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このコーナーの文は、加筆・再構成し
「精霊神の原郷へ」一冊にまとめられました

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  黒神子


  猿田彦

海神の仮面

 王の仮面

 忍者と仮面

 鬼に会う旅

 荒神問答

米良の宿神

  道化

  翁面


 このコーナーの文は加筆再構成され
「空想の森の旅人」
に収録されています

森の空想
エッセイ


自由旅


漂泊する
仮面


海神に捧げる神楽
大隈半島内之浦岸良の夏越祭り


海神に捧げる神楽
(1)
南の海へ 

鹿児島県肝付町内之浦・平田神社に伝わる「夏越祭り」を取材した。
宮崎の若者たちと若手の神楽伝承者を中心に結成された「MIYAZAKI神楽座」の一行と、
九州各地から取材仲間十数人が現地で合流した。ところが、祭りは開始予定時間の
午後3時になっても始まらない。電話で問い合わせてみると、あまりの暑さに1時間ほど遅らせて
開始されるとのこと。黒潮打ち寄せる海岸で神事と神楽奉納が行なわれるため、
灼けた砂で火傷をする例があるというのだ。それは頷けるとして、神楽は2番しか奉納されないという。
しかも夜に行なわれる予定だった地区の盆踊りも今年は中止になったという。
昨年、毎年15日にこの夏越祭りが開催されていたことを確認し、二十数年ぶりに訪れたこの地で、
盆踊り大会に合わせて開催日を14日に変更したといわれ、私の取材は空振りに終わったのだったが、
今年は肝心の盆踊り大会が中止となっていた。皮肉なことに、隣接する内之浦ロケット基地に
関するイベントは盛大に実施された模様であった。現代科学技術の粋を集めたロケット基地に
隣接する古式の祭りは、消滅の危機に直面しているのであった。
以上を鑑み、今回の取材と二十数年前の取材、その後手元に集めておいた
資料などをもとに、この祭りを詳細に検討してみることにした。
現代における「神楽」や「祭り」の象徴的事例と思われるからである。






今夏、日本列島は、連日気温37度、38度、所によっては40度を越えるという猛暑に
あえいでおり、南九州もまた例外ではない。
8月14日。この熱暑の中を、宮崎市を経由して日南海岸を南下し、
日南市、串間市、志布志市を通過、九州最南端の大隅半島へ向かった。
半島の東端に位置する肝付町内之浦・平田神社の夏越し祭りを見るためである。

南下するほどに、東南アジアの温帯モンスーン気候地帯を旅行したときと同じような空気感を感じた。
タイやベトナム、ミャンマーなどの夏が、そっくり日本列島の大半を覆ったかのような現象は、この夏だけの異常気象なのか、地球温暖化による恒常的な気候変動の一現象なのかは即断できないが、人類の文化的生活が発生させる熱量が、地球の生態系や気象に影響を及ぼしていることだけはあきらかである。
私の車は冷房装置が故障中の旧式のアウトドア仕様車なので、窓を全開して外気を取り込みながら走行せざるを得ないのであるが、そのため、都市部を通過する時には熱風が車内に吹き込んできて、車も人も喘ぎながら走り、海沿いの道では涼しい海風によって蘇生させられる。それゆえ、暑熱がまたさらなる人口熱を生じさせる都会の熱風と、海・山・半島・木陰などから生み出される自然の風との歴然たる違いを体感できるのである。
ともあれ、アジアの時空を行くような小旅行の果てに内之浦・岸良地区に着いた。

日本は、鹿児島県種子島とここ内之浦にロケットの発射基地を持つが、この内之浦ロケット基地のある巨大な山塊と、さらに半島南部へと続く山脈の一部が大きく内陸部へと湾曲して入り江を作っている。その入り江の最奥部に白砂の浜があり、浜に沿って集落が形成されている。それが岸良地区である。

岸良集落の中程に平田神社がある。質素な社殿が楠とアコウの巨樹がつくる木陰の下に佇む無人の神社である。境内の奥まった所に、その下で雨宿りが出来そうな巨大なシダが密生しており、ここが、南の国の精霊神の領域であることを示している。
シダの林の裏手は、さらなる奥の山岳へと続く森である。





