竹の灯りがアート空間を照らした
旅先で立ち寄った港町に漂っていた洋菓子の香り、あるいは砂糖をたっぷりと入れたシナモンティー、または、祭りの広場を包む綿菓子の匂い・・・・ 森の入口に立つと、それらが混交したような懐かしい香りが、風に乗って流れてくる。 それは、落葉する桂の木が発する芳香である。初秋、他の木々にさきがけて黄葉する桂の葉は、風に散る時、かすかな、香を放つ。それが森に満ちる時、秋は静かに深まってゆく。 「上(じょう)の切(きり)の桂」は推定樹齢500年。秋元集落から諸塚山・六峰街道へと越える道の途中にあり、秋元の村を見下ろしている。その昔、秋元の人たちは、諸塚山を越えてこの地に至ったと伝えられる。以来、この桂の木は、村の歴史を見守り続けてきたのだ。 幹周りは十数メートルもあり、数本の枝が分かれて、樹高30メートルにも達する。まるで厳のような幹の根元は苔で覆われて、イワタバコやユキノシタなどが可憐な花をつける。小さな祠に水神が祀られ、竹の樋で引かれた清冽な水が、旅人の喉を潤す。 夏から秋へかけて、村に点在する「椎茸乾燥小屋」「石倉」「牛小屋」の三箇所を片付け、改装して「ギャラリー客神(まろうど)」「ギャラリー石倉」「ギャラリー蔵之平(くらんでら)」の三施設を開設した我々の仕事は、「竹の灯りワークショップ」へと移行した。このワークショップの主旨は、「村人や一般の参加者が、秋元の山から切ってきた竹やつる性の植物を使って 照明器具を作り、それぞれの施設と展示作品を照らす」というものである。展示作品を照らす灯りも一点のアートであり、手作りの照明が照らす空間表現もまた、エコミュージアムを構成するアートの領域である。 ワークショップの講師には、私の弟・高見八州(やす)洋(ひろ)を招いた。彼は、二十歳の時に大分県湯布院町(現・由布市湯布院町)で竹のクラフト工芸家・野々下一幸氏に弟子入りし、6年間の修行の後に独立して、以来、その道一筋を歩んできた。籠や箸、アクセサリーや文房具などに加えて照明器具や室内装飾も手がけ、また、私が各地で企画した「地域アート」の活動にも何度も参加してもらったことがあり、今回の仕事も阿吽の呼吸で引き受けてくれたのである。 ワークショップには、一般の参加者に加え、秋元の村人、隣接する日之影町で 伝統的な竹細工の保存と継承に取り組んでいる人などが参加してくれて、にぎやかな一日となった。 前日に竹林から切り出しておいた竹を、弟が年季の入った職人の手さばきで割り、細いヒゴにしてゆく。それを参加者が各々、円形の籠状の照明器具に編み上げてゆくのである。 道端にコスモスの花が揺れ、秋の日差しが暖かく降り注ぐ秋元の道の脇で、作業ははかどった。出来上がった参加者の作品と、この計画の成功を願って八州洋が寄贈してくれたオリジナル作品としての照明器具が、ギャラリー空間を照らした。「乱れ編み」という技法で編まれた不規則な籠の網目から洩れる光は、壁面や神楽の写真を、まるで秋の森を彩る木漏れ日のように装飾した。古い小屋や石倉、牛小屋などに「いのち」が宿った瞬間であった。 |
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ギャラリーくらんでらの開館
蔵之平飯干(いいぼし)金光(かねみつ)氏宅の牛小屋の改装は順調に進んだ。途中から、家主の金光さんと長男の紀(のり)章(ゆき)さんが加勢に加わった。金光さんは、秋元神楽の伝承者で、現在は高千穂町役場に勤めておられるが、一年後には定年退職を向かえるため、第二の人生として、秋元神楽の伝承とこの秋元エコミュージアム計画への参画を楽しみにしているという。紀章さんは高校を卒業して一度都会へ出たが、Uターンして秋元に戻り、結婚し、神楽の伝承者としてエネルギッシュに働いている。 一冬に十頭ほども猪を獲る猟師であり、山仕事の達人で、日曜大工を趣味とし、種々の道具を使いこなす金光さんと、すでにこの納屋の二階部分を木造りのギャラリー風の空間に改装して新居として使っている紀章さんも、大工仕事には手馴れていた。この二人が参加したことで、仕事が順調に進み始めた。広く、がっしりとした造りの牛小屋は、若者たちだけの一時的な仕事の量を超えていたのである。この家のアサヨばあちゃんも作業の進捗ぶりを見に来て、その変化を楽しみに眺めた。牛小屋は、みるみる展示空間へと変貌を遂げていったのである。 柱と梁の塗装が終わりに近づくころ、床板張りを開始した。天上に吊り下げられて保管されていた大量の杉板を利用し、面積の半分を占める土間の部分を板張りにすることとしたのである。夏休みが終わり、応援の学生たちが帰ってしまうと、作業はスタッフの田中君、金光さん、紀章さんの三人が担うこととなった。なかでも、10年ちかくフリーターのような生活をしていて今回初めて本格的な仕事としてこの「ムラたび」の事業にかかわったという田中君は、所を得たように生き生きと与えられた課題をこなした。ひと夏のうちに彼の身体は骨格が固まったようで、Tシャツから覗く腕の筋肉も隆々として見えた。