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                       王の仮面
                     
                        
                    
[1]幻の都市と王の仮面               

 シルクロードの伝説の王国「楼蘭」の西方約100kmの所に、「千の棺の眠る墓地」と呼ばれる場所があるらしい。「小河墓地」という、3000〜4000年前の遺跡がそれである。古代都市楼蘭は、スウェーデン生まれの探検家スウェン・ヘディン(1865−1952)によって発見された。
 私が小学校6年の時の国語の教科書に載っていた彼の探検記には、その稀有の探検の記録が、詩情豊かに描かれていて、私はたちまちそのとりことなった。さまよえる湖・ロプノールとは、かつてタクラマカン砂漠の東方にあり、砂漠の移動につれてその形状や位置を周期的に変え続けた湖のことである。楼蘭王国はそのほとりに栄えた。ヘディンは、40年以上にわたり、中央アジアを探検し、インダス河の源流を突き止めたり、トランス・ヒマラヤ山脈を発見したりするなど中央アジアの地理学に大きな足跡を残した。なかでも、シルクロードの幻の都市楼蘭の存在とロプノールの謎を解くことは探検家としての長年の夢だったが、文字通り、砂漠をさまよう探検行の末、自身の目でそれを確認するのである。
 小学生の私を感動させたのは、そのタクラマカン砂漠探検記(あるいはゴビ砂漠だったかもしれない)のなかの次のような一節である。何日も砂漠をさまよい、食料も水も尽きたヘディンと砂漠の案内人。ついにヘディンは案内人を置いて水を探しに出る。そして小さな泉を発見。履いていた長靴に水を一杯に汲み、相棒のもとへ引き返して、
 「これは水という飲物のようだが、君は飲む気があるかね?」
 私は、その美味なる水を思い、彼らの頭上に輝く砂漠の星を思った。それから二十年ほど後、私はヘディンの全集を買い、病床で読んだ。その紀行文は、砂漠のオアシスのように私を癒した。そして、それからまた二十数年が経ち、昨年のNHK特集「シルクロード」の第一回放送で楼蘭の仮面が放映されたのである。私は、そこに立ち、まるで自分の目で幻の王国と一個の仮面を確認しているかのように、あざやかにその情景を思い描いた。

楼蘭の西、小河墓地の遺跡から発掘された仮面は、高さ10cmほどの小さな木製の仮面である。棺の中には美しい織物を身に着けたミイラがあり、そのミイラの左胸の上に置かれていたのだという。埋葬者は、その土地の「王」であり、仮面は、死後の王を外敵の侵入から守る守護面であろう。仮面の高さとほぼ同じ高さの鼻を持ち、風化した瞳は、砂漠の上にひろがるはるかな時空を見つめている。
 私が20年をかけて収集した300点の仮面の中に、「王面」と呼ばれる仮面群がある。それは南九州に分厚い分布をみせる不思議な仮面で、多くは、神社の守護神として奉納されたものである。「王面」「神王面」「王鼻面」などと呼ばれるそれらの仮面は、大和王権成立とともにその支配下に組み込まれ、宮廷や寺院、各地の神社などの守護をその職とした南九州先住の民「古代隼人族」の存在と重複し、日本の古代史・芸能史と関連する。はるかな西域の砂漠から姿を現した仮面と南九州の「王面」とは、その制作年代も地理的な距離も大きく離れているが、その造型は多くの類似点をもち、私を驚かせたのである。

              

[2]縄文の精霊と南の王               

 私は、「由布院空想の森美術館(1986〜2001)」から「九州民俗仮面美術館」(2006〜)に至る約二十年の間、「九州の民俗仮面」を収集し、展示と研究を続けてきた。
 最初に入手したのは、横を向いた「鬼面」であった。通りがかりの古美術商の店先で手にしたその仮面は、欠落した片方の目の、ぽっかりと空いた空洞の向こうに、果てしなくひろがる闇を潜め、かすかな海鳴りのような、あるいは遠い山彦のようなざわめきを放って、私を異界へと誘った。その仮面を私に無償で譲ってくれた店主は、まるで山中の祠で風化にさらされている木彫の神像のような老人だったが、半生を仮面の収集につぎ込み、今は引退を決意して、後継者となるべき人物を探していたのだと言った。この時私に、山神が放った白い光を放つ矢が当ったのかもしれなかった。横を向いた鬼面は、鹿児島県大隈半島の古い神社に奉納された信仰仮面で、つよい呪力をもつ「邪視」の面であった。

