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宮崎の神楽を語る

 <1>
宮崎の神楽 概要

 
遠い山から、風に乗って神楽笛の音が響いてくる頃、宮崎の人々は、
 ―今年も、神楽の季節が巡ってきた・・・
 と、遠い空を見上げる。
 九州・宮崎の神楽は、太陽神を祀る天照大神信仰と五穀豊穣・狩りの豊猟に感謝し、 来る年の豊作を願う集落の祭りに土地神の祭祀が習合したものである。
神楽は、集落に鎮座する神社での神事のあと、神社の庭に設えられた御神屋または集落の中の神楽宿(民家)に神々が舞い入り、夜を徹して33番の神楽が舞われる。
神楽歌が歌われ、古格を保った仮面神が次々と登場する。

 宮崎県内には、総数300を越える神楽が伝承されている。宮崎の神楽は、夕刻から翌朝まで、夜を徹して33番が舞い続けられる「夜神楽」、午後から深夜12時頃まで12番〜20番が舞われる「昼神楽」、式三番が奉納される「神事神楽」に大別される。
 宮崎の神楽の主題は、「岩戸開き・天孫降臨伝承」を骨格とする「大和王権樹立=日本という国家の創生の物語」であり、その縦軸に沿うかたちで地域に伝わる「土地神の物語」が配置される。すなわち、宮崎の神楽とは、国土・国家の成り立ちと地域の歴史・記憶を「演劇」として語り伝えてきたものである。
 広大な山岳地帯に点在する村で、一晩中舞い続けられる「夜神楽」を見る時、
天地・宇宙の合一と国づくりの英雄たちの躍動、土地に潜む精霊神の神秘を感受する。
黒潮寄せる海岸部の漁村では、海神に大漁を祈願し、「海幸・山幸」の伝承を語り継ぐ「昼神楽」に時を忘れる。古墳や神社が点在する平野部の「作祈祷神楽」では、翁や田の神などの農耕神が登場し、五穀の豊饒を寿ぐ。

 仮面文化の十字路ともいわれ、多くの仮面を伝える宮崎の神楽の現場は、アジアと連関する仮面劇の豊かな伝承地でもある。
 広大な地域に伝承されてきた「宮崎の神楽群」は、10時間〜20時間という世界長の上演時間を有する演劇であり、1000年の時を越えて伝承され続けてきた世界最古の芸能であるということができる。



*この「神楽を語る」シリーズは、2011年12月1日〜12月27日まで
宮崎市平和台公園「ひむか村の宝箱」で開催中の「高見乾司の神楽画帖」にちなみ
12月17日午後2時30分から開催される「高見乾司・神楽を語る」の資料として準備されるものです。
下記の項目を現在準備中です。当日までにすべての項目が間に合うかどうかはわかりませんが、
これをもとに論議を深めたいと思っています。

 宮崎の神楽を語る
1、宮崎の神楽概観
2、「神楽」とは
3、神楽と神話・古伝承
4、能・狂言と神楽
5、古典に見る神楽の記述
6、渡来の神と土地神の物語
7、狩猟・焼畑儀礼と九州脊梁山地の神楽
8、神楽と仮面神
9、宮崎の神楽/演目別分類
10、宮崎の神楽/地域別分類
11、アジアの芸能・文化と宮崎の神楽の連環
12、神楽の伝承と地域再生




西米良村/村所神楽「住吉」

                           <2>
                     「神楽」とは

 「かぐら」の語源は、広辞苑の解釈「神座(かむくら・かみくら)が転じたものとする説が一般的である。神座とは「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味する。神々を神座に招き、巫女・神官等のシャーマンが神懸りとなって神の意志を伝えたり、人々の願望実現の祈願をしたりする、
神人一体の宴を催す場である。そこで上演された鎮魂儀礼や歌舞が「神楽」と呼ばれるようになったのである。
 記紀神話ではアメノウズメノミコトが天の岩戸の前で神懸りして舞った舞が神楽の起源と記される。中国古代(夏・殷・春秋戦国時代)には、王権に付随する儀礼・芸能として神楽に類する芸能があったことが、各種の古記録に記されている。この中国古代の儀礼は、五行思想・陰陽道・道教などと習合しながらアジア各地に分布し、日本へも伝わった。これが「宮廷に付随する儀礼」としての神楽であり、「国造り」の物語を語り続けた神楽であろう。
 一方、宮崎の神楽に残る田植え舞や田楽に類似する「田の神の祭り」や、宮崎の山間部に今も伝承される狩猟儀礼「鹿倉(かくら)舞」等も神楽の起源の一つに加えることができる。神楽は、宮中で行われる「御神楽」と民間に伝承される「里神楽」に分類されるが、「王権=宮廷」に付随する儀礼としての神楽を前者、「民間の芸能・伝承としての神楽」を後者と分類することもできる。「神楽」は、この二つの文脈に神話・仏教・修験道等の要素、土地神の物語等が絶妙の形で混交しながら伝承されてきたのである。




