インターネット空想の森美術館
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このコーナーの文は、加筆・再構成し
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風を釣る日々 

のコーナーは「遼太郎の美術館日記」「遼太郎の釣り日記」
および「リョウとがんじいの渓流釣り日記」を改題した「仙人の釣り方」
の続編です。新たに三人の釣り師、初心者のアンジン君
などが加わり、さらに九州脊梁山地の渓谷深く分け入っていきます。



鈴木遼太郎君は小学校に上がる前から森の空想ミュージアムに出入りし、
「九州民俗仮面美術館」の開設も一緒に行いました。また、小学五年生か
ら渓流に入り、ヤマメ釣りの奥義や「山料理」、山菜や薬草採りの知識等
の山で生きる知恵すなわち<生態系のメカニズムと人間との共生の原理>
さらには骨董の美学などをがんじいこと高見乾司(最近では仙人と呼ばれ
ることがある)から伝授されてきました。その遼太郎君もすでに高校を卒業
し、大学生に。人生の節目がやってくるとともに多忙な日々が過ぎてゆき
ます。遼太郎君とはいつかまた一緒に谷に入る時期がくるでしょう。それま
での間、彼との思い出や渓流でのさまざまな出会いなども含めて記録します。


風を釣る日々



<19>
詩人の渓・人生最後の釣り
釣友の伊藤冬留氏と美絵子夫妻が、今季をかぎりに竿を置いた。
今回の小さな旅が、文字通り、お二人の人生最後の釣行となったのである。



詩人の冬留さんは、穏やかに釣る。ヤマメ釣りを始めた時はすでに70歳を過ぎていたが、北海道で少年期を過ごし、お兄さんが魚篭一杯のヤマメやイワナを釣って来たのを見たことがあるという経験と、若い頃から山登りで鍛えた足腰にものをいわせ、良く谷を歩いたことで、すぐに上達した。想定外の距離を遡行していて驚いたことが何度もあるが、総じて、穏やかな釣りである。悠然と竿を振り、流れ行く水と対話している。川辺で手帳を開き、長い時間、
空や山の果て、谷間の景色などを眺めていることもある。これもまた釣りである。



奥様の美絵子さんとは、「神楽」と「仮面」をめぐる旅の途上で出会い、ご一緒する機会が増えた。ご主人を川に見送った後、自分も入渓するが、かなり厳しい流れに立ち込んで釣っていることもある。そして、思いがけない釣果をあげていることがある。三人でアジアの奥地を歩いたこともある。多くの思い出があるが、それはこれから発酵して、
それぞれの心の中で新しい物語を育んでゆくことだろう。



冬留さんが、80歳を迎えることを機に、お二人は竿を置く決心をしたのである。
私は、冬留さんが25センチを超える大物を釣り上げる腕前になり、釣り姿も美しく整ってきたので、老境に入ったらそれなりの釣り方があると思っていたのだが、この選択もまた正しいと思う。渓流では、急な増水、予期せぬ転倒、蜂の襲撃、蝮の潜む藪などの危険が至るところに潜んでおり、大きな事故を誘発する例も多い。良い時期に、きっぱりと竿を置く、それもまた釣りの極意の一つと心得ておこう。冬留さんの釣り方や竿の置き方から学んだことは多い。


・古民家を改装した宿と蕎麦の花

渓流釣りの楽しみの一つに釣り宿での釣り談義が上げられる。釣り師のほら話のばかばかしさは、釣りに関心のない人たちには耐えがたいものだが、仲間同士での自慢話はまた格別なものがある。しばしばサイズが
誇張され、逃がした魚の大きさを比べあうのであるが、それはそれでやはり楽しい。
釣り宿といっても、私たちの泊まるのは山の中のコテージや古民家を改装した宿、農家民宿などであり、それぞれに風趣がある。山菜や釣ったばかりのヤマメを料理したり、猪肉が手に入れば猪鍋を囲む。宿の主との交友も嬉しい。
冬留さん、美絵子さんのお二人は、釣りの前日、または釣り終えた日に我が家(九州民俗仮面美術館)まで足を伸ばし、一泊する。釣り談義に加え、神楽の話や仮面論に花が咲くのである。そして一晩、仮面の展示室
に泊まって次の目的地へ向かう。
宿では、テレビや新聞を見ていた冬留さんが、怒りだすことがある。それは概ね、政治の状況や
災害への対応、「原発」を巡る経緯などである。
「ニュースを見ることが不愉快な世の中になってしまった」
と温厚な冬留さんが慨嘆し、怒りの言葉を発するのである。それは多くの庶民の感覚と同質のものであるが、
詩人の言葉は鋭い矢となって放たれ、心にしみてくる。
そんな冬留さんが、谷から帰ると
「今日一日、不愉快なことは一切、頭に浮かばなかった」
と笑う。これもまた釣りの効能である。私はこのことを
「怒れる詩人の谷」
というタイトルで深く掘り下げて書こうと思ったこともあるが、それはやめておく。
詩人は、すでに竿を置いたのである。



最後の釣行から帰った日、冬留さんと二人、前庭で火を焚き、炭火を熾してヤマメを焼き上げた。
それを老母(86歳)が年季の入った腕前で甘露煮に仕上げた。それが、「サシバ(鷹)の渡り」
を見るために、翌日の早朝出発したお二人への手土産となった。


<18>
枯れ枝で釣った一匹


二日前に、釣友渓声君が0、175という極細の釣糸で釣る超名人であるということを書いたが、
それがどれほど凄いことかを説明しておこう。
私たちが普通にヤマメ釣りに使う釣糸は、0、8~0、6程度のものである。詳しく調べていないが、0、8といえば
0、8mmのものだろう。要するに、ヤマメは1ミリ以下の細い糸で釣るのである。
私は長い間、「銀鱗0、8号」で釣ってきた。ヤマメは小学生程度の仕掛けで釣れる、というのがいわば信念
のようなものであった。「銀鱗」という糸は、子供の頃から親しんだ釣糸であった。



「銀鱗」が店頭から消えてからも、私は0、8を使い続けていた。科学技術の進歩に伴い、竿も糸も細く丈夫に
なってゆく。そのことに対する抵抗感というか、やや依怙地な気分であった。
―竹竿でも、木綿糸でも釣れる。
つまり、
―腕前である
と言いたいのだ。
ところが、あるとき、手持ちの糸を使いきって困っていたら、
「これで良かったら、使ってください。」
と同行者が差し出してくれたのが、0、6の糸であった。やむなく、それで釣ってみたら、飛躍的な釣果を得た。
嘘のように釣れるのである。私はあっさりと信条を捨てた。

