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鹿祭りの里へ/奥日向・中之又の四季里へ


宮崎県木城町中之又地区は、古式の鹿狩りを伝え、鹿狩りの神様・鹿倉様が
一年に一度の中之又神楽の折に降臨する貴重な民俗を伝える村です。この
中之又地区を訪ね、祭りや今年一杯で閉校する中之又小学校のことそこに暮らす人々のことなどを記録します。このシリーズは西日本新聞宮崎県版に2008年春から連載中の記事です。








<21>神秘の造型「鹿倉面」

 木城町中之又・屋敷原鹿倉神社の「鹿倉祭り」の日は、「筧木(ひゅうぎ)」「中野」の二つの集落の鹿倉祭りも続けて開催された。古くは、中之又の「七つの谷」に点在する集落ごとに行われた祭りも、現在はこの三地区が残すだけとなった。塊所(こぶところ)地区は神事だけの開催となり、鹿倉面が盗難に遭った弓木地区は祭りが途絶えた。

中之又神楽には、上記三地区の鹿倉神の他に、「稲荷様」「八幡様」も出るが、稲荷も、八幡も、もとは鹿倉神だと思われる。私は数年前、鹿狩りの一行に同行し、その日案内して下さった中武福男さんの指示により、八幡様の鹿倉で、追われて逃げてくる鹿を待ち伏せていたことがある。そこは、鹿の逃げ道にあたる「シガキ」の一つであった。

 鹿倉祭りに奉納される神楽三番のうち、「奉賛舞」は、白衣に白の素襖を羽織り、五色の御幣の付いた「被り笠」をかぶって、右手に鈴、左手に扇を持って舞う。舞の間、宮司が祝詞を奏上する。「鹿倉舞」は、同じく被り笠をかぶり、白衣に女物の衣装で拵えた素襖を羽織り、鹿倉面を着け、右手に面棒を持って舞う。始めに、左膝を立て、右膝を後ろに引いて、深くお辞儀をする。この時、太鼓役が
―御神屋に 参りて拝めば
と神歌を歌い始める。それに合わせ、鹿倉神が
―神降る いかでか氏人 たっとかるらん
 と歌いながら立ち上がり、面棒を持つ手を鳥の羽根のように大きく広げ、左手で白衣の袖口を持って舞う。鹿倉神降臨の厳粛な舞である。

 屋敷原鹿倉神社に伝わる鹿倉面は、緑色の仮面である。唇にやや赤みを残すが強い表情である。額にある鉢巻のような造形物が米良山系に分布する「宿神」との類似を思わせる。宿神とは、星宿信仰にもとづく土地神である。?木鹿倉神社の鹿倉面は、同じく緑色の面で、やはり鉢巻状の造形物があり、二本の呪符のようなものを挟んでいる。中野の鹿倉面は、小ぶりの薄茶色の面である。稲荷様は、大きく口を開けて牙をむいた「狼」を思わせる強烈な造型である。八幡様も緑の仮面で額には玉眼のような突起物がある。

鹿倉面は、いずれも鮮明な土着性を示し、修験道、星宿信仰などとの混交を示唆する。古代の狩猟儀礼が、渡来の道教系の信仰や仏教等と習合し、独自の様式を獲得したものであろう。神秘の造型は、鹿倉面の起源と、仮面祭祀の源流を探訪する一級の資料でもある。

 鹿倉祭りに奉納される三番の神楽は、米良山系に分布する神楽の「清山」「花の舞」「初三舞(はさんまい)」の三番、あるいは、宮神楽の「清山」「鬼神舞」「初三舞」と対応する。そしてそれは、能楽の根本芸といわれる「式三番」とも共通項をもつ。鹿倉祭りと鹿倉舞は、芸能史・仮面史の深部にかかわる要素を秘めながら、米良・中之又の山深く、伝承されてきたのである。

 






<20>狩猟神「鹿倉様」の舞

 「七つの谷の集まる所」と形容される中之又の、それぞれの谷筋には、険しい山の斜面や少し開けた谷沿いの土地などに、集落が点在する。集落の裏手の細い山道の先や、道沿いのこんもりとした木立の中に小さな神社があれば、それは鹿倉様を祀る「鹿倉神社」である。

 鹿倉様とは、山の神であり、鹿狩りの神である。「カクラ=鹿倉」は「狩倉(かりくら)神座(かむくら)神楽(かぐら)」などの言葉と連環する狩りの領域を示す言葉である。中之又は古式の鹿狩りを伝え、狩猟神「鹿倉様」が降臨する「鹿倉祭り」が残る村である。

 秋も深まり、紅葉があざやかに山を彩る一日、屋敷原集落の鹿倉祭りを訪ねた。往時は、山仕事の人たちの住む小屋を含めると十数戸があったというこの地区には、今は二戸が残るだけである。代々、屋敷原鹿倉神社を守り続けてきたのは、中武福男さん(80才)の家。今年の宿主(宿主)は隣接する中武義和さん(64才)の家。近年はこの二軒が交代で祭りを続けてきた。福男さんは中之又神楽の長老で、義和さんもベテランの舞人(まいびと)である。

 義和さんの家に、次々と人が集まってきた。いずれも神楽の伝承者で、狩りの達人でもある人たちだ。奥の間に並べられた御幣(前々稿で紹介した人形御幣(ひとがたごへい)を中之又神社の宮司・中武春男さんが清め、御神酒を頂いた後、御幣を盆に乗せ、手分けして捧げ持ち、鹿倉神社へと向かう。家の裏手から山道に入ると、道の脇に「庚申」「村荒神」「龍神」「甲崎(こうざき)」「宿神」などの塚がある。一抱えほどの石を置いただけの塚は、それが山の神信仰と混交した土地神を祀る塚であることを示している。神々の前に、御幣が立てられ、祈りが捧げられる。

 ほどなく、屋敷原鹿倉神社に着く。神社の周辺にも、「山宮様」「杉の大神」「中宮様(祠)」「山の神」「甲崎」などの塚がある。それぞれの塚に御幣が立てられた後、神社の中の祠から神鏡、矛、鹿の角などが取り出され、それらを包んでいた古い御幣と新しい御幣が取り替えられる。続いて招神の舞「奉賛舞」、鹿倉神降臨の舞「鹿倉舞」、神の降臨を喜び、感謝し、神を送る「舞上」の神楽三番が舞われるのである。