写真上/椎葉嶽之枝尾神楽「注連引き鬼神」
写真下・左/西米良村村所神楽「猪頭の奉納」 写真右/西都市銀鏡神楽の狩法神事「シシトギリ」




写真左/黒潮寄せる日南海岸 写真右/神楽の夜



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 神楽と神話・古伝承

 宮崎は神話の国である。霧島山系と大隈・薩摩半島、さらに日南海岸へと分布する天孫降臨伝承、海幸・山幸伝承、ウガヤフキアヘズノミコトから神武天皇に至る伝承。神話と信仰の絶妙の融合をみせる高千穂地方と高千穂神楽。これらは、記紀神話の舞台が南九州・宮崎の地であったことを物語り、神話とは古代の国作りの伝承であることを示している。宮崎の神楽は、文字化される以前の「国作り」の様子を伝えた演劇であるということができる。そして、その国作りの物語に、
土地の古伝承が組み込まれ、神楽として上演・伝承されたのである。
 宮崎の神楽には、「記紀神話」の原型とみられる「日向神話」の主役たちである、
「天ツ神=大和王権を樹立した天孫族の英雄たち」が続々と登場する。一方、「荒神」や「山の神」など、あきらかに「先住の神=土地の精霊」と思われる神々も登場する。それは時に荒々しい荒神や土地神の舞となり、時には滑稽な所作をして人々を笑いの渦に巻き込みながら、風刺の精神もあわせ持つ翁やヒョットコなどの狂言的演目となる。それは、いわゆる「天孫族」の支配下に入りながらも不服従の精神を抱いて生き続け、その土地の風土や歴史を語り継いできた、逞しい民衆の声である。
 宮崎の神楽は、このように「天ツ神=天孫族の祭祀者」と「国ツ神=先住神・土地の精霊」とが激しく対立し、拮抗し、融和を繰り返しながら形成され、伝承されてきたものである。その起源は、インドの仏教説話や中国の儺儀、韓国の仮面劇などとの共通項を持つ。宮崎の神楽は、アジアの仮面劇と連環する壮大な時空軸の中で形成され、互いに影響されながら伝承されてきたものと思われる。


諸塚戸下神楽「天照大神」


椎葉不土野神楽「山の神」


<4>
能・狂言と神楽 


写真左/西都市南方神楽の翁面(室町時代・文亀3年の銘入り翁面の復刻)
写真右/西都氏銀鏡神楽「シシトギリ」の媼面(同型の鎌倉時代・弘安2年銘入り仮面
    が九州国立博物館の収蔵となった)

 
神楽は、大和王権を樹立した民族=天孫族の祭祀儀礼だという視点を基軸に、民間の田植え祭りや狩猟儀礼などが宮廷や貴族の庭などで上演されて混交していったとみることができる。やがて田植えの祭りは「田楽」「申楽」を生み、観阿弥・世阿弥父子によって「狂言」「能」という芸術的表現へと昇華された。「能」は宗教者、武者の怨霊や女などが登場して無常観を語り、「狂言」は、滑稽な所作で人々を笑わせ、支配者を風刺する「道化」が主役となった。能は武士階級に保護され、狂言は能と一体化して伝承されたが、「村の祭り」として開催される神楽は、民衆の支持を集め、能・狂言の影響を強く受けながら、仮面劇としての演出性も獲得したのである。
「能楽」の完成者・世阿弥は、その著「風姿花伝」で、能楽の根本は神楽であり、三十三番の神楽が凝縮されたものが「式三番」であると説く。能楽の式三番とは、「白式尉」「千載」「黒式尉」による三部構成の神事芸能である。まず白い翁(白式尉)が出て厳かに神事舞を舞い、次に清めの舞である稚児の舞・千載があり、最後に黒い翁(黒式尉=三番叟)が舞い収める。黒い翁が登場する時、白い翁とすれ違う場面があり、白い翁と黒い翁は問答をする。この場面を、能楽(あるいは大和王権を樹立した民族)の祖神としての白い翁と、先住の山の民・農耕民などが祀る地主神・黒い翁の闘争と服属、対立と和解の場面と読み解くことができる。式三番における黒い翁の芸態は、白い翁の所作を真似る「もどき」である。これは、支配者の前に出て滑稽な芸を披露し、子孫繁栄・五穀の豊饒を祈り、服従を誓う「服属儀礼」の芸能化したものであろう。
「能楽」における「式三番」は、能楽成立以前の「神楽」「翁猿楽(おきなさるがく)」等の様式をとどめる芸能と解釈できる。もともとは五穀豊穣を祈願する農耕儀礼で、「翁=白式尉(はくしきじょう)」は集落の長の象徴、「千歳(せんざい)」は若者の象徴あるいは穢(けが)れのない神性をそなえた稚児(ちご)、「三番叟(さんばそう)」は先住神の象徴とされる。能楽の「翁」の式三番と高千穂神楽や米良山系の神楽の「式三番」が、直ちに対応していると断定することはできないが、宮崎の神楽の「式三番」が古式の芸能の形態を保っていることがわかる


写真写真左/西米良村村所神楽の大王様(南朝の皇子懐良親王を表す黒い翁面)
写真右/宮崎市生目神楽の翁(先住神として現れ神主と問答をする)