その時の衝撃を、釣り宿で話すたびに、渓声君は、
「見えているのですよ」
という。
ヤマメの目には、0、6ミリ程度の糸までは見えている、というのである。
そのことならば、私にもわかる。
もう0、6で釣り始めていた頃のことだが、ある夏、源流部の、水底の小石まで見分けられるほど澄み切った水の谷で釣っていて、大小10匹近いヤマメが群れているポイントに出会った。しめしめ、とばかりに近づき、岩陰から、そっと上流に糸を落とし込み、静かに流れに乗せて寄せていったところ、糸が接近した瞬間、彼らは一斉に、四方に散り、水の中には一匹も姿が見えなくなっていた。つまり、彼らには、糸が「見えている」のである。



0、6で釣り始めてから、よく釣れるようにはなったが、よく切れる。0、8ならば、木の枝に引っ掛けてもつよく引っ張れば木の葉ごとむしり取って外れてくることがあるが、0、6ではそうはいかない。プツリと切れる。
強度はそれほどまでに違いがある。
「合わせ切れ」というのは、魚が針に食いついた瞬間、ピシリと合わせた糸が切れることをいう。0、6の釣糸でも1kg程度の重量の物体を吊り下げることはできるが、それほど、釣り糸とは丈夫なものであるが、魚が
掛かった瞬間の衝撃はそれを瞬時に断ち切るほどの圧力なのだ。
0、8なら、強引に合わせてヤマメが中空を泳いで身元にくるという豪放な釣りが可能だが、0、6では切れる。軽く合わせて、水中を泳がせながら手元に引き寄せ、取り込むのが0、6の釣りである。0、8と0、6のわずか0、01ミリの差でもこれほどの違いなのであるから、0、175いう細さは、想像を絶する。考えるのも嫌になる。一体、どうやって針を結んだり、錘を付けたりするのだろう。「合わせ」の加減はどうなのだろう。
「これだと、ヤマメに糸は見えていない」
渓声君はこう解説する。そして
「手首を軽く返すだけです」
と合わせの極意を開陳する。
とてもとても、私どもにできる「わざ」ではない。
その渓声君が、今回の釣行では難儀した。一日目は3匹。二日目、午前中1匹。それで、
夕刻の釣りでは仕掛けを0、175に換えて、やっと1匹。最終日はゼロ。ヤマメ釣りとは、
まことに玄妙なるものである。

今季、私は0、6の糸で何度も「合わせ切れ」をやった。まだまだ未熟ものと自覚すべきである。
一度目は、子供たちをつれて谷に入り、模範試技よろしく、最初のポイントで振り込んでみせたら、
合わせた瞬間に切れた。
―カッコ悪いなあ。
私は照れて、水の中にざぶざぶと入り、
「糸を付けたまま生きてゆく魚のことが気の毒なのだ」
などと弁明しながら、水中にゆらぐ目じるしを探し、糸を掴もうとしたが、それは果たされなかった。
二度目は、雨模様の暗い谷間で、切れた糸を手繰り、引き寄せようとしたが、何かに引っかかって動かない。
よほどの大物だと思って、深く手を水中に差し込み、獲物を得ようとした途端、ぬらり、と白く揺れるものが
それを掴んでいるのが見えた。
―手だ!?
水死人の手が、ヤマメをつかんでいるようにも、水の妖怪が私を水中へ呼び込もうとしているようにも
思えてぞっとしたが、気を取り直してよく見ると、それは岩に引っかかったビニール袋の断片だった。
こんな日は、釣りはやめて早々に退散したほうがよい。
三度目が、今季最後の釣行であった。
源流部の谷に入ったので良く釣れたが、目標の200匹目を目前にして、ぱたりとアタリが止まり、
しばらくの間釣れない時間帯が続いた。
それでも辛抱して釣り進み、藪の中の難しいポイントに竿を弓のように撓めて振り込むと、案の定、糸(餌)が着水した瞬間、水面にわずかな揺らぎが見えた。間髪を入れず、合わせたが、残念、糸は切れていた。
諦めきれずに深みを見ると、水中を泳ぐ目じるしが見える。それで、辺りを見回し、目に止まった手ごろな枯れ枝を拾ってきて、枝先の二つに分かれた部分を先端にして、水中に差し込み、目じるしの付いている
部分を起点にして、そっと、糸を巻きつけ、引き上げた。
今季の200匹目は、枯れ枝で釣り上げたのである。


<17>
ヤマメの卵―黄金イクラ―は秋の森の宝物


ヤマメ釣りシーズンの最後を締めくくる、秋の谷の釣りでは、切ない場面に遭遇することがある。
産卵期を控えたヤマメは、活発な採餌行動を開始しているため、よく釣れるのだが、釣果の半数以上をメスが占めていることがある。産卵前に、そしてそのあとすぐにやってくる厳しい冬を耐え抜くために、
体力を蓄えておかなければならぬのだ。
釣り上げたヤマメの後を、そのパートナーと思われる影が水際まで追ってくることもある。そのような場合、
釣れているのはメスで、恋人を追いかけてくるのはオスである。
―おい、おい、オレを捨ててどこへいくのだよー?
―あっ、あ。釣り上げられてしまった!?
とばかりに、慌てて反転する「けしき」は「あはれ」の範疇である。

25センチ級の大物になると、腹が大きく膨らんでいるから、すぐにメスだと判別できる。それで、
―うんと、卵を産んでくれよ。
と小さく声をかけながら水に放してやる。悠然と水流の中へと引き返してゆく魚体に近づく
別の魚影(相方に違いない)を確認すると、少し安堵する。
だが、20センチ前後のものやそれ以下のものは、目視では雌雄の区別がつかない。それゆえ、
「漁獲」となるのだが、釣り終えて腹を割いてみると、充分に成長した卵がとろりとはみ出てくる。これが切ない。
―しまった、メスだったか・・・
―放してやればよかったものを・・・
と後悔するぐらいなら、この季節には釣らない、という選択をすればよいのだが、そうはならぬ。
釣り師の欲望は、原始的な狩猟本能とセットであるから、
「釣れるときには釣る」
という衝動を抑えきれないのだ。


・二泊三日の収穫。大きい皿は「尺皿(直径33センチの皿)」、青い明治印判手の皿が「八寸皿」。
大物揃いであることがお分かりいただけると思う。白磁の皿にヤマメの卵。