(2)
三体の仮面神とは



                   
平田神社の拝殿には、三体の仮面が鉾に取り付けられて出番を待っている。
境内の掲示板には、この三体の仮面と祭りの由緒について以下のような記述がある。

『平田神社の神舞は、主に八月十五日の夏越祭り(ナゴシドン)に奉納されます。平田神社の祭神、大山祇神、金山彦神、猿田彦神の神霊を猿田彦の神面三体に遷し、騎士らの浜辺で海神に神舞を奉納して、地区民の除災、招福を祈願します。又、正月二日のテコテンドン(北岳参詣)の折にも奉納されることもあります。戦前の神舞は盛大で、豊祭の夕方頃から境内の舞台で夜を徹して催されました。神舞には順序があり、@座着舞 A鬼神舞 B山の神舞 C田の神舞 D四方鬼神舞 E薙刀舞 F十二人剣舞 G岩戸舞などの順となっていました。(中略)平田神社の故事来歴は不詳ですが、神社の宝物とされている数ある神舞面や肝付氏代十二代当主兼元の御宝殿修造(1407=応永14年)の棟札などから、神舞は古くから平田神社に伝承されていたものと思われます(以下略)。』

これにより、この三体の仮面が「猿田彦の神面」と呼ばれる仮面であり、中世の様式をふまえたものであること(正確な制作年代は不明)、かつてはこの神社を中心とした地域に33番で構成される神楽=神舞(かんめ)があり、盛んに奉納・上演されていたこと、演目の構成等により、この神楽は、霧島山系から日南海岸へかけて分布する神楽と多くの共通項を持ち、海神の習俗に関連する演目が含まれていること、などがわかる。

掲示板の表記に、この三体の仮面は猿田彦を表し、祭りの日に、
猿田彦神・大山祇神・金山彦神の神霊を遷す、と書かれていることに注目してみよう。
私は二十数年前に「猿田彦は南の王である」というテーマを掲げて、南九州の猿田彦事例を追う旅を続けた。
記紀神話に描かれる猿田彦像と、古代南九州先住の民・隼人族の習俗、南九州の祭りにおける
猿田彦神の役割、鼻高の猿田彦面の特徴と性格などに多くの共通項をみたからである。
その旅は10年以上続き、その間、伊勢市の猿田彦神社で開催された「猿田彦大神フォーラム」の軌跡と交差したりして多くの収穫があった。だが、猿田彦の性格は多岐にわたり、調査と研究が進むほど、猿田彦は謎を深め、ついには不可思議の時空へと遠ざかってしまったかのようであった。そのような時、この黒潮打ち寄せる南の国・内之浦で出会った猿田彦は、その祭祀形態がシンプルであるがゆえに、「土地神・先住の王」としての猿田彦の原型を示す好例であるように思えたのであった。
ちなみに、「テコテンドン祭り」とは、正月二日に神社の裏手にそびえる北岳に登拝し、太鼓を打ち鳴らしながら下山するという祭祀が伝わっており、山の神の祭りと混交した儀礼であろうといわれている。「テコテン」とは、その時の太鼓の音をさすという。北岳がこの地域の信仰を集めた神の山であり、猿田彦神・大山祇神・金山彦神の三神が、いずれもこの北岳信仰と関連する土地神・山の神であることがわかる。

猿田彦について概略を述べておこう。
猿田彦とは、記紀神話の天孫降臨の段で、天孫ニニギノミコトが天降った折、天八衢に立ち天地を照らし、ニニギの一行の前に立ちはだかった国津神である。その容貌は、顔は赤く、鼻は高く、目は「赤かがちのように」輝く異相の神であった。そこでアメノウズメノミコトが笑みをたたえ、衣を押し下げて「ほと=女陰」をあらわにして敵意のないことを示す(これは古代の呪法の一種である)と、猿田彦は心を開いて天孫一行を筑紫(九州)の
日向の高千穂の国へと案内する。この故事により、猿田彦は境の神・先導神・道ひらきの神
・航海神・道祖神・縁結びの神など多様な神格を獲得し国民的信仰を集める。
アメノウズメノミコトは猿田彦と結ばれて伊勢へ向かい、猿女君となって芸能神となる。
私は、これらの事例を総合し、ニニギの一行と猿田彦の出会いの地点は南九州であると想定し、
猿田彦は南九州の先住神であると定義したのである。
そして、この猿田彦とニニギ一行の出会いの場面こそ、渡来の民族(文明神)と
先住の民(土地神)との出会いと相克・交流のを象徴する場面であると思うのである。
今、私たちは古代史の実相にもっとも近い地点に立っているのではないか。

