国の武将が落ち延びてゆく時、行を共にした侍たちが次々に討ち死にし、次第に手勢が減ってゆく時のような寂しさを私は感じながら、一点、一点と別れた。最後に残ったこの六点が、今も私を守ってくれている「同志」ということになるのであろうか。


[がんじいの骨董手控え帖<12>]
狛犬の来た道/洲之内徹氏が見た狛犬(2)



こま犬。「狛犬」「高麗犬」と表す。
神社や寺院の参道や本殿・本堂などを守護する位置に置かれた阿吽一対の犬
または獅子の形態をした彫刻のことである。
飛鳥時代に仏教と共に渡来した。その源流は古代オリエントの王家を守護する獅子(ライオン)の像であり、西進してギリシア神話の獅子座の思想と合流、東進したものはシルクロードを経由して仏教思想と習合しながら、中国・朝鮮半島を経て日本へと渡ったものと考えられている。日本では、もとは獅子の像として置かれたらしいが、平安時代頃になると獅子と犬の一対、さらに「犬」だけの形へと変化した。ライオンを見たことのない日本人のデザイン感覚が身近な動物である犬をモデルに変容させたものだが、犬が、人間と親しい動物であり、仲間や家族などを守る習生を持つこと、隼人族が犬の吠え声(吠声)を上げて宮廷を守護した習俗なども影響した。
「高麗(こま)犬」とは、高麗の国からやってきた犬とでもいうような意味らしいが、
いつごろ、どのように定着したのかはよくわからない。



写真上が、洲之内徹氏が見た一対の狛犬である。鎌倉~室町頃のものと思われる。
前述のように、仏教の渡来すなわち仏像彫刻とともに流入した獅子・狛犬の文化は、平安時代頃には定着し、やがて鎌倉・戦国時代頃になると八幡神社を主とした神社建築が盛んに行なわれるようになり、その神社を守護する狛犬、武神、守護面などが、建築と同時に制作されたのである。八幡神社や御霊神社は、制圧した先住民の霊を鎮める役割を持ち、先住民の祭祀儀礼はその祭祀の中に取り込まれた。この頃の狛犬は、まだ石彫ではなく、木彫であった。
中世仮面の発生と木製の狛犬の分布は重複している。山地の狩人が、
熊や猪と格闘して死んだ猟犬を「山の神」として祀る習俗なども反映されたかもしれない。

洲之内さんが、二度目に湯布院へ来たのは、放浪の詩人画家・佐藤渓の作品を搬出するためであった。その時、洲之内さんは、古びたものを好む私が見ても驚くほどの、オンボロの、日産ブルーバードを自分で運転し、東京から宇部を経て、はるばる九州まで飛ばしてきたのである。
車体のあちこちがへこんで、マフラーからは黒い煙とスポーツカーのような爆音が轟く車に、斜めに身体を凭せ掛け、タバコの煙を空へ吐き、にやりと笑って、
「どうだね、僕の車も骨董の部類に入るとは思わんかね」
と洲之内さんは出迎えに出た面々に言った。古い、白黒のイタリア映画の一場面を見るようであった。すでに、車内には絵の入った額縁が相当数詰め込まれていた。そのころ提携関係にあった宇部の菊川画廊での企画展で展示替えをし、展示を終えた作品を積み込んで関門海峡を越えたのである。それもまた松田正平の作品など「洲之内コレクション」の逸品だったはずである。

佐藤渓の作品を積み終えた後、洲之内さんは湯布院の町の旧街道沿いの私の店へ立ち寄って下さった。これも思いがけない成り行きであった。洲之内さんが、「絵画」以外のものに目を向けるとは私は思っていなかったのだが、考えてみれば、「気まぐれ美術館」では、円空の仏像や海辺の「墓」のことまで書かれているのだから、そのころ、「骨董」とは一線を画した「古民芸」というジャンルの品を扱っていた私の店は、洲之内さんにとっても興味の範囲外のものではなかったのである。


[がんじいの骨董手控え帖<11>]
絵の見方/洲之内徹氏が見た狛犬(1)

 

突然、一群の男たちが、わが九州民俗仮面美術館に上がりこんできた。
土足であった。
そして、来意も告げずに、これは幾らで売れる、とか、これこれの相場は幾らであるとか、
展示品の値踏みを始めた。さらに、札束で膨らんでいる鞄を示して、貴方の絵を見せて欲しい、
売り物になるものがあれば・・・という意味のことを宣った時、私の怒りが爆発した。
「帰りなさい。君たちに見せるものは何もない」
そこで目覚めた。後味の悪い夢であった。

これに似たことは、湯布院時代に幾度が経験した。
湯布院の湯の坪街道という旧街道沿いの小さな空家を借りて骨董屋をしていた頃、
風邪をひいて寝込んでいる私の枕元までやってきて、身辺にある陶磁器や文房具などを
売ってくれ、という客、資料としてダンボールに入れて保管してある古布や民俗資料、
仮面などを無理やり取り出して、ぜひ譲ってくれと粘る客などが結構いたのである。
これらの客の扱いは難しい。下手に怒鳴り上げて追い返すようなことをすれば、観光地・湯布院の評判を落とすことにつながりかねず、苦情や抗議の電話は観光協会や役場にまで届くのだ。鄭重にお断りし、客の機嫌を損ねないように送り返す技巧は、これらの日々の中で身についていたはずだったのだが、夢の中では、そのような抑制はきかなかったものとみえる。

明け方に見た嫌な感じの夢を思い返しているうちに、
―洲之内さんは良かったなあ・・・
としみじみ思った。
湯布院の佐藤渓という画家の作品を訪ねて洲之内徹氏が湯布院に来たことは前回書いたが、その折、私も絵を見ていただく機会に恵まれたのだ。

銀座の現代画廊の主・洲之内徹氏は、その美術随想「気まぐれ美術館」(月刊誌「藝術新潮」に1974年から1987年までの13年間にわたり連載)で多くの読者を獲得し、コレクター・美術評論家としても際立った発言と行動で当時の美術界に影響を与えた。洲之内氏の一枚の絵に対する向かい方、無名の作家の作品に出会い、その内面や人生までを掘り下げてゆく、真摯な追求の姿勢などが、共感を得たのである。銀座の裏通りにあった現代画廊は、作家やコレクター、美術愛好家であふれ、美術論議が交わされ、タバコの煙とアルコールの匂いとが混交し、熱気に満ちた。

1960年代後半から1970年代前半へかけて、私は郷里の町のアマチュアの絵画グループに所属し、地方美術展や中央の公募展への出品を続けていた。が、「気まぐれ・・・」を10年近く読み込んでいると、そこに書かれている「洲之内徹の絵の見方」「洲之内徹の美術論」と実際に体験している地方美術界のあり方や団体展の仕組みなどはかけ離れていることがわかった。しかも、現場で一気呵成に仕上げる私の情緒的な風景画のごときは、時代遅れの田舎画風として否定され、私は方向を見失った。現場で描いた絵をアトリエに持ち帰り、一度白い絵の具で塗りつぶして再び同じ色調の色を重ねて掘り起こし、画面の抽象化をはかるという、今思えばばかげた労力と手間をかけて絵を「殺して」いたのである。世は抽象画全盛の時代であった。