今季最後の釣行では、かなりの分量のヤマメの卵を確保できた。
食べることにする。
これまで、卵も内臓と一緒に川に流し、小魚や沢蟹、水生昆虫などの餌にして、循環の法則に
戻すことを原則としてきたが、狩りの秘伝書「諏訪の祭文」にも、食することが供養である、
と書かれている。古来、山川の恵みをいただくことも、狩猟の目的
のひとつでり、「山の暮らし」の一こまであった。



ヤマメの卵の調理法は、さほど難しいものではない。
一度、釣ったばかりのヤマメの卵を口に入れてみたが、これは生臭くて食えたものではなかった。
まず、谷から上がる時、よく水洗いし、塩を振っておく。
持ち帰り、少し熱いくらいのお湯に塩を入れ、それにヤマメの卵を入れてよく洗う。このとき、
汚れや皮膜などを洗い落とす。
次に笊にとり、軽く水洗いした後、もう一度お湯で洗う。このとき、少量の酒を加えるとよい。
これにより、臭みがとれ、紅色だった卵が「黄金色」となる。養殖ヤマメの卵を「黄金イクラ」と称して販売している例があり、私はこれまで、それは誇大広告ではないか、と思っていたのだが、決して誇張ではなく、
まさに秋の森の色を映した黄金色だということがわかった。

ダシを作る。インターネットで検索すると、いろいろと難しいことを書いているものもあるが、わかりやすくいえば、
「数の子」を漬け込むダシ汁を作り、それに漬け込めばよい。それぞれに秘訣があるだろう。



これで、すぐに食べられるが、塩漬けや醤油浸けにして保存しておくと、芳醇の度を増す。
折から、白神山地の酒を入手。白磁染付けの小鉢、唐津の盃で一杯。木綿豆腐の上に一匙。
背景に映っているのは老母の自慢のヤマメの甘露煮。
かすかな森の香り、谷の音、そしてちょっと切なさの混淆した、絶妙の味であった。


<15>
蜘蛛の糸にかかった一枚の木の葉と釣り師の関係




ヤマメ釣りには、六つの楽しみがある、と釣友の艸炎君は言う。
列挙しよう。

その一、仕掛けをつくる 前日、次の日に行く渓流のことを思い浮かべながら、仕掛けを作る。餌釣り、テンカラ釣り、フライ、ルアーなど、釣人によって仕掛けはさまざま。すでに釣りが始まっている。
その二、釣る 釣れても釣れなくても良し。
その三、料理し、食べる 釣果に感謝しながら自然の恵みをいただく。これほどうれしく美味なるものはない。
その四、自慢話 釣り師の自慢話ほどばかばかしいものはないが、時々、含蓄のある言葉に出会うことがある。
その五、心身の健康 人生における難問に直面した時、心に鬱屈のある時などは谷に入り、無心になること。
その六、自然と対話し、自然に同化すること 渓流釣りこそ風流の極地。かつて渓流の仙人といわれた佐藤垢石翁は、スランプに陥った作家の井伏鱒二に対して、「井伏くん、釣りとは山川草木と一体になることだよ」と言った。
渓流釣りの極意である。

上記六つの楽しみの中から、もっともばかばかしい釣り宿の釣り談義でのエピソードをひとつ。



蜘蛛の糸に、一枚の木の葉が引っかかり、ゆらり、と揺れた。
それを見て、艸炎氏は
―ははあ、渓声氏が残しておいてくれたポイントだな・・・
と判断する。

渓流釣りにおける蜘蛛の巣は、大変厄介な相手である。
夏から秋へかけて、狭い谷に張り渡された蜘蛛の糸が、投げ入れた釣り糸に絡んでたちまち縺れたり、餌が目指すポイントに落ちなかったりする。水面近くで揺れている餌に大物が飛びついてきて届かず、慌てて水中に戻る場面なども出現する。竿や糸にくっついた蜘蛛の糸はねばねばと粘り、仕掛けを一つ無駄にすることもある。
だが、
―しめしめ、蜘蛛の糸があるということは、まだこの谷に他の釣り人は入っていないということだ。
と観取し、手近な木切れなどで払って釣り進めば、思わぬ釣果を得ることもある。
把握の基準によって好悪・善悪は逆転する。釣りもまたしかり。

この三日間の旅では、二日目の夕刻まで、艸炎君に思ったほどの釣果がなかったので、渓声君と私は第一等のポイントを彼に譲り、なおかつ、渓声君は入渓した地点の絶好のポイントを外して、やや上流から釣り始めるという配慮をしていたのだ。それを瞬時に読み取る艸炎君もまた達人の境地に近づいている。
ただし、結果はあまりめでたくはなかった。夕暮れまでの二時間ほどの釣りで艸炎君の釣果6匹に対し、渓声君1匹という惨状。それが、翌日(今季最終日の釣り、すなわち昨日の記事)の経緯へと連環してゆくのである。

古民家を改装した風雅な釣り宿での、一枚の木の葉を巡る釣り談義もまた、玄妙なるものであった。

<14>
秋の渓を行く



・紅葉の谷へ


・今年最後の釣り(9月30日午前中)の釣果は、原種のヤマメ9匹(22センチ~26センチ6匹を含む)。
有終の美を飾ったベストナイン。
・今季(3月21日~9月30日まで)の釣果合計215匹。
上々のシーズンを紅葉の始まった谷で終えられた幸福。

    ☆☆☆

秋の谷を、静かに落ち葉が流れ下る。
このとき、黄葉した榎の葉とともに、産卵を終えたヤマメが谷を下る。
ヤマメの体側の斑紋が、榎葉の黄色と混合する。
この「けしき」を愛で、九州脊梁山地の山人たちは、ヤマメのことを「エノハ」と呼ぶ。
美しい命名だなあ、と思う。
これから淋しい秋がきて、山は厳しい冬へと向かうのだ。村から、神楽笛の音が聞こえてくるのもこの頃だ。
神楽の練習が始まっているな、と釣り人は耳を澄ます。移り行く自然界の風物を慈しみ、名残を惜しみつつ別れる。
そしてまた次の季節を迎える。
「風流」とはこのことだな、とも思う。

