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 ―地域再生とアートの出会いを巡る旅―

2010年から参加している「高千穂/秋元エコミュージアム」と「平成の桃源郷/西米良村おがわ作小屋村エコミュージアム」の仕事を通じて、神楽やアートを核とした地域再生の試みが具体化してきたことを実感しています。とくに、2011年10月に「おがわ作小屋村」で開催された「九州アートネットワーク車座会議」は、およそ20年の時を経て「地域アート」「商店街振興アート」などの手法と理念が普遍化し、各地でが定着してきていることを感得させるものでした。
そこで、まずは「森の空想ブログ」で新シリーズ「風のアート・野のアート」を開始し、これらの活動をダイレクトに記録するこことしました。た。私(筆者・高見)は20年ほど前から、旧・由布院空想の森美術館の運営と平行して各地を訪ね、地域とアートの関連を模索し、提案する活動を行なってきました。そのころ、「風の人・土の人」という言葉が使われる機会を多くみかけました。「風の人」とは、他の土地から新しい文化や価値観を持って訪れる人々を指し、「土の人」とは、その土地に根付いて文化の土壌を培ってきた人たちを表します。その両者の出会いにより、新しい文化風土が生まれるのだという主旨でした。それは、ある地域コーディネーター(すでにその人の名前も忘れた)が使い始めた造語でしたが、たちまち現代美術のアーティストや地域づくりの仲間たちなどの間で合言葉のようになり、私もしばしば使ったものです。それを受けて、私は「風のアートに会う旅」というシリーズを館の月報「空想の森から」と大分合同新聞社発行の「ミックス」という月刊誌に連載しました。その一部は単行本「霧の湯布院から」(海鳥社/1995)に収録されましたが、大半は、空想の森美術館閉館とともにダンボール箱に詰め込まれ、多くの荷物と一緒に宮崎へと運ばれ、私の部屋の隅で埋もれたまま、10年の年月が経過したのです。
「風のアート・野のアート」というタイトルには、上記の経緯を受けて一部は古いデータを掘り起こしながら、これから展開される新しい企画や活動を記録してゆくものであるという意趣が含まれています。「風の人・土の人」という言葉自体は使い古された感がありますが、そのころ蒔かれた種子は野へ飛び、次世代の表現者・創造者たちの手によって再生産され続けていたのです。

2011年3月11日に起きた東日本大震災と世界各地で起きている変動は、この日本列島に生きるすべての人々に価値観の転換を促すものでした。その価値観の転換と創造とは、遠くを観るのではなく、いま、自分自身が生きて活動している「現場=地域そのもの」を見つめ直し、そこから生み出される新しい価値を創出することでしょう。
このページは、前記「九州アートネットワーク会議」の記録とそれに続いて掘り起こされた「美術館と町づくり」それに続く「おがわ思い出NAVI」の記録から開始され、2010年6月から参加した「高千穂秋元エコミュージアム」の取り組みを振り返るところから本格的な記録に入ります。
この旅の第一歩は2010年秋元から――と私はしみじみと思っているのです。


   高千穂・秋元エコミュージアム

<13>
竹の灯りがアート空間を照らした




 
 旅先で立ち寄った港町に漂っていた洋菓子の香り、あるいは砂糖をたっぷりと入れたシナモンティー、または、祭りの広場を包む綿菓子の匂い・・・・
 森の入口に立つと、それらが混交したような懐かしい香りが、風に乗って流れてくる。
それは、落葉する桂の木が発する芳香である。初秋、他の木々にさきがけて黄葉する桂の葉は、風に散る時、かすかな、香を放つ。それが森に満ちる時、秋は静かに深まってゆく。

 「上(じょう)の切(きり)の桂」は推定樹齢500年。秋元集落から諸塚山・六峰街道へと越える道の途中にあり、秋元の村を見下ろしている。その昔、秋元の人たちは、諸塚山を越えてこの地に至ったと伝えられる。以来、この桂の木は、村の歴史を見守り続けてきたのだ。
 幹周りは十数メートルもあり、数本の枝が分かれて、樹高30メートルにも達する。まるで厳のような幹の根元は苔で覆われて、イワタバコやユキノシタなどが可憐な花をつける。小さな祠に水神が祀られ、竹の樋で引かれた清冽な水が、旅人の喉を潤す。

 夏から秋へかけて、村に点在する「椎茸乾燥小屋」「石倉」「牛小屋」の三箇所を片付け、改装して「ギャラリー客神(まろうど)」「ギャラリー石倉」「ギャラリー蔵之平(くらんでら)」の三施設を開設した我々の仕事は、「竹の灯りワークショップ」へと移行した。このワークショップの主旨は、「村人や一般の参加者が、秋元の山から切ってきた竹やつる性の植物を使って
照明器具を作り、それぞれの施設と展示作品を照らす」というものである。展示作品を照らす灯りも一点のアートであり、手作りの照明が照らす空間表現もまた、エコミュージアムを構成するアートの領域である。
 ワークショップの講師には、私の弟・高見八州(やす)洋(ひろ)を招いた。彼は、二十歳の時に大分県湯布院町(現・由布市湯布院町)で竹のクラフト工芸家・野々下一幸氏に弟子入りし、6年間の修行の後に独立して、以来、その道一筋を歩んできた。籠や箸、アクセサリーや文房具などに加えて照明器具や室内装飾も手がけ、また、私が各地で企画した「地域アート」の活動にも何度も参加してもらったことがあり、今回の仕事も阿吽の呼吸で引き受けてくれたのである。
 ワークショップには、一般の参加者に加え、秋元の村人、隣接する日之影町で
伝統的な竹細工の保存と継承に取り組んでいる人などが参加してくれて、にぎやかな一日となった。
 前日に竹林から切り出しておいた竹を、弟が年季の入った職人の手さばきで割り、細いヒゴにしてゆく。それを参加者が各々、円形の籠状の照明器具に編み上げてゆくのである。
道端にコスモスの花が揺れ、秋の日差しが暖かく降り注ぐ秋元の道の脇で、作業ははかどった。出来上がった参加者の作品と、この計画の成功を願って八州洋が寄贈してくれたオリジナル作品としての照明器具が、ギャラリー空間を照らした。「乱れ編み」という技法で編まれた不規則な籠の網目から洩れる光は、壁面や神楽の写真を、まるで秋の森を彩る木漏れ日のように装飾した。古い小屋や石倉、牛小屋などに「いのち」が宿った瞬間であった。






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ギャラリーくらんでらの開館




   蔵之平飯干(いいぼし)金光(かねみつ)氏宅の牛小屋の改装は順調に進んだ。途中から、家主の金光さんと長男の紀(のり)章(ゆき)さんが加勢に加わった。金光さんは、秋元神楽の伝承者で、現在は高千穂町役場に勤めておられるが、一年後には定年退職を向かえるため、第二の人生として、秋元神楽の伝承とこの秋元エコミュージアム計画への参画を楽しみにしているという。紀章さんは高校を卒業して一度都会へ出たが、Uターンして秋元に戻り、結婚し、神楽の伝承者としてエネルギッシュに働いている。

 一冬に十頭ほども猪を獲る猟師であり、山仕事の達人で、日曜大工を趣味とし、種々の道具を使いこなす金光さんと、すでにこの納屋の二階部分を木造りのギャラリー風の空間に改装して新居として使っている紀章さんも、大工仕事には手馴れていた。この二人が参加したことで、仕事が順調に進み始めた。広く、がっしりとした造りの牛小屋は、若者たちだけの一時的な仕事の量を超えていたのである。この家のアサヨばあちゃんも作業の進捗ぶりを見に来て、その変化を楽しみに眺めた。牛小屋は、みるみる展示空間へと変貌を遂げていったのである。

 柱と梁の塗装が終わりに近づくころ、床板張りを開始した。天上に吊り下げられて保管されていた大量の杉板を利用し、面積の半分を占める土間の部分を板張りにすることとしたのである。夏休みが終わり、応援の学生たちが帰ってしまうと、作業はスタッフの田中君、金光さん、紀章さんの三人が担うこととなった。なかでも、10年ちかくフリーターのような生活をしていて今回初めて本格的な仕事としてこの「ムラたび」の事業にかかわったという田中君は、所を得たように生き生きと与えられた課題をこなした。ひと夏のうちに彼の身体は骨格が固まったようで、Tシャツから覗く腕の筋肉も隆々として見えた。いとこ同士だという紀章さんとのコンビネーションもよく、作業の手順を打ち合わせる若者たちの笑顔が輝いて見えた。

 床板張りが終わりに近づいた一日、私と田中君とは秋元の山や谷筋を歩き、一抱えほどの石を集めた。秋元の山には、古代阿蘇の大噴火にともなう火成岩、安山岩系の堆積岩、石灰岩、太古この地が海底だったことを物語るジャスパ(碧玉(へきぎょく))と呼ばれる硬質の石などが散在する。板張りの納屋の床の中心部に、これらの石で縁を囲って囲炉裏を造ることにしたのである。この作業には金光さん・紀章さん親子も加わった。黒い石、青い石、赤い石、白い石などが積み上げられて、囲炉裏が出来上がった。神楽仲間に集まってもらい、「囲炉裏開きをした夜が、この「ギャラリー蔵之平」の実質的なオープニングの日となった。
 展示は、2009年にこの家の母屋で開催された神楽の写真の中から「人」をクローズアップして選んだ。この年、紀章さん、きみえさん夫妻には長男誕生が予定されていたのである。秋元神楽を担う村人たちが「祝い」の念を胸に抱きながら舞う神楽は美しく、誰の表情も輝いていた。




<11>
くらんでらの物語




   「高千穂・秋元エコミュージアム」のプロジェクトに参加した若者たちは、秋元の夏を存分に楽しんだ。作業の合間には、涼しい木陰に置かれたベンチでひとときを過ごす。村のばあちゃんの手作りのお菓子や、漬物などが何よりのご馳走である。涼しい風が山から吹き降ろしてきて、汗にまみれた若者たちの一群にひととき涼を与え、吹きすぎてゆく。夕刻、若者たちを秋元川に誘った。川水は夏でも冷たく、都会育ちの青年たちの足をきりりと冷やした。
清々しい歓声が渓谷に響き渡り、オオルリの声が山から谷へと谺(こだま)した。

 ある一夜、若者たちと一緒に村人の集会に招かれてビールを飲み、時を忘れて語り合った。夜が更けると、軽トラックが村のあちこちから集まって来て、酔っ払った男たちを荷台に積み込んで、その夜の宿へと運んだ。それが逞しい村の女性たちの、亭主や来客の取り扱いであった。秋元川沿いの山道を疾走する軽トラックの荷台に寝転んで夜空を見上げると、
天の川が秋元川に平行して流れていた。銀河は、大量の星を秋元の村に降らせていたのである。

 ギャラリー「石倉」に続いて、近年まで牛小屋として使われていた蔵之平・飯干金光氏宅の
牛小屋の改装に取り掛かったが、これは大掛かりで骨太の仕事となった。二階建ての頑丈な造りの牛小屋は、すでにその二階部分をお洒落に改装してこの家の長男夫婦が住んでいる。一階の中央部を支える梁は、200年ほども前に村人が総出で裏山の森から伐り出してきたという自然木である。横木も同様の太い雑木で組み上げられ、四部屋に分けられた牛の居住空間を区切る柱も壁板も重厚な素材ばかりで、この村とその周囲を取り巻く森の豊かさをうかがい知ることができる。