洲之内さんは、一枚の絵に向かい合った時、黙って、長い時間、その作品を見つめた。鋭い眼光は作品の背後に潜む画家の本質をとらえ、画家の内面や人生にまで達するかのようであった。対峙する、あるいは対話している、という雰囲気が、絵と洲之内さんの周辺に漂った。そして、作品から目を離すと、ほっと小さな息を吐いた。それから、何か大切なものがつむぎ出されるように、「言葉」が出た。それは、後で「気まぐれ・・・」に書かれたり、これまでに読んで親しんでいたりする「洲之内徹の語調」であり、無名作家や埋もれた美術史的作品などを掘り出す瞬間でもあった。

放浪の詩人画家・佐藤渓の作品を押入れの中から取り出し、展覧会の日取りや方針などを確認して、湯布院の町を散策している時、なんとなく、
「君の絵も見よう」
ということになって、洲之内さんは、私のアトリエに立ち寄った。私はその頃、湯布院の町の裏通りで古い床屋だった家を借りて改装し、「由布画廊」と名づけたアトリエにして絵画教室を開き、仲間と絵を描いていたのだが、そこにはちょうど、迷いのさなかで描き続けた展覧会出品のための絵と、故郷の町の「石切場」で働きながらキャンバスを立てて描いた絵、旅先や湯布院の町の風景を描いた絵などがまとめて置かれていた。それらの作品をグループ別に分け、
長い時間をかけて洲之内さんは見つめた。
私は頭の中が真っ白になったような不思議な感覚で、洲之内さんの後ろに立ち、その場に漂う緊張感に耐えていた。
そして、その長い沈黙の時間が過ぎると、洲之内さんは、私の一枚の風景画を指差し、
「これが、高見乾司の本質だよ」
とひと言、言った。それは、雪の降る中にキャンバスを立てて描いた湯布院の町の10号の風景画で、長い入院生活の後、この町で暮らし始めて間がない頃に描いた作品であった。
私には、そのひと言で十分であった。
その後、私は公募展への出品を止め、「人に見せるため」「評価を得るため」
あるいは「あわよくば絵を売って生活すること」などの目的をすべて放棄して、
ただ、旅先での一枚を得るためにだけ絵を描くことを決意したのである。

私の部屋に置かれていた木彫の「狛犬」に目を留め、それが「モダンジャズと犬」という
タイトルで、佐藤渓のことやその頃私が飼っていた猟犬サブのこと、友人の竹工芸家、
故・野之下一幸氏のことなどとともに「気まぐれ美術館」に書かれたのは、洲之内さんが
二度目に湯布院に来た時のことであった。私の絵のことについては、「気まぐれ・・・」
では一度も触れなかった。だから、私は自分の絵とは所詮その程度のものだろう、と理解した。
が、前回書いたように、その一年後、最後に洲之内さんに会った時、
「君も現代画廊で君の絵の展覧会をしてください」
と言っていただいたことが、思いがけず、そしてうれしく、ありがたく、終生の宝物となったのである。


[がんじいの骨董手控え帖<10>]

 洲之内徹氏からの最後の年賀状



桜の花が咲き出したいまごろになって年賀状のことなどを書くのはどうかと思われるが、来年の正月まで待っていると他に書きたい主題がたち現れてきたり、興味が他に移ったりしてついには書かずに終わってしまうおそれがあるから、思い立った今、書いておくこととする。

この年賀状(上記写真)は、昭和62年(1987)の正月のものだから、1986年に開館した「由布院空想の森美術館」の一年目にあたる。そしてこの年の10月に洲之内氏は亡くなっているから、すなわちこれが、洲之内さんからの最後の年賀状なのである。
なにゆえ、いまごろになって遠い昔の一枚の年賀状のことなどについて語りだすかというと、じつは、私は、湯布院の湯の坪街道という当時は鄙びた通りで小さな骨董屋をしていた時代から空想の森美術館の15年を経ておよそ30年分ぐらいの年賀状を大事に保管していたのだが、その中には今となっては骨董的価値が付く高名な作家からのものや大切な人からのものなどが数多く含まれていた。その二千点ほどもあった葉書類が、数年前の長雨で、入れていた葛篭(つづら)ごと黴だらけとなったため、断腸の思いでそれを焚き火に投じたのである。
骨董屋を始めてすぐの頃に田舎の民家で買った愛着のある籠と、年賀状の束が火にくべられた瞬間、わずかな風が巻き起こり、一枚だけ、ひらりと空中を漂いながら舞い落ちてきた葉書がある。拾い上げてみると、それが洲之内氏からの最後の年賀状であった。そしてそれは、黴も付いておらず、汚れも比較的少ないものだったので、私は万感の思いをこめて部屋に持ち帰り、汚れをふき取って机の脇の棚に飾った。



洲之内徹氏が湯布院の町を訪れたのは、1981年のことである。
その時のことを、私は、「回想の現代画廊」刊行会編「州之内徹の風景」(春秋社/1996年)
に書いたので、ちょっと作業が面倒だがここに採録する。