(3)
群行する仮面神



内之浦平田神社での神事と運び出される「ナゴシドン」

南九州には、「群行する仮面神」と総称される仮面祭祀が分布している。
十体の王面が集落を巡幸する「皇子御幸(おうじみゆき)祭」、五体の王面が巡幸する「王の御幸」、
二体の大王面が巡幸する「大王殿(ウォードン)祭り」、一体の王面が巡幸する「鹿祭り」等があり、
二体の鼻高面と大仮面をつけた弥五郎どんが祭礼行列を先導する「弥五郎どん祭り」もある。
鼻高面、猿田彦面、王面、火の王・水の王などの仮面が鉾に取り付けられ、
祭りの行列を先導する儀礼である。仮面神が群行することそのものが祭祀であると思われる
事例もある。仮面が神格を持ち、集落を巡幸し、祭礼の始まりを告げたり、村人や
参拝者に幸を授けたり、悪霊を祓ったりするのである。
この内之浦平田神社夏越し祭りの三体の仮面神「ナゴシドン」もその代表的な事例に入るものである。

平田神社の夏越し祭りは神社での清澄な神事から始まる。神事が終わると、拝殿から種々の供物、
神器などとともに三体の仮面神が運び出され、浜へと巡幸する。かつては御輿をかつぎ、
歩いて浜へと向かったというが、現代の巡幸は軽トラックの荷台に神様を積み込んで運ぶ。
浜に着くと、三体の仮面神、薙刀、弓、御幣などが波打ち際に立てられ、その前に供物が供えられる。
鉾に取り付けられた赤い旗が海風にはためく。
あくまでも青い海。赤い仮面。海風に吹かれる幟旗などが南国の情趣に鮮やかな彩りを添える。その黒潮の海のすぐ先が、中国大陸・アジアへと続いていることが実感できる風景である。


浜に運ばれる「ナゴシドン」

  

浜に立てられた「ナゴシドン」

写真下は1996年の取材による。今年は旗が鉾の柄にくくりつけられたままで解かれなかったため、
風を受け、風をはらんではためく姿が見られなかった。単に解くのを忘れただけなのだろうが、
このようして祭りの姿が変容して行く場合もあるので掲出しておく。


(4)
三体の仮面神が巡幸する「ナゴシドン」の祭りは古式の仮面祭祀だった


浜に立てられた三体の仮面神


左:浜へ運ばれる仮面神/写真・高見剛
右:波打ち際に立つ怜人/写真・狩集武志


猿田彦、大山祇神、金山彦神を表す三体の仮面神(ナゴシドンあるいはハナタカドン
と親しみを込めて呼ばれる)は、岸良の浜に一列に立てられた後、一体ずつ波打ち際へと運ばれて、
禊をする。白装束の怜人(れいじん=祭りを執行する人・舞人)が、水際に立ち、寄せてくる波を見定めた後、
右手に持った榊の小枝を潮水に浸し、その海水を含んだ榊葉で、仮面を清めるのである。
禊ぎが終わると、砂浜に立てられたナゴシドンの前で神主が祝詞を上げ、祓いをして玉串の奉奠があるが、
これには希望者全員が参加できる。小さな子供も並び、厳粛かつ真剣な表情で柏手を打ち、
玉串を捧げる所作が微笑ましい。



仮面神の禊

このあと、三体の仮面神の前で神楽が奉納される。神楽が終わると注連縄で四方が区切られ、
注連くぐり(後述)があるが、その四方の注連の三方の隅にナゴシドンが立てられる。
神社境内の掲示板には、「海神に神楽を捧げた」という記述があるが、「海水による仮面神の禊」
「仮面神の前での海神を招く神事」「神楽の奉納」「注連くぐりによる悪疫の祓い」と続く
この一連の儀礼こそ、明らかな仮面祭祀の形態である。
仮面祭祀には、熊本市小川町の「面取り神事」で仮面による天候・農事の占いをするという儀礼、
米良山系の神楽の「面様迎え」で、仮面を酒で拭いて清める儀礼などがあるが、
このナゴシドンも古式を残す貴重な事例である。



