〈1〉
4月3日は久しぶりの本格的な雨の一日。冬から春へかけて雨の少ない日々が続いていたから、山も森も渓谷も、そして田畑も喜ぶ雨である。
「穀雨」とは二十四節気の一つで清明(せいめい)ののち15日目、太陽の黄経が20度に達したときをいい、新暦では4月21日ごろの「百穀を潤し、芽を出させる雨」をいう。
南国の宮崎は、田起こしが始まり、山藤の花が咲き始めているから、
他の地域より少し早めの穀雨といっていいだろう
世の中は新型コロナウィル感染症の流行第四波の兆しが表れはじめており、外出や集会の自粛が求められているが、たくさんの方が集まってくれた。カロラさんの覚えたての日本語の挨拶、パートナーのKEYAKI君のディジュリドゥの演奏も素晴らしく、素敵なオープニングとなった。
〈2〉
ディジュリドゥとは、オーストラリア大陸先住民アボリジニが使用した民俗楽器である。もともとはシロアリに食われて筒状になったユーカリの木から作られたが、現在は金管楽器と分類されている。
複雑多岐に渡る演奏方法・使用目的がある。その名を出したり、楽器を見ることさえ禁じられる事例もあり、特殊な儀礼に使われる特殊なディジュリドゥもあるという。
奏者でカロルさんの夫のkeyaki narusawa君は、世界を廻る旅の途上でこの楽器に出会い、奏法を習得したらしい。その素晴らしい音楽性に感動の輪が広がった。
カロラさんはスイス、ベルン出身の写真家。
1994年、ドイツ・ベルリンの写真 warkshop にて基礎を学んだ後、ドイツ・スイスの様々な ワークショップに参加しながら独自の感性で写真を撮り始める。「物語を感じる瞬間を切り取る」をテーマに、これまで世界を旅しながら写真を撮り続けファンを増やし、2020年にはスイス首都ベルンのアート展覧会にて作品を発表、国内外から高い評価を得た。現在は宮崎県東郷町に移住し、写真とアート活動を続けている。
この展覧会のタイトル「壁の物語」は、会場となる古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」の経年してゆく壁に物語を感じて付けられた。
この展覧会では、彼女が旅をしてきた世界中の「壁のささやき」を紹介する。
「私にとって写真とは、その風景や瞬間を目の当たりにした時の印象を楽しむことを意味します。写真がいつも何度も私に新しい世界を見せてくれ驚かせてくれることに感謝します」
と彼女は言っている。
〈3〉
「この建物の後ろ姿は石井十次に似ている」
と、石井記念友愛社の児島草次郎理事長は仰る。建物が建設されたのは戦後のことだから、100年前にこの地に立ち、福祉と農業・教育・芸術が出会う理想郷づくりを目指し、戦前に亡くなった石井十次がこの建築物を見ることはなかったのだが、十次とともにこの地に入植した人々の子孫が敬虔な祈りを捧げ、友愛社復興の拠点となった古い教会には、多くの人々の心情やこの地の歴史が刻印されており、それが児童福祉に生涯を捧げた十次の面影と重なるのであろう。
始めてこの地を訪れた写真家のカロラさんは、瞬時にそのことを感受し、影像として写し取り、一連の「壁の物語」として作品化した。世界を旅してきた彼女の研ぎ澄まされた感性が、この古い建物の壁に流れる物語と響き合ったのである。
展示作品には、それぞれ、お洒落で旅情を誘われるなキャプションが付けられている。
・「シークレットウィンドゥ」 祈りの丘空想ギャラリー 木城町・日本。
これは子の展覧会のタイトルとなった作品に付けられたタイトルで、この建物の正面玄関上の窓。昨年、スズメバチが出入りし、巣をかけていたのでベニヤ板で塞いだ。それがこのように写真によって切り取られると、一点のアートとなり、手製の額に収められてオブジェともなる。
・「休息の時」 午後の静かな時間 奄美大島・日本には南国の島の結城雄の時間が流れている。