『湯布院の洲之内徹                                            

はじめて洲之内徹氏が湯布院を訪れたのは、1981年の秋のことだった。
その日、山に囲まれた湯布院の里は紅葉の盛りであった。洲之内氏は、
由布岳の中腹の原生林の中ほどにあるひときわあざやかな一本の木を指差しながら、
「あれは何の木だろう、なぜあの木だけがあんなに真っ赤なんだろう」
と不思議がっていたので、私はその日のことを鮮明に覚えているのである。
その時は、洲之内氏は、放浪の詩人画家、佐藤渓の足跡をたずねて湯布院へ来たのであった。
佐藤渓は、中国大陸での戦争体験などを経たあと帰国し、初期の「自由美術」の活動に参加したり宗教団体に出入りしたり、みずから芸術教の教祖と名乗ったり、「箱車」という移動式住居に寝起きして絵を描き続けたりするという、きわめて個性的な行動を示したのち、飄然と放浪の旅に出たのである。そして、旅先で倒れ、当時湯布院にいた家族のもとに引き取られ、その短い生を終える。
 それからおよそ三十年ぐらいの年月が経過するのだが、洲之内氏は、
ある時、麻生三郎氏と会っていて、麻生氏から
「俺は佐藤渓という絵かきの遺作展をしてやるという約束をしておきながら
まだ果たしていないのだ。どうやらその佐藤の遺族が九州の湯布院という町に住んでいて、
かなり纏まった遺作を保管しているということなのだが・・・」
という話を聞いた。それで、
「では、私が行って見てきましょう」
ということになって洲之内氏は湯布院にやって来たのである。
佐藤渓は1994年の「東京駅ステーションギャラリー」での大規模な回顧展の実現、
NHK「日曜美術館」での全国放映などによって、美術史に記録される作家となった。
その経緯や洲之内氏の果たした役割などは、すでに各方面で論じられているので
ここでは述べない。じつは、洲之内氏の湯布院訪問の目的は、佐藤渓の遺作を
見ることのほかにもう一つあったのだ。それは、私(筆者)自身に関する事柄なので、
これまで数人の友人との茶飲み話程度にしか語る機会はなく、そっと胸に秘してきた
ことなのだが、今回、湯布院と洲之内徹との関係における知られざる一面を
語るという名目で(資料的価値はほんとんどないと思われるのだが)公開することにしよう。
その日、洲之内氏は、朝日新聞のOBで現代画廊の常連の早稲田さんという年配の紳士と一緒に湯布院町内のホテルで私を待っていた。二人の部屋は、どういうわけかホテルの新婚さん専用のツインルームになっていて、艶っぽい照明が妖しく室内を染めていた。
それは、当日の宿を手配した佐藤渓の実弟、和雄氏の配慮がどこかで行き違いになって
そういう場面が現出していたのであろうが、なんとも不似合いな情景ではあった。
私と洲之内さんとは、その赤紫色の光に照らされて、少しの間じっと見つめ合っていた。
私はその間、
―似ている。世の中には自分とそっくりな人間が必ず一人はいるものだというが、これがそうなのか。そうだとしたら幸運なことだが、自分もあと三十年もしたらこのような風貌になるのだろうか・・・
というふうなことを考えていた。
洲之内氏は、少時の沈黙の後、
「いや、こういうのを似ているというのだろう。成川君の言ったとおりだ。自分とよく似た人間がもう一人いるということはあまりいい気持ちではないが、この人ならいいよ。了解した」
と言って、同意を求めるように早稲田さんのほうを向き、そして私の顔を見て、にっこり笑った。早稲田さんは二人の顔を見比べ、うんうん、と言いながら、しきりにうなずいていた。
成川雄一氏は、春陽会所属の画家で、洲之内氏の古い友人である。そのことは「気まぐれ美術館」の連載にも書かれた。その成川氏に、洲之内さんが、
「近いうちに九州の湯布院という町に行こうと思っているのだが・・・」
と言うと、成川さんは、
「湯布院へ行ったら高見という人に会うといい。洲之内さん、その人はあなたにそっくりですよ。
体格も顔立ちも、その言動も」
という答えが返ってきたので洲之内さんは驚いたのである。
その時、氏の手元には私(高見)からの手紙があったからである。
その手紙の内容を要約すると、
「自分は『きまぐれ美術館』の連載を愛読し人生のテキストとしている田舎のアマチュア画家だが、『気まぐれ美術館』の連載のなかで、洲之内氏が成川氏の初期の仕事について触れ、あのころが良かった、生川君、あそこまで帰れよ、という意味のことを言っている。しかしこれについては異議を申し立てたい。画家が元の位置へ引き返すことが出来るはずがないと思うのだ、云々」というのものであった。その手紙を面白いと思い、湯布院へ行ったら手紙の主(つまり私のこと)に会うつもりだったのだが、成川氏と私とが知り合いだったとは思いもかけなかったというのである。
成川氏と私とは、その数年前、湯布院で会っていた。写生旅行のため湯布院に来た氏を、私が案内する役目を仰せつかったからであった。私は病気の治療のため湯布院へ来たのが縁で、この町に住み着いたばかりであった。そのころ勤めていた旅館「亀の井別荘」の客として来た成川氏のための接待役という役回りであった(成川氏と湯布院の人々の縁については省略)。そのころは私も現場へ出て風景写生を重ねていたから、成川氏と私はさしずめ旅の画家と画学生とでもいうような絶妙のコンビネーションとなった。だが、氏はそのころは深刻なスランプに悩んでいて、私も下手なりの悩みを抱えていた。成川氏は、懸命に筆を走らせながら、
「描き続けること、描き続けること。それしか脱出する方法はない・・・」
と、私にも、自分自身にも言い聞かせるようにつぶやき続けるのであった。
私はその真摯な制作態度に深く感銘を受けていたから、前記のような手紙を洲之内さんに出したのだったが、まさか、それが氏の目に止まるなどとは夢にも考えていなかった。だから、初対面の夜、洲之内氏がポケットからその手紙を取り出し、
「貴方とはこの手紙に書かれていることについて話をしたいと思っている・・・」
と切り出された時の驚きは形容しようがない。「気まぐれ美術館」は遠い世界のできごとで、洲之内氏は雲の上の人だと思っていた私にとって当の本人と会っているということだけで、すでに夢の中にいるようなふわふわした状態だったのであるから。
けれどもその夜は佐藤渓のことへ話題が移行し、翌日は佐藤の作品を見、洲之内氏は次第に佐藤渓の世界へ没頭していったから、手紙の件については話す機会がなかった。
次の日、佐藤の絵を見た。前日の好天は一変して、雨の降る暗い日であった。古い民家の押入れの中から取り出された作品を私が受け取り、洲之内氏へと手渡した。氏は言葉もなくそれらを見入っていたが、作品が持つ暗さと雨の音とが混交し、部屋は一種異様な雰囲気に支配された。それが、洲之内氏と佐藤渓、そして湯布院との出会いの最初のシーンであった。
その日の夕刻、洲之内氏は四国へと渡り、高知県中村市在住の画家・田村裕典氏(「骨」などの作品で気まぐれ美術館に登場)のアトリエに立ち寄り、東京へと帰ったはずだ。
洲之内さん愛用の皮のショルダーバッグに、佐藤渓の作品が十点ほど入れられていた。
連載「気まぐれ美術館」に佐藤渓が登場したのはその直後のことで、
現代画廊での「佐藤渓遺作展」の実現はその一年後のことであった。』



長い引用となったが、私は昔話がしたいわけではない。この一年後に開催された現代画廊での佐藤渓遺作展で、私は佐藤渓の作品12点を買い込んだ。由布院空想の森美術館の設立準備資金がそれに当てられ、佐藤の絵は散逸しないで遺作展も開催され、湯布院へ持ち帰れるという遺族・現代画廊・私の三者の思惑が一致したのである。
その佐藤渓遺作展の折、洲之内さんの大森のアパートへ泊めてもらうという幸運に恵まれたことなどは、このブログで連載し、「森の空想ミュージアム」のホームページにファィルした。
洲之内徹氏と現代画廊のことについてはインターネット検索等で
すぐに探せるのでそちらを参照してください。

その佐藤渓遺作展の最終日、現代画廊を出て旧式の手動式エレベーターに乗ったのは、
なぜか洲之内さんと私の二人だけだった。
「みんな、どこへ消えたのだろう・・・」
と洲之内さんは不思議そうな顔をした。が、気を取り直したふうに、
「スエヒロで焼肉でも食って別れよう」
と私を誘って、銀座の焼肉屋に入った。その有名な店の肉は、由布岳の草原を歩き回った黒牛を食べ慣れた者としては少々物言いを付けたい程度のものだったが、別れ際に洲之内さんが言った二つのことは、私を驚かせる内容のものだった。
その一つ。
「僕もねえ、あとどれだけ生きられるかわからないから、コレクションの行き場を探しているんだよ。君の空想の森美術館が出来上がったら預けてもいいよ」
もうひとつ。
「それとね、君も現代画廊で君の絵の展覧会をしてください」

この二つは、かなえられない夢として終わったが、今も私の心の中に大切な宝物として蔵われているのである。私の絵と洲之内さんの言葉、「モダンジャズと犬」というタイトルで「きまぐれ・・・」に書かれた狛犬のことなどは、いつかまた書きたいと思う。
その後、佐藤渓の遺作を収集し、展示した「由布院美術館」が誕生し、空想の森美術館と両輪で「由布院アート」と呼ばれた時代を牽引したが、この三月、その由布院美術館も閉館するという。また一つ、時代が変転した。