<5>
古典にみる神楽の記述


写真上/高千穂浅ケ部神楽・神楽の一行を神楽宿へ案内する猿田彦

 
 記紀神話における「神楽」の記述は、天照大神の岩戸隠れを主題とした「岩戸開き」、素戔鳴命の出雲の国での活躍を主題とした「大蛇退治」の二例が突出する。「岩戸開き」では、天照大神や手力雄命、天鈿女命、天太玉命、天児屋根命等々の諸神)すなわち大和王権樹立の英雄たち)が活躍する。ここでは、天鈿女命が岩戸の前で半裸の舞を舞い、天照大神を岩戸から導き出す役割を果たし、それによって「神楽の祖となった」と記される。「大蛇退治」は大蛇の生贄に捧げられようとしていた出雲の国の先住神の姫神を素戔鳴命が救出する物語で、これは出雲地方の製鉄拠点を大和王権が制圧した物語を背景とする。これに天孫降臨の段の「猿田彦」が加わる。猿田彦は、天孫・邇邇芸命一行との出会いと天孫一行を筑紫の日向の高千穂の国へと案内した故事にちなみ、神楽でも「道行き」「先導神」高千穂神楽の「彦舞」などとして演じられる。いずれも大和王権樹立すなわち「日本という国家創生」の物語である。この物語の展開期は古墳時代初期から前期(2〜3世紀ごろ)と比定されるが、記録されたのは奈良時代(8世期)である。活動期と記録期には500年前後の空白期があるが、この間、国家創生の物語を伝えてきたのが、「神楽」等の演劇と口頭伝承であったと考えることができる。日本最古の記録書である記紀神話に記された「神楽」は少なくとも1200年前から、物語の展開期=大和王権樹立期まで遡って考えるならば1800年前頃には「神事芸能=演劇」として上演されていた世界最古級の演劇である。
 記紀神話には、大和王権樹立直後に、「倭舞」「国栖舞」「筑紫舞」「諸県舞」「隼人舞」などの芸能が服属儀礼として奉納されたことも記されている。これらは、朝廷に対し、先住民が支配下に入ることを誓い、寿ぎを述べる服属儀礼である。2007年に奈良県纏向遺跡で出土した木製の鍬を転用した仮面は、「田の神舞(農耕儀礼)」に類する芸能が奉納されたことを示すものであり、記紀の記述を裏付けるものである。


西都市銀鏡神楽の「神和(かんなぎ)」
 
 「枕草子」は平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆された随筆であり、当時の貴族社会の風俗や風物、装束、人々の消息などを物語る。その第三十六段「花の木ならぬは」に「榊」について述べ、榊は賀茂や岩清水の臨時の祭、宮中の御神楽の折などに用いられたと書かれ、神楽の採り物に榊が用いられたことを示している 。第八十九段「淑景舎春宮に」の段には「散楽言(さるごうごと)」とあり、このころ、宮中で散楽が上演されたことを表している。
 「今昔物語集」は平安時代末期に成立したと見られる説話集で、当時の諸国のさまざまな事件や伝承、昔話などについて描いた書であるが、ここでは、第七「近江の国矢馳の郡司の堂に田楽を供養せしこと」で田楽の存在を示し、第二十七「伊豆守小野五友目代の話」では傀儡子師について述べ、第五十七「藤原惟規、和歌を読みて免されし語」では惟規という浮気物の若者が齋院の女房の下へ忍び入ったものの気付かれて出入り口を閉められ、閉じ込められた時、咄嗟に「神垣は木の丸殿にあらねどもなのりをせねば人咎めけり」と歌った。これは天智天が皇太子時代に筑紫に居た時、朝倉の木の丸殿という荒削りの木で作った行宮にちなんで歌われた神楽歌になぞらえたものであり、それにより赦されたという故事。当時すでに神楽歌が広く浸透していたことを物語る。また第四十五「近衛舎人、常陸国の山中に歌をうたひて死にし語」では近衛舎人という神楽舎人が陸奥国から常陸の国へと越える山中で寂しさに耐えかねて歌を歌ったところ山神の感に遭い、その夜のうちに死んだことなどを記して面白い。
吉田兼好の筆になる「徒然草」は、 「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころに うつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」 というあまりにも有名なこの序文で始まる鎌倉時代の随筆。仏教の無常観と平安末期から続く末法思想、平安朝の崩壊と武家階級の台頭などを背景に置きながら、この世のはかなさと生死輪廻の世界からの解脱を願うのである。この書でも第十六段に「かぐらこそ、なまめかしくおもしろけれ。おほかた、ものの音には、笛・篳篥(ひちりき)。常に聞きたきは、琵琶・和琴(わごん)。」と描かれ、神を祀るために神前に奏楽される舞楽や十二月に宮中の内侍所の庭前で行なわれた御神楽のことにふれている。
鴨長明は「方丈記」で「 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶ うたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、 またかくの如し。」と述べ、戦乱に荒れ果て、疫病が蔓延し、盗賊がはびこり、繰り返し大火に襲われる都の惨状を描き、自身は世を捨てて田舎の小舎=方丈に住みながら、世の無常と中世の不安感を記録する。この書の冒頭で、安元元年の京の都の大火についての記述があり、「火元は樋口富の小路とかや、舞人を宿せる仮屋より出火・・・」、と火元が神楽またはそれに類する芸能者の仮の小屋からであったことを特定し、さらに凄まじいまでに焼け広がる火災の様子が克明に描写されている。
このように、古代から中世に至る古記録・古典には随所に「神楽」に関する記述がみられ、当時、王朝=宮廷に付随する神事・芸能として盛んに神楽が行なわれていたことが知られるのである。


西米良村小川神楽の「花の舞」/宮中で舞われた稚児の舞が起源と伝えられる



<6>
宮崎の神楽の起源について


写真左/延岡市行縢山と舞野風景
写真右/西都原古墳群風景


  古代(上代―平安時代)、王朝(宮廷)に付随する神事・芸能として演じられた「神楽」は、中世(鎌倉―南北朝―室町―戦国時代頃)になると武家や地方の豪族などの間にも普及し、戦場へと従軍した宗教者や芸能者集団の影響などもあって民間へも広く分布した。その間、「田楽」「猿楽」「能・狂言」へとほぼ完璧な完成を見せ、一方で、神楽も民衆に浸透し、普及した。