 古来、鹿は、食物として狩られ、食べられ続けてきた。追われる鹿は、「逃げる」ことしか防御の手段を持たない。逃げる鹿は、風のように山を越え、時に立ち止まり、澄んだ瞳で山の彼方を見つめる。狩りの獲物としての鹿は、一方で、神の使いとして信仰され、洞窟の壁画や種々の器物の装飾、絵画の題材などとして描かれ続けてきた。美しく、優しい姿と、生命となる美味なる肉が、愛され、親しまれ、信仰されたのである。中之又の鹿倉様は、大いなる米良山脈を支配する山の神と同体の神として信仰され、祭りの場に降臨し、優雅な舞を舞う。





<19>「幻の村」での一日

 木城町中之又・板谷地区の秋祭り「本山天神祭」では、本殿祭の後近くの民家へと移動した。神事の後、降臨した神々と共に食事を頂く「直会(なおらい)」の行われる家のことを「祭り宿」という。

 祭りの一行と一緒に向かったその家は、十数年前に私が借りていた家だった。私は目をり、深いため息を一つつき、そして目を開けて、その家と家の裏手に聳える岩山、空へと立ち昇ってゆく霧などを眺めた。「旧・由布院空想の森美術館(1986−2001)」を運営しながら、九州各地の神楽を訪ねる旅を続ける過程で、中之又の人たちとの交友が始まったことを機に、当時空家だったこの家を、取材基地を兼ねた村の人たちとの交流の場として活用するつもりで借りたのであった。自作の絵や書物、文机などを運び込み、時折訪ねて来ては、荒れた家を手入れしたり、ゆったりと流れる時間を過ごすのが楽しみであった。ところが、多くの事情が重なり、同館の経営は破綻し、私は湯布院を去る決断を迫られる事態に立ち至った。その際の移転先として、この家も候補のひとつにあげられた。私はここへ来ることができたならば、東洋の仙境のようなこの村で、本を読み、短い文章や絵をかきながら、時には狩りに出て、残された人生の時間を過ごしたいと願ったものだ。

 だが、結果はそうはならず、この村から一時間ほど谷を下った位置にある現在地に落ち着き、神楽通いを続けて中之又との縁をつないでいたのだったが、こうしてここで、再びこの家を訪れることになろうとは、夢にも思っていなかった。

さて、「祭り宿」では、朝から村の女性たちが腕によりをかけて作った料理が振る舞われた。前日に仕留められたという鹿の肉が大鍋で煮られ、大皿に盛って出された。私はその骨付きの肉にかぶりつき、大根の煮しめや干し竹の子、シイタケなどを次々に頂いた。ここは、私にとっては「幻の村」だったが、現実には、こうして逞しく美しい生活を続ける人々の暮らす実在の村だったのだ。

 この日は、村人や村外からの里帰り客などで賑わった。庭先では、子どもたちの神楽の練習が始まった。笛の音が流れ、太鼓の音が中之又の山に(こだま)する。途中から山村留学OBの少年たちも加わった。少し離れたところで笛の練習をしていた二宮(はるか)君もいた。少年たちは、まだあどけなさを残していたが、その顔立ちには、すでに米良・中之又の山人(やまびと)の精悍さが加わっていた。彼らが、勇壮な(つるぎ)の舞「神垂(かんすい)」を舞う中之又神楽も間近に迫っている。




<18>山と森の精霊たち

 降り続いていた雨が上がり、霧が流れて、紅葉に彩られた山々が姿を現した。見上げるほど近くに聳える山の稜線が、渋い銀色に光った。

木城町中之又・板谷地区は、村の最奥部にある集落で、背後に巨大な岩山を控え、前方は圧倒的な重量で迫る山塊に対面する。その二つの山に挟まれた深い谷が流れ下る向こうにもまた、米良の山脈が重畳と連なる。

分厚い照葉樹に覆われた山道を登りつめ、この地にたどり着いた来訪者は、アジアの山岳の村に迷い込んだような気持ちになるだろう。けれども、質素な造りの家が点在する集落の中の道を歩き、道端に祀られる神の前に立って、岩山の上部に広がるという台地状の野から出土した縄文時代の遺物の話や、谷のさらに上流部にある修験道の遺構を残す「祇園滝」の存在などを聞けば、この村が太古の記憶を秘め、古代から現代へとつながる物語の糸を紡ぎながら存続してきた村であることを理解するだろう。

集落の下手のやや谷に近い場所にある森の中に、板谷地区の氏神を祀る本山天神社がある。この小暗い森には、「山の神」「荒神」「水神」「猿田彦」などを表す御幣が立てられている。これらの神々は、本来、村の方々に点在していたものだが、現在はこうして一箇所に集められ、地区の氏神である「天神」とともに祀られる。「天神」は、中之又神社の大祭の折、神楽の式十番「天神舞」として降臨する。御幣は、椎葉や米良山系の山々などで「モリ」と呼ばれる人形御幣(ひとがたごへい)である。「モリ」は、山の神信仰や巨石信仰・巨木信仰などと混交しながら伝承されてきた。神楽の折にも、神社の裏手の森の中の神木に取り付けられたり、巨石の前に立てられたりする。「モリ」とは、古くからその土地に座す在地の神であり、山と森の精霊神であろう。

本山天神社の祭りは、拝殿奥の祠に収められた神鏡や矛などを取り出し、かぶせられている古い御幣を新しい御幣と取り替える神事の後、静かな二人舞「奉賛舞」と一人舞「舞上)」の二番の神楽が奉納されるだけの簡素な祭りである。簡素であるがゆえに、「祭り」の原初の姿をとどめているということもできる。

祭りには、地区の老人や子どもたちが集まって来る。村の外から里帰りを兼ねてやって来る家族もある。社殿前の小さな広場で焚き火が焚かれる。子どもたちの歓声が、山と森の精霊たちの声のように、神社の境内に響きわたる。






<17>神楽笛の音が聞こえる

 遠い山が、緋の色に染まる。
 雄鹿が雌鹿を呼ぶ声が、遠く近く、笛のように響いている。
  ―ある夜、「夢野」という野に棲む鹿は、自分の背に(ススキ)が生え、雪が降り積もる夢   を見た。妻はそれを、「猟師に仕留められる知らせ」と占ったが、彼は信ぜず旅立つ。   雄鹿の背に数本の矢が立ったのは、海を渡り、対岸の島へと向かう、許されぬ恋の旅の   徒次であった―
 はるかな、「縄文」の狩人たちは、雄鹿の声に似せた鹿笛を作り、雌鹿を呼び寄せて、仕留めた。緋色の山脈の彼方には、いまでも、鹿笛を使い、鹿祭りを行う村が、ひっそりと残るという。
            