左/仮面神の前での神事
右/玉串の奉奠


(5)
仮面神の前で奉納された神楽

平田神社の夏越し祭りでは、かつては神楽三十三番が奉納され、夜を徹して舞い続けられたという。
それが、現在はわずか二番の奉納という寂しいかぎりの状態である。その二番のうちの一番は
「浦安の舞」であるから、これは当面のつなぎ的挿入(と現地の人も言っていた)であり、
古式を伝える演目は「薙刀舞」だけである。その最後のとりでというべき薙刀舞も、伝承者が
高齢であるため、いつまで続けられるかわからないという。つまり、この「海神に捧げる神楽」
という稀有の性格を持ち、仮面祭祀を骨格とし、すくなくとも中世をその起源
(祭りの源流はもっと古いかもしれない)とし、黒潮の海を通じてアジアと直結
しているこの美しい祭りは、消滅の記紀に直面しているのだ。


私はこの実態に強い衝撃を受けた。が、このような事例は宮崎県の多くの神楽にも共通し、
神楽を伝承してきた人々・地域が共有する悩みであり、ひいては日本列島の「限界集落」
とさえ呼ばれる村々が直面する深刻な課題でもあるので、このテーマは次項以下で掘り下げることとして、
ここでは1996年に取材した神楽の写真をもとにその演目と特徴を考察しておくこととする。
なお、境内の掲示板や教育委員会発行の資料などには以下の8番
1、座着舞 2、鬼神舞 3、山の神舞 4、田の神舞 5、四方鬼神舞 6、薙刀舞 7、12人剣舞 8、岩戸舞
が表記されており、1996年にはこの中の「山の神舞」と「剣舞(少年三人による)」、「薙刀舞」が奉納された。







☆写真は(1996年8月15日)に拝見した神楽面。田の神、鬼神、翁、天鈿女命(岩戸番付に使用)など、
霧島面の特徴をそなえた優品が含まれている。作風から江戸初期〜中期頃の作と推定される。




☆神事の後、神社を出る仮面神。薙刀舞が先祓いをつとめ、仮面神は一列に並んで鳥居をくぐる。
2013年は参拝者などが運ぶのを手伝い、ばらばらに拝殿を出た。





☆少年による剣舞。この日は三人の少年たちが神社の境内を走り回ったり、私の取材に付き合って仮面を持って写真に納まってくれたりしたが、いざ、祭りが始まり、白衣に着替え、きりりと白鉢巻を締めるとり凛々しい少年の怜人に変身した。舞は三人による舞なので、12人剣舞の変形とみればよい。この大勢による剣舞は霧島山系・高原町の狭野神楽と祓川神楽に伝わっており、同系列であることがわかる。途中、刀の柄と切っ先を互いに握り合い、潜り抜ける曲芸的な演技は、高千穂神楽では「岩潜(いわくぐり)」、米良山系のかぐらでは
「神崇(かんすい)」などとなっており、宮崎県の神楽にはどの神楽にも伝わっている。




☆山の神面。三体の仮面神が立てられ、砂浜に置かれる。このあと、この面を用いた山の神舞が奉納される。



☆山の神舞。砂浜に置かれていた山の神面をつけて舞われる。
「山の神面」という特定の名称を持つ仮面は椎葉・不土野神楽の「山の神」に観られる程度で、
稀少な例である。弓を持ち、屋を瀬尾って現れた山の神は、三体の仮面神の前で重厚に舞い、
最後にその矢を海に向かって放つ。勇壮な神楽である。私は九州北部の修験道の拠点として
栄えた英彦山の峰入りしゅぎょうに同行したことがあるが、山岳走破を含む厳しい修行の最終日に、
英彦山神宮の境内に結界が張られ、山伏が剣の舞と弓の舞を奉納する儀礼を見た。このとき、
矢は英彦山の山中に向かい、四方に放たれた。この平田神社夏越祭りの山の神舞は、
古来の山の神信仰と修験道の作法が混交したものだと思われる。