では、宮崎の神楽の起源は、これらの歴史・芸能史とどのように関連するであろうか。
まず、これは史実とはいえないが、薩摩半島西端の「笠沙の岬」といわれる地点に、ニニギノミコトが漂着した場所と伝えられる海岸があり、そこでニニギノミコトが長い航海の果てに陸地に立てたことを喜んで舞を舞ったと伝えられる。そこを「舞瀬」という。以上は鹿児島県薩摩半島の伝承だが、宮崎県西都市西都原古墳の近くにも笠沙の岬と伝えられる地点がある。延岡市には、景光天皇が到着し、喜びの舞を舞ったと伝えられる「舞野」という場所があり、現在も舞野神社がある。この二例は、「王=天皇」自身が、神を招き、神意を伝えるシャーマンとしての舞=神楽を舞ったことを示唆している。
高千穂神社には「猪掛祭り」が伝わっている。高千穂の先住神「鬼八」を鎮める祭りで、上代高千穂地方を治めた三毛入命(ミケヌノミコト=神武天皇の兄君)と高千穂の先住民との激突と協調の物語である。この猪掛祭りでは、猪が神前に供えられ、「笹振り神楽」が舞われる。古式の神楽を今に伝える祭りである 。高千穂神社には、鎌倉時代のものと伝えられる神面(神楽面)も伝わっており、高千穂神楽が古代から中世へかけてすでに存在したことを示している。
椎葉神楽は平家の落人とともに流入したという伝承があるが、今のところ、これを実証する資料はない。椎葉神楽の大きな特徴として修験道の影響を挙げる研究者は多いが、九州における修験道の隆盛期は平安から鎌倉時代へかけてのことであり、落人の経路と修験の道が重なることは今後の考察の手がかりのひとつとすべきであろう。
宮崎市生目神社には鎌倉時代の年号が墨書された古面が伝わっている。これが生目神楽の神楽面と関連しているかどうか、今後の調査の進展が期待される。
米良山系の神楽は、南北朝時代、北朝・幕府軍との戦いに敗れた南朝の皇子・懐良親王とそれを支えた肥後の豪族・菊池一族とともに流入したと伝えられる。肥後・菊池の城や懐良親王軍の陣中で舞われた神楽は、さらに米良の山深く伝えられて現在に至ったのである。米良山系の神楽の起源を五百数十年前に特定することができる。


写真上/村所神楽
写真下/生目神楽「神武」


<7>
渡来の神と土地神の物語

 
写真左/椎葉不土野神楽の「鬼神」
写真右/椎葉尾手能神楽「しょうごん殿」と問答をする村人


 宮崎県諸塚村・諸塚神楽には、戸下神楽と南川神楽とがあり、それぞれ、一月の最終土曜日、二月の第一土曜日に、三十三番の神楽が開催される。隣接する椎葉神楽や高千穂神楽と混交した演目も見られるが、諸塚独自の演目も伝えられていて、見ごたえがある。とくに中盤に登場する「三宝荒神」は圧巻である。「天の神」「地の神」「火の神」を表す三体の荒神が登場し、神主と長い問答を交わすのである。それは、山や森を支配する土地神・荒神と、渡来の神との対立と和合の物語である。大型の真っ赤な荒神面をつけて出現した荒ぶる神は、自分が支配する山に侵入し、祭りを開催することの無礼に怒り、祭りそのものを中断させるのである。神主は、天照大神が岩戸に隠れ、この世が闇に閉ざされたため、天照大神の復活(すなわち失われた太陽の光の再生)を願う祭りをしているのだと理(ことわり)を述べ、許しを乞う。延々と一時間以上も続く問答の末、村人の仲介により荒神は怒りを解き、和解が成立する。この時、荒神から神主へ荒神棒(神楽杖)が渡され、ようやく神楽が再開されるのである。
 米良山系の神楽は、南北朝伝説・懐良(かねなが)親王伝承を骨格とし、「宿神(しゅくじん)」と呼ばれる土地神の祭りと並立しながら伝承される。南北朝時代、肥後・菊池氏と結んで一時は九州を制圧した南朝の皇子・懐良親王は、北朝・足利幕府の連合軍に敗れ、菊池の残党とともに米良に入山するのである。落ち延びた親王の一行とともに流入した「都ぶり」の神楽が、米良神楽の源流と伝えられる。米良の深い山と森に住む人々は、敗残の皇子を「神」として迎え、文化・芸能を受容した。「宿神」とは星宿信仰にもとづく土地神で、米良の山神信仰と混交しながら、信仰された。米良山系の神楽は、600年近い起源を有し、古形を保ちながら伝承されてきたものと定義できる。
 椎葉神楽には、「山森」という演目がある。椎葉の神楽は平家の落人が持ち込んできたものとも伝えられ、修験道の影響を強く残しながら、狩猟・焼畑の民俗とも混交する。なかでも、「山森」「森」などと呼ばれる演目は、山神の鹿狩りの様子を表す神楽といわれ、弓矢を持って勇壮に舞われる。「山森」は「しょうごん殿」という地主神の祭りとも連結し、しょうごん殿と村人との対話や、しょうごん殿から村人に与えられる「お宝」の受け渡しなどで大いに盛り上がる。
 宮崎の神楽は、「大和王権=日本という国家」を築いた天孫族が奉祀する「渡来の神」と、先住民族が祀る「土地神」との激突と融合の物語である。それは・南九州・宮崎というおおらかな土地柄とそこに住む人々が、外来の民族と文化を受容し、混交・共調しながら新しい文化形態を築いてきたことを示している。渡来の神と土地神との葛藤と共調の物語は、開発神と自然神との折り合いの付け方といいかえることもできる。神楽に秘められ、伝え続けられてきた物語は、21世紀型の「地域づくり」「国づくり」に最も適合した価値観であるともいえるのである。