 この鬼面に導かれるように、少しずつ買い集め、仮面の数が100点に達したころ、いろいろなことがわかってきた。これらの仮面たちは、明治の神仏分離令・修験道廃止令・廃仏毀釈などの政令発布とそれに付随して起こった民間の宗教運動、戦後の宗教心の喪失と経済状況の激変などの波を被り、流出し、古美術商や好事家の間を「漂泊」していた。それらは、神社や村に伝えられ、神楽や村祭り、民間祭祀などに用いられ、その土地の文化と歴史を語り伝えてきたものであった。なかには、「能面・狂言面」などの日本の伝統芸能仮面の原型を示すものもあった。縄文時代に日本列島に存在した「土偶」「仮面を着けた土偶」「土面」等の文化が、弥生時代の始まりとともに消滅し、次なる仮面文化の発生――伎楽面・舞楽面・行道面の渡来以降――までに千年以上の空白期があることもわかってきた。私の収集と調査に拍車がかかった。

 多くの仮面を手にし、そして祭りの現場を訪ねたなかでも、もっとも興味をひかれたのが、「王面」と呼ばれる不思議な仮面群である。それらは、既成の仮面の造形感覚とは異なり、強烈な個性を持ってある種の信号を発信していた。眼球が飛び出したもの。あるいは目を閉じたもの。目も鼻も口も、原型をとどめないほど風化したもの。激しく威嚇する表情。怒りの底に哀しみを秘めた表情。笑いの奥に怒りを秘める道化。それらは、いずれも「土地神」の系譜をひくものであり、それこそ、「縄文」という列島古層の神々につながる神の残像であった。そしてそれらの神々は、「大和王権=日本という国家」の誕生とともに封じ込まれ、忘れ去られようとしている神の姿でもあった。かつて日本列島に存在した「縄文の土面」の文化が消え、新しい神観念や祭祀形態がそれにとって変わったことと、この古層の神の消滅は軌跡を同じくしていた。私が聞いた、海鳴りや遠い山彦、神楽囃子などに似たかすかなざわめきは、「縄文という古層」へと通じる「精霊の声」だったのだ。
 「王面」の多くが「南の王」を造型した仮面であるということもわかってきた。「南の王」とは、南九州先住の民・古代隼人族(阿多隼人=薩摩隼人、大隈隼人、日向隼人など)の王のことであった。

                    

[3]閉眼の王          

 2004年7月、私は、祇園祭でにぎわう京都の町の裏通りのビルの一室、全国の古美術商が集まる入札オークションの下見会の会場で、不思議な相貌をもつ「王面」を確認した。雑多な古美術品や能面・神楽面など、他の出品物にまぎれて、棚の上にひっそりと陳列されているそれは、収集家の出品によるものと思われた。一目で、九州の「王面」であり、何らかの事情で流出したものが漂泊の旅を重ねて、今ここにあるのだということがわかった。多くを語る必要はあるまい。私はこの仮面を九州へ連れ帰らねばならぬ。
 南九州に濃密な分布をみせる、「王面」と呼ばれる仮面の多くは、神社に奉納され、神社本殿の柱や鴨居、壁面などに飾られ、神域を守護した。鉾または榊に取り付けられ、祭りの行列を先導するもの、あるいは、神社のご神体として本殿に安置されているものなどもある。いずれも、つよい呪力を持つ。これらの王面は、神社の創建とともに制作されたもの、その後、信者等によって奉納されたと思われるものなどがあり、鎌倉、南北朝、室町ごろの年号の入った仮面が散見されることから、民間に伝承される仮面の最も古いグループに属するものと考えられている。
 「王」の観念は、古代中国では早い時期に発生していたようである。古代の王とは、天界を支配する天帝と地上を支配する地神の間に立ち、天の声、地神の意志を伝える霊性をそなえたシャーマンであった。殷時代から春秋戦国時代ごろの遺跡から、布や黄金の仮面を被った王の遺骨が発掘されていることから、王と仮面の関係を知ることができる。この場合の仮面は、死者の霊を鎮め、死者を守る鎮魂・僻邪の面である。古代中国の王の観念は、邇邇藝命から火照命(彦火々出見命=山幸彦)を経て鵜葦不葺命、神倭伊波礼彦命(神武)へと連なる古代南九州神話(日向神話)の時代に流入したと考えられる。そのことを示唆する五色の仮面(五伴緒面)などの資料が現存する。