 蔵之(くらん)平(でら)という地名は、隣村の黒仁田の殿様にまつわる隠し蔵ではないか、というこの家の口伝にもとづく。地元の人は敬意と親しみをこめて「くらんでら」と呼ぶ。この地は、高千穂から黒仁田を経て秋元へ、そして峠を越えて五ヶ瀬町の三ケ所へ、さらに阿蘇を西方に見ながら豊後へと抜ける古道沿いに位置する。秋元の村には、諸塚山信仰と修験道の混交を物語る遺構や史跡、南北朝争乱にまつわる南朝方・菊池氏の落人伝承などが点在する。村やこの家に残るさまざまな伝承は、神楽の起源とも絡み合いながら、神秘的な空間へと来訪者を誘うのである。

 片付けを終え、この家の物語を今年83才のアサヨばあちゃんに聞きながら、納屋の骨格や古材などを最大限利用する方針を確認した。そして、まずは学生たちの手を借りながら、
梁と壁板の塗装を開始した。梁は楓の大木と欅またはそれに類似する樹種。壁板は栗。
床板には、手斧(ちょうな)で削り出された杉の板。使用されている樹種を推定し、それに合った塗料と塗装法を選ぶ。柿渋を主とした天然素材を使いながら、太い柱や梁はオイルステインや黒のペンキを調合し、塗ってゆく。それにより、梁や板が強度を増し、古来の美しさを取り戻して、重厚さを増す。これもまた現代アートに通じる手法といえよう。




<10>
ギャラリー石倉の誕生



  荷物を搬出し終わって、埃が静まった石倉の中は、薄暗く、見通しも悪かった。一階と二階を仕切る床板が視界を塞ぎ、外から入ってくる明りを遮っていたのである。そこで、梁と床板の一部を取り除くこととした。石の壁が頑丈に組み立てられているため、構造上の問題点はないと判断したのである。入り口近くの床を外し、梁を切り落として木造りの階段を一番奥まで移動させ、縦の構造材に補強を施しただけで、倉の奥から天井まで見渡せる空間が出現した。石の壁は、100年の時を刻んで、静かに息づいていた。南側に上部が緩やかなアーチを描いた窓があり、窓枠もガラス窓も失われていたが、そこから射し込んでくる光線が、倉の中を装飾した。西に傾いた夏の日差しを反射して、窓に絡みつく藤の蔓や草の茎なども、異国の建築物を彩るアラベスク文様のように輝いた。

 片づけが終わった石倉には、この家の母屋で2007年に開催された神楽の写真の中から「秋元神楽の仮面神(おもてさま)」を選んで展示することとした。さまざまな神格を持つ仮面神の表情から、秋元神楽の神秘の一面を知る企画としたのである。家族は村を離れていて、飯干美智子さん一人が守る母屋は、黒光りのする柱や板戸、板敷きの縁側などが美しい旧家で、すべての部屋の仕切りを取り払って御神屋(みこうや)を設え、中央に天蓋を飾ると、民家に神々が舞い入る高千穂地方古来の「神楽宿」となったのである。

  まず、石倉入り口左側の壁面には、神楽の行列を神楽宿へと案内する「猿田彦(サルタヒコ)」、秋元神楽の主祭神「秋元太子大明神」、そしてイザナギ・イザナミの二神が国産みの物語を演じる「御神体(ごしんたい)」を展示した。御神体は二神が酒を漉し、酔っ払って抱き合う高千穂神楽の人気演目で、国土創生の物語を演じながら、秋の稔りを喜び子孫繁栄を祈願する祝いの舞である。二階には、大国主命の国造りの様子を表すとも、七人の子神に神楽を教える場面ともいわれる「七貴神」、右壁の一階と二階から入り口真上へと連結する広い壁面には、「五穀(ごこく)」、「柴荒神」、「八鉢(やつばち)」「天鈿女命」「戸(と)取(とり)」などを配置した。五穀は、米・豆・粟・稗・黍を表す五穀の神が舞う神楽である。五穀を表す仮面をつけ、五種の「種つ物」を捧げて現れた五神は、神歌を歌いながら御神屋を巡り、五穀を神に捧げる所作をする。山の恵みと五穀の豊饒を祝って舞われる神楽である。柴荒神は、高千穂地方の鎮守神・十社(じっしゃ)大明神(だいみょうじん)とともに天降る地主神であり、八鉢は、瓢軽なしぐさで現れ、太鼓の上で逆立ちをしたり、客席に飛び込んだりして神楽の場を賑わわせる。天鈿女命や戸取は高千穂神楽のクライマックス「岩戸番付」を彩る神々。天鈿女命の呪術的な舞や手(タ)力雄(ヂカラオノ)命(ミコト)の豪快な舞、戸取の派手なパフォーマンスなどが繰り広げられ、やがて厳粛な神歌ととともに岩戸が開くのである。

 秋元神楽は、多彩な仮面神が次々と展開される場面を彩り、古式を伝える舞や神楽歌、唱(しょう)教(ぎょう)などが国家創生の物語と土地神の信仰を語り継ぐ。篝火が外神屋を照らし、笛の音、太鼓の響きは山々に響き、村は眠りを忘れる。






<9>
大きな岩のある風景




  秋元川の支流が、今は草に埋もれた旧道に沿って分岐する場所に、「殿岩(とのいわ)」と呼ばれる巨岩があって、一枚の立て札が
――その昔、世の無常を感じた武士(若狭の殿ともいわれる)が都を捨てて落ち延び、
ここに住んだ・・・
と伝える。ここからやや下流には秋元川の水流が大きく落ち込む淵があり、杉と苔に覆われた「ひょうくろ岩」があって
――昔、長九郎と呼ばれる武人が旅の途中に立ち寄り、この地を修行の場と定めた・・・
 とそのいわれを伝える。いずれも、この村に残る南北朝・菊池氏伝承の残影である。
南北朝時代、この天皇家が北朝と南朝に分かれて戦った争乱の時代は、人心も国土も二分された不幸な時代であったが、王家や豪族に随従した宗教者や芸能者などが各地に多様な文化や芸能を伝えた。一時は九州を制した南朝・菊池方も最後には北朝・幕府軍に敗れ、落武者たちは九州脊梁山地の奥深く逃れたが、ここ秋元もその伝承地のひとつなのである。
 ある秋の夕暮れ、殿岩の下段にある一枚の小さな田で、小狐が赤い花を手に、
神楽に似た舞を舞っていた。
 また、ある春の一日、ひょうくろ岩の上で相撲を取っていた河童たちが、次々に淵をめがけて飛び込み、銀色に光る魚を捕らえて帰って行った・・・
 伝承と幻影、史実と伝説などが交錯しながら、秋元の今昔を描き続けてゆく。

 飯干敦志氏宅の母屋・椎茸乾燥小屋・客室の展示を終えた「高千穂・秋元エコミュージアム」のスタッフは、続けて岩下地区・飯干美智子氏宅の「石倉」の片付けと改装に取りかかった。8月から加わった6人の若者は、東京・京都・宮崎から応援に来てくれたもので、彼らは、秋元神楽を見に来たり、インターンシップ事業でこの村の生活を体験したりして、すでに縁が結ばれている仲間であった。タオルを頭に巻き、Tシャツの袖を肩まで捲り上げた若者たちは、石倉の前に集まった。この石倉は、明治初期ごろに建てられたもので、裏山に聳える石の崖から切り出してきた石材を加工し、組み立てたものという。小ぶりだががっしりとした造りで、仕事は丁寧で美しく、秋元の風景に味わいを与える点景のひとつとなっている。すでに使われなくなって久しい石倉の中には、籾種を貯蔵するための大きな木製の米(こめ)櫃(びつ)や衣装箱、農機具などがぎっしりと詰め込まれていた。若者たちの体力をたのんで、まずはそれらを片付ける作業から開始した。籾殻(もみがら)が残った米櫃や、古い木綿の野良着などが入った衣装箱、麻糸の束などが次々と運び出された。若者たちはたちまち汗と埃にまみれたが仕事ははかどり、彼らも楽しそうであった。倉の中から出てくるさまざまなものは、彼らにとっては初めて目にするものが多く、あるものはゴミに見え、見ようによっては現代アートに類似し、また、民俗資料として保存すべき発見や宝探しの要素も加わって、片付けの現場は賑わったのである。




<8>
窓の外を横切った瑠璃色の光




 
 窓の外を、瑠璃色の光が横切っていった。
 窓枠一杯に広がる夏の樹林に引かれた一本の直線であった。納屋の二階を改装した民宿の客室は、二部屋に分けられた客室と客室の間の空間が居間となっていて、その居間の窓から、樹林とその向うに控える大きな山脈が見えるのである。
 窓を横切った瑠璃色の光は、こちらの谷から対岸の樹林へと飛び渡った瑠璃鳥(オオルリ)であった。先ほどまで桂の木のてっぺんあたりでさかんに鳴いていた声がそちらへと移動したので、そのことがわかる。春から夏へかけて、南の海を越えてやってきたこの美しい小鳥は、頭部から背、さらに尾にかけて鮮やかな光沢のある瑠璃色で、16cm〜17cmの小柄な鳥ながら、渓流沿いの樹上に陣取り、高らかに囀り続ける。

 白木の板が張られた客室の窓は、秋の紅葉、冬枯れの森、芽吹きと若葉の樹林など、
四季の風景を写しとる。一冊の書物と原稿用紙と山から汲んできた水を机の上に置いたまま、その景色に見惚れて時間を過ごす、至福のひととき。

 私は、飯干敦志さんの家の母屋に隣接した客室に泊り込んで、「高千穂・秋元エコミュージアム」の仕事を実行した。母屋は、重厚な高千穂地方の民家の骨格を残しながら、神楽の日には「神楽宿」が務まり、日常的な生活にも適合するデザインで仕上げられている。母屋に隣接する納屋を改装した「離れ」が客室「オーベルジュまろうど」である。近年まで牛を飼っていた建物だが、ここもお洒落な木造の部屋に仕上げられ、一階は食品の加工場、二階が客室となっている。

 昔、秋元の人たちは、遠くから自分たちの村を訪れる客を「神」に近い存在として迎えた。
それが「客神=客人=まろうど」である。日本列島の山地の村には、
新しい知識・技術・文化・芸能などを伝える来訪者が「ムラ」の歴史を革新してきた歴史がある。敦志さんの「まろうど」は、この意趣をふまえる。

 椎茸乾燥小屋を改装し、「ギャラリー客神(まろうど)」として始動させた私たちエコミュージアムスタッフは、続けて母屋の縁側と納屋の二階の客室「まろうど」の壁にも神楽の写真を展示した。この母屋の縁側は、南側に向かって広々とした空間が確保されており、対面する山脈や雑木林、稲荷様の祠などを眺めながら、ゆるやかに流れる時間を過ごすことができる。客室には、この家の跡継ぎであり小さな神楽の舞人(ほしゃどん=奉仕者)でもあるタッ君や、神社から神楽宿へと向かう「舞い入れ」の時、神社のご神体を入れた箱を背負った曽(ひい)祖父(おじい)ちゃんの光雄さん、神楽の客にふるまいをする村の女衆や家族の姿などを主に展示した。これにより、母屋を中心に、椎茸乾燥小屋と縁側、離れ(納屋)とが
「展示」によって連結され、一体となったのである。

 「オーベルジュまろうど」に泊り、美味しい秋元料理をいただき、神楽の写真を見ながら村の歴史や秋元再生の構想などを語り合う時、客を「神」として迎えた秋元の先人たちの心遣いが、エコミュージアムの原点といえる考え方であることを知ることができる。



<7>
精霊神のいます場所




  記紀神話における天孫(てんそん)降臨(こうりん)の段は、大陸から新しい文化を持って渡来し、「大和王権=日本という国家」を築いた「天孫族」と、日本列島にそれ以前から居住していた縄文系の先住民族との激突・協調・融合の物語であると解釈することができる。猿田彦と天鈿女命が出会い、やがて結ばれて、猿田彦が「先導神」「境の神」「縁結びの神」などの性格を持つ守護神となり、天鈿女命が神楽や能・狂言等の芸能・演劇の祖神となったことも、平和的に二つの民族が融合したことを物語っている。椎茸乾燥小屋を改装した小さな美術館の出発をこの二神の展示で飾り、「高千穂・秋元エコミュージアム」の第一歩が踏み出された。

