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 神楽と仮面



このページは、宮崎日日新聞に2009年4月3日から連載中の「神楽と仮面」を転載したものです。神楽の伝承地を訪ね歩きながら、神楽に登場する仮面の性質や役割、その起源、今は使われていない神楽面と秘められた伝承などについて考察します。宮崎県内の村々を訪ねる旅へ、ご一緒しましょう。

                 【諸塚神楽の仮面神】


                       <8>
 
            荒神問答を読み解く

諸塚神楽の「荒神問答」では、出現した荒神に対して、神主がこの地に神楽の御神屋を建て祭りを行う事の理由を述べ、五行の理論や神仏習合の本義を説きながら、この御神屋の中は神主の支配である立ち退き給えと荒神に迫る。
 これに対し、三宝荒神は、そもそもは三宝荒神である、心荒れ立つときは大荒神となり、心静かなる時は金渡ほううんの如来である、と宣言した上、この山は荒神の支配地である、こそは三界の統領であると述べ、自分の支配する山に入り、祭りを行う事に対して怒りを示す。
 荒神の声は、仮面の奥から発せられるので、くぐもってよく聞き取れず、古語や日向言葉が織り交ぜられており、遠来の客には理解不能である。が、御神屋の周辺に陣取った村人たちは、隣り合う集落の神楽座の一員であったり、幼なじみの仲間だったりするから、そのあらすじは承知しており、当意即妙のアドリブなどに対して、やんやの喝采を送る。荒神が、俄然勢いを増すことはいうまでもない。
 やがて神主は、無断で山に入り榊を切り取ったこと、この地が荒神の支配地であることを理解していなかったことなどの非礼に対して、詫びを述べる。ようやく機嫌を直した荒神は、村人の仲介によって神主と盃を交わし、榊葉・腰幣・面棒を渡して、神楽が再開されるのである。

荒神問答を読み解けば、荒ぶる地主神(先住神)と渡来の神との激突と和解・融合・協調の物語が浮かびあがる。戸下神楽では、数年に一度の「大神楽」の折、荒谷地区に伝わる「こぶ荒神」が出て、「一荒神」の役を勤める。このこぶ荒神は、旧・家代郷の主席荒神であるという。
 荒神問答の後、戸下神楽では一番、南川神楽では二番の舞荒神の舞があり、荒神の番付が終了する。

                          


                       <6>
                   
神主と荒神の問答

 神楽が舞い続けられる御神屋の外には、盛大に焚き火が焚かれ、炎の色が、舞人や次々に降臨する仮面神などを赤々と染めあげる。
 夜が更けてゆく。焼酎の酔いと焚き火の灯りに照らされた村人に良く似た面相をした「舞荒神」は「地主荒神面」とも呼ばれる豪快な仮面を着けて舞う。戸下神楽では一神、南川神楽では二神の舞荒神が、次に続く「三宝荒神」の前座の舞を勤めるのである。
 舞荒神の舞によって場の賑わいが最高潮に達すると、いよいよ三宝荒神の登場である。

 まず、「一荒神」(一方ともいう)が、合舞面連れともいう仮面神呼び出しの舞)の華やかな舞に導き出され、山を支配するものはである、と荒ぶる。真っ赤な大ぶりの荒神面を着け天冠をかぶり、濃紺の羽織の上に古更紗の千早を重ね、左手に扇、右手には面棒(荒神棒)を持って舞い出るのである。一荒神とは「山の神」である。「二荒神」(二方)は大型の白い荒神面を着け一荒神と同様の扮装で出る。そして、神を祀る社や鳥居を立てる時は吾の許しを受けよと説く。二荒神は「築地荒神」ともいう。三荒神は、濃紺の羽織の上に真紅の千早を重ね、天冠をかぶる。憤怒の表情を示す赤い荒神面である。三荒神は父母の体を表わすといい、この世のはかなさを説きながら、神仏習合の由来を語る。三荒神とは各地の資料やその衣装などから「火の神=竈の神」と考えられるが、演技・唱教などにそれを示すものは見当たらない。
 三宝荒神が勢ぞろいし、御神屋正面に用意された椅子に着座すると、ここから神主と荒神の延々一時間半に及ぶ問答が始まる。その問答とは、「渡来の神=神主」と「諸塚の地主神=荒神」との息詰まる論戦である。