 京都の古美術オークションで入札した不思議な仮面は、首尾よく落札され、私の手元に送られてきた。それは、25センチほどの中型の仮面なのだが、眼は閉じられ、その閉じた目の線が横一文字に引かれている「閉眼の仮面」である。わかりやすくいえば、縄文時代の「遮光器土偶」とそれに類する様式をもつ「土面」の目とそっくりの造型なのである。私はこれを見て、日本列島の「縄文」という古層の記憶が、「王面」にもその断片として残存するのではないか、と考えた。
 かつて日本列島には、縄文の「土面」の文化が存在したことが、各地の遺跡からの出土例によってすでにあきらかにされている。土面には、歪んだ顔や鼻の曲がったものなどが多く、精霊を現し、悪霊を駆逐するもの、あるいは死者や祖先神を現すものなどがあると考えられている。縄文の土面の文化は、弥生時代の幕開けとともに消滅したが、その造型感覚は、「土地神」の造型のなかに引き継がれているのではないか、と私は推理する。「渡来の王」によって封じ込まれた「先住の王」は、守護神や土地神となり、神社の裏手の森や路傍の石、木の祠の中など、列島の隅々に生き続けたのである。

                    

[4]隼人舞と芸能の源流              

 平成4(1992)年、鹿児島県国分市(現霧島市)の上野原台地で、縄文時代早期(9000年前〜7500前ごろ)にこの地方で定住生活が開始されていたことを示す住居跡や土器などが発掘され、従来の縄文史観を書き変えた。錦紅湾上に浮かぶ桜島を見下ろす丘陵台地の上からは、南に広がる黒潮の海<海神の国>を望み、北方には霧島山系の峰と九州脊梁山地の山々<山神の国>を見ることができる。この地点=古代南九州こそ、古代から現代に至るまで、ダイナミックで豊かな文化風土が展開されて続けてきた場所なのだ。その上野原台地の東方にあたる串良町万八千神社にも閉眼の面が伝わっていて、前号で紹介した「閉眼の王」の仮面が孤立した資料ではないということがわかる。
 この万八千神社の仮面は、後藤淑著『中世仮面の歴史的・民俗学的研究』(錦正社)に報告されているもので、後藤氏は、この仮面について、「相貌が特殊で、これと同じ面相の仮面は日本で報告事例が現在のところない。目・口を開けてないのは、全国各地にある掛面と共通しており、珍しくはないが、目の刻し方、瞳の部分が、横に直線的に線描きした形になっていてきわめて特殊である。このような目を閉じた形の描き方の仮面は、日本では類例がない。(以下略)」と述べておられる。全国の仮面分布を調査した仮面研究の第一人者に類例がないと言わしめた仮面に、前述の一例が加えられ、新たな研究素材となった。私は、この二例を「閉眼の王」と名づけ、南九州に分布する「王面」の謎を解く資料の一つに加えておくこととするが、これらの仮面を「縄文の土面」「古代隼人の王」などに直結させることには少々無理がある。「南の王」はまた一つ謎を加え、私と旅をともにする。