 手前の部屋の焚き口の真上の板壁には神楽「岩(いわ)潜(くぐり)」を先導する
飯干(いいぼし)貞夫(さだお)さんの舞を展示した。貞夫さんは秋元神楽保存会の会長であり、温厚な地区のまとめ役である。「岩潜」は、剣を採って舞う勇壮な四人舞で、一人が四人の入場を先導し、先導者は舞(まい)殿(どの)を一周して退場する。白衣(はくい)に赤(あか)襷(だすき)を掛け、赤鉢巻に白い宝冠(ほうかん)(御幣)を差して舞う貞夫さんの雄姿には、誰もが見惚れるのである。岩潜の舞は素戔嗚(スサノオ)命(ノミコト)が激流渦巻く岩場を通って高千穂に向かう場面を現す舞、あるいは剣の力で国土を切り開いた舞と伝えられる。

 奥の部屋の右手の壁面に、「荒神(こうじん)舞(まい)」のアップを飾った。火を使ったこの小屋の隅には、荒神様の小祠が埃をかぶったまま置かれていたが、埃を払い、
焚き口の横に安置すると、室内に清澄な気配が漂った。「荒神」は火の神であるが、
もとは荒ぶる土地神であり、宇宙・自然界を支配する根本神である。古代製鉄においては、鍛冶の技術を持った渡来の民と山を支配する地主神・荒神の協調関係が不可欠であった。神楽の荒神舞では、台所から舞い出て荘重な舞を舞った後、ふたたび台所に舞い入って、神楽宿の主や主婦と盃ごとをする。家内安全と火伏せの祈祷である。

 この部屋は椎茸の乾燥棚が置かれていた場所なので、壁には、二本の竹の棒を引っ掛ける装置としての切り込みの入った板が取り付けられていた。これは、オブジェとしても鑑賞に耐えうるものであるという見立てから、残して展示に生かすこととした。
すなわち、板と板の間に出来た小壁面に小さな額を置いたのである。神楽の鈴や女神と男神が愛を交わす「ご神体」の場面を展示した。

 奥の部屋左手の壁面には二つの窓があり、外景が見える。秋元の山を借景として取り込み、そこから差し込む光も展示効果として利用する。これにより、昔から使われ続けてきた裸電球一個の照明で、静かで温かみに満ちた展示空間が完成したのである。窓と窓の間には、赤い額縁に入った敦志さんの舞姿を飾った。これは海神の水徳を讃える「住吉」の一場面である。
 秋元神楽に登場する神々たちの写真が、小屋の壁を飾った時、そこは、秋元の精霊神たちの座す場所となり、このエコミュージアムの性格を象徴する空間となったのである。




<6>
展示開始は「祝い」の神楽




  片づけを終えた椎茸乾燥小屋はなかなか清々しい空間となり、スタッフを喜ばせた。家の主の敦志さんの話によると、椎茸を乾燥させるためには数日間火を焚き続けねばならぬため、祖父や父が、季節ごとにこの小屋に泊り込んだ。そのころは、まだ家に暖房設備のない時代だったので、敦志少年も、しばしばこの小屋を訪れた。焚き口で焚いた火が、奥の部屋まで回り、それが室内を暖めて、棚の椎茸を乾燥させるのである。温かな部屋で神楽の話や狩りの話、村に伝わる昔話などを聞きながら、眠ったのである。
奥の部屋の左手の下部に、壊れかけた小窓があった。それは、室内に外気を呼び込むための通気口だったが、用途を失って久しかった。外部の板はぼろぼろと崩れ落ちるほどで、修理に手を焼いたが、大工仕事などを苦手とする私が、ふと思いついてぐるりと箱状の窓枠を反対向きにして、いままで内側にあった部分を外に向けて釘で打ちつけたら、一輪挿しを置いて花を活けるほどの小空間が来上がった。これもまた「侘び」の美学にかなう趣きであり、アートな設えとなったである。

こうして、片付けから展示への工程が開始された。まず、小屋の奥の部屋の正面に、
この家で開催された神楽の場面から「天鈿女(アメノウズメ)命(ノミコト)の舞」を飾った。
記紀神話の天鈿女命は、天照大神が隠れた岩戸の前で半裸の舞を舞って神々の笑いを誘い、天照大神をこの世に再び呼び戻す呪法を行なったり、天孫降臨の折、邇邇(ニニ)芸(ギノ)命(ミコト)の行く手をふさいだ猿田彦(サルタヒコ)の前に立ち、半裸となって敵意のないことを示し、猿田彦の心を開かせて日向国・高千穂へと案内させた、という挿話を持ち、神楽・演劇の祖となった神である。
2008年、飯干敦志家は母屋の改築を行い、敦志さんは長年勤めた高千穂町役場を退職して農業を始める決意を固めた。それが、「高千穂ムラたび活性化委員会」の設立へと続き、
秋元の将来を見据えた壮大な事業の出発地点となった。神楽には、家の新築を祝う
「家祈祷」の意味も含まれる。これをふまえ、展示のテーマを「祝い」とした。日の丸の扇を採り、赤い御幣を振りかざして舞う天鈿女命の舞は、地の霊を鎮め、場を清める呪的舞踏であることから、この趣意にかなうものとなった。火の焚き口のある手前の部屋の右手の壁は、ビニールトタンで塞いだだけの簡素なものだったので、ここは青竹を縦に貼り付けた竹壁とした。竹と竹の隙間から漏れる光もまた一興である。

一箇所だけあった明り取りの丸窓の部分は、竹を部分的に割って小窓を作り、外光を取り込む仕掛けとした。この壁には、神楽の行列を先導する「猿田彦」を展示した。猿田彦とは、天孫降臨の折、邇邇芸命の行く手に立ち塞がった異相の国津神(すなわち土地の先住神)であるが、天鈿女命の半裸になった姿と、笑顔の呪力により、邇邇芸命一行を日向・高千穂の国へと案内した。その故事により、「先導神」「境の神」「縁結びの神」などとして広範な信仰を集める神となったのである。立ち上がり始めた「ムラたび」の事業とこの小さな美術館の入り口を飾るにふさわしい神格である。




<5>
片付けはアートである





 「現代美術」の概念には「片付けもアート」という表現が含まれる。私が1992年に大分県湯布院町湯平温泉(現・由布市)で企画・提案し、開催された「湯布院と山頭火展」では、一人の美術家が、一ヶ月間の会期中、古い小屋を片付けて、またもとどおりにがらくたを含めた荷物類を収蔵するというパフォーマンスをした。その作家にいわせれば、その一連の行為そのものが「表現」であり、「アート」である、というのだったが、当時は、それを見たり聞いたりした皆が、不思議そうに首を傾げるばかりであった。が、その「行為」は、
漂泊の俳人種田山頭(たねださんとう)火(か)の足跡にちなんだこの展覧会の趣旨に絶妙の間合いで響いて、参加作家、地元の実行委員などの共感を集め、その一年後にはブロック塀の倉庫を「片付け」て「改築・改装」した「時雨館(しぐれかん)」という六畳一間の美術館として結実した。山峡を通り過ぎるしぐれを眺め、温泉街を流れる川瀬の音を聞きながら、館内に置かれた筆をとり、一句をしたためる空間は、まさに乞食と漂泊の俳人を記念するにふさわしい美術館となったのである
(時雨館を核とする湯布院と山頭火展は現在も継続中)。

 それから二十年近い時間が経過し、「現代美術」はポピュラーな表現手段として定着した。いまだに欧米のテキストを模倣する作家やキュレーターの多いことは惜しまれるが、
地域型の大規模な美術展や各地で展開されはじめた地域ミュージアムの取り組みは、
アート=芸術表現が美術館や画廊等の「箱の中」から「地域」や「自然」の中へと踏み出したものとして評価されよう。秋元へ来るまで10年近く塾の講師やフリーターに近い生活をしていたというスタッフの田中君や高校生の康之君が、切り損ねた板を斜めに貼り付けた板壁や、釘で打ちつけた青竹の壁の隙間から射し込んでくる外光などを指差しながら、「これがアートだよ」
と嘯(うそぶ)く私に、うん、うん、と笑いながらうなずくシーンこそ、その認知度の証明である。

 小屋は、奥行き6メートル、幅12メートルほどのごく小さな建物で、二部屋に分かれている。奥の部屋が乾燥室で、壁には椎茸を乗せて乾燥させるための竹製の四角い棚が段々に掛けられており、左手の壁が一部崩壊状態で、ガラスの割れた窓の向こうに夏山の緑が見えていた。手前の部屋に焚き口のある二メートル四方の掘り込みがあり、かつて祀られていた荒神様が埃をかぶっている。この二部屋のゴミを搬出することから始め、壊れた壁に青竹をはめ込み、乾燥棚を外して崩落した土を片付けたら、思ったとおり、土壁に囲まれた静寂な空間が現れた。壁は、赤土に藁を混ぜて練り込む伝統の工法で造られており、「時」に磨かれた土は手で撫でてみたいほどの深い味わいとなっている。板壁は、風雨にさらされて木目が浮き出たものをそのまま使った。補強する木材も古材を使った。

利休時代の茶室とは、本来このような空間だったのではないか、と思わせるほどの展示室が、埃の中から出現した。この記念すべき第一号の展示施設は「ギャラリー客神(まろうど)」と名づけられた。




(4)
2010年、秋元の夏




秋元の村を取り巻く山々は、青みがかっている。諸塚山系の山が間近に連なり、
太陽が、山頂をかすめて斜めに山肌や山麓を照射しながら移動してゆくからだ。
秋元川は、諸塚山を水源とする三本の水流を集め、
村の中央部を貫流して高千穂盆地の南部で大河・五ヶ瀬川に注ぐ。
清澄な水の流れる川をウナギが遡上し、体側が虹色をした天然もののヤマメが棲息する。
川沿いに点在する山の神・水神・稲荷などの小祠は、
今もなお土地神を祀る信仰が生きていることを示している。
村のどこにいても、秋元川の水音が快く耳に響く。

2010年7月。「高千穂・秋元エコミュージアム」の実質的な活動が始まった。
私を含めたエコミュージアムスタッフ3人と村の高校生1人に加え、
東京、京都、宮崎市内から6人の大学生が集まり、村に点在する
椎茸乾燥小屋、石蔵、牛小屋の三箇所の改装から始めたのである。
「椎茸乾燥小屋」とは、飯干敦志さんの自宅の母屋に隣接する小さな小屋で、
風化にさらされて壁の一部は崩れ落ち、母屋の改築とともに取り壊しが検討されていたものである。
現在、手前の小部屋には電動の乾燥機が座っているが、奥の小部屋には焚き火で室内を暖め、
その熱で竹製の平籠に乗せた椎茸を乾燥する仕組みがそのままに残されていた。
小屋の内部の土壁や深く掘り下げられた焚き口、椎茸乾燥用の竹の棚、
荒神様の置かれた一角などは、一部分だけを切り取れば、まるで現代美術の一こま、
あるいは、紹(じょう)鴎(おう)や利(り)休(きゅう)が好んだ「寂び」の極地といえるほどの風合いを持っていた。
時代の流れとともに「用途」をなくしていたかにみえるこの小屋にアートの手を加え、
展示施設として機能させる、というのがこの計画の第一歩である。