                    

<6>
封じられた神の出現

分かれ道の崖に、苔むした石彫の神像が座していた。神像は、旅人を迎え、また見送った。それは、はるかな昔から繰り返されてきたこの村の日常風景であった。丹念に積み上げられた石積みの畦が、小規模の棚田を形成しており、その棚田の上に真夏の雲を頂いた空があった。空と村とを区切る一塊の山は「荒神山」と呼ばれていた。
 静寂に包まれた諸塚村小払地区の荒神山と向かい合う山の山裾に、東蔵寺跡がある。この寺は、の城主土持氏の創建といわれ、その後、天正八年に現在地の家代地区金鶏寺に移ったと伝えられる。寺域には、古びた石段と、中世のものと思われる五輪塔などが残り、往時をしのばせる。
 諸塚の神楽は、この東蔵寺に伝わり、以後、諸塚山一帯に広まったといわれる。神楽の唱教、荒神問答などにこの寺の僧が伝えたという文言がみられる。
 小払地区や寺跡の周辺に点在する信仰遺跡は、この寺が密教寺院であったことを物語っている。諸塚神楽は、密教系の僧侶あるいは修験者が伝えたものであろう。

 小払集落の裏手の荒神山の山裾に小払神社があり、「天神」が祀られている。本堂の脇に、「八幡」「山の神」「水神」などを表わす石塔があり、その裏手には「七荒神」といわれる七基の石塔がある。これをみれば、この小払地区一帯はもともと「山の神」「水神」「荒神」等の祭祀領域であったが、後に密教系の寺院が建ち、荒神祭祀は「脇」あるいは「後方」へと封じ込まれたものであることがわかる。
 しかしながら、「荒神」は、荒神山や地区を流れる小川の上流の「とどろの淵」などに潜み、信仰され続けた。そして、神楽の夜、「七荒神」の先陣を切ってまずは「舞荒神」が出現し、荒ぶる舞を舞う。

                        
                        <5>
     
          山の神に出会った日

 精霊トンボが群れ飛ぶ白鳥神社の前の広場から戸下の集落へ下り、真昼の集落を歩いていると、顔なじみの人に出会った。神楽の舞人の一人であった。この日は、地区民総出の夏草刈りの日だということで、ほどなく、仕事を終えた人たちが神社から集落へと続く道を下ってきた。それが神楽の伝承者の方々で、皆、山仕事の服装で軽トラックに乗り、鉈や鎌や草刈り機などを持っていたが、私にはその風景は、神楽の「舞い入れ」の行列と重なって見えた。

夕刻の慰労会の席に誘っていただき、神楽について語り合い、仮面について多くの情報を得た帰りに、川辺で酒盛りをしている一団に遭遇した。それは、同じく草刈り作業を終えた南川地区の人たちで、ここでは、南川に伝わる仮面の伝承事例などについて多くのことを聞き、交友を深めることができた。この日、私は、冬神楽の時とは違った「素顔の神楽人=山神の末裔」に出会った気分であった。
 戸下神楽では、白鳥権現の舞に続いて「村方」(山守ともいわれる山神神楽)の後、「八幡」が降臨、続く「将権」(弓の神楽)に続けて「天神」が出る。南川神楽では、「御大神」(神おろしの舞)の次に天神、「村方」(山守)に続いて「八幡大神」が降臨する。
 天神は梅の花を背負った勇壮かつ荘厳な神であり、八幡は弓矢を持った優美な神である。「八幡様」と「天神様」は、戸下地区では白鳥神社、南川地区では小払神社に合祀され、これらの仮面は各地区の個人の家に伝わっている。そして、「天神」は「天の神」であり神々が天降りした時にお供をした神、八幡は弓矢を持って鳥獣を得たことにちなむ神という伝承をもつ。
諸塚山の天神と八幡は、先住の山地民が奉祭した神に天神信仰、八幡神信仰が習合したものであることがわかる。