*この項の写真(撮影筆者)はいずれも1996年の取材による。

(6)
巫女舞と薙刀舞の奉納



伝承が危惧されている内之浦平田神社の夏越祭りの神楽は、
今年(2013年)は巫女舞(浦安の舞)と薙刀舞の二番が奉納された。
その二番のうちの浦安の舞は古くから伝承されたものではなく、つなぎ的に挿入されたものだ
ということだったが、現在の神主・上園久美子さんの長女春菜さんが舞う舞は美しく格調高いものだった。
浦安の舞は昭和期に創作されたものだそうだが、各地の神楽で小学生の女子が受け持つ演目として定着し、それがきっかけで成人して神楽座の一員となった女性もいることから、今後は、「男性がつとめるもの」とされてきた神楽への女性の参加の方法のひとつとして認知されるものであろう。そしてそれが、神楽の伝承と保存の役割の一端を担うものとなるのであれば、これもまた現代の神楽のあり方のひとつであろう。
春菜さんは祭りの進行に気を使い、真夏の太陽の下で神事を執り行う神主(彼女の母親である。私が前回の取材でいろいろお話を伺い、仮面を見せていただいた先代神主の上園幸一氏は平成19年に他界され、現在は久美子さんがその職をつとめている)の汗をそっと拭き取るなどのこまやかな配慮をしながら、自身の出番ではきりりと凛々しい舞い姿で浦安を舞った。神とは、このような一瞬に降臨するものなのかもしれない。そして、かつて女性シャーマンが担っていた時代の神事=神楽=芸能とは、このようなものだったのかもしれない。

祭りの場が、ひととき、静まった。
その静寂の中から、白装束の怜人が立ち上がり、両手に持った細長い白布をうち降りながら、清澄に舞った。
風に翻るその白い布もまた、神を招き、神が依り付く呪具のひとつであろう。やがて舞人は、その白布を襷にかけ、薙刀を採って激しく舞う。四方を祓う作法、頭上での旋回、地を清める所作などが繰り返され、荘重に舞い収められる。その舞い振りは、霧島山系から宮崎平野、日南海岸へと分布する神楽・神舞の「鉾舞」「薙刀舞」に共通するものであり、霧島山系の神楽の頂点に位置づけられる人気演目である。宮崎市清武町の船引神楽では、
宮司が勇壮に舞う。古式の鉾舞、修験者の棒術・薙刀舞等が混交した儀礼で、
山頂に「逆鉾」が立つ霧島山の信仰を反映したものと思われる。
この貴重な、歴史的意義を持つ薙刀舞が途絶え、それと同時にこの美しい祭りも消滅する・・・そのような状況にこの祭りは直面しているようだ。伝承者の確保を願わずにはいられない。





*写真は今年(2013年)の奉納による

(7)
海神に祈願し災厄を祓う注連(しめ)くぐり


神楽の奉納が終わると、砂浜に立てられていた三体の仮面神と茅(カヤ=ここでは注連縄がそれを表す)
の束をくくり付けた鉾は引き抜かれて、四方に立てられ、注連縄が張られる。
すなわち海神が招かれた砂浜に、神楽の御神屋と同じ形式の結界が張られるのである。
この時、三体の仮面神が、それぞれ、鉾に取り付けられたまま、神職・怜人の手によって縄の上から下へ三回、
下から上へ三回くぐり抜ける儀礼があり、そのあと、浜に立てられる。そしてこの四角い結界の中を、
参拝者が外から内へ、内から外へ、それぞれ三回ずつ通り抜ける。
これでわかるように、この注連縄くぐりがこの神事(夏越し祭り)の本貫であり、茅で拵えられた
輪の中をくぐって夏の災厄を祓う各地の「茅の輪(ちのわ)くぐり」と同義の祭りである。
俯瞰すれば、この祭りが、一貫して神霊の依り付いた仮面を用いて執り行われる祭り=
神事であることがわかる。黒潮打ち寄せる九州最南端の岬の一角に、他に類型を見ない仮面祭祀が、
あざやかな色彩と山と海の信仰形態、謎に満ちた古伝承などを包含しながら伝えられてきたのである。




*本文中でもふれたようにこの行事は各地の茅の輪くぐりと同じ性格の儀礼である。
椎葉神楽では、二本の弓と弓を合わせて出来た輪の中を幼子を抱いた母親などの参拝者が
くぐり抜ける「弓通し」や、大きな蔦かずらで作られた輪の中をくぐり抜ける「つがもり」などがある。
この内之浦平田神社の夏越祭りでは、四角に張られた注連縄を潜り抜けるので、「注連くぐり」と呼んでおく。