いとこ同士だという紀章さんとのコンビネーションもよく、作業の手順を打ち合わせる若者たちの笑顔が輝いて見えた。 床板張りが終わりに近づいた一日、私と田中君とは秋元の山や谷筋を歩き、一抱えほどの石を集めた。秋元の山には、古代阿蘇の大噴火にともなう火成岩、安山岩系の堆積岩、石灰岩、太古この地が海底だったことを物語るジャスパ(碧玉(へきぎょく))と呼ばれる硬質の石などが散在する。板張りの納屋の床の中心部に、これらの石で縁を囲って囲炉裏を造ることにしたのである。この作業には金光さん・紀章さん親子も加わった。黒い石、青い石、赤い石、白い石などが積み上げられて、囲炉裏が出来上がった。神楽仲間に集まってもらい、「囲炉裏開きをした夜が、この「ギャラリー蔵之平」の実質的なオープニングの日となった。 展示は、2009年にこの家の母屋で開催された神楽の写真の中から「人」をクローズアップして選んだ。この年、紀章さん、きみえさん夫妻には長男誕生が予定されていたのである。秋元神楽を担う村人たちが「祝い」の念を胸に抱きながら舞う神楽は美しく、誰の表情も輝いていた。 |
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くらんでらの物語
「高千穂・秋元エコミュージアム」のプロジェクトに参加した若者たちは、秋元の夏を存分に楽しんだ。作業の合間には、涼しい木陰に置かれたベンチでひとときを過ごす。村のばあちゃんの手作りのお菓子や、漬物などが何よりのご馳走である。涼しい風が山から吹き降ろしてきて、汗にまみれた若者たちの一群にひととき涼を与え、吹きすぎてゆく。夕刻、若者たちを秋元川に誘った。川水は夏でも冷たく、都会育ちの青年たちの足をきりりと冷やした。 清々しい歓声が渓谷に響き渡り、オオルリの声が山から谷へと谺(こだま)した。 ある一夜、若者たちと一緒に村人の集会に招かれてビールを飲み、時を忘れて語り合った。夜が更けると、軽トラックが村のあちこちから集まって来て、酔っ払った男たちを荷台に積み込んで、その夜の宿へと運んだ。それが逞しい村の女性たちの、亭主や来客の取り扱いであった。秋元川沿いの山道を疾走する軽トラックの荷台に寝転んで夜空を見上げると、 天の川が秋元川に平行して流れていた。銀河は、大量の星を秋元の村に降らせていたのである。 ギャラリー「石倉」に続いて、近年まで牛小屋として使われていた蔵之平・飯干金光氏宅の 牛小屋の改装に取り掛かったが、これは大掛かりで骨太の仕事となった。二階建ての頑丈な造りの牛小屋は、すでにその二階部分をお洒落に改装してこの家の長男夫婦が住んでいる。一階の中央部を支える梁は、200年ほども前に村人が総出で裏山の森から伐り出してきたという自然木である。横木も同様の太い雑木で組み上げられ、四部屋に分けられた牛の居住空間を区切る柱も壁板も重厚な素材ばかりで、この村とその周囲を取り巻く森の豊かさをうかがい知ることができる。 蔵之(くらん)平(でら)という地名は、隣村の黒仁田の殿様にまつわる隠し蔵ではないか、というこの家の口伝にもとづく。地元の人は敬意と親しみをこめて「くらんでら」と呼ぶ。この地は、高千穂から黒仁田を経て秋元へ、そして峠を越えて五ヶ瀬町の三ケ所へ、さらに阿蘇を西方に見ながら豊後へと抜ける古道沿いに位置する。秋元の村には、諸塚山信仰と修験道の混交を物語る遺構や史跡、南北朝争乱にまつわる南朝方・菊池氏の落人伝承などが点在する。村やこの家に残るさまざまな伝承は、神楽の起源とも絡み合いながら、神秘的な空間へと来訪者を誘うのである。 片付けを終え、この家の物語を今年83才のアサヨばあちゃんに聞きながら、納屋の骨格や古材などを最大限利用する方針を確認した。そして、まずは学生たちの手を借りながら、 梁と壁板の塗装を開始した。梁は楓の大木と欅またはそれに類似する樹種。壁板は栗。 床板には、手斧(ちょうな)で削り出された杉の板。使用されている樹種を推定し、それに合った塗料と塗装法を選ぶ。柿渋を主とした天然素材を使いながら、太い柱や梁はオイルステインや黒のペンキを調合し、塗ってゆく。それにより、梁や板が強度を増し、古来の美しさを取り戻して、重厚さを増す。これもまた現代アートに通じる手法といえよう。 |
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ギャラリー石倉の誕生