*カットはいずれも現代画廊の佐藤渓遺作展で購入し、由布院空想の森美術館の壁面を飾った佐藤渓作品。現在は由布院美術館=別府潮聴閣所蔵。東京駅ステーションギャラリーでの佐藤渓回顧展図録から。

付記
落ちた天井のこと

洲之内徹氏からの最後の年賀状のことを数年ぶりで思い出したのは、今年の春の長雨による雨漏りにより、もともと老朽化していた天井板が腐り、一部が落ち始めたからである。剥落し、落下した天井板の断片と天井とを見比べていた時、机の脇の棚に飾ったままになっていた洲之内徹氏からの年賀状が、目に止まったのである。それで、前回のような文を書いた。続けて書きたいことがあるが、今日は、遼太郎君が来てくれて、朝から天井板剥がしをした。小学校に上がる前から我が家に出入りし、五年生の夏からヤマメ釣りに同行して鍛えてきた彼は、この春、高校二年生になり、すでにたくましい若者に成長しており、十分に頼りになる。
一気にベニヤの天井板を剥がしてしまうと、太い梁と天井裏が見え、またしても、私の頭は古民家再生モードとなったのである。このことはいずれまた報告することとして、今日は今から遼太郎君と一ツ瀬川上流へ向かう。山桜咲くヤマメの谷に入るのである。さて、釣果は・・・?

もうひとつ付記
初ヤマメ



昨日の釣果がんじい4匹、遼太郎2匹。
今日の釣果遼太郎2匹、がんじいゼロ。
今、山から帰ったばかりなので、
釣れた話や釣れなかった話(本当はこちらのほうが面白い)、



初ヤマメを食べた夜

3月28日が、今年の私のヤマメ釣りの初日であった。なぜ、解禁日の3月1日に釣らず、3月20日以後の山桜の咲き始める頃を自分の解禁日と設定しているかについては、次の機会に述べるとして、今回は、遼太郎君との釣行の夜の食事のことを記録しておく。
この日、西米良村小川川の両岸には、山桜の花が咲き、時折、花びらが水流を飾っていた。釣りの詳細は省く。
釣果は、遼太郎2匹、がんじい4匹。この季節にしては少ない。
釣れない原因(すなわち言い訳)も省く。
その夜は、私が通い続けている西米良村・おがわ作小屋村のコテージに泊まる予定にしていたのだが、自炊の食料は、おにぎりとカップラーメンと塩と砂糖だけしか用意していなかった(非常食としてのバナナとソーセージに手を付けてはいけない)。ゆえに、釣果がなければ、とても侘しい夕食となるのだ。二人合わせて6匹ならば、まずまずというべきであろう。
さて、ここからが遼太郎の出番である。小学五年生の時から渓に入り、一緒に釣り歩いてきた彼は、もう釣技は一人前だし、とりわけ、料理に非凡な才を持つ。



釣れたヤマメは、釣り上げた直後、後頭部をナイフでぐさりと刺し、とどめをさしておく。そして川から上がる前に腹を裂き、内臓を水流に戻して、塩を少量、振っておく。川辺の道を歩き下りながら、野生化した菜の花を摘む。次に、姥百合の新芽が目に付いたので、球根をいただく。
さらに、崖から沁み出ている水が育てたクレソンを少々。
調理場に入ると遼太郎は俄然、精彩を放つ。まずは、ヤマメをぶつ切りにして、鍋へ。10分ほど沸騰させると、ヤマメの塩気と旨みが溶け出し、小葱を刻み込んで塩で味を調えれば、
それだけで極上のスープとなる。が、今夜は味噌味を選択。
菜の花と百合根を刻み、クレソンは、軽く茹でておひたしにしておき、その一部を味噌汁の具に使う。ヤマメの味噌汁の完成である。まずは、この味噌汁を一椀キープし、さらにここから遼太郎の一工夫が加わる。味噌汁の残りに水を少し加え、2人分のカップラーメンの麺だけを入れる。カップラーメンの具は、水洗いして塩分を落とす。麺が茹であがったところで具を入れ、
最後にクレソンの生葉を刻み込んで出来上がり。
コテージに備え付けのプラスチックの食器に盛り付けたが、これはこれで、上々の晩餐となった。
姥百合の根はさくさくとした食感が楽しめたが、新芽は、柔らかでうまそうな見かけに反し、
強烈な苦味で2人を苦しめた。



<9>
精霊を呼ぶ森の笛

                   

 アートスペース繭での企画展「南の島の古陶と精霊神」が終わった。
九州と南の島の文物、神楽の絵などが程よく交響し、評判もよかったのでほっと一安心、と言いたいところだが、営業成績がいま一息というレベルだったので、複雑な心境である。やはり、3、11の東日本大震災の影響が、じわり、と庶民生活を侵食してきている、と実感した。
 期間中、画廊は、人生相談かヒアリングの会場に変わったような有様であった。
 画廊主の梅田美知子さんが、出品されていた微笑仏あるいは慈母観音のような笑みを浮かべて来場者の悩みや震災後の生活、息子の病気に悩む母親の心のケアまで引き受けるため、その種の客が相次ぎ、骨董の鑑賞や売買に気が入らぬのである。
 それでも、これまでに宮崎の神楽に同行した仲間やこれから神楽に行きたいという客は数多く訪ねてきてくれて、その時間帯は話がはずんだ。神楽を核とした地域再生や地域ミュージアムの構想を話し合うネットワークも出来て、今後の展開が楽しみである。
 骨董や美術品の収集は究極の道楽であり、非常時には無益のものともいえるが、生活の中に潤いと安らぎをもたらし、消え行く文化財の救出や新しい価値感の創造などという側面も持つのだ。震災被害や原発の事故、世界的な金融不安と激動する国際情勢など「負の連鎖」が続く現代社会ではあるが、愉快な骨董談義だけは続けたいものだ。
 ところで、企画のDMの文にも書き、この連載の冒頭の小文でも書いた種子島焼の「森の精霊」または「窯の守り神」と伝えられるオブジェは、会期中、来場者の関心の的となり、議論と推理の対象となったが、それがはたして「精霊」を造形したものか、窯あるいは家などの守護神として使用されたものかは明らかにならず、実体を知ることはできなかった。
 会期も半ばを過ぎたある日、私はふと思いついて、そのオブジェの突起部分すなわち花入れまたは線香立てなどの用途を連想させる穴の部分に唇を寄せ、静かに息を吹き込んでみた。横長の穴に平行に唇を持っていった時には、ただスー、スーと空気が通り過ぎるだけの音しかしなかったが、縦に持ち、やや強く息を吹き込んでみると、
 「ヒョー・・・・」
 と素朴な音が出たのである。
 それは私たち山の村の子どもが「猿笛」と呼んでいた、柞の木(ユスノキ)の実で作った笛と良く似た音であった。柞の木は村の最奥部の山の神の祠の脇に立っている巨木で、晩秋、土を握り固めたような不細工な実を落とした。その実は中が空洞になっていて、丸い小さな穴を開けて息を吹き込むと、遠い山の頂を過ぎていく風のような音がしたのである。 
 その笛の音を聞くと、山の神が下りてくる、と大人たちは言っていた。だから、無闇に吹くことはなかったが、山奥に入る狩人や子どもたちがきのこ狩りに行くなどはポケットか背負い籠の中に入れて出た。道に迷ったり、仲間とはぐれたりした時にこの笛を吹けば、山の神様が道案内に立って村に返してくれる、と信じられていた。
 この、人気アニメの主人公・森の精霊「トトロ」のようなオブジェは、本当は、私たちが山の村で使ったような用途、すなわち南海の島の奥深くひそむ精霊を呼ぶための「森の笛」ではないか。私はそう思ったけれど、そのことは誰にも言わずに、ただ
 「笛かもしれないよ」
 と時々吹いてみせるだけにとどめた。