高千穂神楽/「舞開き」日月の鏡を持って岩戸が開いたことを喜び舞う手力雄命


<8>
狩猟・焼畑儀礼と九州脊梁山地の神楽



写真左/椎葉の焼畑耕作地
写真右/銀鏡神楽の「モリ」

 
「九州脊梁山地」とは、文字通り、九州の中央部を南北に貫く山脈のことで、九州島の背骨ともいえる山岳地帯のことである。この山脈は、標高1000〜1500メートルほどの山々が峰を連ね、分厚い照葉樹の森と、戦後に行われた大規模な杉の植林、山頂部に残る落葉広葉樹の森などが混生する地帯である。この深い山々は、古来、縄文系の狩猟焼畑文化を基層とし、平家の落人や南北朝の落武者が持ち込んだ「都ぶり」の文化を包摂しながら、独自の気風と文化を伝えてきた生活文化圏でもある。

九州脊梁山地の神楽では神楽に先立って、神社の裏手の森や岩、民家の裏山の大樹などに「モリ」と呼ばれる「人形御幣(ひとがたごへい)」が飾られる。これは「山神幣」「水神幣」「荒神幣」「地神幣」などであり、集落の氏神や土地神を表す。地域によっては、この「モリ」を祀る儀礼と「カクラ祭り」が習合している例がある。「カクラ」とは「狩倉または鹿倉」であり、山神が支配する狩の領域である。「かぐら」の語源の一つともいわれる。
前項で述べたように椎葉神楽には「山森」「弓通し」「しょうごん殿」などの演目があり、狩猟儀礼と関連している。椎葉には今も焼畑を伝える集落があり、焼畑を終えた山には「火の神」の御幣が立てられる。椎葉の「山の神」とは、焼畑の神であり、狩猟神である。
高千穂神楽の「山森」では獅子(猪)が登場し、御神屋の中を暴れまわったり、猪の所作をしたりする。舞人が猟銃を担いで舞う例もある。高千穂神楽の「山森」は猟師がその年の豊猟を祈願する番付ともいう。
 米良山系の神楽には「シシトギリ」が分布している。もっとも有名なのが銀鏡神楽のシシトギリである。狩人に扮した爺と婆が、古式の猪狩りを演じるのである。銀鏡神楽では、翌日の早朝、銀鏡川の川原の猪が線刻された画像石の前で狩法神事「シシバマツリ」が行なわれる。神事の後、川原で焚き火をして、神前に供えられた猪の頭の耳の後ろの肉を七切れ串に刺して焼き、参加者で食べる。神人共食のもっとも原初的な姿である。
 西米良村村所神楽にもシシトギリが伝わっているが、これは同村狭上稲荷神社に伝わる「西山小猟師文書」を元に復元された演目である。同文書は柳田国男が椎葉村を訪れて目にし、「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を書き上げた原本である。西山小猟師文書は狭上稲荷神社が発行し、修験者と狩人を通じて米良・椎葉の山系に分布したのである。
 米良山系の東端、木城町・中之又神楽には「鹿倉舞」が伝わる。「鹿倉様」とは集落ごとに伝わる狩猟神で年に一度、中之又神社の大祭の折に降臨するのである。鹿倉祭りは集落ごとに伝わり、11月の中旬、集落の鹿倉神社で開催される。式三番が舞われる古式の神楽で、鹿倉面をつけた鹿倉様の舞がある。



写真左/椎葉神楽「弓神楽」
写真右/中之又神楽「鹿倉様」
 
九州脊梁山地には、百座に及ぶ神楽が伝承されており、稀有な芸態を今に伝える。神楽の骨格は記紀神話に基づく天孫降臨伝承すなわち大和王権(=日本という国家)樹立の物語であるが、各地で、土地神の物語が織り込まれながら、夕刻から夜明けまで、夜を徹して演じ続けられる。土地神とは、「山の神」「水神」「稲荷神」「荒神」「宿神」「翁・媼」「道化」「女神」等々である。これらの土地神こそ、太古の記憶と地域の歴史を語り継ぎ、脈々と生き続けてきた精霊神である。


<9>
神楽と仮面神
g
 神楽には、多様な神格・表情・役割をもつ仮面神が登場する。それらは、古代国家創生=大和王権樹立の英雄や鎮魂儀礼を行う女性シャーマン、山や村の記憶を秘める土地神、反逆の精神を秘めた「道化」などである。笛と太鼓の音に誘われ、仮面神が出現する時、そこには古代と現代をつなぐ謎に満ちた時空が現出する。
神楽は、大和王権樹立の物語を演劇として語り伝えてきたものであるが、九州の神楽では、そこに「土地神」の物語が織り込まれ、展開されてゆくことに注目すべきである。村人は、渡来の神を受容しながら、土地神も手厚く祀る。それは、この日本列島の基層を流れる、自然と人間との協調の物語である。神楽と仮面芸能は、古代国家創生の物語に秘められた、渡来神と土地神の激突・融合・協調の伝承を語り継ぐ演劇でもあった。それこそ、天地万物に「精霊=神」が宿るとし、自然と共生しながら、渡来の文化や神観念を受容・包含して生き続けてきた日本列島基層のすぐれた神観念であり思想体系である。
下記に主な仮面神を掲げる。詳しくは「神楽と仮面」のページに連載中