(8)
黄金郷の夢
「地域資源」の発掘と「地域再生」の手法

ところで、私は、十数年前にこの地を訪ねた折り、地元の郷土史家から、
―この北岳一帯はかつて修験道の栄えた地域であり、その修験の流派は九州北部に強い
勢力分布を持った英彦山修験でも南九州一帯を支配した霧島修験でもなく、「日光修験」であった<
という興味深い情報を得、さらに
―この山には、薩摩班・島津家の「隠し金山」があったらしい・・・
という真偽不明の情報も得ており、これらの伝承が、正月のテコテンドン祭りやお盆の夏越し祭り等の
種々の祭祀儀礼に影響を与えているものと推察されたのである。 
前項で「謎に満ちた古伝承」と書いたのはこのことである。なぜ、南の果てに徳川政権直属の「日光修験」が入り込んだのか。薩摩班・島津家の隠し金山とはどのようなものか、そしてそれが事実とすれば薩摩藩に保護された霧島修験と日光修験の関係はどうなるのか。祭りや神楽の形態は霧島修験の影響下にあるように見えるが、
日光との関連は皆無なのか。
一見、祭りとは無関係にみえる隠し金山の伝承を、「仮面祭祀」「修験道」「山の民俗」などと照合しながらみてみると、それらは微妙に関連し合っていることがわかる。平田神社の夏越し祭りは北岳の信仰・山の神祭祀とセットであり、三体の仮面神の神格が、猿田彦(土地の先住神・先祓いの神)、大山祇神(山の神)、
金山彦神(製鉄神)であることがそれを示しているではないか。

今年の祭りでは、開始時間が遅れ、都合2時間の待ち時間が生じたため、私は境内の涼しい木陰に座り、ぼんやりと南国の空を見上げたり、神社の裏の森へと続く小道を散歩したり、畑の隅に立っている古い石造の田の神の写真を撮ったり、集まってきた近所の人たちと話をしたりしながら、古い記憶を反復した。薩摩言葉と強烈な暑さ、眩しい日なたと黒々とした日陰、ゆったりと流れる濃厚な空気などが、時間と空間の感覚を曖昧にし、
伝説の海神の国に遊んでいるような気分を増幅した。
そのとき、私たちと話していた人の一人が、ふと立ち上がり、神社の脇を流れる小さな水路で手と顔を洗った。その光景が、いかにも涼しげで自然なそぶりだったので、私は、きらり、とひらめくものがあり、その人に
「その水は、裏手の山から流れてきているのですか」
と訊ねてみた。すると、
「そうです」
というきっぱりとした答えが返ってきた。それで、私は
(ふむふむ、なるほど・・)
と心の中で頷き、会話が途切れるのを待ってさりげなくその小道を歩いて、水路の底を観察した。
民家と神社の境を流れるわずか30センチほどの幅の水路に、そのときちょうど木漏れ日が差し、
水底の砂を照らして、清冽な水流の底にきらきらと光るものを反射した。
この瞬間、私は古代の鉱山探索師に変身していた。掬い取って、手のひらの上で日光に当ててみると、
それはたしかに砂金のようであった。




これ以上のことは書かないでおこう。ここまで読んで下さった方は、一攫千金の夢を抱いて
スコップ片手にこの山脈に分け入るとか、鉱山開発の大企業に情報を売り込む、
あるいは笊を提げて水辺に立つなどという目論見は断念し、以下のことに同意していただきたい。
なんとなれば、仮にこの山塊が金鉱脈を包含する宝の山だったとしても、そして
「薩摩藩・島津家の隠し金山伝説」が歴史的事実にもとづくものであったとしても、この山は
すべて地元の人たちの所有するものであり、今後なんらかの恩恵がこの山から与えられるとしても
それはすべて地元の皆さんが享受すべきものである。そして、これから述べようとすることが
長々とこの内之浦・岸良の祭りについて言及してきた私の、いわば本論にあたるのである。すなわち、
『「地域資源」の発掘と「地域再生」の手法』。
簡略に書くので、どうか最後まで読んで下さい。