               
                     何度も掲載したオブジェ「森の精霊」
                    
                            種子島焼展示風景


<8>
微笑仏―円空・木喰とその周辺

                    

 円空仏、木喰仏等にみられる微笑仏とその周辺の仏師のことにについて書くつもりで、洲之内コレクションの円空仏について書き出したら、人形町のことや洲之内さんの大森のアパートに入ったこそ泥のことなどに話が逸れ、やっと円空までたどり着いた。
 人形町のウィークリーマンションはなかなか快適な部屋で、貸し出し用のパソコンを借りて「アートスペース繭」に出品中の骨董のことや人形町散策のことなどを書き出すと、つい、わき道に逸れてしまうのである。
 前夜から書き継いでいた前項までの原稿を、ブログ記事としては長すぎるなあ、と思いながら送信して出かけたら、開廊時間に少し遅れて画廊に着いた。すると、すでに来客があり、茶を飲みながら、担当スタッフの新井さんと談笑していた。その人は、画廊のオーナー・梅田美知子さんの従兄弟にあたる人で、一昨年、私の紹介で九州の椎葉神楽を見たことでたちまち神楽ファンとなり、以後、方々の神楽を訪ね歩いているということであった。孫娘だという可愛い女の子が一緒で、二人の神楽談義を大人しく聞いていたが、まもなく手をつないで画廊を後にした。
 その二人の姿を見送りながら、新井さんが、
 「あのお嬢ちゃんが、この微笑仏をすごく気に入って、さっきまで、一緒に写真を撮っていたりしていたんですよ。」と言った。

 今回の企画展「南の島の古陶と精霊神」には、「微笑仏」と名づけた作品が一点出品されている。それは、ふくよかな顔に柔和な笑みをたたえた「山の神」と思われる黒ずんだ女神像である。九州脊梁山地・米良山系の神楽には、「磐石(ばんぜき)」という演目があり、黒い老女の面をつけた神が出るのだが、それが磐長姫信仰や山の神信仰と関連しながら分布している。この微笑仏は、磐石の面を思わせる造形なのである。
 米良山系の山の村には、「大円」という仏師の彫った神像や神楽面、奉納面などが残されており、この大円作の神像や仮面にも類似の造形のものがある。大円は江戸後期の人だが、
その作風から、「木喰」に連なる作家の一人であることがわかる。
 木喰とは、「木喰上人」「木喰行道上人」「木喰明満上人」などと呼ばれる遊行僧である。「木喰(もくじき)」とは、山中に篭り、五穀絶ちすなわち穀物を食べずに修行する「木喰戒」を達成した修行者または仏僧のことである。木喰上人は江戸後期の人。「千体仏」の彫刻を発願し、全国を遍歴したが、天明8年(1788)から寛政9年(1797)まで日向国分寺に滞在した。この間、同寺が火災で焼失したことから、その再建に尽力し、巨大な五体の「五智如来像」(西都市五智堂に現存)他、多くの仏像を彫っている。日向市平岩地蔵堂にも木喰作の地蔵菩薩が現存し、信仰を集めている。
 円空についてここで紙数を費やす必要はあるまい。円空は木喰より一世紀ほど前の仏師である。「円空仏」と呼ばれるほどの個性的な彫刻様式を完成し、生涯に12万体の仏像を彫ったと
伝えられる円空の作風が、木喰に引き継がれたことは明らかであろう。私が洲之内徹氏の
大森のアパートで頭上に頂いて寝た円空仏もそのひとつであった。

 洲之内さんが連載中の「気まぐれ美術館」にこの円空仏のことを書いた時、一斉に賛否両論が寄せられたそうだが、洲之内さんは、そのように批評など一切気にせず、自分の「眼」だけを信じて文を書き、画家と交友し、作品を入手した。「良い絵とは、盗んででも自分のものにしたいと思う絵である」と公言し、秘術を尽くして惚れた作品を手に入れるその執念はすさまじいほどだったが、それが作家との友情と作品への愛情を生み、独特の洲之内ワールドを形成したのである。
 
 冒頭の写真は、アートスペース繭で開催中の「南の島の古陶と精霊神」に出品中の
「微笑仏」である。九州のあるオークションで入手した。日向国分寺にある地蔵菩薩と
日向市の個人宅に伝わる木喰作の微笑仏を連想したからである。
 会期中、この微笑仏を見た来場者の多くが、「これは円空ですか」とか「木喰仏ですか?」
とお定まりの質問をしてくるのに驚き、辟易していた。それで、この微笑仏を
無心に手に取った少女の出現を清々しく思ったのである。
 私は、この微笑仏は木喰本人の作ではないと思うが、木喰に連なる作家の作品に違いないと思い、最初からそのような表示をして出品している。古来、一人の優れた美術家が出現すると、その周辺には、弟子や追随者、模倣者を含めて多くの類似作品を作る作家が発生する。それにより、同時代を表現する「様式」が確立するのである。そして、周辺作家の作品にも、良い「もの」は無数に生まれ続けるのだ。文化は、孤立した天才的な作家の作品だけで創られるのではない。
 微笑仏と一緒に、笑顔で写真を撮っていたという少女の純真な目のような、あるいは、自身の眼だけを信じて収集した洲之内徹氏のような、率直に「もの」に対面する姿勢こそが、「コレクター」や「鑑賞者」が保ち続けるべき素養であろう。

                            <7>
         人形町散策と洲之内徹氏の大森のアパートのこと

                  


 洲之内徹氏は人形町界隈や、隅田川の畔を歩き廻っている。「気まぐれ美術館」の主題の多くが、「転向」の痛みを抱いて闇を駆けた中国大陸での諜報活動や、隅田川に沿った下町に住む画家のこと、そこで暮らした「女」との情交などであった。連載「気まぐれ美術館」とその後単行本としてまとめられた「気まぐれ美術館」「セザンヌの塗り残し」「帰りたい風景」「人魚を見た人」「さらば気まぐれ美術館」等の著作のこともここでは記述を省く。没後20年を経た今も読み継がれ、新たな読者を獲得しているという名随筆を皆さんもぜひお読みになることをお奨めしたい。

                  

 私は幾つかの縁が重なって、晩年の洲之内さんと親しくお付き合いさせていただくことができた。他の美術評論は一切読まず、「気まぐれ美術館」を唯一の美術テキストとして、田舎の小さな町で美術修行を続けた私にとって、雲の上の存在だった人が、にわかに実在の人として眼前に現れ、佐藤渓という放浪の詩人画家の発掘を手伝ったり、画廊に通って多くの常連と一緒に美術談義に花を咲かせるという幸運に恵まれたのである。これらのことも、いずれ語ることもあるだろうが、ここでは、人形町を歩いていて思い出した、洲之内さんの「大森のアパート」に関する私の体験を記す。一部の人が書いたり語ったりしてすでに伝説化しつつある「鍵の壊れたアパートとこそ泥」の話である。この事例は、洲之内さんと私の二人だけが遭遇した「事件」というほどもない些細な出来事なので、私が書くことが、最も事実に近い記述になると思われるのである。

