(6)
大口真神社を守り続けた「狼」の古形に出会った
狼(ニホンオオカミ)はかつて本州・四国・九州などにはかなり多くの分布がみられた。
体長82〜110センチメートル、尾長30センチメートル前後。「ヤマイヌ」とも呼ばれるが、
より原始的な種で、いわゆる「山犬・野犬」や人間に飼育される「犬」とは異なる。
四肢、耳介、吻(ふん)が短く、額が高まらない。体は灰褐色で背が黒く、目の周りに淡色斑(はん)がない。
頬(ほお)と四肢の内面は白色。シカを主食とし、時には人家近くに出没し、
牛や馬を襲ったり、旅人や杣人を襲うなどの人的被害もあったため、恐れられた。
1905年(明治38)に奈良県東吉野村の鷲家口(わしかぐち)で捕獲された若い雄を最後に絶滅したとみられる。
国内には剥製(はくせい)が3点、全身骨格が1点しか残っていない。
古記録、説話や伝承に語られる狼の話も多く、現在もしばしば目撃談があり、狼生存説も存在する。
九州の中央部・久住山を中心とした地域にも狼信仰の痕跡が残る。数年前のことになるが、
私は、この地方のものと伝えられる石造の「狼」を入手し、その年の「アートスペース繭」
の企画展に出品した。それは尾久彰三氏の目に止まり、氏の所蔵となって、
珠玉のコレクションが収蔵されている同氏の自宅の守護獣の位置を獲得したばかりか、
2010年に横浜のそごう美術館で開催された「観じる民藝」という同氏コレクションを展示した
展覧会にも出品され、さらに同名の著書(世界文化社)にも掲載された。
出世した狼族の一神というべきであろう。昨年、日本民藝館を退職された尾久さんは、
「愉快な骨董」「貧好きの骨董」などでも知られる収集家だが、私は、氏のご尽力により、
2004年に日本民藝館で「九州の民俗仮面展」を開催させていただくことができ、
220点の仮面を同館に展示するという幸運を得た。私にとっても、
九州の仮面たちにとっても恩人というべき先達である。
三峯神社を中心とする中部・関東山間部や奥多摩の武蔵御嶽神社などでは、
魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。
鹿などの食害をひきおこす動物を主食とする狼が、農業や林業被害等を防ぐ役割を果たすと考えられ、
その組織力や強靭な生命力などが畏敬され、神聖視され、信仰の対象とされたのである。
「犬神」「大口真神(おおくちまかみ)」「おイヌ様」「山峰様」などの信仰名がある。
先述した「オオカミの護符」を著した小倉美恵子氏は、幼い頃に見た「おイヌ様=オオカミ」
の護符が現在も自宅周辺(川崎市)に点在することに気づき、調査を開始し、
武蔵御嶽神社と関東平野の深い結びつきや現代に生きる信仰などを記録した。
今回の旅を先導してくれた石地まゆみ君も、母親の介護のために
少女期を過ごした自宅(町田市)に戻り、俳人としてのキャリアを加えて
周辺を散策・探訪を始めたところ、農家の土蔵や野菜の無人販売所などに張られている
「おイヌ様のお札」が眼にとまり、小倉氏の著書に出会ったのである。川崎も町田も、
多摩川流域にひろがる旧・武蔵国である。幾つかの縁が、私を武蔵御嶽神社へと導いてくれ、
そして、御嶽神社の最奥部に鎮座する「大口真神社」へとたどりついたような気がする。
写真はオオカミの護符が張られた町田市の農家。白洲正子の旧居「武相荘」の近く。
当主は白洲次郎・正子夫妻がこの地へ来たとき、農業を教えた人のご子息らしい。石地まゆみ撮影。
大口真神社は、武蔵御嶽神社本殿の真裏にあり、最も高い位置(御岳山頂)に坐している。
社殿の両脇を石造の狼が守護している(前回紹介)。社殿は以下のようにその由緒を語る。
『日本武尊が東征の際、この御岳山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が
大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜(やまびる)で大鹿を退治したが、
そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し道に迷われてしまう。そこへ、忽然と白狼が現れ、
西北へ尊の軍を導いた。尊は白狼に、「大口真神としてこの御岳山に留まり、
地を守れ」と仰せられ、以来、御嶽大神とともに「おいぬさま」と崇められ、関東一円の信仰を集めている。以来、魔除け・火難・盗難・病気・憑物など諸災厄の守護の神として霊験著しく、
この神符(オオカミの護符)を「お犬様」とあがめて、戸口に貼ったり、家の敷地内にお社を建立し、
家の守り神とする信仰が広まった。』
これをみれば、もともとこの山系に山岳信仰としての狼信仰があり、
それに日本武尊の東征説話が加わり、さらに密教・修験道・仏教等の要素が混交して