高千穂神楽「十社大明神」上代高千穂を治めた三毛入命(ミケヌノミコト)を表す

高千穂神楽「荒神」台所から舞い出る「火の神」

高千穂神楽「八鉢(やつばち)」少彦名命を表す。薬学・芸能の神。

高千穂神楽「天鈿女命」岩戸の前で神がかりして舞う。神楽の祖。


写真左/椎葉尾手納神楽「鬼神」 写真右/椎葉日添神楽「鬼神」


写真左/諸塚戸下神楽「鬼神」 写真右/諸塚南川神楽「春日大神」


尾八重神楽「宿神」

中之又神楽「稲荷」鹿倉舞の中で降臨する


村所神楽「御手洗様」菊池公の奥方様


中之又神楽「磐石(ばんぜき)」

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宮崎の神楽/演目別分類



高千穂・二上神楽「岩戸開き」
 
◆岩戸開き 記紀神話は、天地(日本の国土)創生の様子を天之御中主神 (アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神 (タカミムスビノカミ)、神産巣日神 (カミムスビノカミ)から七代を経た伊弉諾命(イザナギノミコト)、伊弉冉命(イザナミノミコト)の二柱の神の出会いと「国生み」、山川草木その他もろもろのものを司る神々の誕生、そして天照大神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツキヨミノミコト)、素戔男命 (スサノオノミコト)の三柱の神の誕生という形式で語る。この天照大神(アマテラスオオミカミ)は女神であり「日の神」として高天原を治め、月読命(ツキヨミノミコト)は夜の食国を、素戔男命 (スサノオノミコト)は海原を治めるようにと分担された。その後、素戔男命 (スサノオノミコト)の暴虐と天照大神(アマテラスオオミカミ)の「岩戸隠れ」により、高天原は暗黒となり、色々な災いが起こる。そこで、八百萬の神々が集い、天照大神(アマテラスオオミカミ)の出現を促す祭りを行う。このことを憂えた神々が天安河原(あめのやすかわら)に集い、アメノウズメノミコトが神懸りして半裸の舞いを舞うと、神々がどっと笑いさざめく。それによってアマテラスオオミカミが岩戸から現れ、この世は光を回復する。これが神楽の原型である。この物語は、古代中国の史書にも記される日食儀礼と、冬至の日乞い儀礼との混交であり、日本の古代国家創生の物語でもある。この儀礼によりアメノウズメノミコトは演劇の祖神となった。岩戸開きは神楽のクライマックスである。


高千穂二上神楽「御降り」
 ◆天孫降臨伝承 平和になった高天原において、天照大神(アマテラスオオミカミ)は、御孫の瓊瓊杵尊(二ニギノミコト)を、豊葦原の中つ国の平定に遣わす。瓊瓊杵尊(二ニギノミコト)は、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、天太玉命(アメノフトダマノミコト)やその他多くの神々と共に高天原から豊葦原の中津国に降臨した。宮崎の神楽は、この伝承を骨格として演じられる。


高千穂・秋元神楽「猿田彦」
  ◆猿田彦 記紀神話の「天孫降臨」の段で、猿田彦は、ニニギノミコトが天照大神の命により天下った折、天八衢(あめのやちまた)に立ち、行く手を塞いだ神として記録される。猿田彦の背の高さは七尺、鼻の長さは七咫、眼は八咫鏡またはホオズキのように輝き、その光は高天原から葦原中国までを照らした。そこでアメノウズメノミコトが半裸の姿で対すると、猿田彦は敵意のないことを示し、ニニギノミコト一行を筑紫の日向の高千穂の国へと案内する。これが、南九州を舞台としたダイナミックな「日向神話」の幕開けである。この故事により、猿田彦は先住の土地神=九州・宮崎の先住神と解釈される。新しい文化をもって渡来してきた民族を平和的に迎え入れた民族融合の象徴ととらえることもできる。高千穂神楽では、猿田彦は、祭りの一行を神楽宿へと案内し、式一番「彦舞」を舞う。他の多くの神楽でも猿田彦は先導神としての役割を務める。


西都・早川神楽「蛇切
 ◆大蛇退治 大蛇退治とは、出雲の国に派遣されたスサノオノミコトが、当地の神・テナヅチ・アシナヅチの娘クシイナダヒメが生贄としてヤマタノオロチに捧げられようとするのを機略によって救出、大蛇の腹から宝剣・草薙(くさなぎ)の剣を取り出すという物語である。これは、古代出雲地方の製鉄の拠点であった斐伊川の上流部を制圧する物語すなわち大和王権の出雲支配の物語を擬人化したものであるといわれる。スサノオノミコトとヤマタノオロチの対決が最大の見せ場である。宮崎の神楽にも、「弓神楽」や「綱切り」などスサノオノミコト伝承に基づく演目がある。


諸塚・南川神楽「三宝荒神と神主の問答」
 
◆土地神の物語=山と森の精霊 前述したように、神楽は、岩戸開き・天孫降臨伝承を骨格とした古代国家創生=大和王権樹立の物語を語り継ぐものであるが、一方で、「鬼神」「荒神」「山の神」「稲荷神」などの土地神が登場し、土地の歴史や天地万物の成り立ちなどを語る。それは、大和王権の支配下に入り、服属を余儀なくされた荒ぶる神=先住の神であるが、土地の精霊として立ち現れ、渡来の神との融和を果たす。