第1日目。小屋の前に、私とスタッフの田中邦之君、青江佐知子さん、
地元の高校生・飯干康之君の四人が集まった。
田中君はこの事業に雇われたIターンの青年で村に親戚がある。
青江さんは秋元神楽に魅せられ、倉敷から移り住み、この計画に加わった。
康之君は秋元神楽の伝承者で、これから始まろうとしているこのプロジェクトに興味を持って参加した。
彼らが、この仕事を通じて、村の将来に関心と関わりを持ってくれれば、
すでに事業は明るい出発をしていることになる。
この夏、日本列島は各地で記録的な暑さを記録したが、秋元も例外ではなかった。
平野部や都会の暑さに比べれば、木陰などに涼しさが感じられたが、
直射日光が照りつける屋外での作業や、埃がもうもうとたちこめる室内の片付けなどは、
暑さとの戦いでもあった。倉庫の二階で資材調達中の私が赤スズメバチに三箇所も刺され、
病院に直行するというアクシデントもあり、出だしからこのプロジェクトはハードなものとなったのである。



注・武野紹鴎(たけのじょうおう) 1502−1555. 堺茶道の祖といわれる茶人。
千利休の師として知られる。
注・千利休(せんのりきゅう)1522?1591 茶道の宗匠. 「わび」「さび」の美意識を貫いた
天下一の茶匠. 安土桃山時代の茶人で、織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めた。


<3>
精霊の森 秋元神社



 切り立った岩場と、杉の巨木に囲まれた空間の真上に、ぽっかりと青い空がある。
 その空間は、外界からも、古代から現代へと連なる時間軸からもきっぱりと遮断されたような時空である。
そこに佇み、天の一角を見上げると、きらきらと光りながら通り過ぎて行く風が見える。
その時、敬虔な参拝者も旅の途上で訪れた人も、まさしく「神=森の精霊」の存在を実感する。
秋元神社は、その静謐な空間に鎮座する。
岩場の一角には、昔、「秋元太子」が篭って修行したと伝えられる岩窟
「太子窟(たいしがいわや)」があるという。「秋元太子大明神」こそ、
「諸塚様」とも呼ばれる諸塚山の精霊神であり、「秋元神楽」に降臨する神である。
山と森の精霊は、神楽の場で一夜村人と遊び、夜が明けるとまた森へと帰ってゆく。
秋元神社の主祭神は国(クニ)常(トコ)立命(タツノミコト)であり、
国土を守護する産霊神であると伝えられる。神社の裏手から諸塚山系へと続く重厚な山塊と、
深い森を擁する地層からは、澄んだ水が湧き出ている。森の緑を映すその水をてのひらに掬い、
いただくと、遠い山を越えてくる神楽笛の音のような、かすかな響きが聞こえる。

私は、20年以上の年月をかけて九州・宮崎の神楽を訪ね歩き、地域の人々や伝承者の皆さんと交流し、
神楽の起源やアジア・日本・九州・宮崎と連関する仮面文化との関連について考えを巡らし、
神楽を核とした地域再生の試みや神楽そのものの伝承などについて語り合ってきた。
その長年の活動に対するひとつの回答のように、2010年3月、「高千穂・秋元エコミュージアム」
への参加が決まったのである。「由布院空想の森美術館」を閉館して宮崎へ移り住んでから
10年目のことである。私はこのことを珍重し、何か目に見えない大きなものに感謝するような気持ちとなり、
「これは山の神様からのプレゼントに違いない」
と自分本位に解釈して、秋元へ通い始めたのである。

さて、エコミュージアムとは、エコロジー(生態学)とミュージアム(博物館)とをつなぎ合わせた造語で、
「ある一定の地域において、その地域で受け継がれてきた自然や文化、生活様式を含めた環境を、
総体として持続可能な方法で研究・保存・展示・活用していくという考え方、またその実践」と定義される。
エコミュージアムは、事業の中核をなす拠点施設「コア(地域の紹介所・案内施設)」と
展示・保存対象である「サテライト(神社・仏閣や史跡、観光施設など)」、
それを結ぶ「ディスカバリー・トレイル(発見の小径)」等の要素で構成される。

「高千穂・秋元エコミュージアム」では、「コア=地域の精神的支柱」を「秋元神社と秋元神楽」に置く、
という方向性は、ごく自然に導き出された。太古の記憶を秘め、村の歴史を語り継ぎ、
村人の精神生活の骨格をなし、今も多くの来訪者との縁を結ぶ秋元神社と秋元神楽こそ、
「秋元という地域」を再生するための最上の地域資源であった。




<2>
村を巡る一日



秋元にたどり着くと、人はだれでも
――ここは、今はすでに失われてしまったという、東洋の仙郷にちがいない・・・
と思う。
高千穂から秋元に至る山道は、アジアの山岳の村を旅するような険しい崖沿いの道が続き、
その道が深い木立の中を通り過ぎた地点で、ぽっかりと明るい空が開け、
眼前に一基の水車と静かなたたずまいをみせる村が忽然と現れるからだ。
二つの谷に沿って四十六戸の古風な家が点在する。
それぞれの家には、「いろは」順に屋号がつけられている。
この村に住む人の大半が「飯干(いいぼし)」という同じ姓を名乗るため、
家ごとの呼び名が決められているのだ。家々を巡る細い道を歩くと、
懐かしい笑顔に出会う。すれ違う人が皆、にっこりと笑って挨拶してくれるのだ。
村人は、その日のお天気具合や出会ったタイミング次第では、
――寄っていきなさい、お茶でも飲んでいきなさい。
と黒光りのする縁側に誘ってくれる。のどかな日差しの中で、
自家製のお茶と漬物などの「お茶うけ」をいただきながら、
――やはりここは、昔話の中に出てくるような、「日本の美しい村」にちがいない。
と、だれもが思うのである。

エコミュージアムとは、地域の文化財や史跡、生活全体などを包括的に保存・表現するフランス生まれ、
北欧育ちの博物館概念で、山や川、畑や田んぼ、神社や昔から崇められてきた大きな木や岩、
さらにそこに暮らす人たちの生活文化や技術などを、「村まるごと博物館」と把握して
地域全体をミュージアム化し、活性化させ、再生させていく手法である。フランス・ラスコーの
洞窟壁画保存から出発したこの理論は日本へも伝わり、日本型の変容をみせながら、
近年、自然と共存する地域再生の手法として定着のきざしを示している。
2010年3月、私は、「高千穂ムラたび活性化協議会」の中の「エコミュージアム部門」の
アートディレクターとして契約された。秋元神楽の伝承者でもある飯干敦志(あつし)さんとは、
神楽を通じて20年以上の付き合いをいただいていたが、今回、この「エコミュージアム計画」の
実践者として私を選んで下さったのである。敦志さんは、かつて私が運営していた
「由布院空想の森美術館(1986―2001)」へは何度も足を運んだことがあるといい、
宮崎へ移転した後の私の活動もよく把握しておられた。湯布院から九州各地へ通い、
地域再生計画とアートの連携を提案し続け、また、現在地でも石井記念友愛社が推進する
「福祉と芸術の森」構想と連携して運営を続けている「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」
の動向なども承知の上であった。敦志さんの、村の再生と神楽の存続を願った長期遠大な計画と、
私のこれまでの主張と実践とがここで出会い、活動し始めたのである。




<1>
秋元・神秘の村へ




 古代――まだ「国家」というものが神々の手にあったころ――
の物語を語り継ぐ、神話の里・高千穂。その高千穂の里から西へと向かい、
深い峡谷に沿って遡る道がある。
道の両岸は切り立つ崖であり、その崖は、背後の大きな山脈に連なっている。
断崖のはるか下方にも、また崖上にひろがるわずかな台地にも、棚田に囲まれた集落が見える。
 高千穂盆地の東方に聳える祖母嶽の山頂から昇った朝日が、これらの風景を照らしながら、
ゆっくりと天頂を巡って、やがて西方の諸塚山の山脈に沈む。この山塊のどこかに、
青い石を秘める谷があるという。けれどもその場所は、近づけば遠ざかり、
また近づけばさらに遠ざかるという。
碧玉(へきぎょく)
――古代の王の首を飾ったとも、神を招く呪術に使われたともいう青い石――
その石は、太陽の光を受けて地中から光を放つ。
その光の届く所が、神秘の村・秋元である。

 宮崎県高千穂町向山秋元地区は高千穂盆地の西方、諸塚山の東麓に位置する美しい集落である。
広範な信仰を集め地区の精神的支柱をなす秋元神社を中心に、「秋元神楽」を伝承する。
秋元神社は、英彦山修験・霧島修験・星宿信仰等が混交する諸塚山信仰の拠点であったと伝えられ、
秋元神楽には「諸塚様」とも呼ばれる「秋元太子大明神」が降臨して、土地の物語を語り継ぐ。
春には山桜が山腹を彩り、夏には朝霧が流れ、秋は木の実や茸が採れ、冬には神楽笛の音が響く
――古きよき日本の美しい村――
の面影を残し、アジアの山岳の村を思わせる景観を有するこの村も、
近年は過疎化、小子化・高齢化などの全国的な地域社会が直面する現象とは無縁ではなく、
神楽の伝承者の村外流出、地域産業の衰退など多くの問題を抱えている。
 このような状況下において、2010年3月に高千穂町役場を早期退職した
飯干(いいぼし)敦志(あつし)氏によって「高千穂ムラたび活性化協議会」が設立され、
「農業」「食と民宿」「エコミュージアム」の三部門を一体化した事業が開始された。
「ムラたび」とは、神楽や深遠な風景の中で暮らすムラ人の生活風景などが持つ
文化的価値を提起しながら、自然・歴史・伝承・生活文化等の豊かな地域資源の掘り起こしと把握、
食材や特産品の開発、アグリビジネスとエコツーリズムを軸とした「ムラ旅人」の招致、
雇用の場の拡大、神楽伝承者のUターン・Iターンの受け皿としての機能等を確保する
「持続可能なムラづくり」をめざす事業である。
 「高千穂・秋元エコミュージアム」はこの「高千穂ムラたび活性化協議会」の
事業の一部門として企画され、活動が開始された。神話や神楽、
神秘的な自然・文化などに人気が集まる高千穂の中でも、さらに奥深い土地に位置する
秋元集落とその周辺の山や森、渓谷などをステージとし、集落内に残る空き家や
倉庫、石倉、納屋などを改築・改装し、「展示空間」「もてなしと交流の拠点」
とする活動を展開しているのである。




          西米良村小川「思い出NAVIプロジェクト」
                思い出―伝承―歴史―現代の地域再生への連環を語る

                   

 2011年11月18日と19日の二日間にわたり、九州の大学・大学院(宮崎大学、熊本大学、福岡大学、九州大学の四校)で景観や地域計画を学ぶ学生22人と、現場で地域再生計画に取り組むコーディネーター・技術者たちが、西米良村・小川「おがわ作小屋村」に集まり、「思い出NAVIプロジェクト」が開催された。
この「思い出NAVIプロジェクト」とは、地域に住む高齢者の大切にしている写真や古い資料などを手がかりに、地域の課題や問題点、今後の地域再生の方向などを探り出そうとする企画である。建設コンサルタンツ教会九州支部とおがわ作小屋村運営協議会の共催により行なわれた。

                   

 学生たちは、二人一組のチームを組んで、紅葉が始まった小川地区の集落に歩み入り、75歳以上の高齢者の住む家13軒を訪ねて、大切に保管している写真を借り受け、パソコンに取り込みながら、写真にまつわる話や思い出話、小川地区での生活のこと、今後の村の行く末のことなどを聞き、話し合った。村人は、若者たちを快く迎え入れ、二時間、三時間と話がはずむチームもあったという。調査では、今後活用できそうな空家、耕作放棄地、神楽や伝統芸能の継承などについても話が及んだ。
 夜は、小川城址公園内の民話館に集まり、報告会があった。それぞれのチームが、訪ねた家の様子や収集した話の内容などについて報告し、討論を行なったのである。
 若者たちの報告を聞きながら、私は前項「美術館と町づくり」の中でもふれた島原半島・森岳商店街で行なったアーティストたちがインスタントカメラを持って町並みを巡り、翌日のシンポジウムで「島原の良さと森岳の資源」について提言して森岳商店街の再生に結びついたこと、炭鉱遺跡・宮原坑の保存を盛り込んだ大牟田市の「大牟田の宝物探し」(その後宮原坑は近代化遺産として登録・保存された)などを思い出していた。15年ほど前に提案したり、参加したりした「地域資源発見」の手法が、ここでもこうして引き継がれ、ポピュラーな手法として定着してきていることがわかって感慨深かったのである。

