インターネット空想の森美術館
 インターネット空想の森美術館
     ☆森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館☆     
 

INDEX

ホーム


九州民俗仮面美術館

九州神楽紀行

鹿祭りの里へ・奥日向中之又の四季


九州の民俗仮面考

黒い女面/
黒神子


猿田彦

海神の仮面

王の仮面

忍者と仮面

鬼に会う旅

荒神問答

米良の宿神

道化

翁面


森の空想
エッセイ

森のアートワークショップ

遼太朗の
美術館日記

自然布を織る

自由旅

漂泊する仮面

森の空想コレクション室

由布院空想の森美術館の15年

高見乾司の本

活動ファイル



メール


骨董伝説
―Lejend of Kottoh―

  古い町を通り過ぎた時、ふと思いついて引き返し、旧知のコレクターを訪ねた。
 市内を大きな川が貫流し、「江戸」の昔には商業都市として栄え、文教の町として多くの文人墨客を集めた町並みが、その川筋に沿って甍を連ねる。
古風で清雅な風景を見下ろす高台にその家はあって、数万点に及ぶ収集品で埋まっている。凄腕のコレクターとして、九州の古美術界にその名を知られたかつての風雲児も、年月の皺は、風化を重ねた骨董品と同じ風合いをその顔に刻印していた。私の骨董入門の先達でもあり、厳しく収集から売買までの基礎を叩き込まれた人でもあったが、異なる道に進路を分けて以来、四半世紀に近い時間が経過していた。

―互いに年寄りの部類に入る年齢になったなあ。

―気持ちだけは若い頃と変わっていないつもりですがね。若者たちから年齢の自覚のない老人≠ニいう扱いを受けたり、仙人≠ニ呼ばれたりするのですから、時の流れというものは、容赦のないものですね。

―君も一時代を築いた男だから、伝説≠フ域に入りつつあるということだな。

―いやいや、九州の骨董界における伝説の男といえば、先輩のほかには居らぬでしょう。

 春の午後のひととき、薫り高い茶を喫しながら交わした会話を要約すれば以上のようになるが、当日のこのようなやり取りの後、

「骨董伝説―Lejend of Kottoh― 」

 という企画が生まれた。この時期、ロシアの小都市ソチで開催された冬季オリンピックで、スキーの葛西選手が「レジェンド」と呼ばれたことの「もどき」であることはあきらかであるが、それもまた「物数寄」から発する遊び心である。

 骨董といえども、価値観は変転する。いわゆる「骨董」を「武具甲冑・書画・古陶磁」が象徴した時代から「民藝」へ。さらに「生活骨董」から「昭和レトロ」を経て「アート・アンティーク」へ。
 昔は良かったなどという述懐こそ、無用。悟っているようでまだ枯れきってはいない、草臥れたようでまだ充分に熱気がさめていない男ども。一つの時代を駆け抜け、老境にさしかかった二人の風狂人が企図する美の逍遥空間。その到達点としてのひとつの明快なイメージが、私にはある。が、それはここではまだ明らかにせず、目的地の決められていない旅を楽しむことを上策としよう。


 上記の経緯により「骨董伝説―Lejend of Kottoh―」のコーナーが開設されました。
膨大なコレクションの中から、まずは筆者(高見)の眼で選出したものを掲示するという願ってもない企画となりました。
その後、先達からどのような「仕掛け」が提示されるか、楽しみではありませんか。

                   
                    

                平佐 染付大徳利

                          江戸時代 
      
                          詳しく見る

「平佐焼」の優品である。高さ37センチ、胴回りの幅30センチ。正面に蘭(と思われる)の花が二束と菊の花が豪快な筆触で描かれている。裏面には蘭の花が一束。蘭と思しき植物には、根っこの髭まで描かれているから、何らかの縁起物では主題があるのかもしれない。
平佐の由緒については、「骨董:アートアンティーク/平佐の郷愁」より転載。

                          ☆☆☆

「平佐(ひらさ)焼」はかつての薩摩国平佐郷(現在の鹿児島県薩摩川内市天辰町)にあった磁器窯である。薩摩藩内では、磁器の原料となる陶石を産出しなかったので、天草から陶石を運び、磁器を焼いた。

この平佐焼の開窯期については、1776年に当地の今井儀右衛門が肥前有田から陶工を招いて開窯、
その後数年で廃絶、それを惜しんだ北郷家の家老伊地知団右衛門が領主の北郷久陣(ほんごうひさつら)に頼み、ふたたび有田から陶工を招いて開窯した、という伝承が実態に近いように思える。
他に安永
78177879)年であるとする考古学者の研究がある。