 上野原台地から西方に目を転じると、旧・国分市街と隼人町一帯が眼下に眺められる。この隼人町鹿児島神宮に伝わる「隼人舞」は見逃すことのできない貴重な事例である。
 「隼人舞」とは、海幸彦の服属の舞であるということは、「記紀」の記述によりあきらかである。海神の呪力をもつ「潮盈玉・潮干玉」で山幸彦に痛めつけられた海幸彦が、その海溺れの場面を滑稽に再現して「俳優となること」すなわち「服属すること」を誓うのである。ところが、鹿児島神宮に伝わる「隼人舞」は、その海幸彦の海溺れの舞とは異なる舞い振りである。毎年、8月15日の例大祭に行われるこの舞は、二人の隼人職と神宮の楽人二人によって演じられる。頭に鳥兜形の頭巾を冠り、狩衣扮装で頭椎(かぶつち)の太刀を帯び、矢羽形の小旗を結び付けた大長矛中啓(扇子のような採り物)を持ち、神楽太鼓の音に合わせ、拝殿を左廻りに三周、右廻りに三周と強く足踏み(反閉)を踏みながら舞う。芸能というより神事性のつよい鎮魂儀礼というべき舞である。
 「隼人職」とは、鹿児島神宮直属の神職で、神官以前の神職ともいわれ、代々、この隼人舞を受け継いできた。そして、この隼人職が伝える隼人舞と、この連載で考察してきた米良神楽の「神和(かんなぎ)」や潮嶽神楽の海幸彦の舞などが、同様式の舞い振りであることに気づく時、南の海からはるかな九州脊梁山地へと連なる「儀礼」と「芸能」の源流が、明瞭に見えてくるのである。
                    

[5]隼人の呪力と芸能神             

 鹿児島県隼人町(現霧島市)の鹿児島神宮に伝わる「隼人舞」は、神宮直属の神職である「隼人職」の家に伝えられる。明治初期頃までには百家ほどもあり、神宮の種々の芸能を司ったという隼人職は、現在は小倉さんという一家のみになっている。
 私は以前、この小倉さんが伝える隼人舞と正月七日の「追儺式(ついなしき)」を見る機会があった。そして幸運にも追儺式に付属する翁舞に使用される翁面を拝見することもできた。「追儺」とは、大陸から渡来した芸能で正月の鬼会、節分の鬼追い等に関連する。鹿児島神宮の追儺式では神官が上手と下手に分かれて並び、上手の神官の「おーっ」という掛け声のあと、いっせいに豆を撒く。その後、神官は(ささら)という竹製の楽器を鳴らしながら、「隼人職」の周りを回る。次に、白い鳥兜を被った隼人職が、白い翁面を左手で取り、顔に当て(直接顔には触れないように数センチ離して持つ)、右手の扇で顔(面)を隠し、足踏み(反閉)を踏みながら、拝殿をゆるやかに左廻りに三周、右廻りに三周する。「隼人舞」と同じ所作である。この翁面は、小倉家に伝えられたもので、見ると眼がつぶれるという伝承を持つほど、呪力の強い仮面である。小倉さんも成人して隼人職を継いだ時、はじめて見ることができたという。
 この鹿児島神宮に伝わる隼人舞の扮装は、古事記に記される「かれここに天忍日命(アマノオシヒノミコト)、天津久米命(アマツクメノミコト)の二人、石靱(あまのいしゆぎ)を取り負ひ、頭椎之大刀(かぶつちのたち)を取りき、天の鹿子矢手挟み御前に立たして仕奉りき(後略)」に類似する。
 隼人舞は、後世の久米舞と同一系統の芸能とされている。「延喜式隼人職」に、久米舞は、舞人四人による舞で、紅白の装束に巻纓(冠の紐。顎下で結んで胸前に垂れる)の冠を着け、刀を抜いて舞う。神倭伊波礼比古命(神武)の大和進攻の折り、軍中で久米部に久米歌を歌わせた、とあり、その中で久米舞が舞われたのである。この久米舞と隼人舞が即位礼の「大饗(おおにえ)」、正月元旦の「大嘗会だいじょうえ)」に奉納されたという記述もある。これらの事例により久米舞と隼人舞との共通項が指摘されている。が、ここに記される久米舞は、「神楽」の原型と思われ、隼人舞とは舞い振りが異なる。渡来の天孫族に対し、先住民である「隼人族」と「久米部」が服属の儀礼を奉納したという構図であろう。