        

 報告会の途中で発言を求められた私は、この「思い出NAVIプロジェクト」は今後パネルや動画にまとめられれば、「おがわエコミュージアム」の展示作品としても大いに活用できるということを提案した上で、
・村の古老の思い出などは「伝承」につながっている。
・その伝承は「村の歴史」をさぐる一級の資料である。
・村の伝承と歴史から、地域特性や産業、技能、伝統芸能の起源にまで関連して調べることができる。
・これらをふまえ、現代に生きる我々が、どのように「限界集落」と呼ばれて消滅の危機に瀕している「村=地域社会」の再生に取り組むことができるかを考えるべきである。
 という見解を述べ、小川川の最上流にある集落「木浦」には現在、高齢の女性が一人しか住んでいないが、その集落は「蛇淵のうるし兄弟伝説」を伝える村であり、漆採りという村の生業や木地師という職業集団の住む村であったこと、これらの事例にもとづき、「おがわ作小屋村エコミュージアム」の一環として取り組みたいという願望(古民家再生や空き小屋ギャラリーなど)を持っている、と発言した。

        

 その後、村の女性たちが用意してくれた山里料理を囲み、焼酎を酌み交わす懇親会へと会は移行した。その熱気をはらんだ若者たちの中に、木浦を調査地に選んだチームがあり、私の発言と同様の趣旨の報告をするつもりだったと語ってくれたのが嬉しかった。このプロジェクトは、今後、地区の課題や目標を明確化し、地区サポーター組織として活動していく予定であるという。頼もしい一群の参加を、米良の山人たちは笑顔で迎えてくれることであろう。
 
        


                 美術館と町づくり

                    

 前項の「平成の桃源郷で会議/九州アートネットワーク会議」に参加した後、すぐに東京へと旅立ち、京橋の画廊・アートスペース繭での企画展「南の島の古陶と精霊神」を行なったが、その期間中、日本橋人形町のウィークリーマンションに滞在して、アートと骨董などに関する原稿を書いた。
 その折、故・洲之内徹氏と「気まぐれ美術館」関連のことをインターネットで検索していたら、突然、画面に「美術館と町づくり」というタイトルが現れた。それは、私が11年前に書いた下記の原稿で、初期の「湯布院の町づくり」のこと、「由布院空想の森美術館」を運営しながら各地を巡り、「アートと地域計画」について語り、実践した記録であった。思いがけない出会いのような気がして読み返してみると、それは数日前に私が「九州アートネットワーク会議」で発言した内容と重複していたし、九州のアートの現場で活動する若者たちの質問に対する格好の答えにもなっていた。
 なにより、当時の主張と実践が、10年という時の経過を経て次世代のアーティスト・表現者・キュレーターたちに引き継がれ、伏流水のように「地域再生とアートの連携」という実態を伴って具現化しはじめているということが、私には大きな驚きであり、また、感動であった。そこで、少し調べてみると、この記事は、ホームページ上の「ミュージアムデータ」からは消えているようだということがわかった。10年を経過して、新しい記事が上書きされ、消えたのだろう。そして記事そのものは、誰かのホームページに転載され、インターネット上を漂泊していたのだろう。それが、突然、旅先の私のインターネット画面上に立ち現れてきたというのも、不思議な符牒のような、あるいは「神意」と呼ぶべき現象のようではないか。

                    
             
 上記の経緯を珍重し、下記に採録します。ブログ掲載原稿としては長すぎるし、画像もうまく挿入できないので、この文は再編集して近日中に「森の空想ミュージアム」のホームページにファィルします。ご興味のある方はそちらをご覧下さい。文は多少加筆してありますが、ほぼ原文のままです。
             
ミュージアムデータ」(丹青社発行)2000年6月号
ミュージアム・レポート
美術館と町づくり
由布院空想の森美術館館長
高見 乾司

●湯布院アートの始動/1970年代後半のこと
  静かな町だ。
  しんしんと、胸のどこかが痛むほど、静かな町だ。窓から見える風景をみつめながら、私はそう思った。
 1975年ごろのことである。療養のため、湯布院の町の病院に入院してきた私は、病棟の窓から、静かで淋しく、そして美しいこの町の景色を見ていた。それが私とこの町との由縁の開始であった。足掛け三年ほどの療養生活を送ったあと、私はこの町の住人となった。
すると、外から眺めていたほどこの町は淋しくもなく、静かでもないことがすぐにわかった。「ゆふいん音楽祭」「湯布院映画祭」を始めとする文化運動、すなわち、のちに「湯布院の町づくり」と呼ばれる運動が始まったばかりの時であり、この町に住む人たちは皆忙しく、まるで坩堝のなかの異質な物質同士のように、燃えたぎっていたのである。私はたちまちその運動の中に身を投じた。
 私がこの町で最初に行ったことは、古い空き家を一軒借りて、そこを住居とアトリエを兼ねた画廊にしたことであった。「由布画廊」と名づけたその小さな空間は、すぐに絵の具やキャンバスや種々のコレクションなどで埋まり、あたかも裏通りの骨董屋のような趣を呈したが、なぜか次々と人が集まって来て、一緒に絵を描いたり、酒を酌み交わし、夜が更けるまで語り合ったりした。そこには、私たちがもっとも尊敬し、影響を受けた画廊主にして美術評論家の故・洲之内徹氏や、当時は毎日新聞の美術記者だった田中幸人氏(前・埼玉県立美術館長)などが訪ねてきてくれたり、その時集まったメンバーが、のちに「湯布院アートプロジェクト」というグループへと発展し、「由布院駅アートホール」を核とした湯布院のアートシーンの担い手となったりするのだから、やはり、私の湯布院での第一歩として、この由布画廊時代のことは記録しておくべきだろう。「空き家」に入り込み、そこをアート空間に変えながら周辺の町並みづくり=地域デザインに波及させてゆくという一連の私の行動パターン(驚くべきことにそれは、いつのまにか現代美術の手法の一つとなった)も、この辺りにその原型があるといえるかもしれない。
 このころ、私はまだ湯布院という田舎町の中では「異人」あるいは「少し変わった言動をなす絵描き」程度にしか思われてはいなかっただろう。多少の曲折を経て、かつて湯の坪街道と呼ばれた旧街道沿いの一角に居着いた時から、私とこの町との縁は緊密なものとなった。古い町並みに住む人たちはやさしく私とその連れを受け入れてくれ、私は、漂泊の果てに故郷へと帰りついたような安堵感を抱いたものである。ここでも私とその連れとは、空き家となっていた理髪店の跡を借り受け、古い民具や古布、古伊万里の食器、民俗資料などを商う店「古民芸・糸車」を開店したのである。店に客は集まったが私は暇だったので、二階の部屋で絵を描いたり、時折、収集旅行に出かけたりした。そして夕刻ともなれば、近くの酒屋に周辺の商店主や地域づくりの仲間たちが集まり、缶ビールを片手に、地域論、店舗デザインなどを話し合ったのである。これが「湯の坪街道デザイン会議」である。ここで話し合われたことが店舗づくりに生かされ、それぞれの店が集客力を持ち始めた。そして、町並みに木を植える運動、街路灯のデザインと設置などへとつながった。街路灯には、若手のアーティスト岡山直之氏の石の彫刻や新進の竹のクラフトマンとして登場したばかりの高見八州洋(私の弟)の作品などが使われた。アートが地域の環境計画に関係していくという実験は、ここでは実際に町づくりの手法として生かされたのである。
 湯の坪街道はこうして「界隈」としての魅力とにぎわいを獲得していった。その後のこの地区の発展ぶりは、現地を訪れてみれば一目瞭然であるので記述を省く。

                    
                    湯の坪街道風景/1998年頃

●町はミュージアムである/アートの拠点が誕生し始めた
 いつの間にか10 年近い歳月が流れていた。私は「町づくり」の一員に加えてもらえたことが嬉しくて、さまざまな会合や地域づくり会議などに顔を出した。湯布院音楽祭が10 年目を迎えたころのことで、私も実行委員の一人として会場作りに走り回ったり、音楽家の世話をしたり、雑務の合間に楽屋裏に回り、演奏を聞いたりしていた。このころが、私にとっても、また湯布院の町にとっても、大きな転機であったといえよう。町には観光客があふれるようになり、大型の開発計画がなだれ込んできた。当然、町づくりのメンバーたちはそれに反対する運動を起した。もともと、湯布院の町づくり運動そのものが、「猪の瀬戸」と呼ばれる湿原の保存運動から出発した経緯もあって、この町の人たちは豊かな自然が壊されることに強い反発心を抱く傾向がつよかった。私もまた迷わずそのメンバーの一員となったが、この過程で、「空想の森美術館構想」が生まれたのである。それは、「反対」を唱えるだけでなく、私自身がこの町に受け入れてもらえたように、他の進出企業や個人にも、気持ちよくこの町に入り込めるようなプランの提案であったし、そのモデルケースの一つになればという、願いでもあった。そしてそれは、自分自身のこの町での居場所を探す作業でもあった。この骨董屋の二階で描かれた空想男の絵空事のような構想は、突然現れたコレクター氏の支援などによって、あっという間に実現に向かった。それは、同時期に行われた町の商工会主催による町民アンケートに記された「美術館や図書館、音楽堂などが点在し、ペンションなどの瀟洒な宿泊施設が自然と共存する静かな町」という町民の願望と一致するものだという確信に基づくものでもあった。
 こうして、私は開発のために切り払われ、売りに出されたていた由布山麓の土地を購入し、小さな美術館が集合する「由布院空想の森美術館ゾーン」の主宰者となったのである。この時期、彫刻家夫妻の経営する「末田美術館」、ガラス工房、紙漉きの工房などをもつ小さなテーマパーク施設「湯布院民芸村」の二施設がすでに開設されており、それぞれ客を集め始めていたことは特記しておかねばならない。前述したように、私どもの空想の森美術館は私設でありながら、湯布院の町づくりの運動の中から生まれてきたような美術館であると私は認識しているのだが、末田美術館と民芸村(いずれも私設)が湯布院の美術館・博物館等施設の先べんをつけた事業であるという認識も欠かせない。

                   
                    由布院駅とホームに入構する「ゆふいんの森号」

 さて、自分史的前置きが長くなったが、やはり湯布院のアートを語るには、出発点であるここまでを描いておかなければ説明しにくい点も多いので、紙数を費やした。このころから、放浪の詩人画家・佐藤渓の作品を集めた「由布院美術館」、陶人形作家・中西ちせ氏と木工家中西重昌氏の工房兼ギャラリー「MUNE」、木の工芸家・時松辰男氏の工房兼ギャラリー「アトリエとき」、博多発湯布院行・アートギャラリー付きのお洒落な特別急行「ゆふいんの森号」、待合室をギャラリーとして運営する由布院駅アートホールなどが次々と誕生した。まさに「アートの町・湯布院」という刺激的な舞台の幕開けであった。私たちは、由布院駅アートホールをこれらの施設の代表者やスタッフで運営する組織「ゆふいんアートプロジェクト(のちに由布院駅アートホール企画運営会議に改編)」を結成し、その運営にあたったり、町に点在する施設が同時期に同じテーマで企画展を行なう「アートフェスティバルゆふいん」、同じく「ゆふいんアートナウ」「わたくしの町美術館展」、湯布院の町を真っ二つに割った開発と環境問題を問う「メールアート展・地球市民発湯布院行」などを行ったりした。これらの連続した企画展を総称して、私は「町はミュージアムである」という小文を書いた。美しい山々に囲まれた小さな町。その「町=地域そのもの」が、ミュージアムとしての機能を持ち始めた、という実感に基づくものであった。

