司会者(神楽座代表・戸越。以下Qで表示) では、かぐらおじさん、最初に自己紹介をお願いします。
神楽おじさん(以下Aで表示) 「かぐらじいさん」ではなくて、「かぐらおじさん」
と呼んでもらって良かったなあ、と思っている高見です。
およそ30年ほど、宮崎の神楽に魅せられて、通い続けているので実際には相当の年齢に達しているのです。
山奥の村で、あるいは海辺の町で、一晩中上演される神楽を見続けていて感じること、それは、宮崎の神楽はすごい、
世界に誇る文化遺産である、ということです。そのすごさ、世界に向けて発信できる宮崎の神楽の文化的価値などの
一端をお伝えできれば、と思います。どうぞよろしくお願いします。
Q 今日は僕が皆さんを代表してかぐらおじさんに質問を投げかけて、それに答えてかぐらおじさんが神楽に関するいろいろな
ことを話していただくというスタイルで進行していきたいと思います。それではかぐらおじさん、よろしくおねがいします。
では、最初に。かぐらおじさん、神楽っていったい何なんでしょう?
A 「神座(かみくら)」。辞書をひくと「神様が座(いま)す場所」という語源の定義があります。
「磐座(いわくら)」の「くら」と同じく神様がおられる場所。そこで行なわれる神事、舞などの儀礼。それが一般的な解釈。
ところが、宮崎の米良山脈の東端の「中之又神楽」(木城町)には、「鹿倉舞(かくらまい)」という神楽があります。
「鹿倉(しか・くら))」と書いて「かくら」という。鹿狩りの神様「鹿倉(かくら)様」という神様が神楽の場に現れる、降臨するのです。
これを「鹿倉舞」と呼んでいる。鹿狩りの神様「鹿倉様」は、「かりくら」すなわち「“狩り”の“くら”=狩りの領域」を支配する神様。
これが「鹿倉様」と呼ばれている。米良山系全域には「かくら祭り」とよばれる狩猟祭祀があり、西米良のほうに行くと猪狩りが主体となりますが、
いずれも関連している。この「かりくら・かくら・かぐら」も「神楽」の語源のひとつであろうと解釈されています。
普段は天空の彼方や山そのもの、森の中、巨樹・巨岩などに宿っている神様が、その日一夜、現れ、村人や参拝者と交歓する。
そういう「場」のことを「かみくら」、「みこうや=御神屋」と呼び、神事や舞が行われる一連の時間帯を「神楽=かぐら」というのです。
もうひとつ、記紀神話の天照大神の「岩戸隠れ」の段で、天鈿女命が岩戸の前で半裸の舞を舞い、岩戸に隠れた天照大神の出現を促した、
この神事・舞も「神楽」と呼ばれ、天鈿女命は「神楽の祖」となったとされています。このことはまたのちほど詳しくふれる機会があります。
カクラ様の森と巨石(西都市銀鏡地区)
神楽の御神屋/左:椎葉不土野神楽、右:椎葉栂尾神楽
左:御神屋に建てられる注連柱/清武船引神楽 右:御神屋に張られる注連縄と御幣/高千穂神楽
左:中之又神楽・鹿倉様 右:高千穂上田原神楽天鈿女命
Q では、「神楽」は何のためにやってるのですか?