以上の文は、今年の11月19日〜23日まで宮崎県立美術館で「詩と写真」をテーマに開催された「新芸術集団/フラクタス」展に「詩」の形式で発表したものである。「夢野の鹿」の物語は、「仁徳記」「摂津国風土記」に記される。古伝承に、木城町中之又の鹿狩りの話を重ねた。中之又には、湖を渡る鹿を待ち伏せて撃つ狩法が伝わっている。縄文時代の鹿笛は、日本列島各地の遺跡から出土例がある。大分県九重町の歴史民俗資料館には近世の鹿笛が伝わっている。「豊後鹿猟師」と呼ばれた私の祖父も、自作の鹿笛を使っていた。

  

深まりゆく秋の一日、笛を吹く少年に出会った。遠くから聞こえてくる先輩の笛に合わせ、練習を繰り返しているようだった。中之又最奥部の板谷地区でも、神楽の練習が始まっているのであった。
 笛を手にした少年・二宮(はるか)君は、宮崎市本郷中学三年生。山村留学で、中之又小学校に四年の時と六年の時に来て、神楽を習い、笛も覚えたのだという。笛の師は、名手として知られる中嶽忠男さん(76才)である。忠男さんは、13才の時、中之又神楽の祝子(ほうり)だった叔父さんに、笛を習い、十数曲の中之又神楽に伝わる曲を、すべて覚えた。当時は録音機器もなく、耳で聞くだけの独習であった。以来、56年、神楽の笛を吹き続けてきた。笛は「ニガコ」と呼ばれる土地に自生する竹で作るが、20才の時、叔父さんに貰った笛を今も愛用している。忠男さんの吹く笛の旋律が、清雅で美しい中之又神楽の舞を彩色する。忠男さんを慕う少年たちが、その後方に控え、練習する。山村留学の子供たちの宿を引き受けた時期もある忠男さんは、こうして多くの後継者を育ててきたのだ。

話の途中で、愛用の笛を手に立ち上がった忠男さんは、秋の山を背景に、一曲、吹いて下さった。その音は、遠い山脈の向こうまで、響いていった。




<16>神楽の練習が始まった

 どこまでも青々と連なっていた米良山脈の山襞に、淡い紫の色が加わった。
 村の深奥部へと続く林間の道では、色づき始めた広葉樹の葉に、午後の陽射しが降りそそいでいた。川を見下ろす崖の(きわ)で、一群の(ススキ)を逆光が照らして、琳派の絵のような景色を描き出していた。中之又の中心部の集落「塊所(こぶところ)」の上空を、ゆるやかに鷹が旋回していた。秋は、目に見えるかたちで深まりつつあった。

中之又小学校では、神楽の練習が始まっていた。神楽の笛と太鼓の響きも、秋の訪れを告げる山里の風物詩である。

練習は、始めたばかりなので、田中千里さん(三年)、金丸愛海(なるみ)さん(3年)、長友ありささん(4年)、高橋亜希さん(6年)の四人で舞う「浦安の舞」も、長友星矢君(6年)と金丸七海さん(6年)の二人による「(つるぎ)の舞」も、まだ動きが鈍く、ぎこちないものだった。この日の指導は長友礼子さん(ありささん、星矢君のお母さん)。時折厳しい声も飛んだが、その眼は優しく子供たちを見つめていた。

「浦安の舞」は、本番もこの四人で舞うという。星矢君と七海さんは、里帰りしてくる山村留学OBの組に入り、舞う予定である。「剣の舞」は「神垂(かんすい)」という演目で、四方をい、四方神の守護を祈願する舞である。13年前に始まった中之又小学校の山村留学制度は、神楽を授業に取り入れ、中之又神社の大祭の折に、大人たちに混じって奉納したことにより、多くの拝観者を集めた。留学生の家族やその友人・仲間などが参加し、村人との友情と連帯が生まれ、祭りは賑わいを取り戻し、都市と山村の絆が深まったのである。

数々の出会いと収穫があった山村留学も、中之又小学校の閉校とともに終わる。鳴海さんは「神楽は初めてで大変だけど、今年が最後だからがんばる」と言った。ありささんも「一年のときからずっとやってきたけど、最後だから淋しい」と言った。星矢君は、少し考えた後、「先輩たちと舞うのが楽しみ」と言った。

「閉校」が持つ意味も淋しさも、彼らはすでに知っている。そしてそれを胸に秘め、明るく、けなげに、その「最後の日」に向かって練習を重ねてゆく。鈴を振る小さな舞人(まいびと)たちの瞳に、強い光が宿っている。




<15>中之又小最後の運動会

ぽつり、と降ってきた雨が、遠い山を白くけぶらせて、やがて冷たい秋雨となった。中之又小学校(木城町)最後の運動会となるこの日は、あいにくの空模様であった。創立以来、130年の月日を重ねてきたこの学校が、今年度一杯で閉校になることは、この連載で何度かふれた。

 万感の思いがこもるその運動会が、中止、あるいは屋内での開催に変更になりはしないかと、心配しながら車を走らせて、中之又に着くと、谷間には、にぎやかな音楽と競技の進行を告げるアナウンスとが響き渡っていた。開会式の途中、激しく降った雨が小降りになったため、プログラムは予定通り進められているのだという。

 学校へ続く急な坂道を登りきると、校庭では、競技が始められていた。玉入れの後、直系2メートル以上もある大きな風船を転がす「力を合わせてどっこいしょ」、熟年の2人組が一升瓶をボールで倒しながら進む「めざせストライク」、グラウンドを懸命に駆け抜ける「100メートル走」など、赤組と白組とが交互に勝利を収めながら、試合は展開した。

 仲間たちもたくさん集まっていた。隣接する石河内小学校や高鍋東小学校の児童たち、サマースクールや短期留学で参加した児童たちなどが応援参加してくれたのである。在校生の長友星矢君(六年)はチームリーダーとして張り切ってプレーしたし、その妹のありささん(四年)も、けなげに演技した。村の大人たちも、里帰りを兼ねて大勢集まった。グラウンドやテントの下、校庭の隅々にまで、輝くような笑顔があった。一刻一刻を、それぞれの心の深部に刻みつけるような、最後の運動会は、こうして進んでいったのである。