                     
                     旧・由布院空想の森美術館

●伊豆高原の風/湯布院アートは他の地域へ飛び火し始めた
 1992年、第五回(最終回)の「アートフェスティバルゆふいん」に参加して下さった画家の谷川晃一氏は、「この手法は面白い」と、翌年、「伊豆高原アートフェスティバル」を企画した。
 「雑木林の中を散策することもアート鑑賞のプログラム」「アートによる癒し」という二つのテーマを掲げたこの美術展は、伊豆半島の広々とした雑木林の中に点在する画家のアトリエや小ぶりのギャラリー、お洒落な美術館、ペンションの一室などを会場として開催されたため、たちまち多くの観客を集めた。地図を片手に、高原をわたる五月の風の中を散策する人々の姿が方々にみられ、これまで、日本の「美術鑑賞」にはなかったアートの楽しみ方がここで実現されたのである。二年目以降は、出品作家も参加会場も増え続けて、第五回目を迎えるころには、参加会場80、作家は100人をこえるという、国内最大級の地域美術展に発展したのである。
 この伊豆高原アートフェスティバルは、日本のアートシーンの方向を都市から地方へ変えた、といっても過言ではない。一方、バブル経済崩壊後の都市のアートビジネスの乱入という現象を生んだことも事実である。当初、伊豆高原に計画されていたゴルフ場計画や大型開発に対する反語としての意味も合せ持っていたこの美術展が、ある時期、その役割を果たしたと同時に、このような現象を招いたということは、同様の経過をもつ湯布院にとっても、また主宰者たちにとっても残念なことであった。しかしながら、谷川氏をはじめ、この美術展の実行委員会のスタッフは、ビジネス優先の有料施設を排除したり、行政からの助成金を断ったり、大胆な内部改革をしたりしながら模索と実験をくり返している。そのことにより、つねに他の地域の企画に大きな影響を与え続けているのである。

●「風の盆」の町の新しい風/坂のまち美術館
 ライトバンに満載した荷を積んで、高速道を北に向かった日が、遠い日のことのようだ。車中の荷とは、池田満寿夫や靉嘔、大沢昌助氏などの版画、湯布院町で開催した「メールアート展」の出品作、それに私自身の墨とインクによる風景画などであった。それは、以前経験した骨董の行商のようであったし、祭りの場へと向かう香具師の荷造りにも似ていた。
池田、靉嘔、大沢などの作品は、「わたくし美術館」主宰者の尾崎正教氏のコレクションによるものである。「わたくし美術館」とは、「五点以上すぐれたコレクションを有し、それが公開されていればそれは『わたくし』の美術館である」という主張で、この時期私と尾崎氏とは、湯布院を始め、各地で尾崎コレクションによる展覧会を企画していた。湯布院から伊豆へ、そして伊豆から八尾へと回る旅は、その一連の行動の延長線上にあった。
 八尾では、湯布院との縁を取り持って下さった「タウン情報とやま」の編集長・山下隆司氏、ギャラリー「野風堂」のオーナーであり彫刻家でもある宇津孝志氏、和紙工房と資料館「和紙文庫」を主宰する吉田桂介翁などが出迎えて下さった。八尾の町には「おわら風の盆」と呼ばれる美しい踊りが伝わっていて、毎年、祭りの開催される九月の三日間だけで20万人もの観光客が訪れるというのだが、普段は静かな町であった。鋸の目立屋や、欄間の職人などが今なお店を構え、重厚な造り酒屋や江戸情緒を残す旅館などが軒を並べる古い町屋を利用して、「わたくしの町美術館」展を開催しようという私たちの呼びかけはこうして実現し、数年後「町屋が美術館」という構想に発展、さらに1999 年秋、尾崎正教氏と宇津孝志氏、大沢昌介の版画作品との出会いによる「坂のまち美術館」の開館へと継続されていった。私は、年に一度開催されるようになった「坂の町アート」に出品を続け、その着実に発展してゆく経過を聞きながら、嬉しく思っていたのだが、この「坂のまち美術館」の開館までは予想してはいなかった。

●島原の風/災害復興とアート
 六階建てのビルはなかば廃虚化していた。雲仙・普賢岳の噴火災害の影響により、この「島原グランドホテル」は、立ち入り禁止区域内にあったため、その間、営業ができず、倒産に近い状態に追い込まれていた。客室には分厚く灰が積もり、冷蔵庫の中には、4年前のままのジュースや缶ビールなどが入っており、押し入れには、シーツや布団がきれいに畳まれたまま入っていた。
 島原グランドホテルの復興を支援する美術展「島原アートプロジェクト’95」は廃虚化したこのホテルを会場に開催され、延べ80人の作家が参加した。社長の金崎福男氏が、湯布院の手法を学び、ホテルの再興に役立てたい、と湯布院を訪れた時から、私たちの交流は始まっていた。1995年夏。それは私が体験したアートシーンの中で、もっとも刺激的で熱い「40日間の美術展」という時間であった。ある作家は削岩機を持ち込み、壁に穴を穿ち、それを「作品」と称したし、水無川から土石流で流された家の断片、流木、溶岩や砂などを拾ってきてペインティングしたり、並べたりした作家もいた。島原半島を漂泊し、描いた絵を展示した画家もいた。客室に残されたシーツや布類を使って、大きな織物を作った染織家もいた。私もまた、その熱い群れの中に身を投じ、一人の制作者として行動した。
 私は、集まって来た近所の子どもたちと一緒に巨大壁画に挑戦したり、膨大な量の襖や障子を利用し、墨やペンキを用いて絵を描いたりした。そこはありとあらゆるアートの実験場となり、文字どおり、生きた現代美術館となったのである。この作家たちの「行為」「パフォーマンス」「表現」「展示」などは、金崎氏を始め、噴火災害に苦しむ島原半島の人々に少なからず影響を与えたが、島原グランドホテルは、銀行の支援が得られず、倒産・競売という悲しい結果となった。のちに日本列島を震撼させる「貸し渋り」のはしりともいえる、銀行の冷たい対応であり、土木工事や農地の復興など、ハードな復興には巨額の予算が投じられたが個人の復興を支援する措置は、国家・民間ともに無に等しかったという現状が浮き彫りにされた結末であった。

                       
                 ゛95島原アートプロジェクトより島原グランドホテル外壁のアート

 「島原アートプロジェクト’95」では、私は二つの悔いを残した。一つは、会期が終了しても、そのままアートがホテルのビルを占拠し、現代美術館として機能させれば、そこは集客力を持つ施設となり、ホテルの復興を果たし得たのではないか、という思いである。が、これは契約違反であるといわれればそれまでの個人的思惑にすぎない。もう一つは、施設が競売にかけられ、ビルが取り壊される前に、作家たちから金崎氏に寄贈され、ビルの中にあるいは壁や窓など(建物そのもの) に描かれたりして残されていた作品を救出し得なかったということである。関係者に連絡し、搬出を依頼した時には、すでに施設の大半は重機によって破壊されていたのである。しかしながら、この一夏、廃虚のビルに集まった作家たちの縁は、島原市内「森岳商店街」の「まちなみ美術館計画」に引継がれるという思わぬ展開をみせた。森岳という島原城下の商店街の若い店主たちが、作家たちを招待してくれたのは、「島原アートプロジェクト’95」終了翌年の1996年のことであった。
 この日、作家たちの宿となったのは、古い商店街の中の一軒の空き家だった。すでに島原を離れていた金崎氏も駆けつけて、一年ぶりの再開を喜び合い、フォーラムという名の酒盛りは、夜更けまで続けられたのである。翌朝、アーティストたちは、主催者から渡された使い捨てカメラを一台ずつ持ち、商店街を歩いた。なかばうつろな二日酔の目でも、彼らは、町のそこここにある魅力的な「けしき」に向かってシャッターを切った。そして午後3時、事務局も兼ねていた「わかば写真館」にそれを持ち込んだ。するとわかば写真館の若主人・松阪昌應氏がそれをすかさずプリントし、パネルに仕立てて、町並みのはずれにある「宮崎酒店」の酒蔵に運び、展示した。一日にして「まちなみ展覧会」が実現し、作家たちがそれぞれ森岳の魅力について、あるいは自作について、発言したのである。
 それが「島原アートフォーラム’96」の始まりであった。古い町並みそのものが資源であるという美術家たちの共通した認識は少なからず参加者に影響を与えた。この日から間を置かず、古い金物店「猪原商店」が改装し、ギャラリーを併設して美術館のような金物店へと変身したし、作家たちの宿泊所となった空き家も和楽器のギャラリーとなった。島原城下の森岳商店街は、こうして再生への一歩を踏み出したのである。

                    
                    島原市森岳商店街「猪原金物店」

 それから二年後の1998 年のことである。同じく島原半島にある小動物公園「雲仙リス村」の社長・安倉多江子氏(当時は末吉氏)が訪ねて来られた。リス村もまた普賢岳の噴火災害の影響に苦しみ続けた施設で、リスや鹿などを中心とした小動物たちは噴火におびえ、異常出産が続いたり、園内には灰が厚く積もって植物が枯れたりして、客は減少し、経営危機の状態にあるというのだった。加えて、復興予算目当ての土木事業に手を出すなどした彼女の夫でもあった先代社長末吉耕造氏は、心身喪失状態で島原を離れざるを得ない状態となり、やむなく自分が社長を継いだのだが、この先、営業を続けてゆけるかどうか自信がもてないのだという。末吉夫妻は、前記「島原グランドホテル」での企画、「森岳まちなみ美術館計画」などを後方から支援して下さった縁があった。私はそこで、『「リス村」という一万坪の森は島原半島の友人たちにとっても、動物たちにとっても、そこを愛している来場者にとっても大切な場所である。その森を「風の森ミュージアム」と名づけたらどうだろう。子どもたちが集まり、作品を作ったり、施設そのものにペインティングしたりする。そしてそれらの作品が森の中に点在し始める。それが「風の森ミュージアム」の出発の日である』というような内容の提案をした。
 すると、彼女の目はたちまちきらきらと輝き始め、「それなら私にもできそう。私はもともと画家志望の女の子だったの」と美しい笑顔を見せたのである。それからの安倉氏の活動は目を見張るものがある。激しい雨がテントを濡らし、風に揺れる中で、子どもたちが嬉々として走り回った第一回のペインティングパフォーマンス。使い古しの傘にペインティングし、森に展示した「アートアンブレラ大作戦」。湯布院のさとうかつじ氏の指導による「ダンボールアート展」。森に鉄の人体彫刻を点在させた「森の人展」。次々に展開された企画は話題を集め、島原の保育園、幼稚園、小学校などの協賛も得られて、まさしく風の森は生きた野外ミュージアムとなった。私も九州各地から駆けつけたアーティストとともに島原へと向かい、風の森のアートシーンの演出を手伝った。このことによって、「島原グランドホテル」での苦い体験は生かされ、森岳の友人たちの交流とともに、私にとっての島原半島は、一層、思い入れ深い土地となったのである。