 佐藤渓という放浪の詩人画家は、1918年広島生まれ。1933年、川端画学校卒。戦争では、中国北部を転戦する。1945年に召集解除となり、両親の住んでいた島根県出雲市に落ち着き、詩作にふける。1948年、30才の時に自由美術家協会展に初入選、翌年、推薦により会員に推挙される。このころ、麻生三郎氏、井上長三郎氏らと親交があったらしい。950年、京都の大本教に居候し、機関紙の表紙を描く。1954年、埼玉県川口市に住み、翌年からリヤカーを改造した「箱車」を引き、長期の旅に出る。1956年東京荒川に住むが再び旅に出て、1960年旅先の沼津で脳卒中のため倒れ、両親のいた大分県湯布院に引き取られ、12月30日、42歳の短い生涯を終える。

 洲之内さんは、あるとき、現代画廊で麻生三郎氏と話していて、麻生氏の「俺は友人の佐藤渓という画家と、生前、お前の遺作展は俺が開いてやる、という約束をしていて、まだ果たしていないのだ」という話を聞き、「では、僕がその展覧会をやりましょう」ということになって、遺作の残されている湯布院へとやってきたのである。
 その後の経緯は「洲之内徹の風景」他へ書いたので記述を省いて、本題に入る。
 現代画廊での「佐藤渓展」の期間中、私は東京で過ごすことになった。そのことが私に千載一遇の機会をもたらした。滞在先をまだ決めていなかった私に、洲之内さんが「僕の大森のアパートを使っていいよ」と思いがけない提案をして下さったのてある。大森のアパートは、洲之内さんが戦後上京して晩年まで暮らした、いわば洲之内徹の拠点ともいうべきところで、気まぐれ美術館に何度も登場する主要な舞台のひとつである。そのアパートに「泊まれる」なんて、まるで夢のような出来事ではないか。
 
                 

 洲之内さんに連れられ、古い木造の家などが立ち並ぶ路地の奥を入った所にそのアパートはあった。玄関に立つと、洲之内さんが、「あれっ」と小さく声を上げて首を傾げた。普段とは異なる状況が発生しているらしい。そして、なんだか他人事のように、「鍵が壊れている」と言った。なるほど、木造のドアに取り付けられた鍵は、それが鍵の役割をするとはいえないような、旧式の小さくて無造作なものだったが、それが壊されて、ドアが無理に開かれた形跡がある。急いで部屋に入ると、そこは、ぎっしりと絵や彫刻、その他雑多なものが積み込まれた倉庫のような空間だったが、それが「気まぐれ美術館」に描かれた珠玉の作品群すなわち洲之内徹が心血を注いで蒐集した「洲之内コレクション」だったのである。
 部屋の中は、荒された形跡があった。「泥棒が入ったな」と洲之内さんは呟き、冷徹ともいえる視線で、入り口付近に立ったまま室内を眺め渡した。それは、中国大陸での諜報活動をした際の一場面を想起させる姿であった。林武、中村彝(つね)、靉光(あいみつ)など、戦後美術史を飾る作家の作品がそこにあることは、私にもすぐにわかった。だが、それらの美術品に異変は見当たらないようであった。
 それから、洲之内さんは、靴を脱いで静かに室内に入り、仔細に点検を始めた。が、その行為はすぐに終わった。「何も盗られてはいないよ、不思議だな。」と言いながら、洲之内さんの視線が部屋の隅の文机に向かった時、はじめて異変を把えた。私はその間中、洲之内さんの行動を注視し続けていたので、当然、その場面では机の上に置かれている円空仏に目は引き付けられていた。洲之内さんは「引き出しが開いている・・・」と言って引き出しの中を調べ始めたが、すぐに、「小銭だけが無くなってる・・・」と言い、笑い出した。侵入者は、このころはすでに高値が付くようになっていた洲之内コレクションの逸品には目もくれず、現金だけを盗んでいったものとみえる。私も、ほっと身体の力が抜けていくのを感じ、少し笑った。そして二人同時に、「こそ泥ですね、これは」「こいつは本物のこそ泥という奴だな」と言い、爆笑した。
 何はともあれ、被害という被害もなくてことは済んだ。私は近所の金物屋に行き、旧式の、逆U字型をした真鍮色に光る鍵とドライバーを買ってきて取り付け、「これでいいですか?」と後ろでパイプをふかしていた洲之内さんに確認すると、「うん、前のより断然、頑丈だ」と頷いた。こうして、私はその聖域ともいうべきアパートに泊まった。別れ際に「昨夜までその布団には◇◇さん(女性作家。前日まで現代画廊で個展を開催していた)が寝ていたんだ。それでいいよね」と、わざわざ言うほどでもないことを言って、にやりと笑った。私は「では、今夜は良い夢が見られますね」と返してあこがれの空間を使わせてもらうことへの感謝の意を示したが、この部屋で数々の愛憎劇を繰り返した(それは「気まぐれ・・・」に何度も書かれた)洲之内さんの言葉は、妙に艶めいて聞こえた。床には敷布団一枚分の平面があるだけで、ぎっしりと蒐集品が詰まった部屋であった。枕元に「気まぐれ・・・」の連載にも登場した円空仏があった。私はそれをそっと手で触り、静かに拝んで、眠りについた。
 艶夢は見なかった。

                      


<6>
                    人形町の赤い星

                      

 人形町を散策していて、洲之内徹氏のことを思い出した。画廊主であり、絵画コレクターであり、
卓越した美術エッセイで戦後の美術史に一ページを記した洲之内氏(1913-1987)は、松山市に生まれ、松山時代に左翼運動に参加し、検挙される。1938年、中国に赴き、日本軍の諜報活動に関わった。このことが曲折した心理描写となって、後の美術エッセイに深い陰影を与える。戦後は、小説を発表し、芥川賞候補に三度名を連ねるが、1960年に田村泰次郎氏の経営していた銀座の「現代画廊」を引き継ぎ、次々と無名の作家を発掘して手腕を発揮した。1974年から死の直前まで、14年間にわたって美術誌・芸術新潮に連載を続けた「気まぐれ美術館」は多くの読者を獲得した。美術ファンや作家の間で神話的存在となった洲之内氏のことは調べればすぐにわかるし、多くの人が書いているので記述を省く。

                   

 ここまで書いて、ぶらりと散歩に出た。洲之内さんがよく歩き回り、「気まぐれ美術館」にもたびたび描かれた夜の人形町を散歩してみたくなったのである。三光稲荷神社の横を通ったが、写真を撮っただけで軽く一礼をして通り過ぎた。今朝、二礼二拍手の拝礼をして出かけたが、今日の営業成績がさっぱりだったので、少々、不貞腐れた気分だったのである。そういえば、駅へと急ぐビジネスマンや老舗の店の従業員らしき人は多いが、だれもこの小さな神社にお参りする人などいないではないか。そしてこの20メートルほどしかない神社の参道はビルとビルに挟まれた細道で、侘しく飲み屋の看板に照らされているだけではないか。