今季最後の釣行(ヤマメ釣りは10月1日から禁猟期に入る)では、案内人としての私には、
かなり大きな失点があったといわざるを得ない。
はるばる訪ねてきた釣友たちより多く釣ってしまった(釣れてしまった・・・)のである。艸炎君はテンカラ釣りの名手であり、渓声君は、0,157ミリという極細の糸で釣る超名人である。書家の艸炎、ギタリストで画廊主の渓声、両者ともに、釣技、漁獲数ともに私を上回る。ただし、二人とも、年間を通じて200匹超の釣果を記録したことはないという。私は、閑を持て余して釣りに通うわけでもなく、釣りを専門とする職猟師でもないが、初心者や子供たちを案内して谷に入る機会が多く、取材や出張などの時には、ほんの少しの時間を見つけて、後部座席に積んである竿を取り出し、川の様子をさぐる。四季を通じて、水の変化や、昆虫・水棲生物(それが季節ごとの釣り餌となる)、野草や薬草、染料になる植物の分布地、山里の景色などの風物を愉しむのだ。それで、結構回数が重なる。比例して釣果が上積みされるというわけである。まあ、三者三様の釣り方があり、楽しみ方があるということだろう。

さて、案内人としては、遠来の客に、ここぞというポイントを示し、情報を提供し、各々、好みの釣り場を選んでもらい、残ったポイントで自分が釣る。そのうえで、地の利を生かして、知り尽くした谷の状況を読み、状況を勘案しながら釣って、客よりもやや少なめに、かつ遜色のない釣果を得ることが、礼儀であり、技術というものであろう。
ところが、今回の旅では、初日、二日ともに二人より私のほうが釣ってしまった。深い藪に覆われた谷に入ったことが、他の釣り人との競合がなく、好結果に繋がったのである。二日目は、さすがに艸炎君が互角の数値まで迫ってきたが、渓声君は、午後一杯釣って1匹という惨憺たる結果である。
その一匹も、0、175の糸で強引に釣り上げたものという。
三日目。旅の最終日、そして今季の釣りの最後を飾る日は、なんとしても彼に釣ってもらわねばならぬ。
私は、この谷だけは誰にも教えない(教えたが最後、たちまち釣り人が殺到し、原種のヤマメが絶滅する)、とひそかに秘密にしておいた、とっておきの谷に彼を案内し、夏の間に遡行して分布を確認した谷筋に入ってもらうことにした。そして、私は、その上流の、この山脈で最も険しい沢に入ることにして、別れた。
その結果が、冒頭の画像に示した私の今季、(あるいは釣り人生全体を通じての)最高レベルの釣果であり、渓声君が釣果ゼロという結果であった。原因は二つ。一つ目は、彼の歩いた谷は水量が極端に少なかったということ。二つ目は他の釣り師の足跡だらけであったということ。この状況をこの日の私は読みきれていなかった。反対に私は、未踏の森林を行くがごとき、秋の沢の釣りを満喫したのである。この逆ならば、なにも悔やむことはない。
このような日、私の釣果がゼロであれば、笑って済ませられるものを・・・
うむむ、うむむ、と絶句する私を見ながら、渓声君は、
「いや、これも釣りですよ」
と、秋天を吹きすぎてゆく風のように、爽やかに笑った。
その笑顔が良かった。
良い釣友に恵まれ、良いシーズンが終わった。

<13>
秘境の渓へ



今日から三日間、米良・椎葉・諸塚―九州脊梁山地の山々―を走破しながら、今季最後のヤマメ釣り。
大分から40年来の釣友、渓聲君と艸炎君。両者ともに達人と名人。一年に二度、山桜の咲く頃と紅葉の時期に宮崎の秘渓を訪ねる。福岡から詩人・冬留氏夫妻。冬留さんたちは、各々、80歳と75歳になったのを機に、
今季で竿を置く。人生最後の釣行である。



案内人である筆者(私=高見)は、今季の釣果200匹超えに挑戦。それぞれの釣人たちを、良い釣り場へと案内し、残されたポイントでどう稼ぐか。これもまた先導者としての楽しみのひとつ。



知り尽くした谷、今年初めて出会った谷、原種のヤマメが潜む谷。
老母(86歳)が弁当を作ってくれて、玄関まで見送りに出てくれる。
これもまた、猟師の妻の習慣であり、ひそかな自負と願い。
うんと、獲れますように。
皆が無事に帰って来れますように。

昔、月の輪熊や猪、鹿などを狩った九州山地の猟師の秘伝書には、獲物が獲れたならば、一番矢、止め矢の猟師だけでなく、勢子(獲物を追い出す役目の人)や犬、その日獲物を仕留めた場所に来合わせた人にも、機嫌よく猟師たちを送り出した女房にも、応分の分け前を分配するように、と書いてある。なんと素敵な掟
(現代風に訳すればコンセンサス)だろう。

さて、準備は整った。
三日間の短い旅に出かけることにしよう。


<12>
再生する谷で
くどいようだが、原則として、この釣りのシリーズでは谷の名を公表しない。それは、釣り師やキノコ狩りの名人、薬草採りなどは、そのポイントや秘密の場所を伝承者と決めた一人の人間以外には教えない、という山人(やまびと)の「掟」のごとき慣習にもとづくものである。希少種の動植物(それが彼らにとって命をつなぐ獲物・採集物である)の棲息環境は限定的であり、多くの採集者や狩人が一斉に押しかければ、たちまち種の絶滅を招き、
ひいてはそれが自分たちの暮らしを脅かす原因となるのである。釣り人の習性も
それと同類で、決してケチでも身内びいきでもないのである。

尾八重川。一ツ瀬川に注ぐ支流のひとつ。
上記の慣例を破って、今回、この谷の名を公表するのは、すでに何度かこの谷の上流部で開催される美しい神楽「尾八重神楽」や古民家を改装したミュージアム企画「椿一番館ギャラリー」のことなどを発表しており、この古民家で継続されているアート企画は、神楽や過疎化に悩む村の現状、「口蹄疫」の影響を受けた山脈一体の
生態系の実態などと関連し合っているからである。
2010年に宮崎県で発生した偶蹄類(羊・牛・馬・猪など)の伝染病「口蹄疫」の発生時に、この谷の上流部の牧場跡地が「種牛」の避難地になったため、この川沿いの道は通行禁止となり、積雪時を思わせるほどの大量の石灰が道に撒布され、その石灰は雨が降るたびに川にも流れ込んだ。4ヶ月後に口蹄疫は収まったが、その後、数年間は川に魚影はみられず、しん、と静まり返っていた。石灰で川の魚すべてが死滅するとは考えられないが、微生物には影響を与え、その結果としてそれを食物とする魚族にも影響が出る。この頃の「死の谷」という形容は
大げさな表現ではなかったのである。
それが、今年はどことなく活気がみられ、川が「回復期」に入ったことを示す兆候が見られるようになってきた。
梅雨の真っ只中の一日、雷雨の中で釣った時には、一匹の釣果もなく、山ヒルに襲われるなど散々の結末だったが、それでもヤマメのものと思われる魚信<アタリ>は確認できた。それで、この夏、子どもたちを
誘って谷に入ったのである。