                    
                            島原半島風の森ミュージアム「アートアンブレラ大作戦」


●南風の国にて/隼人町・エコミュージアム構想と南風のアート
 錦紅湾の最奥部に位置する隼人町は、黒潮が薩摩半島と大隈半島の間を流れ込み、桜島をかすめて、最後に到達する地点だという。この流れに乗って、ニニギノミコトが漂着・上陸したと伝えられる地点もある。古来、この土地の人々は新しい文物をもたらす南風のことを(はや)と呼び、黒潮に乗って到来した人のことを南風人(ハヤヒト=ハヤト)と呼んだ。ニニギノミコト上陸地といわれる海岸には、霧島山系を源流とする天降川(あもりがわ)が流れ込んでいる。天降川の流域には、蛭子伝説にちなむ神社、山幸彦を祀る陵墓、天孫降臨の地と伝えられる高千穂河原などがある。天降川の対岸の丘陵地からは、縄文時代草創期(9500 年前)の定住生活の初まりを示す「上の原遺跡」も発見された。天降川河口に立つと、この地が、古代から現代に至るまで、新しい文化を生み、渡来した文化と混交しながら、日本列島へと向けて発信し続けてきた土地なのだということを実感する。
 このような歴史認識にたち、21世紀へ向けた新しい生活創造空間の提案をめざして開館したのが「木と生活文化ミュージアム・南風人館(はやとかん)」である(1997)。製材業と住宅機器販売を主とする地元企業「(株)野元」が設立したこのミュージアムは、地域づくりグループ「南風(はや)の会」の支持を得、九州のクラフトマンや美術家、創作家たちの支援も得られて、たちまち、南九州の文化活動の拠点となった。そして1998 年、公募展「木と生活文化賞’98」を主催、全国から300点を上回る作品を集めた。翌年の「木と生活文化展’99」では、「エコミュージアム構想」を町づくりの基本理念に据えた隼人町の協賛も得られて、実行委員会体制が確立した。企業が提案した構想を地域住民が支援し行政が協賛するという地域文化の理想型がここで実現したのである。北は北海道から南は沖縄まで、338人の作家から寄せられた483点の応募作品を審査する審査会場は、このような経緯を経て、熱気に包まれた。審査員は10人。美術館長、建築家、工芸家、デザイナーなど、各ジャンルのスペシャリストたちが、審査基準や手法を話し合うことから始め、一点一点、慎重に議論しながら入選作品を選出した。
 会場には、実行委員やボランティアスタッフ、出品作家、見学の市民などが多数集まっていて、審査の過程で、質問を発したり、作家または作品に対する情報を提供したり、論議に加わったりした。そのため、審査そのものが現代美術の公開講座のような趣を呈したのである。「木と生活文化」を標榜した展覧会の大賞受賞作品が、鉄による現代彫刻だったということが、この展覧会の実験精神を物語っていよう。こうして選ばれた入選作253点は、隼人町内の三つの会場に分けて展示された。多くの見学者が期間中、この町を訪れたことはいうまでもない。
 2000 年5 月、第三回目を迎えた「木と生活文化展」は、タイトルを「南風の生活文化展2000」と変えて、新たに出発した。これまで、この企画を支え、実行してきた実行委員・審査員に加え、多数の隼人町民、行政スタッフ、町会議員二人などを加えて、一層の厚みを増して再スタートを切ったのである。南の風は勢いを増しつつ、どこかへと向かい始めたようである。

                    
                    隼人町「南風の生活文化展」審査風景

●アートが新しい地域文化を拓き始めた/ 九州における地域アートの展開
 宮崎県木城町「友愛社」は日本の福祉の父とも呼ばれる石井十次が設立した福祉施設である。孤児救済施設「友愛園」を中核とし、広大な敷地に、二つの保育園、茶畑、水田、友愛社の設立による老人福祉施設(現在は医療法人)、小学校(現在は西都市立)、開拓資料館などが点在する。すでに百年の歴史をもつ友愛社の、古くなった建物や、森の一角などを若手アーティストが利用し、福祉とアートの出会いによる「癒しの空間づくり」も始まっている。彫刻家、設計士、ログハウス造りの職人、現代美術の作家などが滞在したり居住したりしながら、それぞれ、作品を制作したり、発表したりしているのだ。敷地内にある「のゆり保育園」の隣には、保育園児の描いた絵を展示した小さな「のゆり美術館」があり、その横には「かさこそ森」と呼ばれる森がある。「かさこそ森」と「のゆり保育園」の間には「こそかさ広場」がある。このこそかさ広場とかさこそ森とで、初夏の一日、子どもたちや友愛園の園生などが集まり、アートパフォーマンスを行なう。ダンボールや布、廃材などを集めてきて、それにペインティングし、かさこそ森に展示するのだ。その様子を、森のカラスが、大きな杉の木の上から、見守っている。子どもたちの作品を、上級生や大人たちが森に展示し終わった時が、「かさこそ森美術館」の誕生の瞬間である。森に歓声が響く。西都原古墳群に隣接し、古墳や遺跡が散在するこの台地にじっくりと腰を据えて、アーティストや子どもたちと会話し、行動する園長・児島草次郎氏のもとへは、ますます多彩な人材が集まり、交友を深めてゆくことだろう。
 宮崎市には、市街地の中心部に「現代っ子ミュージアム」が誕生した(1999)。同市在住の美術家・藤野忠利氏が、かつて在籍した前衛美術集団「具体」の仲間の作品に加えて、長年携わってきた子どもたちの絵画教室と「遊びの採集」と題したワークショップから生まれた作品を展示し、美術教育を行なう場として開設したのである。都市の真ん中に出現した建物はまるで建物そのものがオブジェのようにそこに存在し、道行く人の足を止めさせている。観光が衰退し、巨大リゾート施設が低迷する中、このミュージアムは、退廃する都市に突然現れた冒険者のように、人を引き付けるのだ。
 熊本県阿蘇郡長陽村は、南阿蘇の外輪山に囲まれた静かな村である。文字どおり、阿蘇の山脈から昇った朝日が、熊本市街の向こう、有明海の彼方に沈むまで、明るい陽光が一日中降り注ぐ村なのである。「陽の長い一日の村美術館」とは、この長陽村一帯を「地域ミュージアム」と見立てた美術展である。阿蘇地域在住作家(あきよしあやこ氏の鉄の作品) に約20人の招待作家を加えて、村内約40ヵ所の会場で、さまざまな企画展やイベントが開催されるのである。ここでは、村の起源を語る神楽の秋季大祭もプログラムに組み込まれ、地元陶芸家や木工作家の工房が開放されたり、古い温泉旅館が前衛華道の発表の場となったり、ローカル線の駅や神社の拝殿が絵画展の会場になったりして、好評だった。広々とした村の景色を楽しみながら、観客は、作家や会場のオーナーなどと親しく会話をし、交流を深めたのである。この手法は、湯布院で行われた初期の「アートフェスティバルゆふいん」や「伊豆高原アートフェスティバル」などの実験を下敷きにしたものだが、その失敗例や課題を整理し、豊かな自然に抱かれた南阿蘇というフィールドの魅力を最大限に生かしたことが成功した。今後は、南阿蘇の大地に流れる風のように、ゆったりと、おおらかに続けられて欲しい企画である。

                     
                     南阿蘇「陽の長い一日の美術館」

 大分県庄内町阿蘇野地区は、九重山系・黒岳の山麓に、古代の伝説を秘める集落が点在する静かな村である。村の中央部には縄文時代の遺跡が眠り、阿蘇野川沿いには景行天皇伝説を伝える神社や修験の山、安倍宗任伝説にちなむ集落などがある。この阿蘇野の農地の跡に現代美術の作家たちが集まり、論議を続けているのが「黒岳山麓美術会議」である。約三年にわたる論議の中から、小屋すなわち、居住が初まる前の建築物、または神が降臨する場、あるいは展示空間などの機能をもつ小さな建造物を参加作家が手作りで創ってゆく「小屋プロジェクト」、実際に作家が滞在して小屋を創った「泊ジロー展」、現地の植生を調査し、その結果を草葺きの小屋に展示した「草美術展」などが生まれた。いずれも、巨大な施設に頼らず、雄大な自然そのものをミュージアムと見立て、作家の創作活動によってその空き地や地域一帯がミュージアム化してゆくという把握である。この構想を推進するのは、林業家であり、現代美術家でもある岡山直之氏と木村秀和氏の二人である。彼らは、「農」や「林業」さらに「生活そのもの」が「アート=表現」であると主張する。が、彼らに、従来の美術家のような既成の価値観を破壊するとか、体制を批判するとか、戦う、といった過激さはない。彼らは穏やかにそこにある自然やその土地で生活する人々、企画に参加する作家などと対話しながら、全体構想を大きな時間の流れに委ねるのである。

                    
                            黒岳山麓で「草焼き」をするアーティストたち

● 2000 年・湯布院のアートシーン
 華やかなにぎわいをみせる湯布院の町の中心部から外れた山あいに湯平温泉街がある。花合野(かごの)川に沿った古い温泉町はかつて栄えた時代もあったが、今はひっそりとしたたたずまいが往時を物語るだけである。この温泉街に、昭和初期ごろ訪れた自由律の俳人・種田山頭火は、旅の衣を川で洗い、川辺の石に干して、その夜の宿である木賃宿で本を読んでいた。折りから、激しい時雨が来た。急いで川岸に向かった山頭火だが、すでにその時には、宿の娘さんが洗濯物を取り込み、きれいに畳んでくれていた。その心づかいに感激した山頭火は、
 しぐるるや 人のなさけに 涙ぐむ
という秀句を残す。
 この故事にちなんで初められたのが「湯布院と山頭火展」である。瀬音の聞こえる温泉街に招待作家が滞在し、山頭火をイメージした作品を制作し、展示する。この企画は湯平の実行委員会に支えられて、すでに七回を数えた。その間、六畳一間の山頭火ミュージアム「時雨館」も誕生した。古い倉庫を、地元の実行委員が改装し、作家たちの寄贈による作品や山頭火にちなむ作品などを展示したのである。時雨館はもっとも素朴なミュージアム誕生のかたちであり、私のお気に入りの場である。時雨館に座り、花合野川の瀬音を聞いていると、無性に絵を描いたり、一句ひねりたくなったりして、つい目の前に置かれている机の上の筆に手を伸ばすのである。「湯布院と山頭火展」は初期の「アートフェスティバルゆふいん」を引き継いだ企画であることも特筆しておこう。観光化の波に呑まれ、消滅したアートフェスティバル方式の美術展がこのようなかたちで命脈を保ったのだということもできる。