御嶽信仰が形成されたものであり、この大口真神社こそ、
御嶽信仰の古形を示すものであることがわかる。小ぶりではあるが重厚な造りの社殿を一周し、
その奥に聳える奥山を眺め、引き返しかけた時、石地君が、何かを発見したようで、急いで呼びに来た。
行ってみると、社殿の一番奥の、玉垣の端に一群の石塊がある。
壊れた石組みの一部のように見えたが、それは社殿が改築された時に
守護獣としての役目を終えて片付けられたまま、長い年月そこ放置されていた狼の「残欠」で、
それこそが、古い狼の石像であった。手足は折れ、顔も風化が進んでいたが、
私はこの狼たちの残像に出会ったことで満足した。石地君の俳人としての興味と
各地の神社廻りを続けている熱心さが、この山の「本体」に出会わせてくれたもののように思えた。
陽が西に傾き、森を金紫色の光線が照らした。晩秋の山は、静かな時間に包まれていた。
大口真神社を後に、山を降りかけた時、ぱさり、と草藪を踏むような音がして、
同時に再び私を呼ぶ声が聞こえた。それは石地君の声だったのか、あるいは、
この山の精霊神の声だったのか。振り向くと、西日の差し込む小さな塚の草むらの中に、
一体の石の狼がちょこんと座していた。その塚は、大口真神社の右前方を守護する位置にあり、
その奥には、広大な多摩・秩父の山へと続く小道が見えていた。
塚には「御嶽講」の参拝者たちが寄進した古い時代の板碑が立ち並んでいた。
これこそ、社殿裏に置き忘れられた残欠とは違う、現役の守護獣としての「狼」であり、
御嶽の「おイヌ様」であった。
(7)
武蔵御嶽神社に伝わる古代の呪法「太占(ふとまに)」
武蔵御嶽神社・大口真神社(おおくちまがみしゃ)を守護する位置にある小さな塚。
その塚の中ほどの草むらの中に座す古い石造の狼は、近世に作られた他の立派な狼像よりも美しく、
狼そのものの持つ野生や神性を表していると私は思った。おそらく、この像が造られたころは、
まだ身近に狼がいて、作者も、狼を信仰する山人や里人もその実相を掴み得たのだろう。
西日を受け、遠くを見つめるかのような狼の足元に、原型も定かではなくなった石塊があった。
それが、かつてはこの狼と一対をなし、大口真神社を守護し続けた「吽形」の狼であったのだろう。
容赦ない風化にさらされながら、なお生気を放つこの小像こそ、日本の狼信仰の原型を伝えるオブジェである。
大口真神社に隣接して、「太占(ふとまに)祭場」がある。
ここは、今も鹿骨を用いた古式の呪法「太占」を伝える場であった。
太占(ふとまに)とは、獣骨を用いた卜占である。起源は中国大陸に求められる。
殷墟(古代中国殷時代の遺跡)からは5000点に及ぶ甲骨(鹿・牛の肩甲骨、亀の甲羅)が発見され、
それが古代の卜占に使われたこと、読解可能であることなどから、甲骨文字すなわち
「漢字」の起源であることなどが確認された。
この呪法は古代日本にも伝わり、主に鹿の骨を用いた卜占「鹿占(しかうら)」が行なわれた。
現在、その太占を伝えるのは、東京都の武蔵御嶽神社、群馬県の貫前神社の二例のみである。
(8)
太占は農業カレンダー
武蔵御嶽神社の社務所には、「おイヌ様のお札(オオカミの護符)」や種々のお守り、
おみくじなどとともに、その年の「太占(ふとまに)」の結果表と鹿の肩甲骨が掲示されている。
これが、毎年正月3日に行なわれる「太占祭」の結果であり、「オオカミの護符」とともに
御嶽の御師(おし)によって、関東一円に配布されたものである。
武蔵御嶽神社では、
この太占は、鹿の肩甲骨を斎火で焙り、できた割れ目の位置でその年の農作物の出来、
不出来を占うもので、早稲・おくて・あわ・きび・ジャガイモ・人参など25種類が占われる。
豊作は十として、十段階に一まで作物ごとに占われた結果が判定されるのである。
この太占図に基づき、その年の天候を見極め、作物の植え付け、手入れ、
収穫の時期などを判断するのである。
古代中国で発生した卜占は、獣骨を焼き、その時に出来たひび割れが描き出す文様によって、
天候・農事・軍事などを占った。卜占を行なうのは、「王」であった。
神の声を聴き、神の意思を伝えるシャーマンこそが国の「王」だったのである。
王のもっとも重要な役割は、天文を観測し、それに基づいて天候を占い、農事を判断することであった。
古代国家においては、農事と軍事は一体であった。すなわち、食料の生産と戦争は不可分の関係にあり、
農事を無視して軍事を起こせば食料の欠乏によって敗戦に至り、王は、断罪されたのである。
生贄として神に捧げられた例さえみられる。後に、王の代役としてのシャーマン(呪者・神職など)が登場した。
武蔵御嶽神社の太占は、古代の呪法を引き継ぐ儀礼であり、今に生きる農業カレンダーであった。
武蔵御嶽神社の太占表。発行年不明。