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西米良神楽

西米良神楽
西米良村教育委員会編
文・高見乾司/写真小河孝浩
鉱脈社刊・2009



*この一冊で西米良神楽がわかる*
九州脊梁山地の中央部に位置する宮崎県西米良村に伝わる
「村所神楽」「小川神楽」「越野尾神楽」
の三座の神楽の三十三番の神楽を詳細に解説。
さらに村所神楽の社人が勤める
「狭上神楽」「横野神楽」「上米良神楽」の資料も付記し
、広大な米良山系に分布する
旧・東米良の神楽の特徴と共通点なども俯瞰する。
西米良神楽探訪必携の書。


         kk西米良神楽
                         
              
  k k <南北朝伝承と山の神信仰の習合>

 藍色に染まりながら連なる山脈、清らかな谷筋――米良の美しい自然の中で伝承されてきた西米良神楽。そこには、南朝再興の夢を託され、九州へと派遣された懐良親王(後醍醐帝の皇子)とそれを支えた菊池氏にまつわる物語があった。米良山系の神楽は、南北朝期、北朝・足利幕府軍に敗れ、米良へと入山した懐良親王・菊池氏に随従した公家・武士・芸能者らが伝えた神楽が起源とされる。その「都ぶり」の神楽は、山深い米良の風土の中で、山の神信仰・狩猟民俗・修験道などと習合しながら生き続け、伝えられてきたのである。

              
            
                                        

               <西米良神楽と米良山系の神楽概観>

[西米良神楽と米良山系の神楽について] 

西米良村には、「村所(むらしょ)神楽」「小川(おがわ)神楽」「越野尾(こしのお)神楽」の三つの神楽と村所神楽の社人が務める「狭上稲荷(さえいなり)神楽」「上米良本山(もとやま)矢村(やむら)神楽」「竹原天神(たけはらてんじん)神楽」「横野産土神社(よこのさんどじんじゃ)神楽」の七座の神楽が伝わる。狭上、上米良、竹原、横野の神楽は、村所八幡神社の末社・氏子として各地区の神社で奉納されるものであるから、大きくは、村所、小川、越野尾の三座で西米良神楽が構成されているとみることができる。

 米良山系には、越野尾神楽に隣接して「銀鏡(しろみ)神楽」(西都市)があり、さらに山を越えた東方に「尾八重(おはえ)神楽」「打越宿神社(うちこししゅくじんしゃ)神楽」「湯之方(ゆのかた)神楽」(いずれも西都市)がある。打越と湯之方の神楽は尾八重神楽の社人が務めるから、村所神楽とそれを取り巻く四社の神楽の関係と同様に尾八重・打越・湯之方が一つのグループに属するものであろう。尾八重からさらに東へ峠を越えた所に「中之又神楽」(木城町)がある。尾八重と中之又は「(ゆい)神楽」といって舞を交換するほどだから密接な関係にあるが、(がく)や舞振りには多少の違いがある。

大別すると、「米良山系の神楽」は、「村所神楽」「小川神楽」「越野尾神楽」「銀鏡神楽」「尾八重神楽」「中之又神楽」の六座の神楽で構成されているといえる。この六座の神楽は毎年開催されるが、他の神楽は、隔年または不定期の開催である。この六座の神楽とそれを取り巻く一群の神楽を「米良神楽」と総称することは、歴史的にも地域的にも伝承文化的にも適当であると思われるが、そのように呼ぶかどうかは今後の論議を経なければならない。
 以上の解釈にもとづき、本稿では、「西米良村に伝わる神楽」を「西米良神楽」、「米良山脈に点在する神楽」を「米良山系の神楽」と総称して、以下の文を進めることとする。
「米良山系の神楽」は、広大な米良山系の村々に伝わっている。前述の村所から中之又へと展開する米良の村々は、西は人吉・球磨に通じ、東は日向、北は椎葉、南は高鍋・西都・宮崎に連なる広大な山脈に点在し、尾根の道が村と村を連結していた。米良山系の神楽は、かつて「米良荘(めらのしょう)」と呼ばれた深い山々に抱かれて伝承されてきたのである。旧・米良荘は、西米良が西米良村、東米良が西都市と木城町に分割編入され、現在に至っている。


[宮崎の神楽の分布と米良山系の神楽の位置]