荷物を搬出し終わって、埃が静まった石倉の中は、薄暗く、見通しも悪かった。一階と二階を仕切る床板が視界を塞ぎ、外から入ってくる明りを遮っていたのである。そこで、梁と床板の一部を取り除くこととした。石の壁が頑丈に組み立てられているため、構造上の問題点はないと判断したのである。入り口近くの床を外し、梁を切り落として木造りの階段を一番奥まで移動させ、縦の構造材に補強を施しただけで、倉の奥から天井まで見渡せる空間が出現した。石の壁は、100年の時を刻んで、静かに息づいていた。南側に上部が緩やかなアーチを描いた窓があり、窓枠もガラス窓も失われていたが、そこから射し込んでくる光線が、倉の中を装飾した。西に傾いた夏の日差しを反射して、窓に絡みつく藤の蔓や草の茎なども、異国の建築物を彩るアラベスク文様のように輝いた。 片づけが終わった石倉には、この家の母屋で2007年に開催された神楽の写真の中から「秋元神楽の仮面神(おもてさま)」を選んで展示することとした。さまざまな神格を持つ仮面神の表情から、秋元神楽の神秘の一面を知る企画としたのである。家族は村を離れていて、飯干美智子さん一人が守る母屋は、黒光りのする柱や板戸、板敷きの縁側などが美しい旧家で、すべての部屋の仕切りを取り払って御神屋(みこうや)を設え、中央に天蓋を飾ると、民家に神々が舞い入る高千穂地方古来の「神楽宿」となったのである。 まず、石倉入り口左側の壁面には、神楽の行列を神楽宿へと案内する「猿田彦(サルタヒコ)」、秋元神楽の主祭神「秋元太子大明神」、そしてイザナギ・イザナミの二神が国産みの物語を演じる「御神体(ごしんたい)」を展示した。御神体は二神が酒を漉し、酔っ払って抱き合う高千穂神楽の人気演目で、国土創生の物語を演じながら、秋の稔りを喜び子孫繁栄を祈願する祝いの舞である。二階には、大国主命の国造りの様子を表すとも、七人の子神に神楽を教える場面ともいわれる「七貴神」、右壁の一階と二階から入り口真上へと連結する広い壁面には、「五穀(ごこく)」、「柴荒神」、「八鉢(やつばち)」「天鈿女命」「戸(と)取(とり)」などを配置した。五穀は、米・豆・粟・稗・黍を表す五穀の神が舞う神楽である。五穀を表す仮面をつけ、五種の「種つ物」を捧げて現れた五神は、神歌を歌いながら御神屋を巡り、五穀を神に捧げる所作をする。山の恵みと五穀の豊饒を祝って舞われる神楽である。柴荒神は、高千穂地方の鎮守神・十社(じっしゃ)大明神(だいみょうじん)とともに天降る地主神であり、八鉢は、瓢軽なしぐさで現れ、太鼓の上で逆立ちをしたり、客席に飛び込んだりして神楽の場を賑わわせる。天鈿女命や戸取は高千穂神楽のクライマックス「岩戸番付」を彩る神々。天鈿女命の呪術的な舞や手(タ)力雄(ヂカラオノ)命(ミコト)の豪快な舞、戸取の派手なパフォーマンスなどが繰り広げられ、やがて厳粛な神歌ととともに岩戸が開くのである。 秋元神楽は、多彩な仮面神が次々と展開される場面を彩り、古式を伝える舞や神楽歌、唱(しょう)教(ぎょう)などが国家創生の物語と土地神の信仰を語り継ぐ。篝火が外神屋を照らし、笛の音、太鼓の響きは山々に響き、村は眠りを忘れる。 |
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大きな岩のある風景
秋元川の支流が、今は草に埋もれた旧道に沿って分岐する場所に、「殿岩(とのいわ)」と呼ばれる巨岩があって、一枚の立て札が ――その昔、世の無常を感じた武士(若狭の殿ともいわれる)が都を捨てて落ち延び、 ここに住んだ・・・ と伝える。ここからやや下流には秋元川の水流が大きく落ち込む淵があり、杉と苔に覆われた「ひょうくろ岩」があって ――昔、長九郎と呼ばれる武人が旅の途中に立ち寄り、この地を修行の場と定めた・・・ とそのいわれを伝える。いずれも、この村に残る南北朝・菊池氏伝承の残影である。 南北朝時代、この天皇家が北朝と南朝に分かれて戦った争乱の時代は、人心も国土も二分された不幸な時代であったが、王家や豪族に随従した宗教者や芸能者などが各地に多様な文化や芸能を伝えた。一時は九州を制した南朝・菊池方も最後には北朝・幕府軍に敗れ、落武者たちは九州脊梁山地の奥深く逃れたが、ここ秋元もその伝承地のひとつなのである。 ある秋の夕暮れ、殿岩の下段にある一枚の小さな田で、小狐が赤い花を手に、 神楽に似た舞を舞っていた。 また、ある春の一日、ひょうくろ岩の上で相撲を取っていた河童たちが、次々に淵をめがけて飛び込み、銀色に光る魚を捕らえて帰って行った・・・ 伝承と幻影、史実と伝説などが交錯しながら、秋元の今昔を描き続けてゆく。 飯干敦志氏宅の母屋・椎茸乾燥小屋・客室の展示を終えた「高千穂・秋元エコミュージアム」のスタッフは、続けて岩下地区・飯干美智子氏宅の「石倉」の片付けと改装に取りかかった。8月から加わった6人の若者は、東京・京都・宮崎から応援に来てくれたもので、彼らは、秋元神楽を見に来たり、インターンシップ事業でこの村の生活を体験したりして、すでに縁が結ばれている仲間であった。タオルを頭に巻き、Tシャツの袖を肩まで捲り上げた若者たちは、石倉の前に集まった。この石倉は、明治初期ごろに建てられたもので、裏山に聳える石の崖から切り出してきた石材を加工し、組み立てたものという。小ぶりだががっしりとした造りで、仕事は丁寧で美しく、秋元の風景に味わいを与える点景のひとつとなっている。すでに使われなくなって久しい石倉の中には、籾種を貯蔵するための大きな木製の米(こめ)櫃(びつ)や衣装箱、農機具などがぎっしりと詰め込まれていた。若者たちの体力をたのんで、まずはそれらを片付ける作業から開始した。籾殻(もみがら)が残った米櫃や、古い木綿の野良着などが入った衣装箱、麻糸の束などが次々と運び出された。若者たちはたちまち汗と埃にまみれたが仕事ははかどり、彼らも楽しそうであった。倉の中から出てくるさまざまなものは、彼らにとっては初めて目にするものが多く、あるものはゴミに見え、見ようによっては現代アートに類似し、また、民俗資料として保存すべき発見や宝探しの要素も加わって、片付けの現場は賑わったのである。 |