 「呪術」には、雨乞いや田植え祭りなど、事象の模倣による願望の実現を祈願する「類感呪術」、毛髪や爪、持物や形代(人形)を焼くなどの接触行為により悪霊や邪神による祟りを祓う「感染呪術」、憑依(神がかり)によって悪霊・病魔などを祓い鎮める「神霊呪術」などがある。天孫族による大和王権樹立の時期には、先住民の儀礼としてのさまざまな呪術が支配下に組み込まれた。隼人舞や久米舞、久世舞、国栖舞などがそれである。海幸彦の海溺れの場面は類感呪術であり、顔や手のひらに赤土を塗るのは感染呪術といえようか。隼人舞は、「隼人職」が先住民の王である隼人の王として憑依し、土地や先住民の霊を静める鎮魂の儀礼を行うのである。古代国家生成の物語と隼人族の呪術・芸能との関連を示す事例が、隼人の故郷である鹿児島神宮に、古形を残しながら伝えられているのである

                    

[6]傀儡子舞と守護面              

養老四年(720)「隼人の乱」が勃発した。この時、大宰府から朝廷に発せられた『隼人のきて大隅国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)を殺せり』という急報は朝廷を驚愕させ、急遽、大伴旅人を持節大将軍に任命、総勢一万人を超える大部隊を編成し、宇佐の軍勢を加えて鎮圧に向かわせた。戦いは一年数ヶ月に及び終息したが、朝廷側の記録によると「斬首、獲虜合わせて千四百人余」となっており、その激烈な戦闘の様子が想像できる。
 これを、支配者の側からみると、大和・宇佐の連合軍が「反乱」を制した、となるのだが、南九州からみれば、南の海と暖かな太陽に抱かれた平和な自治国家に数々の理不尽な要求を突きつけてきた渡来の支配者に対して服従を拒んだ「抗戦」となる。
 この戦争により、大和王権による律令体制はほぼ確立するが、一年後、宇佐地方で多数のニナ貝が死に、疫病が流行した。これを、宇佐と大和の人々は、「隼人の祟り」として恐れた。隼人の乱に関連し、宇佐地方には、宇佐八幡神が神軍を率いて参戦し、戦場で傀儡子舞(くぐつまい)を開催して、見物している隼人を急襲して連合軍を勝利に導いたという伝承がある(「八幡宇佐宮御神託集」)他。記紀神話に描かれる大和王権樹立の物語には、随所に謀略とだまし討ちの構図が見てとれる。酒を飲ませ、酔わせて相手を倒す「大蛇退治」、女装して敵陣に潜入し不意打ちに仕留める「熊襲征伐」などがその代表例だが、この隼人の乱における傀儡子舞もその範疇に入る事例であろう。

宇佐神宮の「放生会(ほうし゜ょうえ)」は、この抗争で戦死した隼人の霊を鎮めるために始められた。もともと天孫族(大和王権を樹立した渡来の民)は、戦死や病死など、不幸な死に方をした先祖の霊、あるいは制圧した先住民の霊は「激しく祟る」として恐れる習俗を持っていたため、隼人の霊を弔い、鎮めるための祭儀を行ったのである。
 この放生会に付属する儀礼として、福岡県吉富町古表神社の「古表舞」、大分県中津市・古要神社の「古要舞」が伝わる。古表神社の祭礼では、船団を仕立てて海上に出た一行が、船上から海に貝を放つ神事を行い、続いて、傀儡子舞が奉納される。傀儡子(人形)は神官や巫女の装束を着けており、「神楽」の所作をする。その後、神社へ帰り、傀儡子による「神相撲」が奉納される。古要神社の祭礼では海上での神事は省略されているが、神社拝殿に設えられた舞台の上で、傀儡子(人形)が白装束を着けた御幣を持った神官の舞、五色の衣装を着けた神官の舞、巫女舞、白布で顔を隠した「細男(せいのお)」の舞などを奉納し、その後、神相撲が始まる。「住吉様」と呼ばれる真っ黒な傀儡子(人形)が、強豪力士を次々と投げ飛ばし、観客の拍手喝采を浴びるのである。この古表舞と古要舞は放生会に連環する一連の神事であり、国内最古の人形劇である。とくに、古要舞の舞台の両脇を守護するかたちで飾られる赤・青一対の仮面は、九州に分布する「火の王・水の王」「鉾面」「先祓い面」「猿田彦面」などとの共通項を持つ。そして、古要舞を伝える人々の間ではこの一対の仮面が「隼人の首」と言い伝えられている。
 ここにもひとつ、芸能史・仮面史の謎を解く重要な鍵が隠されている。

