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文・写真 高見乾司

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               九州・民俗仮面と祭りへの旅
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                       忍者と仮面

        

[1]忍者の里と四鬼の面               

 古道に沿って静かな田園地帯が続いていた。田や畑に囲まれた小さな集落が点在し、その古風な村を、強い陽射しが照らしていた。かつて忍者が暮らしていたという家は、黒光りのする板壁がくるりと回転して、その前に佇む来訪者をたちまち異次元の世界に移動させたり、土間の三和土(たたき)がむくりと動いて、
――どなたじゃな。
と、この家の住人が現れて驚かせたりはせず、ただ四辺にひろがる穏やかな農村風景に同化していた。すでに夏は過ぎ、軒下に張られた蜘蛛の巣は、日向(ひなた)の部分に散り残った萩の花びらのような色彩を宿し、日影の網目は錆びた色を沈殿させていた。

 忍者の里として知られる伊賀上野(現・三重県伊賀市)は、周囲を山岳に囲まれた小国であった。東は、鈴鹿山脈を経て伊勢に至る。南には、布引、室生山塊に吉野、紀伊の山脈が連なる。西は、笠置山脈を隔てて京・大和に通じ、北は甲賀と境を接する信楽高地を経て近江に隣接する。険しい峠が他国との関門の役目を果たし、地域全体が天然の砦のような機能を持っていた。反面、都まで80キロ程度の距離という地理的条件により、古来、都を往復する軍勢の通過地点となり、敗残者の亡命を受け入れたり、再起を支援したりする拠点ともなった。葛城・吉野山系を本拠とした山岳宗教・修験道の影響もつよく受けた。「伊賀の忍術」は、このような素地の上に発生したのである。
 伊賀の里では、「伊賀の四鬼」と呼ばれる四つの鬼面に出会った。「忍者屋敷」というテーマパークに隣接する資料館に展示されていたのである。解説には、
『村上天皇の時、体制に反抗し、伊賀の三国岳で旗揚げした武将・藤原千方は、「四鬼」を用いた、と「太平記」に記されている。能曲の「今千方」では、風鬼・水鬼・火鬼・陰形鬼を駆使して闘う。四鬼は、その名の示すとおり、暴風・洪水・雨・猛火を起こして暴れ、霧・霞に身を秘め、まさに神出鬼没の働きを示した。この藤原千方は、忍者の祖の一人とされ、陪従の法師が四人いた。山注坊・三河坊・兵庫賢者・筑紫坊と称し、大木を倒し、巌石を潰す怪力の主たちであった。――廣出良夫著「鬼練供(おにねりく)」より――』
とあり、四つの仮面は、
「火鬼」(赤鬼)追儺面/火を司る鬼で、火の中でも自在に行動できる鬼(忍者)
「陰形鬼」(黒鬼)追儺面/呪術で自由自在に形をかくして不思議な技をする鬼(忍者)
「水鬼」(小べし見)能面/水を司る鬼、水の中でも自在に行動できる鬼(忍者)
「土鬼」(しかみ)能面/土中の金属を司る鬼、土の中でも自在に行動できる鬼(忍者)
 とある。これこそ、忍者の発生と修験道、陰陽道、五行思想などが関連し、仮面祭祀との関連を示唆する具体例であった。

 伊賀忍者の祖の一人ともされる服部氏は、昔「黒党(くろとう)祭り」という黒装束に身を包んだ「忍者」が供奉する私祭を開催していたといい、それに関連すると思われる「鬼行列」と呼ばれる祭りが現代も続けられている。私は、この「鬼」の祭りを見に来たのである。

           

[2]伊賀・鬼行列を歩く

 「鬼」とは、日本民俗学の創始者・柳田国男によれば、『上古、国津神が二分化し、大半は里に下り常民化したが、残りは山に入り、または山に留まり、山人と呼ばれたもの』となり、折口信夫によれば、『おにとは大人のことであり、征服された先住民のこと』となる。
 
古代、伊賀の地は、早い時期に大和政権の支配下に入ったようだ。険しい山岳地帯にによって周囲と隔絶されているとはいえ、上野と名張という二つの盆地を擁するこの地域は生産力の高い魅力的な土地であった。律令時代には、東大寺の荘園となっている。この地に居住していた先住の民は、「まつろわぬ民」すなわち「鬼」として排斥された。
 このころ、葛城・吉野山系に拠る役小角(えんのおづぬ)を開祖とする修験道が栄えた。日本古来の精霊信仰・山岳信仰などに、中国から渡来した陰陽道・五行思想・仏教などが混交し、独特の山岳宗教を形成したのである。同時期、伊賀では密教僧行基の入山により「伊賀四十九院」が開設され、修験の秘法や密教の教義、呪法などを教授した。「鬼」となった伊賀先住の民が、ここに合流し、忍者としての素養を養ったのである。平安時代も中期ごろになると、朝廷による支配体制はゆるみ、土地の私有化が進んで、豪族が台頭してくる。彼らは「伊賀の悪党」と呼ばれた。前号でふれた藤原千方もその一人で、王権に反抗するこの戦に加わった「伊賀の四鬼」とは、四十九院でさまざまな秘術を習得した「鬼」たちであった。