A 「神楽」とは、神様と村の人が一夜仲良く過ごすという日。
では、どういう日に開催されるかというと、秋の穫り入れが終わったあとの神社の境内、
あるいは民家を神楽宿(かぐらやど)にして収穫を祝うお祭り、収穫感謝祭というふうに捉えると分かりやすいでしょう。高千穂神楽に「酒濾(さけこし)の舞」という演目がありますが、これは、新穀(この年にとれた稲)
を醸(かも)して、酒を作って神様に捧げるという儀礼です。現在は男神と女神が
酔っ払って抱き合うというちょっとエッチな演目になっているため誤解されることもあるけれど、
本来はそういう、収穫されたばかりの米からお酒を作って神様に捧げ、一晩お祝いをしようという収穫感謝祭ですね。
また、ちょうどそのころは一年で一番日が短い、冬至に向かっていく季節。これを昔の人は太陽が衰えて、死ぬと考えた。
そして冬至を境に太陽が復活して生き返るという考え方。日蝕とも関係していますが、
太陽の死と再生=太陽神復活の物語ですね。アマテラスオオミカミの岩戸開き神話というのがこれに重なる。
そういう、収穫感謝祭と太陽神復活の祭祀儀礼という二つの要素が骨格となって、その上に、
この日本という国家(大和王朝)がどういうふうにしてできたかという
古代の神話=国創りの物語が織り込まれてゆきます。なおかつ、宮崎の神楽には、
土地の先住神というべき氏神・荒神・水神・山の神・狩りの神というような
その土地その土地の神様がたくさん出てきて、郷土の物語を語り継いでいる。
これが宮崎の神楽の大きな特徴・性格であり、しかも「神楽群」として伝承されている。
大変貴重な事例だと言えます。
左・高千穂浅ケ部神楽「酒濾しの舞」右・高千穂神楽二上神楽「五穀」
日之影神楽「戸開」(天照大神が手力男命に導かれて出現)
Q 寒い時期にやるのはそういった意味があったのですね。
A そうです。
左・西米良小川神楽「布水の水神(荒神)」
右・東米良銀鏡神楽「シシトギリ」(古式の猪狩りを再現した狩法神事)
Q それでは、どうして夜にやる神楽が多いのでしょうか。
A 神楽には、昼神楽と夜神楽がありますが、夜神楽について。
神楽のクライマックスシーンである「岩戸開き」の場面が真っ昼間だったら場面設定として合わないなあ。
最近の神楽は短縮されてる例も多いけれど、通常、三十三番の夜神楽は12時間〜20時間も舞い続けられる。
まず集落の裏手にある神社で神事をして神様をお迎えし、それから神社の境内、
あるいは村の神楽宿へと行列する神様のお降り。そして神楽宿に舞い入る。ここまでで二時間くらいかかる。
それから次々に神事舞が舞われ、神様が降臨して、ようやく「岩戸」の番付にたどりつく。
太陽神復活の場面設定はこのように仕組まれているのです。村を囲む山々の峰がかすかに明るみ、
やがて朝日が昇るころ、「岩戸」が開いて太陽神・天照大神が出現する。神楽「岩戸開き」は
天地・自然・時間・空間など森羅万象すべてを取り込んだ壮大な神事劇といえます。
それから、古来、神事や祭りは夜に行なわれますよね。すなわち、神楽は「夜という神秘空間」
を最大限に利用した神事儀礼であり、演劇である、という見方もできます。
漆黒の闇、森の奥、天空を移動してゆく月、星の明かり、篝火、お酒。それらは、
昼間とは違った異次元の世界へと人々を誘う装置として活かされ、「神楽という場」が
神秘空間へと変移します。舞人も参拝者も村人も、祭りに参加し、この「場」
を共有することで次第にトランス(憑依)状態となってゆくのです。
夜が「眠り=死」を象徴する幻視空間であり、夜明けが「覚醒=再生」を表象する現世(うつつよ)の始まり。
神楽とは、異次元への旅、歴史と記憶の時空を逍遥する体験空間でもあるのです。
左:村所神楽「宮神楽」 右:小川作小屋村「月の神楽」
Q 神楽はどのくらいの時間やるの?