                    

[7]弥五郎どんは淋しい              

 養老四年(720)の隼人の乱を契機に宇佐神宮の「放生会」が始められたことを前号で紹介したが、その放生会は、宇佐の八幡神が南九州へ勧請される過程で各地に普及した。「ほぜ祭り(ほぜとは放生会のなまったもの)」「弥五郎どん祭り」などがそれである。宇佐八幡の南九州への進出は、大和王権の地方への波及であると同時に、制圧した先住民の霊を慰め、鎮める鎮護神社としての機能も合わせ持っていたのである。
 鹿児島県大隅町岩川八幡神社の「弥五郎どん祭り」を見るために、深夜、出発した。古い町並みには、深い闇が広がっており、その闇の中に大鳥居が立っていた。人影はなく、町並みから神社へと続く道に灯されたわずかな灯明が、鳥居を照らしているだけであった。祭りは、11月3日、午前1時頃の「弥五郎どん起し」の儀礼から始まるのである。
 弥五郎どんとは、高さ6メートルもある大人形で、最上部に、70センチほどもある大仮面が取り付けられる。これが弥五郎面である。新旧あわせて三面ある弥五郎面は、岩川八幡神社に伝わるご神体で、普段は神社本殿に収蔵されていて人目につくことはないが、祭りの日、旧面二面を回廊に飾り、新面を竹組みで出来た人形に取り付ける儀礼が「弥五郎どん起し」である。人形本体の組み立ては、夜明け近くまでかかる。神事の後、若者衆が町内を巡り、「弥五郎どんが来っぞー」と囃し立て、神社へ帰った後、組み立てにかかるのである。このころから、続々と人が集まって来る。子供たちも、ひと晩中眠らずに、境内を走り回ったり、かがり火に手をかざしたりしながらその時を待つ。
 午前4時頃、弥五郎どんは起つ。子供たちの引く綱が、ぴん、と張りわたったころ、「弥五郎どんが起っぞー」の掛け声とともに、明け方の空に、その巨体が全貌を現すのである。この時、綱や弥五郎どんの衣などに触れると、身体の壮健、無病息災が約束されるという。夜明けとともに、仮面を着けた勇壮な「弥五郎太鼓」の奉納がある。そして、ゆらりと弥五郎どんは、町へと出て行く。その後に、神輿の行列が続く。この日、弥五郎どんに先導され、10万人を超える参拝者が、町を練り歩くのである。

同じ日、車を飛ばして、宮崎県山之口町圓野(まどの)八幡神社の弥五郎どん祭りを見に行った。同県日南市飫肥の弥五郎どんとともに三兄弟といわれるうちの二つを見るという欲張りな趣向である。着いた時、弥五郎どんに先導された行列は、すでに祭りの場に到着していて、弥五郎どんは、祭りの場から少し離れた場所に、ぽつんと立ち、遠くを見つめていた。
 弥五郎どんは隼人の王である、と伝えられる。その巨体は、南九州に分布する大人信仰にもとづき、記紀神話に描かれる猿田彦の相貌を髣髴とさせる。祭りの行列を先導し、境界に立つ姿は、古代宮廷を守護し、王の巡幸や祭礼行列を先導した隼人の職掌と重複する。海神系の祭祀儀礼を持ち、強い呪力を内在した隼人族は、大和王権の守護職、八幡宮の守護神などとして支配体制に組み込まれながらも、暖かな太陽に抱かれた南九州の民衆の間では、祭りのヒーローとして生き続けた。村の境に立ち、遠くを見つめる弥五郎どんのまなざしには、秋の夕空のような憂愁が漂っている。