 楽しい「玉入れ競争」があり、地元の伝説をもとにしたダンス「福智王」、ダンボールの箱で視界を狭められた選手が見当違いのところにボールを蹴って爆笑を誘った「サッカー選手のつもりで」、力一杯に引っ張り合った「綱引き」などと熱戦が続いた。そして最後の決戦「紅白リレー」から総踊り「中之又小唄&ばんば踊り」の頃になり、雨が激しく降ってきたが、踊りは続けられた。哀調を帯びたメロディーが胸に沁みた。皆、明るい笑顔で踊っていたが、四囲の山々をぼう、と滲ませる驟雨のような――涙雨――が、この日、中之又に集まった一人一人の心中を濡らしていた。






<14>山を守る人たちのこと

四国石鎚山系の神楽には、「山主」「山王」などと呼ばれる仮面神が登場する。それらの仮面神は、焼畑や狩猟儀礼とセットになっていることから、「山の民」や「山の精霊」を表す仮面神であることがわかる。

九州脊梁山地の山々にも同様の神楽が分布する。椎葉神楽には「」という演目があり、弓矢を採り物として舞われる。これは、山神の鹿狩りの様子を表す神楽だという。諸塚村戸下神楽には、山から山神が下って来る「山守(やまもり)」という演目がある。米良山系の神楽には「シシトギリ」や「鹿倉舞」があり、いずれも「山神=狩猟神」が降臨し、舞を舞ったり狩りの様子を演じたりする。それは、厳しい山岳地帯を生活の場とする人々が、森羅万象に神が宿ると認識し、自然界のすべての生き物との共生を願う生活信条の中から生み出されたすぐれた神観念であり「祭り=演劇」なのである。私を米良の山中深く案内してくれた中武祐次さんも、中之又に伝わる鹿倉舞の伝承者であり、中之又神楽「弓将軍」の舞人である。冬になれば、鹿を追って山野を駈ける狩人でもある。

広大な中之又の山を育て、守る仕事に従事する人は、現在、わずか8人だという。下界では、環境をテーマとした国際会議が開催され、地球温暖化や自然保護が論じられるが、ここ、米良・中之又の山へと目を向ける人は皆無である。けれども現代の「山守」たちは、ただ黙々と夏の山に向かう。彼らの額から汗が滴り落ちる。木が倒され、草が刈り払われる。草木の香りが山に満ちる。

山からの帰り道で、祐次さんが、ふと車を停めて、銃の照準を合わせるような仕草で一点を指差した。その指差す彼方の山の斜面に、一頭の若い鹿が寝ていた。私もカメラを猟銃のように構えて、獲物を狙った。気配を感じた鹿は、そのひとときのねぐらを捨て、一瞬の後に尾根を越えた。一陣の風が去ったような速さであった。




<13>朴の木からの贈り物 

 広い空を、クマタカが鋭い線で区切って飛んだ。

 木城町中之又・杖木山の頂上付近の作業現場からは、東は南郷・東郷を経て日向へと連なる山並み、南は木城・高鍋方面とそのはるか向こうに霞む日向灘・太平洋が見えた。視線を巡らせば、西に尾八重(おはえ)銀鏡(しろみ)村所(むらしょ)を経て人吉・球磨方面へ続く米良山系の山々、北は重厚な椎葉の山脈などが見渡せた。

「山を作る」仕事は、まず、成長した杉や桧などの建築材が伐採され、搬出された後の山の整地から始まる。一本一本の枝が丹念に切りそろえられて斜面に置かれ、土砂の流出防止と腐葉土の生成を兼ねた自然素材のダムとなる。それは遠くから見ると縄文土器の文様のような、あるいは現代美術の秀作と呼びたくなるような、無作為の美観を形成する。整地が終わった山に、再び杉や桧が植林されてゆくのだが、現在は、伐採時に、山桜やなどの広葉樹の大木が切らずに残され、それらの樹種が次世代の森を形成してゆく。戦後、無秩序に続けられた杉の植林のために、生態系に歪みが生じ、不自然な森が災害や環境破壊の一因となったことなどの反省が、ここではすでに生かされているのだ。

 一本のの木が伐採を免れ、米良の山脈を背景に美しい立ち姿を見せていたので、その枝から数枚の葉をいただいた。九州の山には、平家の落人(武将や姫君)を村人が朴の葉に包んで焼いた山女魚を供してもてなしたという伝説が残されている。私はそれを思い出し、香り高いその葉を今晩の料理の素材に使ってみようと考えたのである。

山から下り、中之又の谷に入り、竿を振ったら、思惑通り良型の山女魚が得られた。持ち帰り、中庭で火を焚いて熾火を作り、朴の葉に味噌を乗せて山女魚を包み込み、さらにアルミホイルで包んで蒸し焼きにした。かすかな焦げ目が山女魚の肌を彩るころを見計らって、食膳へ運んだ。味噌の味と朴の葉の香りが山女魚にしみ込んで、絶妙の味わいであった。米良の山と朴の木からの、極上の贈り物であった。




<12>風と水が生まれる場所

 早起きをして、小丸川に沿って車を走らせた。梅雨期に降った雨を含んだ水量豊かな谷からは、朝霧が立ち昇り、点在する村や森を隠して、さながら東洋の仙郷のような風景を描き出していた。霧の晴れ間から、米良の山々に連なる高い峰が見えた。

 午前七時、中武祐次さん(50才)は、すでに山行きの仕度をして待っていて下さった。小丸川の本流をれ、中之又の谷に入り、そこからさらに細い支流沿いの道をさかのぼった所にある屋敷原(やしきばる)地区の民家が、祐次さんの住む家である。

 祐次さんの運転する四輪駆動の軽トラックが、赤土が露出した山道を登った。急な坂道が続く林道は、一気に杖木(つえき)山と呼ばれる大きな山の山頂付近へと向かっていた。視界が開け、圧倒的な重量で迫る山肌と、空の果てまで続く山脈の連なりが見えた。そこが、米良の山人(やまびと)たちの仕事場であった。

 私の生まれ故郷の山の村(大分県日田市)には、「山主(やまぬし)」「山林地主」などと呼ばれる人たちがいる。彼らは、自分たちの仕事は「山を作る」ことだという。代々、先祖から受け継いできた山を「山師」と呼ばれる練達の技術者たちとともに手入れし、管理し、育てるのである。そして、彼らの山からは、美しい空気や風や水が生産されるのだ、という。誇り高い山人の精神が、今も生き続け、山が守られているのである。