「椎葉神楽」は、26座を伝え、平家の落人伝承の片鱗をうかがわせながら、修験道の影響を色濃く残し、狩猟・焼畑の民俗と混交する。重厚な椎葉の山脈は、米良山脈の北部に連なる。宮崎の神楽の代名詞となった感もある「高千穂神楽」は20座を伝え、天孫降臨伝承にもとづく神話伝承を語り継ぐ。諸塚村・諸塚神楽は西方に隣接する椎葉神楽の要素、北方に隣接する高千穂神楽の要素などを混在させながら、独自の様式を保ち、古形を伝えている。高千穂と諸塚の中間に位置する日之影神楽、高千穂の西方にあり阿蘇地域と隣接する五ヶ瀬神楽などは演目や様式などに類似のものが多く、互いに近い関係にあることがわかる。霧島山系の神楽は、霧島修験の影響、神武伝承(幼少期の神武がこの地で過ごしたという伝承がある)、南面する鹿児島神舞(かんまい)の影響などを混交させながら狭野(さの)神楽・祓川(はらいがわ)神楽の二座が伝わる。日南系の神楽は、海の民俗を反映させながら、霧島修験の影響もみせる。宮崎平野から高鍋平野、さらに日向、延岡と北上する平野部にもそれぞれ独自の様式を保つ神楽が伝わり、県北の延岡市北浦地区には海神の民俗と「月」の信仰を色濃く残した北浦神楽が伝わっている。

このように、宮崎県内には300を越えるといわれる神楽が分布し、全国的にも突出した伝承密度を誇っているが、なかでも米良山系の神楽は、その起源、神楽の様式・芸風等は他の地域の神楽とはかなりの違いがあり、独自の伝承文化となっていることは注目される。その要点を以下に掲げる。
@「注連(しめ)」の様式。一本注連、三本注連などの違いはあるが、西の村所から東の中之又まで、米良様式といえる独特の注連(写真)が立つ。
A猪頭(ししがしら)などの「(にえ)」の奉納がある。
B仮面を「面様(めんさま)」と呼び、「面様迎えの行列」がある。各集落の神社、あるいは面様を伝える家へと面様を迎えに行き、面箱に入れ、捧持(ほうじ)し、あるいは背に背負って法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らしながら神楽が奉納される神社(神楽宿・御神屋)へと向かう。高千穂神楽や諸塚神楽の場合は、仮面を着けて舞いながら行列し、神楽宿へと舞い入る。
C米良山系の神楽の起源を「南北朝時代に流入した都ぶりの神楽」と位置づけることができる。
D「舞振りに宮中で舞われた舞」「唐舞(からまい)朝鮮舞(ちょうせんまい)の名残り」と伝えられる舞がある。
E「宿神(しゅくじん)」が降臨する。
F山の神信仰と深く関連し、山の神としての「稲荷神」「鹿倉(かくら神」などが降臨する。「猪荒神(ししこうじん)」「シシトギリ」「狩面(かりめん)」など猪狩りの習俗が反映された演目がある。

 「米良山系の神楽」を概観すると、はるかな中世の芸能や米良山の人々の暮らしなどがまるで絵巻のように浮かび上がってくる。米良山系の神楽は、宮崎の神楽のみならず、日本の神楽・芸能史の起源や歴史までを検証することのできる一級の資料であるということができる。

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                    <村所神楽>

 東は椎葉の山脈を源流とし、西は熊本県との県境にそびえる市房山を源流とする一ツ瀬川は、西米良村・村所の中心部で合流する。いずれも、急峻な崖を洗い、山谷を縫って流れ下ってきた川である。村所で合流した川はさらに米良山系の山々を削り、一ツ瀬ダムを経由して西都市方面へと流れ下り、日向灘・太平洋へと注ぐ。川沿いの道もまたこの村所で交わっている。大きな川と主要道の交点に栄えた村所は、古くから、文物の集散する土地で、今もなお山中の小都市の風情を残している。瀬音が山と山に響き、山気は、藍色に風景を染める。村所神楽は、この町を見下ろす高台にある村所八幡神社に伝わっているのである。

村所八幡神社は、南北朝時代、米良に足跡を残した後醍醐天皇の第十一皇子・懐良(かねなが)親王を主祭神「大王様」として祀る。懐良親王は、後醍醐天皇が足利尊氏に敗れ、吉野に逃れて「南朝」を開いた後、南朝の再興を期し、征西の宮(征西将軍)として九州へと派遣された。親王は、二十年近く九州を転戦し、肥後の豪族・菊池氏の支援により大宰府を押さえ、一時は九州を平定するが、足利幕府が派遣した九州探題・今川了俊に敗れて、菊地の一族とともに米良へ入山したと伝えられる。懐良親王終焉の地については、福岡県星野村説、熊本県八代説などがあるが、米良山もまた伝承地の一つである。米良では、親王没後の文明3年(1471)にすでに建立されている「御川神社」に、大王宮を合祭した「大王宮御川神社」にお祭りし、鎮魂・供養の神楽を奉納、これが米良系神楽の起源と伝える。