・谷に入り、行動が始まる。この谷へ、子どもたちが入れる場所は少なく、とっておきの場所も
数年前の台風で岸が抉られて、険しくなっていた。そこを強行突破。


・早速、水遊びが始まる。


・仕掛けを作り、釣り始める。


・子どもたちの釣り姿がさまになってきた。


・さらに上流へ。


・山脈が翳った。日暮れが近い。私は一人で上流まで行って、やっと二匹を上げた。この谷に棲む原種のヤマメである。虹色がかった体色が美しい。本来ならば、うんと卵を産んで子孫を増やしてくれよ、と心のうちで
呟いて放流するところだが、子どもたちにこの漁獲は見せてあげたい。


・ベースキャンプに残った女性たちが焚き火を始め、食事の用意をして小さな狩人たちの帰還を待っていた。
が、子どもたちに大物の漁獲はない。ここで、なぜ、そうなのか、谷が今どのような状況下に
あるかなどということを焚き火の側で説明するのも、大人の役割である。
谷が夕闇に包まれ、焚き火の炎が赤々と子どもたちの顔を照らした。
谷はたしかに再生の途上にある。

     ☆☆☆

今回、例外として谷の名を公表したけれど、この谷にどっと釣り人が押し寄せるということは、ないだろう。なんとなれば、前述のようにこの谷には山ヒルがいるし、地元の人が蝮を退治した場面に遭遇したこともある。私は昨日は入渓早々足長蜂の巣を蹴飛ばしたらしく、一瞬の間に六ヶ所刺された(それでもひるまず釣り進んだ)。崖には大スズメバチの巣がぶら下がっている。さらにいえば、魚の数は少なく、限られたポイントでしか釣れない。
リスクは大きく得るものは少ないのである。私は少なくとも今後三年間はこの谷に
入らないつもりだ。回復しつつある谷を、やさしく見守りたいものである。


<11>
すこしいたい、でもいたくない
渓流釣りにおける癒しと治癒の効果について




小さな子どもが、ころんと転ぶ。周りに大人たちがいる。子どもは、それを見上げる。べそをかいている。このとき、母親や祖母などが駆け寄って抱き起こそうとするとたちまち火がついたように泣き出すが、
身内がわざと知らぬふりをしていて、大人の一人が、
―お、この子はつよい、つよい。大丈夫だ。
―いたくない、いたくない。
などと声をかけてあげると、その子は泣き顔のまま立ち上がり、歩き出す。

去年の12月の終わりごろ、私は「どこもいたくない」という小文を書いて、少しいばったところをみせたが、本当は、少しは痛みがあるのだ。「すこしいたい、でもいたくない」という表現は、あの、子どもが
転んで起き上がるときの、泣き顔と強がりが混交した表情に似ている。

「どこもいたくない」と言ったのは、11月中旬から始まった「夜神楽」の取材に、毎週、遠方から来た客を案内して山深い神楽の里を訪ね、自身も一晩中スケッチをし、夜が明けたらまた客を空港まで送るという日を重ねて、大きな障害や痛みが生じなかったことを、ちょっと自慢したのである。その取材は3月まで続いて、私はますます元気だった。若い頃に難病を患った影響による、積年の痛みも薄れていた。だから、神楽には
「癒し効果」とか「治癒効果」が含まれると思ったのであった。
神楽取材の最後のスケジュールの一日は、3月下旬のぽかぽかと暖かい日だったので、神社の境内の巨木の根に腰掛けて半日、スケッチをした。その日は神木と一体化した木造の神像のような心境だったが、翌日から猛烈な腰痛とに右半身の痛みに襲われた。木の根の圧迫と不自然な姿勢を長時間続けたことを原因とする坐骨神経痛だった。



その痛みを抱えたまま、3月下旬からヤマメ釣りに行った。多少の不自由さはあったが、
沢を歩いているうちに、少しずつ痛みは和らいでいった。
6月下旬、梅雨の晴れ間の一日。故郷の町で一夜釣友と語り明かし、翌日、彼らが秘渓と呼ぶ谷に入った。大河・筑後川の源流部、九重連山の山襞の奥にひっそりと隠れる渓谷である。なるほどそこは、鬱蒼と繁った木々の中で青草の葉が裏返って時々白い光を放っている谷で、両岸は黒い岩がぬめぬめと湿った岩壁であった。その薄気味悪い谷に2時間ほどいて、4匹の釣果があった。黒い点々が体側に散る「ヤマメの原種」といえる獲物であった。
川辺で昼食をとり、移動して、午後3時から7時まで、五木の谷を歩いた。五木の子守唄で知られるこの里は、今ではダム工事の関連始業で道が整備され、「秘境」ではなくなったが、谷は深く、「子別れ峠」と呼ばれる分水嶺からは、遠く霞む肥後・熊本の市街を望むことができる。奉公に出される子を、親が涙をこらえて見送った峠である。その峠道沿いの谷は、深く険しいけれど、澄んだ水が清々と流れ、淵は点在する人家を映し、青い空に雲が浮く仙境である。だが、釣りはじめて1時間ほどは、一匹も釣れなかった。下流にルアーを引く少年たちがいたので、彼らの歩いた後だと思われた。それで、私は岩の上に寝転んだり、弁当の残りを出して食べたりしながら、ゆっくりと沢を歩いた。一歩を踏み出す時には利き足とは反対の足から踏み出し、体型を岩の形状に合わせて移動しながら、
―これが整体法の法則である。
とつぶやき、大岩をよじ登る時には、
―これもリハビリの一環である。
と気合を入れ、沢をこぎ、岩を飛びわたりながら、
―自然と一体化することこそ、釣りの極意であり、最高位の心身調整の機能である。
などと観想しながら、歩いたのである。高い木立の天辺で囀るオオルリに合わせ、口笛さえ吹いていた。
夕暮れが近づいた。山嶺が赤く染まり、アカショウビンのかん高い声が渓谷に響いた。
それまでの3時間でやっと3匹が上がっただけだったが、このあと、至福の時間帯がきた。試みにそれまで使っていた餌を川虫からブドウ虫に変え、振り込んでみたところ、小さな落ち込みの白い泡立ちの中から一発で良型のヤマメが出たのである。それから、日暮れまでの1時間弱の間に、浅瀬や流速の早い本流などで、
次々と5匹。かくて上々の釣果を治めたのである。
一日のうちの6時間を渓谷で過ごしたこの日をかぎりに、坐骨神経痛は消えていた。