薩摩川内市には、天孫降臨伝承にちなむニニギノミコトの陵墓と伝えられる可愛山陵(えのさんりょう)があり、この山陵を守護する位置に立つ新田神社には、ニニギノミコトに随従した五神と伝えられる
五色の仮面「五伴緒面(いつとものおのめん)」が伝わっている。

可愛山陵からは、川内川を望むことができる。この川内川は、天孫降臨伝承の分布地の一つである、
はるか東方の霧島山系を源流とする。つまり、川内川は霧島山を水源とし、
えびの盆地を経由し、川内平野を流れ下って東シナ海へと注ぐのである。

可愛山陵よりやや上流の川内川のほとりに天辰町があり、そこに「平佐焼窯元」の跡地がある。二基の窯が当時の面影を残して並んでいる。平佐焼は北郷家の保護のもと、肥前風(古伊万里様式)の染付、赤絵、鼈甲手など、多彩な様式の磁器を生産し、薩摩藩内最大の磁器窯として隆盛したが、明治期の廃藩置県により北郷家の保護を失うと、次第に衰退し、昭和16年に廃窯となった。

薩摩藩内の古陶としては「白薩摩」「黒薩摩」で名高い龍文字焼、苗代川焼などの薩摩藩に
保護された窯があるが、いずれも陶土による陶器であったため、白い肌を持つ有田(古伊万里)
の磁器に対しては強い憧れがあった。江戸中期以降の平佐焼の隆盛はこれを背景とする。

この地方には、中秋名月に重さ5トンにも達する大綱を3000人の男衆が引き合う「十五夜大綱引き」、文禄・慶長の役で朝鮮半島へ出兵したまま帰らぬ夫をしのぶ哀切な踊り「久見崎の想夫恋」などの祭りがある。前述の天孫降臨伝承やこれらの民俗と平佐焼の直接の関連はないが、このような風土の上に形成された焼物という認識も、平佐焼を理解する要素として把握しておいてよい。唐津・伊万里・薩摩藩諸窯、
ともに文禄・慶長の役で朝鮮半島から連れて来られた朝鮮陶工をその始祖とする。

骨董業者の間で、「初期伊万里で迷ったら平佐を疑え」といわれた一時期があるが、平佐焼が李朝の面影を残し、初期伊万里や古伊万里と混同されて流通したことの背景も、この起源と経歴による。白磁でありながら、潤いのある青みがかった肌の色は、源郷の色を宿す郷愁の色であった


                

               亀山焼 魚文大杯洗
                          江戸時代 

亀山焼の大杯洗である。江戸中期以降、伊万里の技法が各地に伝えられたが、亀山焼もその一つ。亀山焼は江戸後期に長崎で焼かれた磁器。上質の白磁に中国から輸入された呉須を用いて、繊細な山水、花鳥などの文人画風の絵付けを行なった。石畳文や南蛮人など、長崎特有の異国情緒を漂わせた図柄もある。坂本竜馬が愛用した茶碗も亀山焼といわれる。
この杯洗は、高さ20センチ、幅30センチの最大級の杯洗である。茶屋や遊郭などの上席で使われたものであろう。魚の図柄は、秀逸。魚種は不明。


                         詳しく見る

                     

              白薩摩金襴手徳利 江戸時代 

「白薩摩」は豪華絢爛たる「献上物」で知られるが、これは、庶民の使う徳利と同じ形状のものに金彩、赤、緑などが施され、優美な逸品となった。高さ25センチ、幅13センチ。

豊臣秀吉による朝鮮半島出兵、いわゆる文禄・慶長の役(1592−98)の折、薩摩藩主・島津義弘が連れ帰った80人余の朝鮮人陶工は、薩摩藩内に居住地を与えられて開窯、薩摩焼の源流をなした。藩内各地で興隆したこれらの焼物を総称して「薩摩焼」と呼ぶが、「帖佐焼」「苗代川焼」「龍門寺焼」「長太郎焼」などを主流に、多くの窯がある。作風は、藩に献上した「白薩摩(白もん)」と庶民の日常雑記「黒薩摩(黒もん)」の二系統に大別される。陶石を産出しなかった薩摩藩内では、白土を工夫し、精緻で豪華絢爛たる「白薩摩」を完成させた


                        詳しく見る

                     