 中武祐次さんは、専門学校を卒業後、宮崎市で建築の仕事に従事していたが、23才の時、村に帰った。以来、山仕事を正業としてきた。その間の事情については、彼は多くを語らないが、家の裏手にある「屋敷原鹿倉神社」の守り手であるということ、中之又神楽の伝承者となったことなどが、村で生きる祐次さんを支えてきた。ここにも、誇り高い山の男がいた。山の木を伐採し、搬出し、搬出が終わった山を手入れして植栽し、さらに下草刈りから間伐と続く造林の作業は、20年近い時日を要する。作業には、近年、草刈り機や重機が導入されたが、祐次さんには大型の草刈り鎌がよく似合う。





<11>学校が消えるということ 

 中之又小学校の山村留学制度は、12年前に始まった。児童数の減少により閉校の危機に直面していた小学校に息子を通わせていた中武千草さんが、友人・知人に呼びかけて山村留学制度を実現させ、村人の支援を得て存続させてきたのだ。山村留学の子どもが、授業の一環として神楽を習得し、祭りに参加することで、「鹿狩りの神様=鹿倉様」の舞がある貴重な中之又神楽の命脈を保つ役割も果たし、祭りや学校行事に参加する父兄と地域住民の連携と交流も生まれた。

当時中学生だった千草さんの長男・愛親(はるちか)君は、すでに立派な青年となり、神職の資格を取得して、中之又神社の大祭の日や地区の祭礼の日などには宮司である父の春男さんの代役を勤めるまでになっている。山村留学第一期生の次男の聡太君も社会人となり都会で暮らしているが、神楽の日には里帰りして山村留学の仲間たちと神楽を舞う予定だという。中之又小学校は、小ぶりで質素だが、数々の成果を上げながら継続されてきたのだ。

いま、全国の山村や海辺の町などから、小学校が消えようとしている。21世紀初頭のわが国の「政策」は、生徒数よりも教員数が上回るという実態を、経済的負荷とみなし、統合・廃校という選択を地域の教育者に迫るのだ。ここ中之又小学校も例外ではない。来年の3月、6年生の長友聖也君が卒業し、児童が妹のありささん一人になることを機に、「赤い屋根の学校」と呼ばれて親しまれた中之又小学校は明治5年の創立以来136年の歴史に終止符を打つ。

文明開化とともに新しい時代を迎えた明治期の政治家・教育者は、この国のどんな僻地にも学校を作り、教育を行った。それが、その後の近代化を支え、国力を醸成し、豊かな文化国家を形成する骨格となった。ひるがえって、現代の無機質な都市文化が生み出す格差社会や凶悪事件、地域社会の過疎・疲弊などの現象をみる時、その貧しさと精神性の低さに茫然とする思いである。村から小学校が消えるということは、「国家」が「方向性」や「理念」を失いながら漂流していることと無縁ではない。

一日、中之又の山と谷を歩き回り、道端に車を停めてスケッチをした。大ぶりの白い画用紙を路面に広げ、青みががかった中之又の山容を眺め、村のたたずまいに目を遊ばせるうち、少し機嫌が直り、元気を回復した。





<10>中之又の夜空を、星は巡る

 地域の達人の指導による竹の器造りから始まった今年の中之又小学校サマースクールは、紙芝居作りや環境学習、川遊びなど充実したスケジュールが予定通り進行し、最後の日を迎えた。閉校式では、中之又山村留学の提唱者であり、長年、事業を支えてきた中武千草さんが、挨拶の中で、声をつまらせ、涙を流した。来春、三月には閉校となる中之又小学校の来し方、行く末を思い、万感胸に迫るものがあったのである。それは、地域の人々も、村外の参加者も共通する感慨であった。

 今年度の山村留学開校式の日、第一期の留学生として長男の智弘君(現在23才)、第二期には次男の岳史(たけふみ)君(同21才)を参加させた橋口剛和(たけかず)さん(52)が「中之又小学校は多くのものを私たちに与えてくれた。今、社会は、自然との共生や環境教育、食育などの大切さを見直す潮流のなかにあるが、中之又小学校の閉校はそのような社会の要望にも逆行するものである。ここは、ぜひとも残したい学校の一つだ」
というような主旨の発言をした。それが、多くの参加者の心情を代表する発言だったことは間違いない。サマースクールの閉校式の日に、だれからともなく、
「この夏季学校だけでも続けたいね」
という声が上がったのは、それらのすべての経緯を包含した上での、村人と参加者の願望であった。

閉校式の途中から、激しい雷雨となった。雷鳴は米良の山嶽に轟き、雨脚は中之又の山々を白くけぶらせたが、やがて晴れ、すっきりとした青空が広がった、山からは清々しい霧が立ち昇った。閉校式が終わっても、村に残った子どもたちは川に入り、女子は釣り、男子は手づかみによる魚獲りに挑戦した。この日はアブラハヤに加え、大型のハヤやウグイ、ヤマメまで釣れた。夕刻から始まったキャンプでそれを焼き、食べた。打ち上げ花火や線香花火も楽しんだ。大人たちは酒を酌み交わし、遅くまで談笑した。

浦侑希(うらゆうき)さんと橋英(はしあき)さんが仲間を集め、鹿を見に行くこととなった。七人が揃った。私のワゴン車に全員を乗せ、にぎやかに出発した。が、鹿は、時ならぬ花火の音に驚いたのか、一組だけが薮蔭に走りこむのを見ただけだった。闇の向こうから、視線を上へと向けると、山と山とで区切られた夏の空を彩る星座があった。東から西へと天の川が流れ、彦星(鷲座のアルタイル)、織姫(琴座のベガ)もくっきりと見えた。「さそり」が南の山頂付近からそのS字状の頭を出し、中天には勇者「ヘラクレス」が輝いていた。中之又の夜空で、星が悠久の時を刻んでいた。





<9>鹿を見に行った夜のこと

 今年の中之又小学校サマースクールでは、参加者は五軒の民家に分宿した。それぞれの家の家主が、短期の「親」となり、子どもたちを迎えたのである。

 そのうちの一軒、中武義和さん(64)正子さん(55)ご夫婦の家に帰る一組の子どもたちを送って行った。屋敷原地区にある義和さんの家は、屋敷原鹿倉神社を守る家の一軒でもあり、義和さんは神楽の伝承者の一人だ。正子さんが運転し、子どもたちが乗った軽自動車が屋敷原に差しかかった時、車の前を、瓜ン坊(猪の子)が数匹横切った。ここでは、田中千里さん(山村留学生・宮崎市大宮小学校3年)とその姉の朱里(あかり)さん(昨年のサマースクール参加・大宮小学校6年)、山岸仁美さん(サマースクール参加・宮崎市恒久小学校3年)の三人が、仲良く、大人しく暮らしていた。夕暮れが迫った静かな家の前に、カノコユリが咲いていた。