日南・潮嶽神楽「海幸彦」
 ◆海神の神楽 九州は四面を海に囲まれながら、東は日本の中枢である畿内地方、西は朝鮮半島・中国大陸、北は日本海を経由してシベリア地方、南は黒潮踊る南島諸島・アジアへと連なっている。長崎県の平戸神楽、玄界灘に浮かぶ壱岐神楽、磯良の舞いを伝える宇美神楽などは、「海の神楽」といえよう。福岡県と大分県の県境を挟んで伝わる「古表舞」と「古要舞」は傀儡子(くぐつ)による「神相撲」「神事舞」を伝える人形劇であるが、宗像海神族の習俗との関連を示し、舞台の両袖を守護する仮面神もあり、貴重な事例となっている。海幸彦の舞いとも伝えられる魚釣り舞いを残す日南系の神楽は、黒潮に乗って南の海を往来した古代隼人族の習俗を髣髴とさせ、海神の伝承を秘める仮面神も登場する。


写真左/宮崎市船引神楽「めご面」
写真右/日南・潮嶽神楽「直面」

 
◆翁・田の神・道化・稲荷 「翁」や「田の神」は、土地の先住神=農耕神として登場する。滑稽な所作や時には若い女性にからむ性的な所作などをして人々を笑いに誘うが、それは、渡来の神を祝福に現れた土地神であり、服属儀礼としての芸能を奉納する先住の民の代表であった。「ヒョットコ」や「猿」「狐」などは、神楽の道化役として偉い神様たちにからんだり、若い女性に抱きついたり、酔っ払って騒いだりして場を賑わわせては去ってゆくが、彼らは、火の神や山の神、稲荷神や狩猟の神などの使いであり、先住の民の残像である。神楽の場に現れる道化は、不服従の精神と風刺の精神をあわせもった芸能神である。米良山系や椎葉・高千穂などの神楽には、「稲荷神」が登場する例がみられる。椎葉・高千穂・米良などの「九州脊梁山地」に伝承される稲荷信仰は、雑穀栽培から水田稲作へと移行する過程での「稲荷神」の変容のありさまや、山の神信仰・修験道などとの関連なども示される。


中之又神楽「鹿倉様」
 
◆狩猟神  九州脊梁山地の神楽は、狩猟・焼畑の民俗と密接な関連を示し、神楽の古形を残しながら伝承されてきた。深い山脈に抱かれた村々に伝えられてきた儀礼は、山の暮らしに直結する「祈り」でもあった。山に生きる人々は、自然を畏れ、敬い、自然の恵みに感謝しながら、素朴で逞しい信仰と儀礼を伝えてきたのである。そこには、日本列島の「基層文化」と呼ぶべき民俗と信仰の形が示されているのである。古式の猪狩りの様子を再現する銀鏡神楽の「シシドキリ」や中之又神楽の鹿狩りの神事「鹿倉祭り」などは、山の神神事と神楽が習合したものであり、神楽終了後に開催される狩法神事「シシバマツリ」もこれに関連する。神楽の中では、弓矢を採って舞う演目、山の神である大山祇命と猪が出て暴れまわり、最後は大山祇命が猪を取り押さえる演目なども組み込まれており、「銀鏡神楽の七鬼神」と「ズリ面」のように先住神とみられる素朴な神々と山の神(山姥)との交流を物語る演目もある。多様な芸態は、先住の山の民と渡来の支配者との激突と協調の場面さえ彷彿とさせ、興味は尽きないのである。


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九州の神楽の分布と宮崎の神楽
2011年12月16日 | Weblog