御神屋に降る雪:村所神楽
A 神楽三十三番の話をしましょう。
現在、宮崎の夜神楽は、夕方から朝までかけて三十三番が舞われます。
一つの演目が、40分から一時間、なかには二時間近くを要する演目もあるので、
三十三番を上演するとなると、どうしても20時間くらいかかる。それを短縮したり省略して今では
12時間くらいに収まるようになってるけれど、昔、聖徳太子が66個の仮面を作り、
その面を使って六十六番の神楽を舞わせたという伝承がある。これが、世阿弥の「風姿花伝」
「申楽談義」にも記録されている。当時の話として、その六十六番を遂行するためには、
一週間かかる、それではあまりにも長すぎるので短縮したのが神楽三十三番であり、
それをもっと縮めたのが能楽の「式三番」であるという。世阿弥は「能楽の祖形は神楽なり」とも言っています。
米良山系の神楽では、まず神迎えの舞「清山」から始まり、少年の舞人が場を清める「花の舞」、
剣(つるぎ)による地神鎮魂の舞「地割」の三番を神事神楽といっています。呼称は異なるが、
他の地域の神楽もおおむねこのような構成になっている。先にお話した中之又神楽の「鹿倉舞」
は地区の鎮守神社の大祭・中之又神楽の夜に奉納されるのですが、それとはべつに中之又では「鹿倉祭り」
という狩法神事があり、山中の鹿倉神社で「神迎え」「鹿倉様の舞」「神送り」の三番が舞われます。
各地の「宮神楽」などをこの「式三番」を念頭に置いてみるとわかりやすいでしょう。
あるいは、この式三番こそが神楽の原型といえるかもしれませんね。
銀鏡神楽「星の舞」
一方、東米良(西都市)の銀鏡神楽では、毎年、12月13日に式一番「星の舞」が舞われて
「星宿神=土地神=宇宙根本神」を迎える。そして次の日の夕刻、「猪頭の奉納」「式二番・清山」
から始まった神楽が、翌14日朝まで舞い続けられ、2時間ほどの休憩時間を経て狩法神事「シシトギリ」
とそれに続く「神送り」でようやく、午後1時頃、神楽33番が終わる。さらに翌16日の午前中に銀鏡川
の河原で狩猟儀礼「シシバマツリ」が行なわれる。すなわちすべての神事・神楽を終えるのに
4日間 (12日の準備・土地神祭りまで入れると5日間) を要するのです。ここには、
「神楽66番」の謎を解く手がかりがあると僕は思っています。
宮崎の平野部から日南海岸へかけて行なわれる「昼神楽」では、「田造り」「田植え」「収穫」等の
稲作儀礼(作祈祷神楽という)を中心に12番くらいを5〜10時間程度で演じる例が多くなっていますが、
もともとは三十三番を伝えていた、という伝承があるので、これも短縮形でしょう。
神楽の夜は更けて/高千穂秋元神楽
宮崎の夜神楽では、およそ12時間〜20時間くらいが基本的な上演時間だと思ってもらっていいです。
観客数の減少などで各地の神楽が昼神楽に組み替えられていくなかで、
「夜を徹して神楽が舞い続けられる」という上演形態が分厚く残っているということも
宮崎の神楽の貴重な財産です。
神楽の朝:高千穂押方五ケ村神楽
Q 神楽で使ってるお面や衣装は誰がつくっているのでしょう?
A かなり難しい質問だな。でも全く手がかりがないわけではない。
じつは、神楽面で現存する一番古いものの部類に入る二例として東米良(西都市)銀鏡神楽の
「宿神三宝荒神(しゅくじんさんぽうこうじん)」、西米良村小川神楽の「菊池殿宿神(きちくとのしゅくじん」」
の二面が鎌倉時代の面だとされていて、県の文化財にも登録されています。南北朝時代に懐良親王(かねながしんのう)
という南朝の皇子とそれを支えた肥後熊本の菊池氏という豪族が北朝・足利幕府連合軍に敗れて米良山中に落ち延びてきた。
その時に一緒に米良に入ってきたのが鎌倉時代の仮面だと伝えられる(このときにもう一面、
西都市内越宿神社の宿神面も入ってきたという伝承があり、他の仮面にも数例、同年代のものと思われる様式のものがみられる)。
それが実際に今も神楽で使われている。これが確認される一番古い仮面郡と言っていいでしょう。その起源伝承を調べていくと、
製作された時期はもっと古く、藤原鎌足作という伝承・伝説に行き当たる。
米良山系の神楽面には藤原房前(ふささき・鎌足公の孫)の作だという伝承を持つものもある。