村所八幡神社には、懐良親王の子・宗良親王、米良の領主・米良重鑑(めらしげかね)等も合祀され、神楽には、「大王様」をはじめとして、「爺様」、「八幡様」などが次々と登場する。これらの南朝にかかわる神々の登場する神楽は神事性のつよい「神神楽(かみかぐら)」と呼ばれ、後半部は「民神楽(みんかぐら)」と呼ばれて、神楽せり歌が歌われたり、神庭で観客が社人を真似て即興の神楽を舞い始めたりしてにぎわうのである。

          


                   <狭上神楽>

 「狭上(さえ)神楽」は、西米良村村所小字狭上の「狭上稲荷神社」に伝わる。狭上地区は、地籍上は村所の一部となっているが、実際には、西米良村の中心地・村所から西南の方向へ山道を登り、さらに尾根沿いの道を約6キロほども進んだ深い山中にある。途中、人家もなく、道は険しい。そこは「四方山岳を以って囲み粛條落莫として近年迄神主の家孤立する他に炊煙を見ず」と古記録に記されたほどの地だが、わずかに開けた丘状の斜面の頂上付近に狭上稲荷(さえいなり)神社があり、その横に大山祇命(オオヤマヅミノミコト)の墓とも伝えられる墳丘がある。神社と宮司家の間は長い参道で結ばれており、参道には赤い鳥居が立ち並んでいる。古記録及び古老の口伝は、

『天孫降臨の折、大山祇命は邇邇芸命に木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)磐長姫(イワナガヒメ)の二神を奉ったが、磐長姫はその容貌の醜さにより返し給われた。磐長姫はそれを恥じ、五十鈴川(現在の一ツ瀬川)の川上に隠れ、薨去(こうきょ)した。大山祇命はそれを憐れみ、狭上の山に入り、跡を隠した。山上に残る墳丘は、大山祇命の御陵と伝えられる。時代は降り人跡稀となったこの陵墓を白狐が守り続けるだけとなった。旧記には、二十九代欽明天皇の御世(550−571)に、山中堂栄(やまなかどうえい)煮田野尾勝法(にたのおしょうほう)山左礼左近(やまのされさこん)西世法師(せいせいほうし)(本名狭上清房(さえきよふさ))の四人が東・西・南・北に柴の庵を結び、葛根(くずね)薯蕷(やまのいも)・草木の実などを採取して暮らした。この時、西世(狭上清房)の夢に白髪の老翁が現れ、「我は大山祇命なり、我が陵に稲荷を祭り尊仰すれば子孫繁栄を約束する」と告げた。時を経ず、眷属(けんぞく)の白狐が稗・粟・大豆・小豆を(くわ)えて現れ、四人に与えた。これに由縁とし、狭上稲荷大明神が創建され、米良の人々のみならず、球磨郡の人にも信仰された。又、建武の頃には、南朝方として闘った肥後菊池氏の兄弟三人が入山し、米良姓に改めて隠れ住んだ。天保年間に至り、正一位稲荷大明神の神号が贈られた。神道長占部良長の署名入りのきわめて珍しい「神号書」である(以上要約)』と伝える。

 神楽は、村所八幡神社の社人が勤め、現在も狭上山中にただ一軒ある狭上稲荷神社の神主の家に隣接する社務所で舞われる。中盤に至り、「幣差(へいさし)」でまず村所八幡様の「御代理様(おだいりさま)」が降臨し、続いて「住吉」で主祭神「狭上稲荷大明神」が降臨する。さらに、白い女面の「奥方様」の舞が続き、その後、縦二十五センチ、横二十センチ、奥行き二十五センチほどもある白い大型の狐面の「眷属様」が面棒と榊の葉を持ち、厳かに現れて舞う。
 神楽は、この深山に設けられた御神屋で、三十三番が奉納される。どこから現れたかと思うほど多くの拝観者が訪れ、終夜、舞い継がれる神楽の世界に身を委ねる。九州脊梁山地の奥深く、「神秘の神楽」「究極の神楽」などと形容される「狭上神楽」が伝えられていることは、伝承者のみならず、多くの神楽ファンの誇りとするところである。

               



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(SINCE.1999.5.20)