 人形町交差点から大通りを水天宮前まで歩いたが、夜の人形町は、飲み屋や小料理屋のネオンがまぶしいだけで、あまり面白くはなかった。それで、コンビニで缶ビールを一本買って、飲みながら裏通りを引き返した。やはりこの町は、重厚な老舗の店舗とともに、百円ショップやスーパーがあり、忙しくビルを出入りするビジネスマンがいたり、出かせぎのおばあさんが道端で野菜を売っていたりする、生活感あふれる昼間の風景のほうが魅力的だ。帰りには、三光稲荷の前では少し丁寧に礼をした。考えてみれば、今朝、三光稲荷に拝礼をしたのは、昔、ここに参拝したであろう吉原の遊女や漂泊の芸能者に思いを馳せてのことであって、今日一日の営業成績アップを祈願したわけではないのだ。都会の片隅の、歴史からも世間の人々からも忘れられたような小さな神社にそっと一礼をして通り過ぎる程の礼儀は失わないでいたいものだ。
 上空のやや東寄りの位置に、大きな星がひとつ出ていた。木星だろうと見当をつけて、ビルの谷間の暗がりに移動して、よく見ると、ほぼ真上に薄く光る星が見えた。それをたどると、ひとつ、またひとつ、視界に入ってくる光がある。淡い星影が描く図形は、天馬ペガサスの四辺形であった。人形町の星は傀儡子人形の眼のように、あるいは往昔の遊女の涙に潤んだ瞳のように、赤みを帯びてちかちかと瞬いていた。

                 

 洲之内さんの大森のアパートのことを書こうとしているのだが、なかなか辿り着かない。だが、私は洲之内さんの筆法を真似て回り道や道草を繰り返しているのではない。洲之内徹の「気まぐれ美術館」は美術随想でありながら、しかも当人は画廊主でコレクターでありながら、絵のことなどなかなか書かずに女のことや旅先で出会った人、郷里松山の悪口や中国大陸での諜報活動と表裏綾なす自身の心理などを延々と書き綴り、どこかでやっと本題に入る。するとそれが、画家本人のことや絵のこと、美術史との関連などと絶妙に響き合い、主題と洲之内徹の目論見とがすとんと胸に落ちて、じつに見事に着地するのである。このあたりの呼吸を、当時、美術評論家の土方定一氏が次のように表現している。〈「この洲之内クンというのは文学青年でね、文章がうまいのよ、だから変なことをぐにゅぐにゅぐにゅぐにゅと書いて、うまあく読ませてしまうのよ」〉。いい得て妙である。繰り返すが、私は洲之内流の紆余曲折を繰り返している訳ではない。次回こそ大森のアパートについて書きます。
*注 洲之内氏は、「先生」とよばれることを嫌って、私たち青二才にも「さん」付けで呼ぶことを要望した。それにより、現代画廊に集まった面々の間に「仲間」あるいは「同志」のような雰囲気が醸成された。これにもとづき、本稿では尊敬と敬愛の念を込めて、生前どおり「洲之内さん」
と呼ばせていただくこととする。

                      <5>
        人形町を歩き、遊女とシャーマンのことについて考えた


                 

 アートスペース繭での企画展「南の島の古陶と精霊神」の期間中、日本橋のウィークリーマンションを借りて、そこから、京橋の繭まで通った。日本橋には老舗の古美術商が並ぶ骨董屋街があり、京橋の画廊群へと続く道を散策しながら会場へと通うのも悪くない、と思ったからである。繭は、京橋から銀座へと出る曲がり角にあたる位置にあり、骨董やアートを鑑賞しながら歩き、そしてほっと一息ついて立ち寄るのには格好の場所なのである。今回借りたマンションの住所は、詳しくは日本橋富沢町だが、このあたり一帯が人形町で、行ってみると、そこは江戸情緒を今に残す古い町の中心部であった。地下鉄都営浅草線の京橋・宝町駅から二つ目の駅が人形町で、マンションはその人形町にあるのだった。
 日本橋人形町とは、日本橋のほぼ中央に位置する地域で、江戸時代、歌舞伎小屋や人形芝居の小屋などがあり、当時、人形遣いが多く住んだことから名づけられたといわれている。遊郭「吉原」(元吉原)はこの人形町の東側辺りにあったが、俗に「振袖火事」と呼ばれる明暦の大火(1657年1月)で消失し、その後は浅草の浅草寺裏(新吉原)に移転した。人形町を歩くと、小ぶりで魅力的な飲食店が点在し、紐屋、布屋、食器店、茶の店、刃物屋、つづら屋という屋号の一閑張りの籠を扱う店、銅版葺きの屋根を乗せた家などがあり、和服姿の小粋なお姐さんが歩いていて、この地域が、江戸情緒を今に残す稀有な町であることがわかる。
 人形町を歩きながら、しみじみと「懐かしい」感覚に浸ることができるのは、ここが時代小説の下町ものの舞台であり、馴染みの地名や町名が当時のまま残されていることにもよる。玄谷店(げんやだな)の近くには三光稲荷の古びた社があり、そこがどうやら元吉原のあった地点らしい。遊女は、もともと漂泊の芸能者であったが、徳川幕府の支配政策によって吉原に封じ込まれ、公認の巨大な売春組織となった。だが、吉原を束ねたのは、庄司甚右衛門などと呼ばれた「惣名主」とその支配下の闇のネットワークであった。彼らの身分は「非人」であったが、古来の遊芸者、芸能者、山岳宗教者や仏師・彫刻師・木地師などの技術者、忍者組織などとのネットワークをもち、強力な団結力を保持していた。人形町が歌舞伎小屋や人形芝居の拠点であったことも、これらの組織網と密接に関連している。

 古代の女性は、神を招き、神意を告げるシャーマンであった。天照大神は太陽神として最高神に位置され、「天岩戸」の前で神がかりして天照大神を招き出す舞を舞った天鈿女命(あめのうずめのみこと)はまさにシャーマンそのものであった。天鈿女命は後に「猿女君(さるめのきみ)」となり、宮廷の祭儀を司る職掌となった。猿女君の系譜に連なる女性シャーマンは、天皇の側に侍り、託宣を行い、歌舞を行ったが、次第に芸能化し、白拍子や遊女となった。人形芝居や傀儡子舞などの芸能者とともに遊芸の民となっていったのである。一見華やかな女歌舞伎や吉原の遊女などは、
その凋落した姿であった。
 「稲荷神」は、もともとは「山の神」であったが、その信仰形態は次第に里へと降り、「稲作儀礼」と結びついて庶民の信仰を集めた。商売繁盛の神様として広く町人に信心され、屋敷神となって全国津々浦々に浸透した。人形町の三光稲荷ももとは遊芸の民の信仰していた山の神がこの江戸の地に招かれ、定着したものであっただろう。今回、借りたウィークリーマンションはそのすぐ近隣地にあったから、私は、朝は通りがかりに一礼し、夕刻、帰る途中で参拝した。はたして、遊女たちのはかなくも切ない願いや祈りは、山の神へと届いただろうか。

                   
                   


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                精霊の声が東京の空に響いた

                  