だからおよそ平安朝ころには神楽面に類似する仮面が作られていた可能性がある。
左:西米良・小川神楽「菊池殿宿神」 右:東米良・銀鏡神楽「宿神三宝荒神」
世阿弥は、能面製作者以前に、「若狭の面打ち」に名人がいると書いているし、紀州(和歌山県)には「紀州の面売り」という行商集団がいたという伝承があり、製作者・流通集団の存在をうかがわせている。
古い時代の仮面製作者というのは、神職や神社直属の工人(宮大工みたいな人たち)、修験者など、「神に代わる」人たちおよび木地師などの職業集団が担ったと考えられている。それらの人たちが全国に普及させ、時代性というか、製作された時期の様式・特徴・流行などの共通項を示しているので、年代特定の手がかりになります。
霧島山系には「海老原源左衛門」という霧島修験の流れをくむ一派がいて、大変すぐれた仮面を製作したことが分かっています。その様式が、霧島山系から日南海岸、さらには宮崎平野へかけて神楽の分布と重なりながら分布しています。
諸塚村の神楽面の一部は、「高千穂の上野(かみの)の面打ちから買った」という伝承を残しており、諸塚神楽の神楽面と高千穂神楽の神楽面に共通項がみられることから、高千穂神楽面の古い様式を考える資料になります。
左:霧島面(個人蔵) 中:諸塚・南川神楽「稲荷面」 右:高千穂神楽古面(九州民俗仮面美術館蔵)
衣装のほうはかなり更新されていって、古い衣装が残っている例は少ないですね。
宮崎県では諸塚村南川神楽と戸下神楽に、江戸後期ごろの大変すばらしい和更紗の衣装が残っていて、
それが今も使われています。高千穂秋元神楽にも手織りの麻の衣装が一部残っていて、今も使われている。
これは村の人が自分で織ったものです。
それ以上古いものは確認できていないかな。
大半は京都の専門店で作られた新しい衣装です。
諸塚神楽の衣装(写真4点)
Q それでは、いつごろから神楽は舞われていたのですか?
A 古事記にも日本書紀にも記録されている「岩戸開き」の場面、アメノウズメノミコトが神懸かりをして
岩戸の前で舞った儀礼を「神楽」といっています。これが一番古い記録。記録されたのは1300年前だけど、
アマテラスオオミカミが岩戸に隠れたというその場面が、今から2600年〜2700年前すなわち、
皇紀二千六百何十年と設定されている(日本書紀にはそのように記されている)時代なのか大和王権成立期とされる
2世紀後半から3世紀初頭へかけてのことなのかは確定できないけれども、すくなくとも、大和王権成立とほぼ同時期に
「神楽」という芸能はあったとみていいと思います。「神楽」という言葉そのものは古事記にも
日本書紀を始めとする古記録にしばしば出てきますね。
以下に神楽おじさんが以前調べた資料を添付しておきます。
☆
古典にみる神楽の記述
記紀神話における「神楽」の記述は、天照大神の岩戸隠れを主題とした「岩戸開き」、素戔鳴命の出雲の国での活躍を主題とした「大蛇退治」の二例が突出する。「岩戸開き」では、天照大神や手力雄命、天鈿女命、天太玉命、天児屋根命等々の諸神)すなわち大和王権樹立の英雄たち)が活躍する。ここでは、天鈿女命が岩戸の前で半裸の舞を舞い、天照大神を岩戸から導き出す役割を果たし、それによって「神楽の祖となった」と記される。「大蛇退治」は大蛇の生贄に捧げられようとしていた出雲の国の先住神の姫神を素戔鳴命が救出する物語で、これは出雲地方の製鉄拠点を大和王権が制圧した物語を背景とする。これに天孫降臨の段の「猿田彦」が加わる。猿田彦は、天孫・邇邇芸命一行との出会いと天孫一行を筑紫の日向の高千穂の国へと案内した故事にちなみ、神楽でも「道行き」「先導神」高千穂神楽の「彦舞」などとして演じられる。いずれも大和王権樹立すなわち「日本という国家創生」の物語である。この物語の展開期は古墳時代初期から前期(2〜3世紀ごろ)と比定されるが、記録されたのは奈良時代(8世期)である。活動期と記録期には500年前後の空白期があるが、この間、国家創生の物語を伝えてきたのが、「神楽」等の演劇と口頭伝承であったと考えることができる。
日本最古の記録書である記紀神話に記された「神楽」は少なくとも1200年前から、物語の展開期=大和王権樹立期まで遡って