                                      

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             氏神白鳥権現の降臨                          
 ふと思い立って、諸塚山へ向かった。国道327号線を耳川沿いに遡り、美郷町と諸塚村の境にかかる橋を渡った所にある「荒谷」のバス停から右に折れ、山道に入る。道はすぐに険しい細道となり、山肌を縫って進む。
 ほどなく、戸下の集落が見えてきた。神楽の季節以外に訪ねるのは初めてである。真夏の村は無人だったが、白鳥神社の鳥居のある広場まで来ると、精霊トンボが群れ飛んでいた。網を空に向けて一掬いすれば、数十匹が一度に捕れるのではないかと思えるほどの大群であった。

 毎年、一月末に開催される戸下神楽では、正午過ぎには集落の上手にある白鳥神社に全員が集まり、神事の後、各々、神面を着けて行列し、神楽宿に舞い入る。「御拝」「御神屋ほめ」「地割」「とうせい(森・愛宕)」と続いた神事舞の後、「鬼神(猿田彦)」の先払いの舞いに続いて、神おろしの舞「御大神」があり、続く「権現」で白鳥権現が降臨する。
 白鳥神社の主祭神・白鳥権現とは、日本武尊である。豪快かつ優美な表情の面は、大和王権樹立後、西に赴き、東に遠征して活躍し、最後に悲運の死をとげる古代史最大級の英雄の面影を彷彿とさせる。
 日本武尊の九州での「熊襲征伐」や東北の「蝦夷退治」、「伊吹山での死」などを、神話学・歴史学では大和朝廷の国土平定に伴う軍旅の説話化とし、民俗学・地名学では、「古代製鉄」の拠点制圧の物語と読み解く。伊吹山で死んだ日本武尊の御魂(みたま)は、白鳥となって飛び去るが、その飛行のルートは、古代製鉄の拠点と重複するのである。
 戸下の白鳥権現は、古代の記憶や土地の伝承を秘めながら、神楽の場に降臨する。

                         


                        <3>
                
  猿田彦が守る土地で                   

三月下旬の暖かな一日、諸塚村「吉野宮)」の「座頭神祭」が開催される。この祭りは、三十三番の神楽が奉納される冬の大祭の後、諸塚の集落ごとに開催される祭りの最後を飾る。
 南北朝時代―
 諸塚山の峠を一人の座頭が越えようとした。その座頭は、じつは紀州・吉野の南朝方の密使で、米良を経て肥後の菊池氏を訪ねる旅の途中であり、大金を所持していた。通りがかりの商人が、その座頭を殺害し、金を奪ったことを機縁とし、村に災厄が降りかかった。恐れた村人は「吉野宮」を建立し、座頭を神として祀ったところ、座頭神は村の守護神・眼の神様として厚く信仰された(以上は吉野宮の由緒と地元の伝承を要約)。 
 この伝説にちなむ座頭神祭は、五百年以上を経た今も続けられ、今日に至っている。祭りの日には、山上の神社に多くの人が集まる。賭場が立ったというほどの往時の賑わいには及ばないが、数百人の参拝者が、遠近から、続々と集まって来るのである。

午前十時、神社での神事の後、隣接する拝殿で神楽三番が奉納される。剣を持った鎮魂の舞「地割」。それに続く清浄な白衣の舞「とうせい(山神の神楽)」。そして「鬼神」の舞。鬼神は猿田彦ともいわれ、土地神であり、境界を守護する神である。南川神楽、戸下神楽では、祭りの行列を先導し、先払いの舞を舞う。
 座頭神祭では、神楽に続いて、「日向盲僧琵琶」を伝える永田法順師が、琵琶の演奏に乗せて、諸神勧請祭文を語る。境内に据えられた座頭神の石造を背景に舞われる神楽と琵琶の演奏は、中世の山岳を駈ける修験者(山伏)や密偵、怨霊や土地神などが跳梁する世界へと、一気に観客を誘導する。ここには、神楽と芸能の原初の姿がある。