<10>
森のシャワーを浴びた一日


九州へ接近中だった台風が、やや西へ逸れて、東シナ海を北上して行った
先に発生していた別の台風が、南海上で停滞している。勢力を強めつつあるその台風は、九州直撃の
進路をとりそうである。二つの台風の影響で、九州脊梁山地の山脈に一時間雨量100ミリを超える雨が降り、
一時的に大雨洪水警報が出た。
その土砂降りの雨の中を、車を走らせて山脈の中央部に分け入った。
東京から来た二人の女性が同行している。
村の生活文化と田舎暮らしの調査、移住を前提とした林業への転職の下見などが彼女たちの主目的であるが、
渓流での釣りも旅のプログラムに組み込まれている。
雨は、断続的に降り続いている。
時折、雲が切れて山脈の一部が見え、天空に隠された村の一部のような風景が見える。



「わあ、すごい、ここはどこ?}
「私たち、もう一度この場所に連れて行けといわれても絶対に無理だよね。」
「山で道に迷った人が幻の村に辿り着き、夢のような時間を過ごして里に帰り、ふたたび訪ねようとしても
どうしてもその村がわからなかったように・・・ね。」
二人はすでに仙境を彷徨う旅人である。
この二人に神秘のヤマメを釣らせてあげることが案内人の力量であろう。
だが、谷にはすでに滝のように水が流れている。
危険度は100パーセントを超えている。
この状況下で「釣り」のできるポイントはただ一ヵ所、山人(やまびと)が谷を渡るために設置した沈み橋
のある地点で、大きく谷が迂回し、大岩が流れを遮り、澱みを作っている場所。



目指す地点に着く。
雨が小降りになっている。
すばやく着替えをすませ、谷に向かう。
水流の中には絶対に踏み込まないこと。森の中を移動し、ポイントを見つけたら一人ずつ近づき、
岸から竿を振ること。注意事項を伝え、先行する。二人が続く。
一人がトレイルランの経験者、もう一人は元バレーボールの選手ということで、フットワークはよろしい。
谷の飛沫を浴びながら釣り進むうち、森がざわめき、雨が、どうと降ってきた。
木々を揺らし、木立の中を透過した雨が、まるで森のシャワーのように降りそそぐ。
その谷で、それぞれ一匹。
別の谷で一匹。
細かな描写は省こう。
「無謀」と言われれば反論の余地のない釣行だったが、天界の変動を感知し、慎重に配慮しながら
雨の森を釣り進む、幽玄の釣りもまたよし。
小さな奇跡のような獲物を手にして、二人は大いに満足であった。


<3>
青葉ヤマメを25匹、そして絶品の甘露煮



一昨日、昨日の二日間、福岡からの釣客二人を案内して、耳川流域の支流へ。
前日の夕方まで激しい雨が降っていたから、さすがに水量が多く、釣りにならない。
まずは自分が流されぬよう、万全の配慮をもってのぞむことだ。
次の日(すなわち昨日)、五ヶ瀬川の支流へ。
すでに水量も減り、谷は落ち着きを取り戻していた。
次々に良型のヤマメが上がり、25匹。客の二人もそこそこの釣果を上げて満足の一日となった。
この季節のヤマメは「青葉ヤマメ」と呼ばれ、もっとも勢いが良く、体型も美しく、美味である。
谷にはウツギの白い花が咲き、その白い花びらが風に散り、渓流を流れ下る。エゴノキの白い花も散り混じる。
この時期の餌は、川虫(クロカワムシ)が最上である。勢い良く飛びついてきたヤマメが、餌をくわえたまま、白い花びらとともに瀬を走ると、糸が風を切ってヒュン、と鳴ることがある。竿が撓る。
青葉ヤマメ釣りの醍醐味である。

獲物は、老母(86歳)が、甘露煮に仕上げてくれる。
かつて花月川(大分県日田市を貫流する三隈川の支流)で暮らした母は、甘露煮の名手である。花月川は、その名の通りやさしく麗しい川だが、大雨が降ると、たちまち暴れ川となる。増水した川に、近辺の男どもは大型の手網を担いで出掛けて行き、洪水を逃れて淀みに集まっている魚どもを、文字通り「一網打尽」に掬い捕る。時々、漁師が水神への捧げものとなって流されることがあるが、
男どもは意に介しない。川流れがあると、
―これでこの大水(おおみず)も収まるじゃろう。
と言って、また川辺へと出掛けてゆく。水量が多いほど、一箇所に非難してくる魚族も多く、したがって漁獲も多いのだ。ある年の、この漁法の一掬いで揚がった魚の種類を列挙しておこう。
・コイ、フナ、ウナギ、ナマズ、ギギ(土地ではギュウギュウというナマズを小型にしたような黄色味がかった魚で捕まえるとギュウ、と鳴く。刺されると痛い)、アカハチ(前者に似るが一層小型で全身真紅。これも刺されると激烈な痛みが走る)、ウグイ(この地方ではイダと呼ぶ。30センチ級まで成長し、大群をなす)、アユ、ハヤ(シラハエ)、カワムツ(ヤマソバエ=山杣バエと解釈)、カマツカ(川底の砂地を縄張りとする)、オヤニラミ(眼が横向きについている変な魚)、シマドジョウ等々、ヤマメとアブラハヤ(アブラメ)の渓流魚を除く、この川に棲息する
ほぼすべての魚種が、一救いの網に入っていたという、稀有な事例だ。

男どもが川から帰ってくると、女衆の出番だ。丁寧に魚種を選り分け、
それぞれの魚に適した調理法で仕立て、食卓へ運ぶのである。
母の得意は、甘露煮であったから、今でも、川沿いの村里の往時の賑わいを思い出す
らしく、ヤマメの大漁があると、秘蔵の鉄鍋を持ち出して来て、
いそいそと甘露煮を作る。これが、絶品である。


<2>
うつぎ谷




山道を走っていたら、ウツギ(空木)の群生地に出会った。このような、森の下草全部がウツギで
埋め尽くされているような光景を見るのは、はじめてのことだ。車を停めて、少し休む。