 その帰り道、中野地区の小川で、魚獲りをしている二人の少女に出合った。サマースクールの参加者でこの地区の黒木美智子さん(70)の家に泊まっている浦侑希(うらゆうき)さん(高鍋東小学校5年)、橋英(はしあき)さん(同)だった。二人は家に帰るのも忘れて、小魚を追っていた。

私の車から竿を取り出し、仕掛けを作り、コツを教えてあげると、たちまち数匹のアブラハヤが釣れた。

川辺が夕闇に包まれる頃、二人は、「家」へと私を案内してくれた。ここでは、山本弘子さん(日向市財光寺小学校6年)、東原実黎(ひがしはらみれい)さん(同6年)を加えた四人組が楽しい夏の夜を過ごしていた。この夏、サマースクールで一緒の組になり、たちまち仲良しになったのである。お茶目でにぎやかな彼女たちは、美智子おばさんの運転する軽トラックの荷台に乗って、鹿を見に行ったことを話してくれた。中之又には、夜、鹿が遊びに出て来る所があり、そこでは、餌を食べる様子や、「鹿踊り」のように遊ぶ姿が見られるのだという。どきどきしながらその場所に着くと、鹿は来ていた。三頭の鹿だった。二頭は角がなく、親子の鹿のようだった。もう一頭の、群のリーダーの雄は深い闇の中にいて、眼だけが鋭く光っていた。ヘッドライトに照らされた鹿たちはすぐに山へと帰った。そのことを話す少女たちの瞳も、野生の小動物のように、きらきらと輝いていた。





<8>中之又小学校サマースクールの食卓

 思いがけず、中之又小学校サマースクールの食事をいただくこととなった。

お昼前に行き合わせ、食事づくりをしていた地域の女性たちや、山村留学生のお母さんたちなどに誘われ、食卓をともにしたのである。中之又では、毎年、山村留学生やその家族などを受け入れ、心をこめてもてなしてきた。一緒にメニューを考え、食材を選び、小学校に隣接する交流センターに集まって料理を作るのである。こうして、一年一年、村人と留学生の家族とは絆を深めてきた。その楽しみに満ちた夏の行事も、中之又小学校の閉校とともに終わる。寂しさを胸に秘めながら、女性たちは明るく元気に食事を作るのである。

 大きな鉢一杯のソウメン。その上に乗せられた氷。タラの芽、ヨモギなどの山菜とインゲン豆、ゴボウ、ナスなどの夏野菜のテンプラ。濃い醤油味のダシに漬け込まれた鹿の肉。それがこの日の昼食の献立である。自作の竹の器にソウメンを入れ、その上にテンプラを乗せ、おつゆをかけて、いただく。野性的な鹿の肉を勢いよく口に運ぶ男の子もいる。山菜は、下草刈りの終わった山に行くと、切られた枝の先などから再び芽生えてきた新芽を採ることができる。そのことを熟知する中之又の人たちは、夏でも山菜料理を楽しむ料理の達人なのである。

 二回目は、川辺での自然観察の後の夕食をいただいた。自然観察は、小学校の下の沢から「こぶ山」の下を流れる川へと下って行われた。沢では、サワガニや川トンボや小石の下に棲む水性昆虫などが採れた。沢から中之又の谷の本流へと出ると、川底の小石や泳ぎ回る魚まで見える透き通った水が流れる谷に、子どもたちは思いっきり飛び込んだ。獲物を狙う河童のように泳ぎ回る姿や、歓声が谷間に響いた。大きなハヤやハゼに似た小魚などがたくさん採れた。

 水辺の収穫は食卓へ運ぶほどは得られなかったが、昨夜からこの日の朝へかけて、山村留学実行委員長の中武春男さん(55才。中之又神社宮司)が板谷川で獲った大ウナギが食膳に上った。三匹のうち一匹は体長85センチ、重さ1、3キロほどもある大物で、三匹で30人分のウナ丼をまかなう分量だった。自然の恵みとそこに生きる人々の智恵と技が、サマースクールの食卓を彩った。これこそ、中之又の山と川の神から贈られた最高のご馳走であった。




<7>カリコボーズたちの夏

米良の山には、「カリコボーズ」と呼ばれる精霊がいるという。

カリコボーズは、冬には、鹿狩りや猪狩りの時、犬を連れて獲物を追い立てる役割を受け持つ「勢子(セコ)」に混じって獲物を追っていることがある。夏には山から下ってきて、「河童」となって水に棲むともいう。山仕事の人が、「カリコ」と呼ばれる背負い子に荷物を一杯に積んで山から帰って来る時、そのカリコの上にちょこんと座り、一緒に山を下ることもあるという。高い峰から峰へ、あるいは峰から谷へ、「キリ、キリ、キリーッ」と高い声を上げて移動するのを見かけた人もいるという。カリコボーズは、少し恐いけれど、皆に親しまれ、好まれている山の小さな神である。

中之又小学校の夏休みがやってきた。恒例の「サマースクール」には、多くの仲間たちが集まった。今年の参加者は20人。その中には七人の男子も含まれていて、普段は妹のありささんと山村留学生の女子児童4人(合計五人)の女の子に囲まれて暮らす長友聖矢君も嬉しそうだ。勢いよく校庭を駆け回ったり、夏の特別授業を受けたりする子どもたちの声が、山間の村に響く。

今年のサマースクール第一日目は、開校式に続いて、「竹のワークショップ」が開かれた。すぐれた技能をもつ村の大人たち「地域の名人」を講師に、竹馬や竹とんぼ、竹の食器づくりなどに挑戦したのである。なかでも、竹のお箸、コップ、汁椀、飯椀の四点セットは、その日から活躍した。それぞれの食器が自分の食卓に並び、その手製の器で食事をいただくのである。竹の香りと食べ物のにおいが混ざり合い、とても美味しい。それはみんなが楽しみにしていた「中之又の夏の味」である。