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窓の外を横切った瑠璃色の光
窓の外を、瑠璃色の光が横切っていった。 窓枠一杯に広がる夏の樹林に引かれた一本の直線であった。納屋の二階を改装した民宿の客室は、二部屋に分けられた客室と客室の間の空間が居間となっていて、その居間の窓から、樹林とその向うに控える大きな山脈が見えるのである。 窓を横切った瑠璃色の光は、こちらの谷から対岸の樹林へと飛び渡った瑠璃鳥(オオルリ)であった。先ほどまで桂の木のてっぺんあたりでさかんに鳴いていた声がそちらへと移動したので、そのことがわかる。春から夏へかけて、南の海を越えてやってきたこの美しい小鳥は、頭部から背、さらに尾にかけて鮮やかな光沢のある瑠璃色で、16cm〜17cmの小柄な鳥ながら、渓流沿いの樹上に陣取り、高らかに囀り続ける。 白木の板が張られた客室の窓は、秋の紅葉、冬枯れの森、芽吹きと若葉の樹林など、 四季の風景を写しとる。一冊の書物と原稿用紙と山から汲んできた水を机の上に置いたまま、その景色に見惚れて時間を過ごす、至福のひととき。 私は、飯干敦志さんの家の母屋に隣接した客室に泊り込んで、「高千穂・秋元エコミュージアム」の仕事を実行した。母屋は、重厚な高千穂地方の民家の骨格を残しながら、神楽の日には「神楽宿」が務まり、日常的な生活にも適合するデザインで仕上げられている。母屋に隣接する納屋を改装した「離れ」が客室「オーベルジュまろうど」である。近年まで牛を飼っていた建物だが、ここもお洒落な木造の部屋に仕上げられ、一階は食品の加工場、二階が客室となっている。 昔、秋元の人たちは、遠くから自分たちの村を訪れる客を「神」に近い存在として迎えた。 それが「客神=客人=まろうど」である。日本列島の山地の村には、 新しい知識・技術・文化・芸能などを伝える来訪者が「ムラ」の歴史を革新してきた歴史がある。敦志さんの「まろうど」は、この意趣をふまえる。 椎茸乾燥小屋を改装し、「ギャラリー客神(まろうど)」として始動させた私たちエコミュージアムスタッフは、続けて母屋の縁側と納屋の二階の客室「まろうど」の壁にも神楽の写真を展示した。この母屋の縁側は、南側に向かって広々とした空間が確保されており、対面する山脈や雑木林、稲荷様の祠などを眺めながら、ゆるやかに流れる時間を過ごすことができる。客室には、この家の跡継ぎであり小さな神楽の舞人(ほしゃどん=奉仕者)でもあるタッ君や、神社から神楽宿へと向かう「舞い入れ」の時、神社のご神体を入れた箱を背負った曽(ひい)祖父(おじい)ちゃんの光雄さん、神楽の客にふるまいをする村の女衆や家族の姿などを主に展示した。これにより、母屋を中心に、椎茸乾燥小屋と縁側、離れ(納屋)とが 「展示」によって連結され、一体となったのである。 「オーベルジュまろうど」に泊り、美味しい秋元料理をいただき、神楽の写真を見ながら村の歴史や秋元再生の構想などを語り合う時、客を「神」として迎えた秋元の先人たちの心遣いが、エコミュージアムの原点といえる考え方であることを知ることができる。 |
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精霊神のいます場所
記紀神話における天孫(てんそん)降臨(こうりん)の段は、大陸から新しい文化を持って渡来し、「大和王権=日本という国家」を築いた「天孫族」と、日本列島にそれ以前から居住していた縄文系の先住民族との激突・協調・融合の物語であると解釈することができる。猿田彦と天鈿女命が出会い、やがて結ばれて、猿田彦が「先導神」「境の神」「縁結びの神」などの性格を持つ守護神となり、天鈿女命が神楽や能・狂言等の芸能・演劇の祖神となったことも、平和的に二つの民族が融合したことを物語っている。椎茸乾燥小屋を改装した小さな美術館の出発をこの二神の展示で飾り、「高千穂・秋元エコミュージアム」の第一歩が踏み出された。 手前の部屋の焚き口の真上の板壁には神楽「岩(いわ)潜(くぐり)」を先導する 飯干(いいぼし)貞夫(さだお)さんの舞を展示した。貞夫さんは秋元神楽保存会の会長であり、温厚な地区のまとめ役である。「岩潜」は、剣を採って舞う勇壮な四人舞で、一人が四人の入場を先導し、先導者は舞(まい)殿(どの)を一周して退場する。白衣(はくい)に赤(あか)襷(だすき)を掛け、赤鉢巻に白い宝冠(ほうかん)(御幣)を差して舞う貞夫さんの雄姿には、誰もが見惚れるのである。