考えるならば1800年前頃には「神事芸能=演劇」として上演されていた世界最古級の演劇である。
記紀神話には、大和王権樹立直後に、「倭舞」「国栖舞」「久米舞」「筑紫舞」「諸県舞」「隼人舞」などの芸能が服属儀礼として奉納されたことも記されている。これらは、朝廷に対し、先住民が支配下に入ることを誓い、寿ぎを述べる服属儀礼である。2007年に奈良県纏向遺跡で出土した木製の鍬を転用した仮面は、「田の神舞(農耕儀礼)」に類する芸能が奉納されたことを示すものであり、記紀の記述を裏付けるものである。
「枕草子」は平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆された随筆であり、当時の貴族社会の風俗や風物、装束、人々の消息などを物語る。その第三十六段「花の木ならぬは」に「榊」について述べ、榊は賀茂や岩清水の臨時の祭、宮中の御神楽の折などに用いられたと書かれ、神楽の採り物に榊が用いられたことを示している
。第八十九段「淑景舎春宮に」の段には「散楽言(さるごうごと)」とあり、
このころ、宮中で散楽が上演されたことを表している。
「今昔物語集」は平安時代末期に成立したと見られる説話集で、当時の諸国のさまざまな事件や伝承、昔話などについて描いた書であるが、ここでは、第七「近江の国矢馳の郡司の堂に田楽を供養せしこと」で田楽の存在を示し、第二十七「伊豆守小野五友目代の話」では傀儡子師について述べ、第五十七「藤原惟規、和歌を読みて免されし語」では惟規という浮気物の若者が齋院の女房の下へ忍び入ったものの気付かれて出入り口を閉められ、閉じ込められた時、咄嗟に「神垣は木の丸殿にあらねどもなのりをせねば人咎めけり」と歌った。これは天智天が皇太子時代に筑紫に居た時、朝倉の木の丸殿という荒削りの木で作った行宮に居たことにちなんで歌われた神楽歌になぞらえたものであり、それにより赦されたという故事。当時すでに神楽歌が広く浸透していたことを物語る。また第四十五「近衛舎人、常陸国の山中に歌をうたひて死にし語」では近衛舎人という神楽舎人が陸奥国から常陸の国へと越える山中で寂しさに耐えかねて歌を歌ったところ山神の感に遭い、その夜のうちに死んだことなどを記して面白い。
吉田兼好の筆になる「徒然草」は、 「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころに うつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」 というあまりにも有名なこの序文で始まる鎌倉時代の随筆。仏教の無常観と平安末期から続く末法思想、平安朝の崩壊と武家階級の台頭などを背景に置きながら、この世のはかなさと生死輪廻の世界からの解脱を願うのである。この書でも第十六段に「かぐらこそ、なまめかしくおもしろけれ。おほかた、ものの音には、笛・篳篥(ひちりき)。常に聞きたきは、琵琶・和琴(わごん)。」と描かれ、
神を祀るために神前に奏楽される舞楽や十二月に宮中の内侍所の庭前で行なわれた御神楽のことにふれている。
鴨長明は「方丈記」で「 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶ うたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、
またかくの如し。」と述べ、戦乱に荒れ果て、疫病が蔓延し、盗賊がはびこり、繰り返し大火に襲われる都の惨状を描き、自身は世を捨てて田舎の小舎=方丈に住みながら、世の無常と中世の不安感を記録する。この書の冒頭で、安元元年の京の都の大火についての記述があり、「火元は樋口富の小路とかや、舞人を宿せる仮屋より出火・・・」、と火元が神楽またはそれに類する芸能者の仮の小屋からであったことを特定し、
さらに凄まじいまでに焼け広がる火災の様子が克明に描写されている。
このように、古代から中世に至る古記録・古典には随所に「神楽」に関する記述がみられ、当時、
王朝=宮廷に付随する神事・芸能として盛んに神楽が行なわれていたことが知られるのである。
Q 神楽に出てくる神様と物語について教えてください?