竹細工を楽しんだ後は、魚釣りに行った。その日に作った竹の釣り竿をかついで、中之又の川が小丸川本流のダム湖へと注ぐあたりに繰り出したのである。大騒ぎをして出かけた割には、あまり釣れなかったが、大きなアカバチ(スズメバチの一種)の巣を見つけたりして、大興奮だった。夏、中之又へ来ると、少年も少女も、たちまち「山の精霊=カリコボーズ」に変身する。




<6>梅雨の晴れ間の一日

 激しく降っていた雨があがり、
紫陽花の花びらに残った雨滴が、からりと晴れ渡った空の色を映していた。中之又の谷は激流となって流れ下っていたが、渓谷沿いの山にはホトトギスの声が反響し、オオルリの高い声が、青々と繁る照葉樹の森に響いていた。
 午後の中之又小学校は静かで、子どもたちが神妙に授業を受けていた。涼しい山風と一緒に、鳥の歌が教室の中にまで届いた。

 小学校のある「塊所(こぶところ)」の集落には人影も見えず、ひっそりとしていた。集落の中の道を歩いていたら、一軒の小さな雑貨店を見つけた。長年この村を訪ね続けていて、今まで気づかずに通り過ぎていたほど小さな店である。
 菓子やジュース類、ビール、焼酎、日用品などが並べられた店内には先客がいた。この村に通ううち、顔見知りとなった長友礼子さんであった。礼子さんは、中之又小学校の二人だけの在校生・長友聖也君(6年)とありささん(4年)兄妹のお母さんである。子どもたちを学校に送り出した礼子さんは、買い物に来たついでに店主の大和田トキエさんとおしゃべりをしていたのだ。私も仲間に入れてもらった。

 トキエさんは、今年85歳だが元気だ。60年ちかくこの店を切り盛りし、今も散歩を欠かさない。時には、近くの「こぶ山」にも登るという。中之又の中心地として栄えた塊所を知るトキエさんは、淋しい。かつては60軒を越える家が立ち並んだ集落には、今では30軒が残るだけで、そのうちの数件は空家だという。話題は、小学校の廃校の問題に及んだ。どうやら、今年度一杯で、中之又小学校は廃校になるらしい。それが、この村に漂う寂寥感の主因であることを、すでに私は知っている。もはや誰もが抗しがたいところまで時代の流れは進んでいて、会う人ごとに、言葉少なく頷き合い、愛惜の思いを共有するのだ。山村留学や神楽など、多くの人々が縁を結んだ中之又小学校の歴史は、聖也君の卒業とともに閉じられる。

「せめてあと二年・・・ありさはこの学校を卒業させたかった」
 ぽつりと呟いた礼子さんの言葉が、切なく響いた。




<5>山を造る人

 深い谷に沿った斜面に、木を植え続けている人がいた。声をかけてみると、それは旧知の人で、中之又神楽の伝承者であり、古式の鹿狩りを伝えるこの村の狩人でもあった。

斜面の下方は切り立った崖で、崖下に見える谷の両岸には、流木が流れ着き、一部は川を塞いでいた。04年、05年と相次いだ台風と集中豪雨による被害の後遺症が、まだ残っているのであった。木を植える人たちは、それらの倒木や流木を整理し、山を整地し、植林を続けているのである。樹種は、山桜の三種であった。杉は、数十年後には建築材等に利用される植物で、経済性に富む。樫は、根の張りが強く山の「地力」を回復させ、良質の木炭の原料ともなる。山桜は、家具・工芸品の素材としての用途もあり、美しい山と里の景観を形成する上で欠かすことのできない樹木である。樫と山桜の周囲には、多種類の樹木が自生する。この植樹法により、多様な樹木の混成する山が造成され、生産力も高く、災害にも強く、本来の「癒し」の機能を持つ山が再生されるのである。植えられたばかりの山桜の苗木には、白いビニールの標識が付けられていた。それが、神楽や神祭りの時に使われる御幣のように、ゆるやかな風に揺れていた。

 それから数週間後、釣りを終えて谷から上がるところで、山から下ってきた老人に出会った。老人の背後には、天まで届く広大な斜面と、丹念に伐採され、枝や葉までが秩序正しく配列されたかのような、見事な山があった。山人(やまびと)の知恵と技、持続力などが総合された驚異的な造形美。息の長い山の再生は、こうしてここでも始まっていた。山中の古い祠に置かれた木彫の神像のような風貌の老人は、淡々と山仕事のことや昔は手づかみにするほどいたという巨大な山女魚のことを語ったが、別れ際に、「中之又小学校も今年が最後の年になるそうじゃ」と、淋しく笑った。私の胸に鋭い痛みが走った。





<4>山へ帰る日

 山桜の花に彩られた渓谷沿いの道を遡り、中之又の谷に入ったのは、3月下旬のことだった。山桜の咲くころ、山女魚は冬季を過ごした深い淵から泳ぎ出る。流れの速い浅場の瀬に出て、活発に採餌を始めるのである。多くの釣り師でにぎわう解禁日(3月1日)とその直後の荒れた谷を狙わず、この季節に谷に入るのは、気分が良い。体力も俊敏さも十分に回復した野生の魚と、対等の「勝負」ができるような気がするのである。 

 さて、中之又の谷での第一投は、とりわけ印象深いものだった。ゆっくりと仕掛けを作り、空を見上げ、渓谷の景色を眺め、息を整えて淵のやや上流の浅い流れにふわりと振り込んでみると、ゆらりと出てきた魚影が見えた。軽く合わせると、十分な出応えがあり、良型の山女魚が、燻んだ銀色に光りながら水底から引き上げられてきた。幸先の良い初ものだったが、手に取ると、ひやりと、冬の川の冷たさが伝わった。しかも、その魚は、全身に無数の摺り傷があり、体色もまだ黒ずんだままだった。

――よほど、厳しい冬を乗り切ってきたのに違いない・・・

私は魚をそっと流れに戻した。希少種の山女魚を釣る行為は、山人(やまびと)の敬虔な祈りに似た心境を生じさせる。このあと、珠玉のような五匹の釣果を得たのが、中之又の水神からの返礼であったのかどうかはわからない。

 山桜の葉が新緑に輝くころ、今年80才になった母を連れて中之又を再訪した。谷沿いの道に車を停めると、若い頃、山で過ごした経験をもつ母は、眼を細めて周囲の山々を眺め、過ぎ去った日を懐かしむふうだった。そして、すぐに薮へと続く小道に分け入り、ワラビとゼンマイを手に、笑いながら戻ってきた。屈託のない、山の媼がそこにいた。