岩潜の舞は素戔嗚(スサノオ)命(ノミコト)が激流渦巻く岩場を通って高千穂に向かう場面を現す舞、あるいは剣の力で国土を切り開いた舞と伝えられる。 奥の部屋の右手の壁面に、「荒神(こうじん)舞(まい)」のアップを飾った。火を使ったこの小屋の隅には、荒神様の小祠が埃をかぶったまま置かれていたが、埃を払い、 焚き口の横に安置すると、室内に清澄な気配が漂った。「荒神」は火の神であるが、 もとは荒ぶる土地神であり、宇宙・自然界を支配する根本神である。古代製鉄においては、鍛冶の技術を持った渡来の民と山を支配する地主神・荒神の協調関係が不可欠であった。神楽の荒神舞では、台所から舞い出て荘重な舞を舞った後、ふたたび台所に舞い入って、神楽宿の主や主婦と盃ごとをする。家内安全と火伏せの祈祷である。 この部屋は椎茸の乾燥棚が置かれていた場所なので、壁には、二本の竹の棒を引っ掛ける装置としての切り込みの入った板が取り付けられていた。これは、オブジェとしても鑑賞に耐えうるものであるという見立てから、残して展示に生かすこととした。 すなわち、板と板の間に出来た小壁面に小さな額を置いたのである。神楽の鈴や女神と男神が愛を交わす「ご神体」の場面を展示した。 奥の部屋左手の壁面には二つの窓があり、外景が見える。秋元の山を借景として取り込み、そこから差し込む光も展示効果として利用する。これにより、昔から使われ続けてきた裸電球一個の照明で、静かで温かみに満ちた展示空間が完成したのである。窓と窓の間には、赤い額縁に入った敦志さんの舞姿を飾った。これは海神の水徳を讃える「住吉」の一場面である。 秋元神楽に登場する神々たちの写真が、小屋の壁を飾った時、そこは、秋元の精霊神たちの座す場所となり、このエコミュージアムの性格を象徴する空間となったのである。 |
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展示開始は「祝い」の神楽
片づけを終えた椎茸乾燥小屋はなかなか清々しい空間となり、スタッフを喜ばせた。家の主の敦志さんの話によると、椎茸を乾燥させるためには数日間火を焚き続けねばならぬため、祖父や父が、季節ごとにこの小屋に泊り込んだ。そのころは、まだ家に暖房設備のない時代だったので、敦志少年も、しばしばこの小屋を訪れた。焚き口で焚いた火が、奥の部屋まで回り、それが室内を暖めて、棚の椎茸を乾燥させるのである。温かな部屋で神楽の話や狩りの話、村に伝わる昔話などを聞きながら、眠ったのである。 奥の部屋の左手の下部に、壊れかけた小窓があった。それは、室内に外気を呼び込むための通気口だったが、用途を失って久しかった。外部の板はぼろぼろと崩れ落ちるほどで、修理に手を焼いたが、大工仕事などを苦手とする私が、ふと思いついてぐるりと箱状の窓枠を反対向きにして、いままで内側にあった部分を外に向けて釘で打ちつけたら、一輪挿しを置いて花を活けるほどの小空間が来上がった。これもまた「侘び」の美学にかなう趣きであり、アートな設えとなったである。 こうして、片付けから展示への工程が開始された。まず、小屋の奥の部屋の正面に、 この家で開催された神楽の場面から「天鈿女(アメノウズメ)命(ノミコト)の舞」を飾った。 記紀神話の天鈿女命は、天照大神が隠れた岩戸の前で半裸の舞を舞って神々の笑いを誘い、天照大神をこの世に再び呼び戻す呪法を行なったり、天孫降臨の折、邇邇(ニニ)芸(ギノ)命(ミコト)の行く手をふさいだ猿田彦(サルタヒコ)の前に立ち、半裸となって敵意のないことを示し、猿田彦の心を開かせて日向国・高千穂へと案内させた、という挿話を持ち、神楽・演劇の祖となった神である。 2008年、飯干敦志家は母屋の改築を行い、敦志さんは長年勤めた高千穂町役場を退職して農業を始める決意を固めた。それが、「高千穂ムラたび活性化委員会」の設立へと続き、 秋元の将来を見据えた壮大な事業の出発地点となった。神楽には、家の新築を祝う 「家祈祷」の意味も含まれる。これをふまえ、展示のテーマを「祝い」とした。日の丸の扇を採り、赤い御幣を振りかざして舞う天鈿女命の舞は、地の霊を鎮め、場を清める呪的舞踏であることから、この趣意にかなうものとなった。火の焚き口のある手前の部屋の右手の壁は、ビニールトタンで塞いだだけの簡素なものだったので、ここは青竹を縦に貼り付けた竹壁とした。竹と竹の隙間から漏れる光もまた一興である。 一箇所だけあった明り取りの丸窓の部分は、竹を部分的に割って小窓を作り、外光を取り込む仕掛けとした。この壁には、神楽の行列を先導する「猿田彦」を展示した。猿田彦とは、天孫降臨の折、邇邇芸命の行く手に立ち塞がった異相の国津神(すなわち土地の先住神)であるが、天鈿女命の半裸になった姿と、笑顔の呪力により、邇邇芸命一行を日向・高千穂の国へと案内した。その故事により、「先導神」「境の神」「縁結びの神」などとして広範な信仰を集める神となったのである。立ち上がり始めた「ムラたび」の事業とこの小さな美術館の入り口を飾るにふさわしい神格である。 |