ガクウツギ(額空木)である。初夏、ガクアジサイ(額紫陽花) に似た白い装飾花を咲かせる。子供のころ、この花のことを蝶々花と呼んでいた。カヤツリ草などの穂先にこの花の花弁の根元をくくりつけ、宙にかざすと、まるで蝶が舞うように、花びらがひらひらと舞う。山の子らはその風情を楽しんだのである。茎葉はウツギ(空木) に似ているが、ユキノシタ科アジサイ属である。 幹はよく枝分かれして群生し、一株で小規模の叢林を作る。



さわやかな川風が吹いている。
ウツギの群生地は、山道で分断されているが、道の反対側の斜面は小川へと続いており、沢には清冽な水が流れている。この谷の奥には、昔の鉱山の跡地があり、遊女の墓などが残っている。この鉱山跡には、往時の賑わいをしのばせる古い集落が残っていて、春先に「鬼神」が出て集落を練り歩く祭りがある。「鬼神」とは製鉄の鬼であり、山の神である。鬼は、鉱山跡から舞い出て、参拝者の顔にスミを塗りつけながら歩く。祭りが終わると、集落の上手で、盛大などんど焼きがある。火の粉が舞い上がり、夜空を装飾して、消える。
今は訪れる人もない、鉱山跡にも、この白い花が咲き、風を受けているだろう。

ちょっと休憩のつもりで竿を出したら、40分ほどの間に20センチ級3匹、
15~17センチ級のもの7匹(これは放流)、計10匹が釣れた。
山を暮色が染めた。上流で、白い影がゆらりと揺れたように見えた。竿の収め時である。


<1>
三人で100匹超の釣果

郷里の町(大分県日田市)から来た二人の釣友と米良の谷で落ち合い、二泊三日の釣行となった。
一日目は、宿の真下の一ツ瀬川本流で、増水した流れに足をとられぬように気をつけながら、
一匹。夕刻に到着し、30分ほどの釣りだったから、これはこれでよろしい。
二人は、昼過ぎに到着し、夕暮れ時まで釣って各々12匹。これも解禁後散々に
荒された後の釣りであるから、上々の成果である。
渓声君と草炎君の二人とは、40年来の付き合いを続けてきた仲である。普段は温厚な紳士であるギタリストの渓声君も、書塾を構え門弟多数を持つ文人肌の草炎君も、ひとたび川辺に立てば、精悍な狩人と化す。私は達人と名人の称号を二人に与えているが、いずれが達人でどちらが名人かはその時々で評価が分かれる。
甲乙つけがたい名手というべきか。



二日目、一ツ瀬川の支流へ。馴染みの谷だが水量が多く、遡行は困難をきわめたが、昼までに二人はそれぞれ10匹以上を上げて納得顔。私は彼らの半分ほどの釣果。じつは、腰部にしびれを伴う痛みがあり、無理をしないことが今回の釣行の第一条件で、数を競うことは無用・・・と決心して入渓したのだ。でありながら、午後谷を変えて12匹の釣果を得、彼らは4匹ずつ、これでほぼ三者互角の釣果となると、ようやく、胸中、やや鎮静。
「仙人の釣りをめざす」とか「風を釣ることこそ釣りの極地」とか言いながら、なんという俗物であることか。
さらには、翌日、老体三人、ひと踏ん張りして、合計100匹超のヤマメを上げると、帰り道で会った村人にひとしきり、自慢。だが、この程度のことはとりたてて書くほどの値打もない、釣人の他愛もない手柄話である。
記録しておきたいのは、以下のことだ。



一日目の夜、再開を祝してビールで乾杯したが、私は鳩尾と右脇腹に痛みがあり、腰にも異変が続いていたので(たぶん、一シーズンの夜神楽取材の疲れが累積したものだろう)、飲み過ぎないように用心した。次の日も最終日も、つとめてゆっくりと川辺を移動するよう心がけ、岩場では、足の上げ下げや身体の移動に細心の注意をはらい、一つ一つの動作が整体の理論に合致するように心がけた。いわば、神楽シーズンで強張った身体をほぐす、リハビリ効果を期待したわけだ。その効果は、二日目に早速現れた。腹部の痛みがすっかりとれていたのだ。三日目は、腰痛の治療を心がけながら、最上流部の沢に入った。右ひざを前に出して立てる「片ひざ付き」の姿勢を基本に、手ごろな石に腰掛けたり、砂場に座り込んだりしながら釣る。左足は、そのつど、折り畳んだり曲げたりして、相撲の蹲踞に順ずる姿勢となった。それを半日繰り返して、沢から上がると、腰痛がすっかり消えていた。繰り返した整体の効果
があったのか、三日間、自然のリズムに身体を委ねた釣りそのものに、「治療」の効果があったのか。
かくして、私はまた一つ谷へと向かう口実を獲得したのである。


<30>
仙人の釣り方

*この記事は再掲です。

私は、他人に釣りを教えるほど上手な釣り師ではないと思う。しかしながら、教え方は上手なほうかもしれないと思う。
私よりも釣果を上げる釣り手が、仲間のうちだけでも二人いる。だから、自分は名人づらをしないほうがいいとも思っているのだが、私が教えると、小学三年の女の子でもヤマメを釣り上げることがあるし、高齢のご夫婦が、ずぶの素人から3年ほどで立派な釣り手になった。リョウは、小学五年から仕込んだから、
高校生となった今では同じ谷に入って私よりも多く釣ることがある。
そこで、「仙人の釣り方」を皆さんに伝授しようと思う。
なぜか。
なにゆえ、本来は秘伝であるはずの究極の釣法を、不特定多数の、見も知らぬ相手に教授しようとするのか。
それは、私自身がそう思っているわけではないのに、時々、「仙人」と呼ばれることがあるからである。そして最後に述べてあるが、この釣法を習得すれば、釣り資源としてのヤマメが減らず、荒れた谷や川が回復し、人間が自然界の一員として静かにかつ豊かに暮らすことができると考えるからである。