小学校五年生になったばかりの春、私の家族はふるさとの山を去った。今はもう、再び山へ帰る日が来ることのない私と母の眼を、中之又の風景は慰めた。この日、山女魚は一匹も釣れなかったが、良い一日であった。




<3>赤い屋根の学校

 校庭は、満開の桜で彩られていた。生徒が二人しかいなくて、普段は静かな中之又小学校に、次々と人が集まってきた。今年は四人の山村留学の生徒が来ることになり、その家族と村の人、学校関係者などが集まる「対面式」の日であった。空には薄い雲がひろがる花冷えの午後だったが、赤い屋根の小さな小学校には、子どもたちの歓声と、大人たちの談笑する声などが響き、暖かな空気が満ちていた。

 式典は、校庭で開催された。広い運動場の真ん中にブルーシートが敷かれ、二人の在校生と両親、山村留学生とその父兄が並んで座り、右の列には来賓、左の列には山村留学生を受け入れる村人たちが座り、始まったのである。二人の在校生とは、長友聖也君(6年)とありささん(4年)の兄妹。留学生は高橋亜季さんと金丸七海(ななみ)さんの6年生二人と、金丸愛海(なるみ)さん、田中千里さんの3年生二人。それぞれが、両親とともに名を呼ばれ、愛らしく、けなげに自己紹介をした。それによると、今回中之又への山村留学をつよく希望したのは本人たちで、いずれも、短期(夏季)の留学を体験したり、兄か姉が中之又で過ごしたことに影響され、自分もぜひ行きたいと言ったのだという。

 対面式の輪を、外側からそっと見守る大人たちの集団の中に、中武千草さんと橋口みつこさんの姿があった。千草さんは、13年前、児童数の減少により学校が閉校の危機を迎えた時、多くの仲間に呼びかけ、山村留学の制度を実現し、率先して実行してきた。みつこさんは、千草さんの呼びかけに応え、第一期生として長男の知弘(ともひろ)君、二期生として次男の岳史(たけふみ)君を送り出した。神楽の名手として名を馳せた岳史君は、現在は京都大学資源生物学科で学んでいるという。豊かな自然に抱かれた中之又の山村留学制度は、子どもたち、両親、そして地域の人々にとって、かけがえのないものを与え続けてくれたのである。




<2>風が見える場所

 中之又とは、「七つの谷が集まる所」を意味するという。弓木谷、板谷(いたや)谷、中野谷、屋敷原(やしきばる)谷、筧木(ひゅうぎ)谷、松尾谷、そして本流の小丸川の谷。それぞれの谷の水が中之又で合流するのである。

 米良の山塊を削って流れ下ってきた谷の水が、一点に集まる地点を「塊所(こぶところ)」という。四方から険しい山が迫り、ただ一箇所だけ天に向かってぽっかりと空間が広がる狭隘な土地の真ん中に、おにぎりを一個だけ置き忘れたような山がある。「こぶ山」という。「こぶところ」という地名は、この山にちなむ。

 こぶ山には、集落の中心部からトコトコと歩いて登れる石段と、それに続く細道がある。その道を登ってゆくと、たちまち山頂に至る。こぶ山とは、それほど小さな山なのである。

山の上には、30坪ほどの平地があって、広場になっている。広場は、などの針葉樹となどの照葉樹、山桜やなどの落葉広葉樹が混成する林に抱かれている。広場の向こうは、急角度に落下する崖である。はるかな崖下から、谷の水音が聞こえる。どれほど小さくとも、ここは、原始の森の一角なのである。

 広場の奥の、崖と空との境に、古びた祠があり、石像が置かれている。それらは、風化し、いまではその原型も見分けがたいほど崩れているが、それが、荒神、不動、弁財天、弘法大師、地蔵などと同じように、かつてこの村で祀られていた土地神や石仏であることはわかる。広場は、小さな神や仏たちが、ひっそりとひそむ空間でもあったのだ。

 眼を転じると、中之又小学校を中心に、肩を寄せ合うように寄り添う集落が見える。再び森へ視線を戻すと、木立の向こうに、急な斜面を見せながら天空へとせりあがってゆく山岳がみえる。山と山が区切る空間を、きらきらと光りながら移動してゆくものがある。それは、米良の精霊神かもしれないし、はるか南方の日向灘・黒潮の海から吹いてきた、「風」そのものかもしれない。




<1>鹿を祀る村

 村の入口で、鹿の頭骨を飾っている風景に出会った。中国四川省の少数民族「(チャン)族」の村を訪ね、石で築かれた城砦のような村の入口に、彼らの守護神である「羊」の頭骨が飾られている光景を見た時のような、深い感動がよみがえった。

 奥日向・中之又。ここは、古式の鹿狩りを伝え、「鹿倉(かくら)様」という鹿狩りの神を祀る村である。鹿倉様は狩りの領域を支配する山の神で、一年に一度の「鹿倉祭り」の時と中之又鎮守神社の大祭「中之又神楽」の折に降臨し、「鹿倉舞」を舞う。「カクラ」という言葉は「神座(かむくら)狩倉(かりくら)鹿倉(かくら)」と連環する「神楽(かぐら)」の語源のひとつと考えられている。

 鹿の頭骨は、樹木が伐採され、植栽が進む造林現場に飾られていた。それが、何らかの祭祀儀礼として行われたものか、あるいは偶然そこに落ちていたものを誰かが拾い上げ、多少の悪戯(いたずら)心も交えて杉の切り株に結わえつけたものなのかは確認できなかったが、鹿を「神」として祀る村の習俗とまったく無縁のこととも思えなかった。「神」を自然界の万物に宿る「精霊」という概念に置換する見方に立つならば、ここ中之又は、「古層の神」が生き続ける「神々の領域」ということができる。

 木城町中之又地区は、椎葉を源流とし、米良山脈の東端に沿って流れ下り、太平洋へと注ぐ大河・小丸川の中流域にあたる。東は日向市域と境を接し、南は高鍋・西都地域と結び、西は米良山系の山と村を経て人吉・球磨へと通じ、北は深い椎葉の山脈に連なる。往時は文物の交流地点として栄えた村も、今は戸数40数戸、住民70人余りが暮らすだけの村となって久しい。強い山風が、桜の花びらを運んできた。花は、鹿の頭骨に降りかかった。その花びらが、再び風に舞い上がり、運ばれてゆく先に、赤い屋根の中之又小学校と、それを取り囲む小さな村があった。

             
                                                     

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(SINCE.1999.5.20)