 2011年10月30日、早朝の宮崎空港を飛び立つ時には、強い雨が季節外れのブーゲンビリアの花を激しく叩いていた。だが、機内アナウンスが、飛行機の位置を紀伊半島上空と伝える頃には青空が見え、飛行中には明るい光が窓から射し込んできた。その青い空の中にぽっかりと浮かんだ白い雲の塊を突っ切って、着陸した。東京は、からりと晴れた秋の午前であった。
 会場の京橋「アートスペース繭」には予定時刻を過ぎても荷物が届いていなかった。送り出した10個のうちの1個が行方不明のため、すべての荷物が集荷場へと引き返し、待機中だと言ったり、ドライバーが荷を積んですでに走り出していると言ったり、情報は錯綜していた。何度も電話連絡を繰り返し、9個の荷が画廊へ着いたのは、午後3時を過ぎていた。例年通りであれば、展示がほぼ終了する時刻である。
 さて。文句を言っても始まらない。
 ざわついていた気分を静めて、展示に着手した。種子島、古琉球、八重山などの古陶群と古伊万里の染付や赤絵などの器類、やや大ぶりの地蔵菩薩、コンガラ童子、セイタカ童子の一対などが配置され、私(筆者・高見)の神楽の絵が20点、壁面に掛けられたが、いまひとつ、間が抜けた感じで物足りぬ。そうだ、まだ一箱分の荷が届いておらぬのだ。画廊を見回し、憮然と暮れなずむビル街を眺め、ため息をひとつ吐くいた頃、ようやく、東京中を走り回っていたらしいトラックと、待望の荷物一箱が届いた。
 一つ、またひとつ。取り出されたものは、九州から送り出された小さな神々―山や森や、南の海の精霊神たちである。
・田の神-南九州に分布する石造田の神と同類の造形であるが、素焼きの焼物であることが珍しい。腰部の紐が十文字に結ばれていることから、隠れキリシタンの遺物であることも知れる。甑島の民家に伝わっていたものという。甑島は薩摩半島の西方、東シナ海に浮かぶ二つの小島で、天草諸島の南方に位置する。天草のキリシタン信仰が島伝いに伝わり、ひそかな祈りが続けられていたものであろう。厳しい迫害の下、このような土地神の信仰の裏に隠して続けられた祈りの、深く、熱い姿がこの小像から伝わってくるのである。顔は、マリア観音に似て、優しい。
・酒造りの神-前述した。酒樽から酒精を汲み出す「酒の神」の姿が、素朴で愛らしい。酒造りに精出す杜氏たちの声が聞こえてるようではないか。
・毘沙門天、コンガラ・セイタカ・童子-前述。いずれもインド起源の土着神が仏教の守護神化されて伝来したものであるが、毘沙門天は戦神(いくさがみ)として戦国武将の信仰を集め、コンガラ・セイタカの二童子は不動明王の脇侍として山岳信仰と混交した。この15センチほどの一対は、戦国~江戸初期頃のものと思われるが、彩色も鮮やかに残り、ミステリアスな風情を漂わせている。
・古琉球壷屋の獅子-窯の守り神と伝えられる。獅子や狛犬の像は、その原型を古代オリエントの守護獣・ライオンにまで遡ることができる。王家の門を飾った守護神は西方に伝播しギリシアの天文学・獅子座の理論とミックスされた。東方へは中国で唐獅子となり、朝鮮半島を経由して日本へ渡来したものが「高麗犬=狛犬=こまいぬ」となり、沖縄ではシーサー(獅子様)となった。このなかばオブジェと化した小像は「窯」を守る守護神であったという。戦火で焼き尽くされた壷屋窯の後から出土したものであるという。
・種子島・森の精霊神-この連載の冒頭に記した。南海の精霊神は、東京の空の下でも異彩を放ち、存在感を示した。
 これらの、小さな神々たちが配置されると、画廊空間に山風のような清新な空気が流れ、厳粛な気配が満ちて、かすかに、精霊たちの声が響いた。

                  


<3>
先住の土地神は守護神となった




 矜羯羅童子こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)は不動明王の両脇に配置される八大童子の内の二神である。
 不動明王は、インド起源のシヴァ神の異名の一神で、サンスクリット語では「アチャラナータ」(動かない守護者)を意味する。密教とともに日本へも渡来し、大日如来の化身、あるいは仏法の守護神として信仰され、古来の山岳宗教・修験道との結びつきによって山岳宗教の最高神となった。
火炎光を背負い、右手に仏敵と煩悩を斬る諸刃の剣を持ち、左手には悪魔を打つ分銅と人が掴まれるようにした金属の輪(鐶)がついた索を持った不動明王の両脇を守護するのが矜羯羅童子と制多迦童子の二童子である。勇壮な不動明王に対してこの二童子は優しく愛らしい。
日本列島の先住民は、天空・山・森・岩・樹木・水などに「神」が宿るとして信仰した。もともとその土地にいた日本列島の先住神「八百万の神」は、大和王権樹立後はその支配下に入り、国家の守護神となった。さらに仏教渡来後は神仏集合という形態をとり、仏教の守護神となった。しかしながら、山や森、水源や海などに潜んだ精霊神はさまざまに変容しながら、庶民の生活の中に生き続けたのである。

<2>
田の神は隠れキリシタン
 

この素焼きの小像は「酒造りの神」であるという。
たしかに、酒甕から柄杓で酒を汲み取っている場面である。
薩摩地方の酒造場の神棚に祀られていたものという。
古来、酒は神に捧げる神聖な飲み物であった。
清浄な乙女やシャーマンである女王が穀物を口に含み、
醸したものが酒であり、その酩酊状態をいざなう液体は、
神を招く呪力を秘めた飲み物でもあった。
薩摩地方は焼酎の産地であり、焼酎は蒸留酒であるから
上記の酒造法とは違うが、いずれにせよ、神も人も
酒を好むことに変わりはない。

 

上記二点の小像は「田の神」である。
いずれも、杓文字を持ち、笠を被っているから、
南九州に分布する石造の田の神の造形と同類のものである。
写真左の素焼きの田の神は、腰部の紐が十字に結ばれていることから
「隠れキリシタン」であることがわかる。
東シナ海に浮かぶ甑島の民家に伝わっていたという。
甑島は、天草の島々の南方に位置することから、キリシタン信仰が伝わり、
ひそかな祈りが続けられていたことであろう。
写真右は竜文字焼または苗代川焼の田の神。
これも、腰部の紐の結び目が十字を思わせる造形となっている。
点と点を結ぶと十字になるのである。
田の神は、土地の霊力を秘める先住神である。
後ろから見るとその形状が男根を象っており、
五穀豊穣・子孫繁栄の神として信仰された。

<1> 
鉄砲伝来の島の古陶
左/種子島焼・花器 幅広の口縁に竜の陰刻が施された優品。
右/種子島焼・火鉢 手あぶり火鉢として制作されたものか、
茶道具の瓶掛として制作されたものかは不明。縁の周辺に押刻された
細かな丸印が滋味を加える。

 
左/種子島焼・花器 蘇鉄を象った造形が南国情緒を醸し出す優品。
旧・薩摩藩某家家老の家の床の間を飾っていたと伝えられる。
右/種子島焼・花器 仏前または神前飾った花器であろう。
小ぶりだがふくよかさと大らかさを具える。



「森の精霊神」または「窯の守り神」と伝えられる。
これを持ち、種子島を訪ねたいと希ったが、今回は実現しなかった。
それで、冒頭のような小文を書いたのである。

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(SINCE.1999.5.20)