仙人とは、深山に隠棲し、霞を食べ、若い女性に身の回りの世話をさせ、迷い込んできた武芸者などには秘技・秘術を授け(若者は娘と恋に落ちるが彼には志があり山を去る)、神に通じる博識・練達の白髪の老人であるという定型がある。が、私はそのどれにも該当しない。それにもかかわらず仙人の部類として取り扱ってもらえるのは、私が落ち葉の降り積もった古い家に住み、経済的には破綻者でありながら二百点余の古仮面と骨董と書物に埋もれた幻想空間の主宰者であり、奥山に釣りに行けば必ず獲物を提げて帰り、薬草や染料を採集し(食べたり染めたりする。百種を超える薬酒・花酒も貯蔵する)、一日中絵を描き(絵はほとんど売れないし売ることを目標には描かない)、深夜に文を綴り、古い家の修復や周辺の森の手入れをし、冬になれば毎週神楽の里へ通う、という生活を続けているからであろう。世の中全体が、あまりにも無機質に出来上がっているということも理由のひとつに数えられるかもしれない。
前置きが長くなった。本題に入る前に長々と講釈を垂れるのは、老人の顕著な特徴のひとつである。私は「仙人である」という世間の認知を否定も肯定もしない曖昧な態度で今に至っているが、
仙人に近づきつつあるのは間違いない。

さて、仙人の釣り方である。

水辺に立つ。
竿は持たない。

釣り竿にハリも餌も付けずに釣りをしたのは太公望である。このとき、太公望は
「国」を釣ろうとしたのである。望は、少年の頃、「殷」の国の者に襲われ、村は全滅し、父母を失った。火中を幼い妹の手を引いて逃れた望は、その生涯を殷王朝打倒という目標に捧げる。長い放浪生活(勉学と修行の旅である)の後、東方の斉の国に至った望は、その国力と指導者の英知を頼み、士官を目指すが、一見奇抜にみえる「ハリも餌も付いていない釣り竿で釣りをする」という手法で、大臣の知遇を得るのである。
毎日、ハリの付いていない竿を振る変人を見に、村人が集まり、噂は宮廷にまで届く。
その奇人を見に岸辺に立った大臣が問いかける。
―先生は、何を釣ろうとしていなさるのかね。
―わたしは「国」を釣ろうとしているのです。
この一言で望は採用され、斉の国の軍師として殷王朝を滅ぼし、「周」を樹立する。
*太公望のエピソードは、中国の多くの歴史書に記されているが、
本稿は宮城谷昌光著「太公望」(文藝春秋/1998)より要約。

話がわき道へ逸れた。前置きが長く、話が本題からはずれてばかりいる歴史好きの先生が中学のときにいたが、
その先生は生徒からもっとも好かれていた。ただし、仙人とは呼ばれていなかったような気がする。



さて。

仙人は、釣り竿も持たずに水辺に立っている。
小川にかかる小さな橋の上である。
上流へ向かって立ち、流れを見つめる視線の先には深山から流れ出てくる清冽な水流がある。水流は一度大岩にぶつかり、向きを変え、岩に沿って流れ下る。その流れに乗って下ってきた小虫(草の葉の断片かもしれない)が、流心を少し過ぎた辺りで、仙人の右手人差し指がつん、と動く。
その瞬間、ヤマメが銀色に光り、反転する。
―そら、釣れた。
仙人は、仮想の中で釣っているのであるが、この時、
小虫が仙人のハリに付けられているのであれば、
間違いなく良型のヤマメが釣れている。

木立が大きく水辺にさしかかり、涼しい木陰を作っている。渓流に沿った小道である。
仙人は旅の途上である。旅装を解いた仙人は、立木にもたれ、水流を見つめている。全山を揺るがす蝉の声。その交響の中から一匹の蝉が舞い出て、くるくると不規則な円を描きながら水に落ちる。その切ないほど短い生を、たった今終えようとしている蝉が、流されてゆく。日の当たる明るい水流の上から、木陰の下の小暗い淵へ。その境目にさしかかったとき、蝉を指さしながら流れを追っていた仙人の指がぴたりと止まり、つい、と上に向けられる。瞬間、ざばっ、と水音がしてヤマメの大物が蝉をくわえ、反転して水に戻る。
―ふむ、尺物じゃ。

山桜が満開である。照葉樹林に覆われた重厚な山塊の所々に、遠い打ち上げ花火のような山桜が配置されて、山里の春はまさに爛漫である。
仙人は岸辺に立ち、腕組みをして流れを見つめている。風に飛ばされて来た桜花が水に落ち、ゆるやかに流れ下る。花びらの一つに、羽化したウスバカゲロウが乗っている。
時々羽根を広げて飛び立とうとするが、離陸は不成功に終わる。
傷ついているのか。すでに寿命が尽きているのか。
その儚き花筏が、流れの中ほどの浮石の近くまできた時、仙人の眉が少しだけ動く。
と同時に、シャバッ、とかすかな水輪が描かれ、花は水中に消える。

仙人の釣りとは、実際に魚を釣り上げるものではない。
長い人生の中で出会った魚たちと再会を果たすこと。
川の状態と魚の生態を観察し、実際に竿を振れば、十中八九、想定通りに釣れるものであることを確認すること。
これにより、仙人の胸中では、幽玄なる山水画のような完璧な釣りが完結しているのである。が、一点の不満を述べるならば、ヤマメが銀色の魚体を岸に踊らせているという実態がなく、極上の山人料理を味わう楽しみが伴われていないという不備がある。すなわち仙人の釣りは腹の足しにならない。
だが、これでいいのだ。この釣法によれば、楽しみは無限であり、
何よりも資源としてのヤマメが減らない。



今季のヤマメ釣りは散々であった。
春先には、先行する釣り師のすぐ上流へと踏み込んで行く無神経で礼儀をわきまえぬ釣り人を目撃したし、夏には、昨年の北部九州災害で釣り場を失った釣り人たちが、大挙、宮崎の渓流へと押し寄せ、ひっそりと生き延びてきた秘渓のヤマメたちをことごとく釣り上げてしまうという事態が発生した。シーズン最後の釣りとなった9月30日には、車の乗り入れが禁止されている林道を10台ほどのモトクロスバイクが爆音を轟かせながら上って来た
各々の背には、釣り竿の入ったリュックサックが背負われていた。
風の噂では、禁漁期の川で釣る釣り人と猟銃を持ち出して威嚇した監視員とのトラブルさえ
発生したという。神秘の渓谷は末世の様相である。

私は、釣り竿を捨てようかと思っている。
失われた川が回復するまで。釣り人の行儀がもう少し良くなるまで。
その日は永遠に来ないかもしれないが、谷に入り、不愉快な思いをしたり、
人間不信に陥ったりするよりも、
「眼で釣る」
という究極の釣法を楽しんでいたほうが、健康的であり、なにより、文人趣味に合致するのではないか。
そして、少しだけ、仙人に近づいた気になるのではないか。





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(SINCE.1999.5.20)