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片付けはアートである
「現代美術」の概念には「片付けもアート」という表現が含まれる。私が1992年に大分県湯布院町湯平温泉(現・由布市)で企画・提案し、開催された「湯布院と山頭火展」では、一人の美術家が、一ヶ月間の会期中、古い小屋を片付けて、またもとどおりにがらくたを含めた荷物類を収蔵するというパフォーマンスをした。その作家にいわせれば、その一連の行為そのものが「表現」であり、「アート」である、というのだったが、当時は、それを見たり聞いたりした皆が、不思議そうに首を傾げるばかりであった。が、その「行為」は、 漂泊の俳人種田山頭(たねださんとう)火(か)の足跡にちなんだこの展覧会の趣旨に絶妙の間合いで響いて、参加作家、地元の実行委員などの共感を集め、その一年後にはブロック塀の倉庫を「片付け」て「改築・改装」した「時雨館(しぐれかん)」という六畳一間の美術館として結実した。山峡を通り過ぎるしぐれを眺め、温泉街を流れる川瀬の音を聞きながら、館内に置かれた筆をとり、一句をしたためる空間は、まさに乞食と漂泊の俳人を記念するにふさわしい美術館となったのである (時雨館を核とする湯布院と山頭火展は現在も継続中)。 それから二十年近い時間が経過し、「現代美術」はポピュラーな表現手段として定着した。いまだに欧米のテキストを模倣する作家やキュレーターの多いことは惜しまれるが、 地域型の大規模な美術展や各地で展開されはじめた地域ミュージアムの取り組みは、 アート=芸術表現が美術館や画廊等の「箱の中」から「地域」や「自然」の中へと踏み出したものとして評価されよう。秋元へ来るまで10年近く塾の講師やフリーターに近い生活をしていたというスタッフの田中君や高校生の康之君が、切り損ねた板を斜めに貼り付けた板壁や、釘で打ちつけた青竹の壁の隙間から射し込んでくる外光などを指差しながら、「これがアートだよ」 と嘯(うそぶ)く私に、うん、うん、と笑いながらうなずくシーンこそ、その認知度の証明である。 小屋は、奥行き6メートル、幅12メートルほどのごく小さな建物で、二部屋に分かれている。奥の部屋が乾燥室で、壁には椎茸を乗せて乾燥させるための竹製の四角い棚が段々に掛けられており、左手の壁が一部崩壊状態で、ガラスの割れた窓の向こうに夏山の緑が見えていた。手前の部屋に焚き口のある二メートル四方の掘り込みがあり、かつて祀られていた荒神様が埃をかぶっている。この二部屋のゴミを搬出することから始め、壊れた壁に青竹をはめ込み、乾燥棚を外して崩落した土を片付けたら、思ったとおり、土壁に囲まれた静寂な空間が現れた。壁は、赤土に藁を混ぜて練り込む伝統の工法で造られており、「時」に磨かれた土は手で撫でてみたいほどの深い味わいとなっている。板壁は、風雨にさらされて木目が浮き出たものをそのまま使った。補強する木材も古材を使った。 利休時代の茶室とは、本来このような空間だったのではないか、と思わせるほどの展示室が、埃の中から出現した。この記念すべき第一号の展示施設は「ギャラリー客神(まろうど)」と名づけられた。 |
(4)
2010年、秋元の夏
秋元の村を取り巻く山々は、青みがかっている。諸塚山系の山が間近に連なり、
太陽が、山頂をかすめて斜めに山肌や山麓を照射しながら移動してゆくからだ。
秋元川は、諸塚山を水源とする三本の水流を集め、
村の中央部を貫流して高千穂盆地の南部で大河・五ヶ瀬川に注ぐ。
清澄な水の流れる川をウナギが遡上し、体側が虹色をした天然もののヤマメが棲息する。
川沿いに点在する山の神・水神・稲荷などの小祠は、
今もなお土地神を祀る信仰が生きていることを示している。
村のどこにいても、秋元川の水音が快く耳に響く。
2010年7月。「高千穂・秋元エコミュージアム」の実質的な活動が始まった。
私を含めたエコミュージアムスタッフ3人と村の高校生1人に加え、
東京、京都、宮崎市内から6人の大学生が集まり、村に点在する
椎茸乾燥小屋、石蔵、牛小屋の三箇所の改装から始めたのである。
「椎茸乾燥小屋」とは、飯干敦志さんの自宅の母屋に隣接する小さな小屋で、
風化にさらされて壁の一部は崩れ落ち、母屋の改築とともに取り壊しが検討されていたものである。
現在、手前の小部屋には電動の乾燥機が座っているが、奥の小部屋には焚き火で室内を暖め、
その熱で竹製の平籠に乗せた椎茸を乾燥する仕組みがそのままに残されていた。
小屋の内部の土壁や深く掘り下げられた焚き口、椎茸乾燥用の竹の棚、
荒神様の置かれた一角などは、一部分だけを切り取れば、まるで現代美術の一こま、
あるいは、紹(じょう)鴎(おう)や利(り)休(きゅう)が好んだ「寂び」の極地といえるほどの風合いを持っていた。
時代の流れとともに「用途」をなくしていたかにみえるこの小屋にアートの手を加え、
展示施設として機能させる、というのがこの計画の第一歩である。
第1日目。小屋の前に、私とスタッフの田中邦之君、青江佐知子さん、