A 神楽に出てくる主役級の神様というのは、基本的には先にもお話したように
古事記・日本書紀に記録されている国家創生の英雄たちですね。たとえば、岩戸開きの始まりを告げる舞
「伊勢」はアメノコヤネノミコト。天の香具山の榊を引き抜いて御神屋を作る場面を演じる「柴引」は
アメノフトダマノミコト。岩戸の前で神がかりの舞を舞い、神楽の祖となった、アメノウズメノミコト。
アマテラスオオミカミを岩戸から導き出した大力の神・タジカラオノミコト。そして太陽神・アマテラスオオミカミ。
そのほか、出雲神話にちなむスサノオノミコトやクシイナダヒメ。天孫・ニニギノミコト一行を
天の八衢で迎えたサルタヒコ等々、この日本という国家(大和王朝)樹立にちなむヒーローたちが
神楽の神様として造形されているのです。
左:銀鏡神楽「手力男命」右:/高千穂神楽・アメノウズメノミコト
諸塚戸下神楽アマテラスオオミカミ
一方、宮崎の神楽には、いろいろな土地の神様が出てきて郷土の物語を語る。
米良山系の神楽では鹿狩りの神様や猪狩りの神様が出て古代の狩りの様子を再現するし、
南朝の皇子・懐良親王とその一族、菊池の殿様とその一族等が次々に登場して物語を展開していく。
これが神楽の起源を語ってもいる。
諸塚神楽では三体の荒神「三宝荒神」が出て天地・自然・森羅万象と人間界の融和を説く。
高千穂では弓と矢と鉄砲を担いで舞う猪狩りの神楽「山守」がある。
椎葉では巨大な鼻を持った山の神=森の神が出る。日南市北郷の潮嶽神楽には、
「海幸彦」の舞が伝わっている。これらが、じつに個性豊かで面白いのです。
左:村所神楽「大王様・懐良親王の舞」 右:村所神楽「八幡様・菊池重鑑公の舞」
左:中之又神楽「猪荒神」 右:諸塚南川神楽「三宝荒神と神主の問答」
そういうふうに土地の神様が降臨して地域の伝承や古層の記憶を語るのが宮崎の神楽の最も大きな特徴だと言える。
他の地方にも多少はあるのだけれども、その多くが時代の変化とともに消滅している。
その消えた一番大事な部分―地域の歴史を語る神―が宮崎の神楽に残ってるので大変魅力的なのです。
これを知り、それぞれの神楽に伝わる特徴的な演目を掘り下げ、重点的に見始めてから僕は神楽が俄然面白くなったのです!