                                             

                        <2>                         
             降臨する山と森の神                       

 諸塚神楽の主役格の神「荒神」は、山の神信仰や星宿信仰にもとづく諸塚山の精霊神であり、地主神であると考えられるが、そのことはこの連載の中盤で詳述したい。

諸塚村・戸下神楽は地区の上手にある白鳥神社で神事を行った後、舞人たちが神面を着けて、長い石段を下ってゆく。急な石段を下りきったところに広場があり、舞人たちは神歌を歌い、荘厳な舞を舞いながらその広場を一周する。まさに、神の降臨を思わせる場面である。
その後、一行は、その日の神楽宿となる地区の公民館へと向かう。標高600〜900メートルの高地に点在する集落は、まるでアジアの山岳の村を思わせる。遠く、雪化粧をした椎葉の山塊と、それに連なる九州脊梁山地の重厚な山脈が見える。
 神楽の行列が山道を歩いて、集落にさしかかると、村人がそれを迎える。手を合わせて拝む老人もいる。仮面が、山と森の精霊すなわち「神」として迎えられるのである。

 諸塚の神楽に伝わる仮面は、「家」に伝わる例が多いという。神社の祭神の面を守る家、荒神の面を伝える家などがあって、それぞれが仮面を「神」として敬い、伝える。そして、一年に一度の神楽の折、その仮面を着けて舞を舞うことこそ、人生最高の晴れ舞台であり、誇りなのだという。神楽と仮面を伝える家に生まれた男子は、その舞を舞うために精進をし、練習を積み、敬虔な信仰生活を続ける。その厳しさが、稀有な芸能と仮面文化を伝承してきたのである。
 祭りの行列が、村の道を行く。まだ日は中天にあり、冬の陽光が仮面神を照らす。神楽宿は、公民館の建物から外に張り出すかたちで設えらている。その「外神屋」に次々に仮面神が舞い入り、いよいよ神楽三十三番が始まるのである。
                        



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高千穂から諸塚山へ

 高千穂・秋元集落の民家に泊めていただき、神楽の伝承者の皆さんと焼酎を酌み交わしている時、諸塚山は「太白山」とも呼ばれ、秋元から見るとその山頂には金星が輝く、という話を聞いた。それで、翌日、秋元の里からさらに山深い道を辿り、諸塚山の山頂を目指した。
 諸塚山系の山々は「六峰街道」と呼ばれる尾根道で結ばれており、東には遠く延岡市街を経て日向灘を望み、西には阿蘇の山並み、南に米良の山脈、北に高千穂の盆地を見ることができる。

 秋元神社の主祭神が「秋元太子大明神」であり、秋元神楽の主役格の神として降臨し、さらに舞い納めの日月の舞を舞うことはこの連載ですでにみてきた。秋元太子大明神は、別名「諸塚様」とも呼ばれる地主神である。諸塚山には、古くは妙見(北極星)、北斗七星、太白(金星)などを祀る星宿信仰の遺構が残る。
 かつては諸塚山系にも神楽が点在していたが、現在では、毎年、三十三番を上演する神楽は「南川神楽」「戸下神楽」の二座のみとなっている。いずれも、隣接する高千穂神楽・椎葉神楽の要素を含みながら、独自の様式を保つ。

 南川神楽は、六地区の回り持ちで、それぞれの地区の氏神を祀る神社で神事を行った後、神楽の一行が仮面を着けて神楽宿に舞い入る。
 仮面神は、「岩戸番付」に登場する神々や、八幡様、天神様、稲荷様などの氏神、そして諸塚神楽の主役格「三宝荒神」とそれにしたがう「舞荒神」などである。荒神面のなかには、神楽に登場しない面も見受けられるが、それらは、古くから村に祀られ続けてきた神であるという。
 この「荒神」とは、諸塚山の地主神であり、神楽の夜、降臨し、人々に幸をもたらす精霊神である。

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(SINCE.1999.5.20)