                古上野 蛇蝎釉徳利  
                  江戸時代 

蛇蝎釉とは、蛇(へび)や蝎(さそり)の肌を思わせる仕上がりとなる釉薬のこと。伸縮率の異なる釉薬を二重に掛けることで伸縮率の差異が生まれ,罅割れや凹凸が発生して、深い味わいの陶肌となる。上野ではしばしば用いられ、珍品として愛蔵された。

上野焼は江戸初期に小倉藩主となった細川忠興が朝鮮人陶工を招いて登り窯を築き、焼かせたのが始まりとされる。柔らかな陶土に青緑釉、鉄釉、白褐釉、黄褐釉など様々な釉薬を用いるため、多様な窯変を生み出し、茶人に愛好された。明治期に一度廃絶したが、後に復興。


                          詳しく見る


sssssssssssssssssssssssssssssssss
        
                       古高取 竹筒徳利
                          江戸時代

竹筒を象った徳利である。山仕事に通う杣人などは、手近にある竹を切り、水筒を作ったり、酒器として用いたりした。それを茶人が花入れと見立て、さらにそこから陶器の竹筒型酒器が生まれたのである。艶のある褐釉と口辺から肩口へかけてかかる朝鮮唐津風の灰釉と緑釉が美しい。

高取焼は、文禄・慶長の両役に参加黒田長政連れ帰った朝鮮人陶工によって豊前鷹取山麓に開窯され、「高取焼」と呼ばれた。長政の転封により、筑前に移り、その後小堀遠州の指導により七色の釉薬を特色とする「綺麗寂び」と呼ばれる茶陶を展開した。


                      詳しく見る


              

                古高取 瓢型徳利 
                  江戸時代

「瓢」はヒョウタンの果実を、内部の果肉を取り去って中空にし、乾燥させて容器としたもので、古来、水・酒・穀物などの容器とした。豊臣秀吉が馬印として千成瓢箪を用いたこともあって縁起物として茶席に用いられ、様々な意匠を生んだ。硬めに焼きあがった肌理の細かい陶土、褐釉と灰釉の調和など、まさに「綺麗寂び」の趣意に適うものである。
*惜しいかな、口縁に直しあり。


              詳しく見る


                     

                   古伊万里茄子型花菱文染付徳利
                           江戸時代

なんと、茄子の形をした酒器である。肩口のぎざぎざ模様は、茄子のヘタである。その見事に抽象化された意匠。胴部には、花菱または亀甲崩しの連続文様。古伊万里の真骨頂、江戸のデザインの極地ともいうべき逸品である。

             詳しく見る


              
             
               古伊万里染錦面取花瓶
     
                 明治初期

江戸から明治へと引き継がれた、伊万里赤絵のデザイン。花垣文、雲鶴文、菊花文など、さまざまな要素を織り込みながら、どこかすっきりとした立ち姿。瀟洒な洋館の窓辺にでも飾られたか。あるいは、商家の若奥様が、静かに茶を点てる床の間に置かれていたか。いずれにも似合いそうな、佳品である。


              

               古伊万里色絵瓢型徳利

                 江戸時代

瓢型の胴部には、鎧の胴と軍配が描かれている。反対側には扇に花柄の文様。胴部の括れを、染付けの紐が締める。赤・淡紅・緑の花びらが、鮮麗な白磁の器面に散る。
夜桜の散る一夜、気心の知れた男どもが集まった席に、さりげなく使ってみたい徳利である。


                    

                    古伊万里色絵福寿文徳利
   
                         江戸時代

この形の徳利は、明治時代から大正・昭和の頃まで盛んに使われた。ベストデザインというべき徳利であろう。牡丹や笹を描いたものが多く、俗に牡丹徳利、笹徳利とも呼ばれた。酒店の屋号や饂飩屋の店名が書かれたものなどもあり、貧乏徳利とも。掲出は、江戸期のもの。福寿の文字に目出た尽くしの絵柄がほどよく配置されて。


Copyright(C)1999 by the YUFUIN FANCY FOREST MUSEUM OF ART
森の空想ミュージアムホームページ(http://www2.ocn.nejp/~yufuin以下)
に含まれるすべてのデータについて無断で転載・転用することを禁止します。

◆リンクについて、非商用目的なものに限り自由です。リンクを張られる際は
takamik@tea.ocn.ne.jpまでご一報ください。編集・高見乾司
(SINCE.1999.5.20)

森の空想ミュージアム