                 
                 

[8]火と水と風の王の国              

 目隠しをされた少年が、神社の本殿へと続く短い階段を這いながら上って行き、並べられた三つの仮面のうちどれか一つを無作為に取り、後方にかざす。その面が、「日の面」(赤色)であれば、今年の春は「晴れ」である。二人目の少年が選んだのが「雨の面」(青色)ならこの夏は雨が多く、三人目が「風の面」(緑色)を取れば、秋は強風に注意、という予報となる。熊本県小川町(現在は熊本市)日吉神社で毎年、正月二日に行われる「面取り神事」は、仮面の呪力によって「天候=農事」を占う神事である。
 古代の「王」とは、天文を占い、暦法を定め、農事や軍事を司るシャーマンであった。すなわち、「王」とは、「天」の意思を伝え、「地」を支配するものであり、「神」の代理者であった。だが、天変地異が続いたり、疫病が発生したり、戦争に負けたりすると、「天=神」の代理者たる王は殺され、生贄として天に捧げられた。後に、王の代役としてのシャーマン=呪術者が発生し、火や神鏡、榊、御幣、剣や弓矢、扇、仮面など、神が宿る依り代を用いて天の声を聞いた。依り代は、呪力を持ち、神の意思を伝えると考えられた。

 日吉神社は、有明海に近接する平野部が、標高500メートル前後の小規模の山脈と交わるあたりにある小さな神社である。背後の山は「山王山さんのうやま)」と呼ばれ、修験道の名残をとどめる遺物がある。山王山の頂上には、巨石があり、かつては里人の信仰の対象となっていたという。山王山の奥には、重厚な九州脊梁山地が控えている。「面取り神事」の式次第を行うのは近くの神社から招かれた神官だが、本殿から三つの仮面を取り出し、占いの結果を知らせるのは神社に所属する「宮守」である。それは、呪力を持つ仮面が天候=農事を占うこの小さなまつりが、仮面祭祀の古形を伝える神事であることを示している。「面取り神事」の「日の面・雨の面・風の面」は、九州に分布する「火の王・水の王・風の王」の仮面と性格を同じくする。そして、田植え祭りや正月の祝福舞に用いられる翁面、祭りの行列を先導する鼻高の鉾面、傀儡子舞を守護し「隼人の首」と伝えられる「火の王・水の王」(前々号で紹介)、隼人の王と伝えられ、祭りの行列を先導する「弥五郎どん」(前号で紹介)などの「王面」と総称される一群の仮面神とも重複する。

これらの王面の起源は、平安時代から中世頃に求められるが、日本列島には縄文時代の「土面」の文化も存在したことがわかっており、その土面との造形的な類似点も見いだすことができる。縄文の土面と呪力を持った王面が、列島基層の深い部分でどのように関連しているかを証明する文献や考古資料などはいまのところ見当たらないが、仮面祭祀、各地に伝わる祭りや伝承、地名や神社の起源などに、その謎を解く鍵は潜んでいると私は思っている。その神楽囃子に似た微かな響きは、辺境に追いやられた神――境界に立つ石、神社や寺院の裏手の森、巨木の下の小さな祠などに封じ込まれた神々――の潜む国から発せられる信号である。そしてそれは、天地、日月、火水風などを支配し、ときには火の王、水の王、風の王、天神、地神などとなって祭りの場や人界と異界の境界に顕現し、人々と哀歓をともにする、愛すべき南の王たちのひそやかに語り継がれてきた物語なのである。

            

*以上は西日本新聞宮崎県版「みやざき/民俗仮面と祭り」(7月16日〜9月10日)に連載されたものです。
*「忍者と仮面」のページへと続きます。

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