地元の高校生・飯干康之君の四人が集まった。
田中君はこの事業に雇われたIターンの青年で村に親戚がある。
青江さんは秋元神楽に魅せられ、倉敷から移り住み、この計画に加わった。
康之君は秋元神楽の伝承者で、これから始まろうとしているこのプロジェクトに興味を持って参加した。
彼らが、この仕事を通じて、村の将来に関心と関わりを持ってくれれば、
すでに事業は明るい出発をしていることになる。
この夏、日本列島は各地で記録的な暑さを記録したが、秋元も例外ではなかった。
平野部や都会の暑さに比べれば、木陰などに涼しさが感じられたが、
直射日光が照りつける屋外での作業や、埃がもうもうとたちこめる室内の片付けなどは、
暑さとの戦いでもあった。倉庫の二階で資材調達中の私が赤スズメバチに三箇所も刺され、
病院に直行するというアクシデントもあり、出だしからこのプロジェクトはハードなものとなったのである。
注・武野紹鴎(たけのじょうおう) 1502−1555. 堺茶道の祖といわれる茶人。
千利休の師として知られる。
注・千利休(せんのりきゅう)1522?1591 茶道の宗匠. 「わび」「さび」の美意識を貫いた
天下一の茶匠. 安土桃山時代の茶人で、織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めた。
<3>
精霊の森 秋元神社
切り立った岩場と、杉の巨木に囲まれた空間の真上に、ぽっかりと青い空がある。
その空間は、外界からも、古代から現代へと連なる時間軸からもきっぱりと遮断されたような時空である。
そこに佇み、天の一角を見上げると、きらきらと光りながら通り過ぎて行く風が見える。
その時、敬虔な参拝者も旅の途上で訪れた人も、まさしく「神=森の精霊」の存在を実感する。
秋元神社は、その静謐な空間に鎮座する。
岩場の一角には、昔、「秋元太子」が篭って修行したと伝えられる岩窟
「太子窟(たいしがいわや)」があるという。「秋元太子大明神」こそ、
「諸塚様」とも呼ばれる諸塚山の精霊神であり、「秋元神楽」に降臨する神である。
山と森の精霊は、神楽の場で一夜村人と遊び、夜が明けるとまた森へと帰ってゆく。
秋元神社の主祭神は国(クニ)常(トコ)立命(タツノミコト)であり、
国土を守護する産霊神であると伝えられる。神社の裏手から諸塚山系へと続く重厚な山塊と、
深い森を擁する地層からは、澄んだ水が湧き出ている。森の緑を映すその水をてのひらに掬い、
いただくと、遠い山を越えてくる神楽笛の音のような、かすかな響きが聞こえる。
私は、20年以上の年月をかけて九州・宮崎の神楽を訪ね歩き、地域の人々や伝承者の皆さんと交流し、
神楽の起源やアジア・日本・九州・宮崎と連関する仮面文化との関連について考えを巡らし、
神楽を核とした地域再生の試みや神楽そのものの伝承などについて語り合ってきた。
その長年の活動に対するひとつの回答のように、2010年3月、「高千穂・秋元エコミュージアム」
への参加が決まったのである。「由布院空想の森美術館」を閉館して宮崎へ移り住んでから
10年目のことである。私はこのことを珍重し、何か目に見えない大きなものに感謝するような気持ちとなり、
「これは山の神様からのプレゼントに違いない」
と自分本位に解釈して、秋元へ通い始めたのである。
さて、エコミュージアムとは、エコロジー(生態学)とミュージアム(博物館)とをつなぎ合わせた造語で、
「ある一定の地域において、その地域で受け継がれてきた自然や文化、生活様式を含めた環境を、
総体として持続可能な方法で研究・保存・展示・活用していくという考え方、またその実践」と定義される。
エコミュージアムは、事業の中核をなす拠点施設「コア(地域の紹介所・案内施設)」と
展示・保存対象である「サテライト(神社・仏閣や史跡、観光施設など)」、
それを結ぶ「ディスカバリー・トレイル(発見の小径)」等の要素で構成される。
「高千穂・秋元エコミュージアム」では、「コア=地域の精神的支柱」を「秋元神社と秋元神楽」に置く、
という方向性は、ごく自然に導き出された。太古の記憶を秘め、村の歴史を語り継ぎ、
村人の精神生活の骨格をなし、今も多くの来訪者との縁を結ぶ秋元神社と秋元神楽こそ、
「秋元という地域」を再生するための最上の地域資源であった。
<2>
村を巡る一日
秋元にたどり着くと、人はだれでも
――ここは、今はすでに失われてしまったという、東洋の仙郷にちがいない・・・
と思う。
高千穂から秋元に至る山道は、アジアの山岳の村を旅するような険しい崖沿いの道が続き、
その道が深い木立の中を通り過ぎた地点で、ぽっかりと明るい空が開け、
眼前に一基の水車と静かなたたずまいをみせる村が忽然と現れるからだ。
二つの谷に沿って四十六戸の古風な家が点在する。
それぞれの家には、「いろは」順に屋号がつけられている。
この村に住む人の大半が「飯干(いいぼし)」という同じ姓を名乗るため、
家ごとの呼び名が決められているのだ。家々を巡る細い道を歩くと、