  宮崎の神楽は、九州の神楽との共通項も多く持ち、アジアの芸能・文化とも連環している。以下、九州の神楽と宮崎の神楽を比較・検証してみよう。

◆北部九州の神楽 北部九州の神楽は、大分県と福岡県の県境を中心に分布する「豊前神楽」がもっともさかんな伝承活動を示している。豊前神楽は、大蛇(おろち)退治を主体とした出雲神楽系の神楽で、北部九州修験道の拠点として栄えた英彦山(ひこさん)・求菩提山(くぼてさん)の修験道との関連も示す。祭りの先触れとして現れる「御先(みさき)」は「猿田彦」ともいわれる大型の鬼神面を着けた神で、荒々しい舞い振りを見せる。御先は、湯立ての主役でもあり、高さ八メートルにも及ぶ竹の柱に登り、真っ逆さまに滑り降りる。これは、神の降臨の様子を表しているという。宗像(むなかた)系と思われる宇美神楽は、海神の舞「磯良(いそら)の舞」を伝えるが、その他の地域には分布が少なく、この北部九州の分布密度のかたよりは、研究課題としておきたい。
◆中部九州の神楽 中部九州には、豊前系の特色を示す「国東(くにさき)神楽」、火渡りと湯立てを中心とした荒々しい「御嶽(おんたけ)流神楽」、荒神神楽を主とし、御嶽流神楽と阿蘇神楽の混合が見られる「大野川流域神楽」がある。阿蘇神楽は大蛇退治・岩戸開きともに華やかなスピード感あふれる舞い振りを示し、御先が竹の柱に登る天登りも混在する。豊後水道沿いには、海の神楽の要素と日向神楽との交流を示す「蒲江(かまえ)神楽」があり、それぞれが地域色を残しながら伝承されている。
◆宮崎県内の神楽 宮崎県内だけで、300を越える神楽が伝承されているといわれ、大別すると「椎葉神楽」「高千穂神楽」「諸塚神楽」・「米良神楽」などの「山地神楽」、宮崎市域の「平野部の神楽」、日南系の「海の神楽」などの諸相を持つ。椎葉神楽は、照葉樹林に囲まれた広い村域に26座の神楽が伝わり、「森」「しょうごん殿」など狩猟・焼畑文化との密接な関連を示す演目が残され、「山の神」への敬虔な祈りが受け継がれている。高千穂神楽は、天孫降臨伝承を骨格とした、格調高い神楽で、町内に20座が残る。高千穂神楽を見ると、神楽とは、国家創生の物語を演劇として伝えてきたものだということがわかる。諸塚神楽には、「荒神」が登場、荒々しく舞いながら、土地神としての威厳を示す。米良神楽は、南北朝伝説を下敷きとし、猪狩りの習俗が神事として神楽に組み込まれた「シシトギリ」や星宿信仰にもとづく「宿神(しゅくじん)」などが伝わり、「都ぶりの神楽」と「山地神楽」の特色が融合しながら舞い継がれる。宮崎平野部の神楽は農耕儀礼との結びつきを示す田の神舞いが組み込まれ、都市部の観客を意識した娯楽性を示す速い舞振りも見られる。「霧島神楽」は霧島に降臨した神々(天孫族)と活火山・霧島山の神徳をたたえる神楽で、すでに消滅寸前となった「鹿児島神舞」の古形を伝える。「日南神楽」は魚釣り舞いや相撲を伝え、海幸彦の舞いと伝えられる「潮嶽神楽」を残す。その他、宮崎平野北部を経由して西都・高鍋地域へと展開する平野部の神楽、日向市域の神楽群、延岡・北浦から豊後水道へかけて分布する神楽群も視野に入れておかなければならない。一層の調査・研究の進展が望まれるのである。



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アジアの芸能・文化と宮崎の神楽の連環



写真左/韓国晋州仮面劇フェスティバル会場
写真右/韓国の仮面劇(タルチュム)

 九州は、「神楽」を主とした「仮面劇」の宝庫であり、ことに宮崎県を中心とした南九州は「仮面文化の十字路」とも形容される。これまでに繰り返し述べてきたように、神楽とは、古代国家成立の物語すなわち「大和王権=日本という国家」の創生の物語を演劇として語り伝えてきたものだと考えることができる。神楽に登場する仮面神は、古代国家樹立の英雄たちである。一方、古代史のヒーローたちと激しく対立するかたちで土地の先住神が登場するが、彼らは、古くからその土地にいた精霊神である。渡来の神と先住の神とは激しく対立し、闘争を繰り広げるが、やがて和解し、融合し、自然界とも協調して、日本列島の統一がなされるのである。これが文字によって記録されたのが「記紀神話」であり、その主たる舞台となったのが、南九州であった。宮崎県内だけでも300を越える神楽が伝承され、500年〜1000年にわたって伝えられた仮面も存在することが、伝承の信憑性を示し、地域の人々の信仰の厚さを物語っている。
九州・宮崎の神楽は、アジアの仮面芸能との共通項を多く持つ。

古代中国の仮面文化は、内蒙古興隆溝遺跡で発見された三点の石製仮面「石人面飾」(約7500〜8000年前)、北京市郊外の北京瑠璃河西周遺跡で発掘された青銅仮面(2700〜3000年前)、四川省広漢市郊外の三星堆遺跡で発見された二メートルを越える大型の青銅仮面や黄金の仮面を着けた青銅製人体像(約3000年前)などが確認されている。韓国釜山市東三洞貝塚から発掘された貝製仮面(約6000年前)は、九州・有明海沿岸と韓国で同時期に貝製仮面の習俗があったことを示唆している。シルクロードの伝説の王国「楼蘭」の西方、小河墓遺跡に眠っていた小型の木製仮面(3000〜4000年前)も注目に値する。


写真左/韓国仮面劇フェスティバルのフィナーレ
写真右/中国の儺儀

  古代中国で発生した追儺の儀礼は、五行思想、道教などともにアジアに分布し、日本へも伝わった。善鬼が悪鬼を追うというこの儀礼は、九州では大宰府天満宮の「鬼すべ」や国東半島の「修正鬼会」などに今も伝わり、近畿地方にも多くの事例が残る。「節分」を加えれば、日本列島全域にその分布は広がっている。
韓国の仮面劇「タルチュム」は、「ヤンパン」「仏僧」などの支配階級を顔の歪んだ道化がからかい、批判の矢を向ける風刺劇で、日本の「狂言」や神楽の「道化」との共通点は多い。近年、韓国で開催される「晋州仮面劇(タルチュム)フェスティバル」や「安東仮面舞フェスティバル」のように、アジアを俯瞰する仮面劇の研究と交流も活発になってきている。
琉球諸島や南島に分布する「渡来神」の文化からは、南九州と黒潮文化圏、東南アジアへと連なる文化史を俯瞰することができる。


写真左/国東半島の「修生鬼会」
写真右/大宰府天満宮の「鬼すべ」
 九州・宮崎の神楽をみれば、アジアから入ってきた芸能・文化が日本の「中央」へと伝播し、中央で醸成されてまた地方へと分布し、古形を保ったまま伝承されてきたものであることが分かる。宮崎の神楽は、神秘の時空間から、その歴史性、文化性、演劇性など、多様な情報を放ち、私たちを刺激し続けているのである。


韓国仮面劇フェスティバルに参加した宮崎・諸塚村南川神楽

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(SINCE.1999.5.20)