その土地のどういった神様が出てきて、どういった物語をするか。その奥にどういった歴史的事実が潜んでいるか。
その謎解きが大変面白い。また、記紀神話に記録されていない、いわば大和王朝以前の「日向王朝」
の記憶もそのなかには秘められているようで、これを探索する作業も興味尽きない。
つまり、宮崎の神楽は、「記紀神話」に記された古代国家創生の物語を縦軸とし、横糸のように
土地の歴史・古層の神の物語が織り込まれながら展開されてゆく、というふうに解釈できます。
これこそ、宮崎の神楽の醍醐味といえるでしょう。
Q 神楽の伝承されている地域によって出てくる神様が違うということなんですけども、
宮崎以外にはどういったところに神楽は存在しているのですか。
A 神楽はほぼ全国に分布していますが、各地にあまねく分布しているというよりも、
集中的に分布している地域とほとんど分布が見られない地域とに分かれます。
北のほうでは早池峰神楽が世界文化遺産登録に推薦されていますね。東北や岩手あたりにはたくさんあるらしい。
今度の大地震・津波被害の後、いち早く「祭り」「神楽」などが再興されて、そこには多くの人々が
集まったというニュースが流れました。「祭り」というのは地域の歴史や記憶を語り継いできたものであると同時に、
いま生きている人たちの心や縁を「結ぶ」という役割も持っているということをあらためて思いましたね。
早池峰神楽*早池峰神楽発行資料より
東京近辺には江戸里神楽があるが、これは歴史はあまり古くはない。
江戸の町衆に支えられた神楽ということになるでしょう。
近畿地方には本来重厚な分布がなければならないのに、京都・大阪・紀州(和歌山方面)
・伊勢などの地方には分布が少ない。関西では神楽といえば女性が舞う巫女神楽といった程度の認識しかないらしい。
それはなぜか。政権に近い地方ほど文化の変遷が著しいということを念頭に、検証する必要があるでしょう。
天竜川流域の奥三河(信州・三河・遠州)と呼ばれる地域には「花祭り」と「霜月祭り」が集中的に伝わっています。
宮崎の神楽と共通点の多い美しい神楽群です。
左:遠山の「霜月祭り」の「水王」 右:奥三河「花祭り」の「山割り鬼」
出雲地方には大蛇退治を物語の核とした神楽が分厚く伝わっていて、石見(いわみ)神楽が
世界文化遺産登録に登録されている。
岡山県を中心とした中国山地には備中荒神神楽という荒神祭祀を核とした土地の神様を祀る神楽があり、
「神がかり」することで有名。広島には、集落ごとに若者たちが神楽団を結成して、伝統的な神楽の伝承に加え、
それぞれ創作的な演目を上演して活況を呈しているという。
左:出雲神楽 右:備中神楽 *この二点はインターネット資料より
「豊後玖珠神楽」
出雲の大蛇(オロチ)退治伝説をクライマックスとする神楽は福岡県豊前地方から
大分県から阿蘇周辺まで分布している。一方、豊後から日向に入ると出雲系の大蛇退治を主体とした神楽ではなくて、
アマテラスオオミカミの岩戸開きを主体にした神楽へと分布ががらりと変わる。鹿児島県域には
「神舞(かんまい)」と呼ばれる神楽群があったのだけれども、明治以降、消滅がはなはだしい。
大隈半島内之浦岸良の「神舞」
こうしてみると、それぞれの地域の特色を反映しながら神楽が分布していることがわかります。
Q 今残ってる神楽は宮崎と全国にどのくらいあるのですか?
A 全国の数は詳細に把握していないけれど、宮崎の神楽が夜神楽を含めて300を超えるというのは圧倒的な分布数!
たとえば僕の出身地の大分県では20〜30ぐらいかな・・・その宮崎との格差にはカルチャーショックといえるほどの
驚きを感じましたね。福岡県には豊前地方を中心に30〜40程度かな。熊本は阿蘇周辺と球磨川流域に
数えるくらいしかない。鹿児島もさっき言ったように非常に少なくなってきている。この神楽の分布数と伝承形態というのは、
あらためて勉強し直す価値がありますね。
*「全国神楽協議会」による神楽マップ
http://www.kagura.gr.jp/
に全国の神楽の分布が記録されています。ご参照下さい。
Q 神楽の抱えている問題と、それに対してできることは何でしょう。
A 神楽の直面する悩みと課題。
まず、明け方になると観客が5〜6人しかいないという・・・現象がある。
関係者を含めると客席には20人くらいしかいないという場面が、現代における神楽の悩みを象徴している。
観手も少ない、後継者がいないというのが、神楽の伝承地が抱える大変深刻な悩み、問題になっています。