◇「地域資源」とは、祭りや伝承など、この地がはぐくみ、受け継がれてきた文化と
山や海、空、風景など。
◇平田神社が伝えてきた「夏越し祭り」は、世界のどこへ出しても通用する一級の
アート(芸術=文化遺産)である。この日各地から集まった画家・詩人・民俗学研究家・写真家・
企画デザイナーなどが、全員写真を撮り、素晴らしい祭りに出会ったと喜び、感動していた
ことがそれを証明している。
◇岸良地区の浜辺や海、集落、そして北岳を含む山脈などは、同一地域にロケット基地を
擁しながらも太古のままの風景を残している。
◇この地域は、霧島山系以南の南九州を舞台とした天孫降臨伝承、海幸・山幸伝承
、ウガヤフキアエズ伝承等の、大和王権樹立以前の古代国家伝承の展開地域のひとつである。
近隣の山脈の一地点にウガヤフキアエズノミコトの陵墓とされる
吾平(あいら)山陵があることがそれを示している。
◇これらの「地域資源」を活用すれば、「平田神社の夏越し祭り」の復興と伝承をはかりながら、
「地域の活性化」を実現することが可能である。
◇すなわち本当の地域資源とは、地下資源や金鉱脈などではなく、
祭りや伝承・地域の歴史等の無形の資産を、デザインし経済価値を持つ有形の資源に変える
「開拓者・アーティストたち=人脈」や、それらを結び、生かす「文脈=文化力」である。

次にその手法を列挙する。

・この「夏越祭り」の名称を「平田神社の夏越し祭り」から、たとえば「大隅半島・内之浦岸良の夏越し祭り」のような地域名を冠したものに変更してはどうか。つまりこの祭りを「神社が行う神事・祭り」から「地域の祭り」へと転換するのである。これにより運営主体が平田神社から肝付町内之浦支所あるいは岸良地区、または実行委員会等の主催団体へと移行する。このような事例はすでに各地にあり、成功している。
・これが実現すれば、「第一部神事」「第二部神楽の奉納」「第三部外部からの招待または奉納上演」「第四部地区の盆踊り」のような構成とし、同じ浜辺で開催できる。予算措置も多様となる。
・ここに地区出身の人気俳優・榮倉奈々さんの里帰りを兼ねた招待出演を実現したいですねぇ
(予算と交渉次第で実現可)。
・招待奉納者などを民泊方式で受け入れ、地域の皆さんとの交流と経済効果を創出。
・当日のふるまい(予算措置をした上で岸良集落との連携が望ましい)と出店の検討。
*以上が実現不可能ならば、従来通り、神主さんの上園さん一族が結束してあたる。今年の祭り当日、参加していた親族の若者たちが多く見受けられたので、彼らが認識を新たにし、本気になってくれれば可能だろう。まずは「座着き舞」「鬼神舞」「剣舞」「山の神舞」「薙刀舞」の五番を習得し、外部からの奉納上演を受け入れればかなり充実した祭りになり、他の祭りの復興のモデルケースにもなりうる。
◇「隠し金山」の伝承については、さまざまなかたちでの「探索」はよろしいが、「開発」は避けるべきだろう。大企業が開発にかかれば、たちまち資源は枯渇し、元の木阿弥となることは必定。それよりも、隠し金山伝承の掘り起こしをテーマとした「物語」の公募や「イベント」の開催、砂金の入った袋を売り出す等の
「企画」によって経済効果を狙ったほうが賢い。
*この一連の考察とアイデアは、平田神社の夏越し祭りの伝承を願ってのものである。

以上、あくまでも「黄金郷の夢」として提言する。くどいようだが、抜け駆けは無用。興味を抱かれた方は、まずは内之浦支所(旧・内之浦役場。企画課、観光課、教育委員会等の窓口があるでしょう)
または内之浦観光協会などへ、この資料をコピーして添えて良いから、相談してみて下さい。



現地の状況が、以前訪れた時に比べて著しく変化しているように思えたこと、
地元の方の話などから
―この祭りは途絶えるのではないか
と思われ、それが宮崎県内の多くの地域の神楽が直面する課題と重複して見えたため、
以上のような長文を書いた。けれどもそれは私の思い過ごしで、祭りはこれまで通り淡々と続けられ、後継者も劇的に現れて受け継がれてゆくのかもしれない。時代とともに移り変わってゆくのが「祭り」というものの本質なのであれば、私のような時折訪れるだけの「旅人」が口出しをすることこそ無用のことであり、地元の方々にとってはただの迷惑であるかもしれない。そうであれば、私は深々と頭を下げ、失礼を詫び、「隠し金山」の話などは、当日のあまりの暑さに頭がぼうっとしただけの、文字通りの一場の夢として笑い飛ばしてしまうべきである。

南の国に伝わる美しい祭りの残像は、幻の黄金郷にさまよい込んだ旅人に私を変身させ、まだ覚醒させていない。


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