上野天神祭(通称「伊賀鬼行列」)は、町を生め尽くす屋台と観客を集めて開催される。タコ焼き屋、金魚すくい、風船屋、茶碗屋、古物商、射的、辻占い。ありとあらゆる職種の屋台が天幕を連ね、その間を群集が歩き、そしてその中を、神輿行列が通り、百体の鬼の面を被った伊賀衆が行進してくるのである。行列を先導する金棒引き、侍などの後に、高さ7メートルもある大御幣が続く。続いて真蛇(悪鬼)という般若面を被った鬼が通り、三体の八天(猩猩、童子、怪士、弓八天(小面)、剣八天(小面)、小鬼(賢徳)等々が続々と現われる。いずれも、能面の様式をそなえた面である。この前後に「ひょろつき鬼」と呼ばれる滑稽な鬼が出没する、よろめき歩き、盛大にふざけながら、行列を先導してゆく「先祓い」の神である。このあとに童子が小鬼の面を被って続き、さらに四天をあらわす行道面四体、赤小鬼(黒毘沙門天)、青小鬼(狂言面小武悪)が登場、主役の役行者阿古武尉)が悠々と出現する。これにより、役行者の前を固めるのが「伊賀の四鬼」「前鬼・後鬼」に相当する鬼であり、祭りの性格が修験道の影響下にあることがわかる。
 ここで、役行者の仮面が能面の阿古武尉(あこぶじょう)の面であることに着目しておくべきである。中村保雄「仮面と信仰」(新潮選書)に仮面の発生は神像彫刻に影響されたもの、という解釈があるが、この論をもとに、全国に分布する役行者像の大半が「尉=翁」の面であることをみれば、修験道―忍者―芸能―仮面の起源などは深く関連し、互いに影響を及ぼし合っていると認識することができる。
 役行者に従い延々と続く鬼行列の後を、山鉾(ダンジリ)が追う。伊賀の里は、終日、祭り囃子と人々の歓声に包まれるのである。
               
                

[3]服部氏と黒党祭の話               

 平安中期ごろ、伊賀服部氏が行った私祭「黒党祭り」とは、伊賀人の祖神、大彦命と少名彦名命を祀る敢国(あえくに)神社(伊賀一ノ宮)から服部氏の祖神少名彦名命(香具師の守護神ともされる)を神輿に乗せ、約三キロ離れた柘植川の花園河原に設けられた神殿に移し、神前の広場で七日間、各種の芸能を奉納したものである。広場の周囲には観客用の大桟敷が設けられ、伊賀中の豪家を招待、一般にも公開するという大祭典であった。神輿の往還には、服部氏一族のもの百数十人が忍者の黒装束で供奉した。しかもこの費用は、全額、服部氏の負担であったという。芸能の興行と香具師の集結は、宗家である京都太秦の下職を動員したともいわれる。この時期、平家の家人として威勢を張った服部氏は、平氏滅亡後は分家を余儀なくされ、祭りも消滅し、以後、忍術組織としての性格を強めていった。

 伊賀服部氏は、渡来の帰化人・秦氏のながれを汲む。秦氏は、秦の始皇帝の末裔であるという伝承を持ち、製鉄・精銅、天文、暦法、軍楽、農学、機織り、陰陽道、散楽などさまざまな技術や芸能、文化をわが国に伝えた。なかでも機織りを専業とする集団は、「呉機織(くれはとり)」と呼ばれ、のちに服部部(はとりべ)→服部氏となった、という伝承をもつのである。秦氏の始祖・秦河勝(はだのこうかつ)は聖徳太子に仕え、太子作の六十六個の面を与えられ六十六番の神楽を舞った、と世阿弥の「風姿花伝」に記録される。秦河勝の神楽は、「申楽」に変化し、やがて観阿弥・世阿弥父子によって「能楽」として芸術の域にまで高められた。秦氏は、山城国(現・京都)太秦を本拠とし、伊賀に入ったのはその分流である。現代の「伊賀鬼行列」は、約400年前に始まったとされるが、以上の事例や祭りの全体像をみれば、黒党祭りを下地とし、修験道の儀礼、先住民の霊を鎮める祇園祭りなどの要素が混交したものだということがわかる。

 夕刻、城下町の面影を残す町並みから菅原神社界隈へと歩いた。上野天神祭は、この菅原天神社の祭りで、神輿行列、鬼行列、山鉾行列で構成される三日間の祭りである。辻々の軒灯に灯りがともり、祭り気分をかきたてる。町の中心部には、1000軒にも及ぶかと思われるほどの屋台が建ち並び、多くの人でにぎわっていた。黒党祭りにちなみ、全国から、香具師が集まるのである。ここにもまた秦氏―服部氏―興行師―遊行の芸人―忍者などの一連の連環を示す事例がある。ちなみに忍びの術には「七方出」という変装術があって、忍者が他国へ旅立つ時には「虚無僧」「出家」「山伏」「放下師」「猿楽師」「商人(薬師など)」「常の方(百姓・樵など)」の7種類の職種に変装し、その装いに合った隠し武器を巧みに使いこなした。忍者と猿楽者、遊行芸能民、薬師、職人集団、修験者などとの深い関係を示す事例である。
 深夜、妖しい夢をみた。宿に和装の女性が訪ねて来たのだ。その女人は、屋台の列を後先になり見物して歩いた人のようでもあり、忍者屋敷でピンクの衣装を着てくの一に扮していた女性、または女面を着けて行列の中にいた少女のようでもあった。夢の中で、私は金縛りに合ったり、天井からぶら下がっていたり、女忍者に組みひしがれていたりした。





*以上は西日本新聞宮崎県版「みやざき/民俗仮面と祭り」(2006年9月20日〜10月1日)に連載されたものです。
*「鬼に会う旅」のページへと続きます。

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(SINCE.1999.5.20)