懐かしい笑顔に出会う。すれ違う人が皆、にっこりと笑って挨拶してくれるのだ。
村人は、その日のお天気具合や出会ったタイミング次第では、
――寄っていきなさい、お茶でも飲んでいきなさい。
と黒光りのする縁側に誘ってくれる。のどかな日差しの中で、
自家製のお茶と漬物などの「お茶うけ」をいただきながら、
――やはりここは、昔話の中に出てくるような、「日本の美しい村」にちがいない。
と、だれもが思うのである。
エコミュージアムとは、地域の文化財や史跡、生活全体などを包括的に保存・表現するフランス生まれ、
北欧育ちの博物館概念で、山や川、畑や田んぼ、神社や昔から崇められてきた大きな木や岩、
さらにそこに暮らす人たちの生活文化や技術などを、「村まるごと博物館」と把握して
地域全体をミュージアム化し、活性化させ、再生させていく手法である。フランス・ラスコーの
洞窟壁画保存から出発したこの理論は日本へも伝わり、日本型の変容をみせながら、
近年、自然と共存する地域再生の手法として定着のきざしを示している。
2010年3月、私は、「高千穂ムラたび活性化協議会」の中の「エコミュージアム部門」の
アートディレクターとして契約された。秋元神楽の伝承者でもある飯干敦志(あつし)さんとは、
神楽を通じて20年以上の付き合いをいただいていたが、今回、この「エコミュージアム計画」の
実践者として私を選んで下さったのである。敦志さんは、かつて私が運営していた
「由布院空想の森美術館(1986―2001)」へは何度も足を運んだことがあるといい、
宮崎へ移転した後の私の活動もよく把握しておられた。湯布院から九州各地へ通い、
地域再生計画とアートの連携を提案し続け、また、現在地でも石井記念友愛社が推進する
「福祉と芸術の森」構想と連携して運営を続けている「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」
の動向なども承知の上であった。敦志さんの、村の再生と神楽の存続を願った長期遠大な計画と、
私のこれまでの主張と実践とがここで出会い、活動し始めたのである。
<1>
秋元・神秘の村へ
古代――まだ「国家」というものが神々の手にあったころ――
の物語を語り継ぐ、神話の里・高千穂。その高千穂の里から西へと向かい、
深い峡谷に沿って遡る道がある。
道の両岸は切り立つ崖であり、その崖は、背後の大きな山脈に連なっている。
断崖のはるか下方にも、また崖上にひろがるわずかな台地にも、棚田に囲まれた集落が見える。
高千穂盆地の東方に聳える祖母嶽の山頂から昇った朝日が、これらの風景を照らしながら、
ゆっくりと天頂を巡って、やがて西方の諸塚山の山脈に沈む。この山塊のどこかに、
青い石を秘める谷があるという。けれどもその場所は、近づけば遠ざかり、
また近づけばさらに遠ざかるという。
碧玉(へきぎょく)
――古代の王の首を飾ったとも、神を招く呪術に使われたともいう青い石――
その石は、太陽の光を受けて地中から光を放つ。
その光の届く所が、神秘の村・秋元である。
宮崎県高千穂町向山秋元地区は高千穂盆地の西方、諸塚山の東麓に位置する美しい集落である。
広範な信仰を集め地区の精神的支柱をなす秋元神社を中心に、「秋元神楽」を伝承する。
秋元神社は、英彦山修験・霧島修験・星宿信仰等が混交する諸塚山信仰の拠点であったと伝えられ、
秋元神楽には「諸塚様」とも呼ばれる「秋元太子大明神」が降臨して、土地の物語を語り継ぐ。
春には山桜が山腹を彩り、夏には朝霧が流れ、秋は木の実や茸が採れ、冬には神楽笛の音が響く
――古きよき日本の美しい村――
の面影を残し、アジアの山岳の村を思わせる景観を有するこの村も、
近年は過疎化、小子化・高齢化などの全国的な地域社会が直面する現象とは無縁ではなく、
神楽の伝承者の村外流出、地域産業の衰退など多くの問題を抱えている。
このような状況下において、2010年3月に高千穂町役場を早期退職した
飯干(いいぼし)敦志(あつし)氏によって「高千穂ムラたび活性化協議会」が設立され、
「農業」「食と民宿」「エコミュージアム」の三部門を一体化した事業が開始された。
「ムラたび」とは、神楽や深遠な風景の中で暮らすムラ人の生活風景などが持つ
文化的価値を提起しながら、自然・歴史・伝承・生活文化等の豊かな地域資源の掘り起こしと把握、
食材や特産品の開発、アグリビジネスとエコツーリズムを軸とした「ムラ旅人」の招致、
雇用の場の拡大、神楽伝承者のUターン・Iターンの受け皿としての機能等を確保する
「持続可能なムラづくり」をめざす事業である。
「高千穂・秋元エコミュージアム」はこの「高千穂ムラたび活性化協議会」の
事業の一部門として企画され、活動が開始された。神話や神楽、
神秘的な自然・文化などに人気が集まる高千穂の中でも、さらに奥深い土地に位置する
秋元集落とその周辺の山や森、渓谷などをステージとし、集落内に残る空き家や
倉庫、石倉、納屋などを改築・改装し、「展示空間」「もてなしと交流の拠点」
とする活動を展開しているのである。