・「回帰」 古い空のイベントホール ベルリン・ドイツ「神秘のターコイズ」 /「秘密と一緒に」 リスボンのナイトウォーク ポルトガル/「フィッシャーポート」 那覇・日本/「唄」 ハバナのストリートアート キューバ/「人生の物語」 土曜日の朝の市場 チロエ・チリ
等々、一点ずつの作品を見ながら、キャプションを読み進むと、「壁」という空間に投影されたカロルさんの旅、それぞれの国の人々との交流や人生の軌跡などが、さながら一編の誌を読むような時空へと観るものをいざなう。そしてそれぞれの旅は、また何処へかと続いてゆく。
〈4〉
高千穂・阿蘇・福岡・由布院と巡って、帰って来た。二泊三日の小さな旅である。
旅から帰り、森を歩いて古い教会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」へ行く。どこかに「騒」の気を秘めた旅先の風景とは異なり、ここは静かである。刈り取られずに残っている草花にさえ愛着を感じる。都会は、マスクで顔を覆った人々が電車に乗って移動し、デパートで買い物をしていた。地下の食堂街も満席である。普段とあまり変わらない人手だが、皆がマスクをしているため、何処も、しん、と無音の世界が広がっているように見えた。輝くばかりの新緑に包まれた高千穂や阿蘇は、ツーリングのバイクや遠出の車であふれていた。「密」な都市から逃れ出た人々が、山や森でまた過密を作り出すのだ。新型コロナウィルス感染症の蔓延が続く日常の至るところに変異があり、異常がある。
スイス人写真家・カロラ写真展「壁の物語」も会期終盤を迎えた。ここは、無人のギャラリーだが、ポツリポツリと訪ねて来てくれる人がおり、作品との対話が重ねられている。
先日の朝日新聞「天声人語」の記事では、フランシス・ベーコンの作品展を見た記者氏が、やはり、内覧会の無観客で見る展覧会と多くの客が訪れ、観客と作品とが対話し、火花を散らしているような会場で見る展示とは、異なった感銘を受けると書いていた。
天声人語もたまにはいいことを言う、と田舎の老翁を感心させた一文であった。
フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909年10月28日 - 1992年4月28日)は、アイルランド生まれのイギリス人画家である。抽象絵画が全盛となった第二次世界大戦後の美術界において、具象絵画にこだわり続けたが、その画風は、激しくデフォルメされ、歪められ、あるいは大きな口を開けて叫ぶ奇怪な人間像が描かれているもので、現代美術に多大な影響を与えた。
人間存在の根本にある不安を描き出した作品群と評価されている。コロナ過の不安に慄く現代の世相を予知した画風ともいえよう。このような「絵画」はやはりじかに現物に触れることによって得られる感動というものがある。
その強烈な「気」とエネルギーが観るものを圧倒するのであろう。
カロラさんの作品は、世界を旅して撮りためた写真を、木の板や古木を組み合わせたコーディネートによって一点のオブジェとしたものである。その土地の生活や、そこにたたずむ人物、「壁」に流れる空気や物語などまでをつむぎ出す作品となっている。それらが作り出す旅情はこの古い教会を改装したギャラリーに響き合い、詩的空間を構成することに成功している。
来館者は多くはないが、この展覧会も上質の「見者」に寄って支えられている、と私は考える。「見者」とは(けんじゃ)と読む。「観客」と同じ意味だが、古美術や相撲、伝統演劇等の世界では「見巧者(みこうしゃ)」「目利き」などと表現する。技の優劣、作品の質、作者の意図や心理状態、歴史的な位置づけなどを瞬時に見分ける「眼力」をそなえた人々のことである。これらの人々が、芸術・文化・芸能を支える一方の主役であり、「展覧会」を構成する不可欠の要素であることは言うまでもない。
良い客が良い「もの」や上質の「展示」を支え、育てるのである。
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