                         
                         湯平「湯布院と山頭火展」より「時雨館」

「由布院駅アートホール」の運営が、今年(2000年)で10周年を迎えた。博多発由布院行き・アートギャラリー付き特急列車「ゆふいんの森号」で、列車シンポジウム「アートは時空轢断の夢を運ぶか」を開催、湯布院アートの未来図を論議しながら向かった日から、さまざまな実験を重ねながら、湯布院の仲間とそれを支援する作家・美術愛好家たちは、「アートの町・湯布院」という実態を構築してきたのだ。毎月、開催される企画展と作家を囲むフォーラムなどを、町内のボランティアスタッフで企画・運営する「由布院駅アートホール」が、点在する美術館やギャラリーなどのアートスペースの結節点としての役割を果たした。企画は、スタッフが提案したものと全国の作家・企画者から申し込みを受けつけたものとを年一回の企画会議によって決定し、展示する。その結果、若手作家の発表の場、あるいは現代美術の実験場といった性格が描き出され、企画・運営にかかわる若手スタッフも次第に力を蓄えた。駅の設計者である磯崎新氏、シンポジウムに参加していただいた美術評論家・針生一郎氏、画家・菊畑茂久馬氏、さらにジャーナリストの深野治氏、現代美術家の風倉匠氏なども後方からさりげなく支援して下さった。美術ファンのみならず多数の乗降客や町民、旅人などが集まる「駅」という空間が、こうして「待合室という公共性」を保ちながらも、「公開されたミュージアム」としての機能を獲得したのである。
 「映画館ひとつない町・しかしそこに映画はある」というキャッチフレーズで出発した「湯布院映画祭」。公民館やレストランやホテルなど、町内の施設を利用して開催される「ゆふいん音楽祭」。これらの文化イベントが湯布院の町づくり運動の核であった。公共施設としての「駅」を舞台に展開されたアート活動もまた、一定の役割を果たした。由布院駅の運営を軸に、それを支援する美術館・ギャラリーのネットワーク「ゆふいんアートネット」も生まれた。「ゆふいんアートネット」に所属する施設は、湯布院の町づくりに協賛する活動を行ないながら、それぞれ独自の企画も展開し、湯布院という町を九州の創作家たちの発表の拠点と化す役割も果たしている。さらに、湯布院にゆかりのある作家の作品を所蔵し、それを町の共有資産として登録する「ゆふいんアートストック」も創設され、すでにすぐれた作品の収蔵を開始した。町内の老人福祉施設に入所し、絵を描き続けていた東勝吉翁(90才)の発掘、明治・大正・昭和と生きた地元の画家・日野篤三郎氏の仕事の顕彰、湯平出身の画家・金子善明氏の作品の買い上げ、それらの作品による「湯布院アートストック展」の開催など、すでに活発な仕事が展開されている。これらの活動は多くの収獲を生み、作家との連携も強まったが、反面、アートマーケットとして開拓された町に種々のアートビジネスが乱入してくるという「観光地化現象」も生じた。このような状況をとらえ、風倉匠氏は、混沌とした坩堝のような状態が現在の湯布院の魅力である、そこから何が生まれてくるかはまだ誰にも予測がつかない、と発言したことがある。伊豆高原や軽井沢、清里など、日本のすぐれた観光地が、たちまち観光マネーによる無法地帯と化してゆくなかで、湯布院こそ、時代を先導する事例を生み出してゆくべきである、そのためにこそ、アートが批判力と創造力を持ち続け、湯布院の文化活動が生き生きと活動しなければならないのだ、というのである。
 このような見方は、日本社会の現況と対照することができる。すなわち、明治以来、西欧の文化・経済政策、政治システムを導入することに全精力を注いできた日本という国家の体質は、高度経済成長の矛盾とバブル経済の破綻という洗礼を受け、大きく見直しを迫られ、開発から協調へ、都市から地方へ、経済的豊かさから精神的豊かさへという価値観の転換を余儀なくされたのである。それはアート・文化の領域においても同様である。大型美術館や大都市の画廊・美術団体への出品・依存を目標としてきた画家や創作家・表現者たちが、都市を離れ、地方にその拠点を移し、その土地の性格や風土性、環境の問題、そこに暮らす人々などと対話し、深く関わりながら制作と発表活動をしようとする。それが、彼らの選択する「生き方」であり、アートであり、文化なのである。

 今年度(2000年度)、この由布院駅アートホールの10周年を記念して、過去10年間に同ホールで個展を開催した作家の中から、40人を選出し、町じゅうに点在する美術館やギャラリーなどのアート施設やフィールドを使って、作品展を開こうという企画が提案され、準備を急いでいる。画家・写真家・工芸家・現代美術作家など、多彩な顔ぶれが、湯布院の町をアートでコーディネートすることにより、町が「エコミュージアム空間」と化す。それは、十数年前に提案された「アートフェスティバルゆふいん」の基本理念が、地下水脈のように生き続け、時を得て伏流水のように湧出してきたものだとみることができる。湯布院アートは、さまざまな実験や失敗を重ねながらも、着実に進化を続けているということもできる。
 1970年後半の湯布院を出発点とし、列島を旅するように各地のアートや地域美術展などを見てきた私の15年余りの時間は、そのダイナミックな変化の瞬間を目撃し、記録する旅だったように思える。2000年・湯布院のアートシーンは、さまざまな内容を包含しながら、同時代の表現者たちとともに、燃え、混ざり合い、反発し、戦い、思索し、対話を繰り返し、また新しい価値を生成しようするフィールドである。この「現場」に立っていること事体が、私にとって、新鮮な感動と驚きと喜びの連続なのである。

                         
                           由布院駅アートホール企画・運営会議

                         *写真はいずれも当時のもの。

                平成の桃源郷で会議
              九州アートネットワーク会議
                            in西米良
                         2011年10月29日〜30日
                    宮崎県西米良村小川「おがわ作小屋村」にて

                     

2011年10月29日と30日の二日間にわたって、「九州アートネットワーク会議IN西米良」が開催された。「平成の桃源郷で会議」というタイトルが付けられたこの会議には、九州各地から、アーティスト、アートディレクター、建築家など、さまざまな芸術表現の現場で活動する40人を越える個人・団体代表が集まった。
「平成の桃源郷」とは、西米良村小川地区に2009年に開設した「おがわ作小屋村」の愛称だが、今では小川地区全体を表す地域イメージとして定着しつつある。実際、小川地区にたどり着くには、西米良村の中心部・村所地区からでも車で30分ほどかかる山道を辿らなければならないが、一ツ瀬ダムに流れ込む小川川に沿って遡上する道は深い緑に包まれて神秘的で、村は、遠い昔、菊池一族や南朝の落人が、山桜の花に囲まれて住んだという時代の面影を残しているのである。
 この「九州アートネットワーク会議in西米良/平成の桃源郷で会議」は、同時期に西米良村全域を会場として開催された「西米良芸術祭イチイチ」の参加企画である。2008年から開催されているこの芸術展は、雄大な西米良村の自然を存分に生かし、村在住の若手アーティストを中心に、招待作家の作品とほどよく調和して、多くの来場者を迎える地域美術展に発展してきている。私は、今年から「平成の桃源郷/おがわ作小屋村エコミュージアム」のアートディレクターとして活動している縁で、この会議にゲストとして参加し、発言機会を得た。私にとっては思いがけなく、また、得がたい機会であった。

                    

 当日の参加者/参加グループを紹介しておこう。
□ Art Institute Kitakyushu 福岡県北九州市を拠点に活動するアートNPO。近年では北九州という都市の性格を活かし、独自のネットワークでオンライン展覧会や国際展覧会などを企画。美術の展覧会だけでない様々な文化の形式を導入し、世界的課題を様々な方向から考察。新しいアートの意義を考える。2011年は『移民』をテーマに第3回目となる『北九州ビエンナーレ2011』を北九州八幡東区を中心に開催。文化や産業などのグローバル化にともない、世界各地、日本、あるいは北九州に存在する移民の歴史や現状について、さまざまな領域からのアプローチを試みた。
□ 宮本初音 ART BASE 88 代表/九州アートゲート/WATAGATA 福岡市在住、アートプロジェクトの企画運営、アートマップ編集制作を行なう。2008年から独立系アートセンター「ARTBASE88」を運営。2011年からJR博多シティ「九州アートゲート」企画運営。
□ 林 品君 Pinky Lin フリーキュレーター、研究者。台湾・台北生まれ。2008年ロンドン芸術大学アートマネジメント学科修行完了。2010年から台北を拠点に写真を使ったワークショップなどを行なう「風景好アートプロジェクト」を開始。2011年福岡アジア美術館でレジデンスを行い、アートスペースの企画運営や九州地域の芸術活動について調査研究を行なっている。
□ 長野聖二/河原町文化開発研究所 熊本市河原町にある築50年以上の旧繊維問屋街にアーティストらがアトリエやお店を造り、生まれ変わらせたアートスペース。毎月、第2日曜日には『河原町アートの日』を実施。オリジナルな表現であることを条件とし、表現者自ら出展の場に居合わせて、展示、販売を行なう展覧会。
□ BEPPU PROJECT 世界有数の温泉地として知られる大分県別府市を活動拠点に、現代芸術の紹介や教育普及活動、人材育成講座や出版、リノベーション事業などを実施。実行委員の一員として別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」の開催を行なっている。
□ DABRA DABURA(ダブラ)とは、「建築学的、生物学的都市生成のための設計研究組織」を意味する、池浦順一郎と光浦高史の、二人の建築家によるユニット。建築設計やデザイン、まちづくりなど様々な活動に、大分市と福岡市を拠点として取り組んでいる。主要な課題としては、場所の固有性の抽出と創出、近現代建築物の再生/活用による時間的重層性を伴う再生などがある。
□ NPO法人MIYAZAKI C−DANCE CENTER 宮崎県民に‘アーティスティックな身体活動’‘きらめくダンス体験’を提供することを目的に活動を展開。学校と連携し「学校でコンテンポラリーダンス鑑賞教室事業」等を行なうなど、企画事業や公演制作を行なっている。(今回の会議の主催)

         

以上の個人または団体の代表者が各団体・個人の活動報告を行い、ゲストとして宮崎文化本舗代表の石田達也氏、財団法人宮崎県立芸術劇場企画制作の工藤治彦氏、それに私・高見が加わってそれぞれの意見を述べ、討議に入った。総合司会は画家で宮崎大学教育学部准教授の大泉佳浩氏。会場には、大学生や西米良芸術祭の参加作家などもおり、熱気を孕んでいた。
報告や発言を聞きながら、私は感無量の思いであった。私は、1986年から2001年まで、大分県湯布院町(現・由布市湯布院町)で「由布院空想の森美術館」を運営した。この空想の森美術館は、観光地・湯布院に立地し、初期の「町づくり」の運動の中から誕生したものだと私は思っていたから、「地域とアート」の関連は不可欠だと考え、空想の森美術館の運営と平行して、九州各地あるいは伊豆高原や富山市八尾町など遠くの地まで出かけて、アートフェスティバルや商店街アート、子供たちと行なうアートパフォーマンスなどを展開した。これらの活動の一端を、1996年のミュージアムデータ(丹青社発行)に「美術館と町づくり」というタイトルで書いたものが、この会議の一週間後、たまたま旅先で調べ物をしていて開いたインターネット検索で見つかったので、これもまた不思議な縁と思い、別項に採録する。参照いただきたい。
私は、2001年5月に由布院空想の森美術館を閉館し、現在地の宮崎県西都市に移転、ただちに「森の空想ミュージアム」として活動を継続し、さらに「九州民俗仮面美術館」の開設へと発展させることができた。この間、2003年には「新芸術集団・フラクタス展」の総合ディレクターとして宮崎県全域をステージとした地域芸術展を実施し、地域型美術展こそ、21世紀型の芸術展であり、地域再生とアートが不可分の関係として連携できるものと主張した。けれども、この企画は単発で終わり、その後は、このような実験や展開とは、もう自分の人生では出会うことはあるまい、という諦念に似た気持ちを抱いていたのである。
私は、昨年(2010年)、高千穂町秋元地区で「高千穂秋元エコミュージアム」の事業にアートディレクターとして参加したことを起点として、今年(2011年)、「おがわ作小屋村」のアートディレクターとして今、ここに立つことが出来、この九州アートネットワーク車座会議に参加することが出来た。湯布院を離れて、ちょうど10年という時が経過していた。私が、各地で成功例や挫折例・終息例などを体験しながら、提案し、実験し、積み重ねてきた「地域アート」の原理は、新しい世代のアーティスト・表現者・キュレーターたちによって引き継がれ、ここへきて、劇的な芽吹きを見せていたのである。ちなみに、この九州アートネットワークを提案した山出淳也氏は、まだ彼が学生だった頃から、私と一緒に各地の企画を共に行動した仲である。彼が主宰する「BEPPU PROJECT」が提案し、実施した別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」という企画も、なるほど、とうなずける企画であった。

         

私は、コーディネーターから質問されるままに上記のことを語った。参加者の中では、私は「長老」とも言うべき年齢に達している人間だったが、若者たちは気持ちよく私の回りに集まってくれた。山出君からの伝言や、行動をともにした古い仲間たちの消息なども伝えてくれた。3、11の東日本大震災と原発事故、激動する世界情勢など、現代の日本は、大きな不安を抱えているが、アートと地域再生の連携はダイナミックな展開期を迎えているという実感を得た一日であった。

           
                         

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(SINCE.1999.5.20)