ただ、神楽とは、もともとは秘術、秘技と呼ぶべき、「村」とか「神社」とか特定の
「家」とかに伝わる神事・儀礼だったわけです。典型的な例として、お客さんがほとんどいなくなっても、
「おれたちは神様に奉納するために舞っている。客に見せるためにやってるんじゃないんだから、ちゃんとやる」と、
淡々と舞い続ける、という宮崎の明け方の神楽風景をけっこう見ます。それはすごいことだけれども、
そういった閉鎖空間の中で伝承されてきたことが村の過疎化とともに神楽も
衰退へ向かっているという一面があると思います。
それともうひとつ、神楽を伝える、あるいは仮面が家に伝わる、その仮面を着けて舞うのはその家の
長男ないしはその家を継ぐ者に限られているという例がまだ残っているという例が上げられます。
この舞はこの家の長男しか舞えないという演目が残ってるケースもまだある。そういうふうに神楽は
特定の人達が担ってきた歴史、神社に直属する、神職系の人達が担ってきたという歴史があります。
ここも秘術的と言うか、そういう側面があるのであまり大きく外には広がらなかった。
ただし、ここにきてそんなこと言ってる場合じゃない、このままだと神楽も村もともに滅ぶのではないか、
と危惧される時代が来ています。ここをどうするか。大きなれとしては、村出身の人であればよろしいとか、
練習に通ってきてくれる人は神楽の舞人・伝承者として参加できる願祝子(がんほうり)制度とか、
少しずつ門戸を広げ始めている。それから女性も子どもの時から神楽を一緒に習いに来たり参加したりして、
その子が成人してその座に残るといったケースが出てきているので、
少しずつ神楽の歴史も変わっていくかもしれませんね。
次に、私たちにできること。
僕は神楽を見に行く客のことを「観客」や「参拝者」ではなく、「観者(かんじゃ)」という
言葉で表しています。「観る」ということがどれほど大切なことであるか。客は「観る」ことによって、
いろいろな情報を受け取り、インスピレーションを得たり、歴史的な奥行きを読み解いたり、
芸術的感動を覚えたり、演者と観者が一体となった神楽空間に身を置いたりすることができる。
神楽を上演している方、「観られる」という立場・演じる方からすると、観られることによって緊張感とか、
高揚感とか誇りとかが刺激される。
3年ほど前にある神楽を観に行ったときのことです。その会場には30人くらいしかお客さんは来ていなかった。
最初から客は少なかったんだけれども、9時半くらいになって直会(なおらい=神事の後の会食)が終わって
村のお婆ちゃんたちが折り詰めの弁当を持って帰ってしまったら、会場には6人くらいしか残らなかった。
そうしたら、一同、顔を見合わせて、「もうやめようぜ」と。すぐに岩戸開きをやって、
10時半ごろには終わってしまった。観者がいないということはこれほどショックなことなのです。
神様に捧げるものだから客が一人もいなくても、と言ってはいるものも、観てくれる人がいるほうが
張り合いが出るし、気合いが入る。今年(2013)、東京のLIXILギャラリーでの企画展
「山と森の精霊―高千穂・椎葉・米良の神楽展」では、西米良村の村所神楽の若い舞手の方々が6人で
参加してくれましたが、会場には130人が入り満席となった。皆さん神楽に対して興味があり、
熱心な人ばかりだったから、上演中2時間、身じろぎもせずに観ている。若い舞手の人たちは、
通常、夜中の2時以降に出番がある人が多いので、「こんなにたくさんの人達から見られたり、
こんな真剣な目で見つめられた経験はない」と言って、すごく気合いが入った。
舞手と客席との緊迫感はすごいものがあって。僕も脇から観ていて感動したくらいです。
そういうことは観る側と上演する側には起こります。だから「神楽を観に行く」という行為だけでも
神楽に参加することになるし、神楽を元気づける要素にもなる。
付け加えると、最近は、「ご神前」として一人お酒二本または3000円程度を神前に供えるという
習慣が定着しつつあります。入村料あるいは今晩一晩お世話になりますという挨拶の意味と、
美術館や博物館の入館料、音楽会の会費などと同様の解釈でしょうか。
御神屋の正面に一升徳利がズラリと並んでいる風景は祭りを彩る効果もあり、
ご神前の金一封は貴重な収入源であり、祭りを維持する経費の支えになるのです。
ぜひ皆さん一緒に神楽を「観に」行きましょう。
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