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仙人の釣り方 

このコーナーは「遼太郎の美術館日記」「遼太郎の釣り日記」
および「リョウとがんじいの渓流釣り日記」を改題したものです。

鈴木遼太郎君は小学校に上がる前から森の空想ミュージアムに出入りし、
「九州民俗仮面美術館」の開設も一緒に行いました。また、小学五年生か
ら渓流に入り、ヤマメ釣りの奥義や「山料理」、山菜や薬草採りの知識等
の山で生きる知恵すなわち<生態系のメカニズムと人間との共生の原理>
さらには骨董の美学などをがんじいこと高見乾司(最近では仙人と呼ばれ
ることがある)から伝授されてきました。その遼太郎君もすでに高校を卒業
し、大学生に。人生の節目がやってくるとともに多忙な日々が過ぎてゆき
ます。遼太郎君とはいつかまた一緒に谷に入る時期がくるでしょう。それま
での間、彼との思い出や渓流でのさまざまな出会いなども含めて記録します。



<30>
仙人の釣り方


私は、他人に釣りを教えるほど上手な釣り師ではないと思う。しかしながら、教え方は上手なほうかもしれないと思う。
私よりも釣果を上げる釣り手が、仲間のうちだけでも二人いる。だから、自分は名人づらをしないほうがいいとも思っているのだが、私が教えると、小学三年の女の子でもヤマメを釣り上げることがあるし、高齢のご夫婦が、ずぶの素人から3年ほどで立派な釣り手になった。リョウは、小学五年から仕込んだから、高校生となった今では同じ谷に入って私よりも多く釣ることがある。
そこで、「仙人の釣り方」を皆さんに伝授しようと思う。
なぜか。
なにゆえ、本来は秘伝であるはずの究極の釣法を、不特定多数の、見も知らぬ相手に教授しようとするのか。
それは、私自身がそう思っているわけではないのに、時々、「仙人」と呼ばれることがあるからである。そして最後に述べてあるが、この釣法を習得すれば、釣り資源としてのヤマメが減らず、荒れた谷や川が回復し、人間が自然界の一員として静かにかつ豊かに暮らすことができると考えるからである。



仙人とは、深山に隠棲し、霞を食べ、若い女性に身の回りの世話をさせ、迷い込んできた武芸者などには秘技・秘術を授け(若者は娘と恋に落ちるが彼には志があり山を去る)、神に通じる博識・練達の白髪の老人であるという定型がある。が、私はそのどれにも該当しない。それにもかかわらず仙人の部類として取り扱ってもらえるのは、私が落ち葉の降り積もった古い家に住み、経済的には破綻者でありながら二百点余の古仮面と骨董と書物に埋もれた幻想空間の主宰者であり、奥山に釣りに行けば必ず獲物を提げて帰り、薬草や染料を採集し(食べたり染めたりする。百種を超える薬酒・花酒も貯蔵する)、一日中絵を描き(絵はほとんど売れないし売ることを目標には描かない)、深夜に文を綴り、古い家の修復や周辺の森の手入れをし、冬になれば毎週神楽の里へ通う、という生活を続けているからであろう。世の中全体が、あまりにも無機質に出来上がっているということも理由のひとつに数えられるかもしれない。
前置きが長くなった。本題に入る前に長々と講釈を垂れるのは、老人の顕著な特徴のひとつである。私は「仙人である」という世間の認知を否定も肯定もしない曖昧な態度で今に至っているが、仙人に近づきつつあるのは間違いない。

さて、仙人の釣り方である。

水辺に立つ。
竿は持たない。

釣り竿にハリも餌も付けずに釣りをしたのは太公望である。このとき、太公望は
「国」を釣ろうとしたのである。望は、少年の頃、「殷」の国の者に襲われ、村は全滅し、父母を失った。火中を幼い妹の手を引いて逃れた望は、その生涯を殷王朝打倒という目標に捧げる。長い放浪生活(勉学と修行の旅である)の後、東方の斉の国に至った望は、その国力と指導者の英知を頼み、士官を目指すが、一見奇抜にみえる「ハリも餌も付いていない釣り竿で釣りをする」という手法で、大臣の知遇を得るのである。
毎日、ハリの付いていない竿を振る変人を見に、村人が集まり、噂は宮廷にまで届く。その奇人を見に岸辺に立った大臣が問いかける。
―先生は、何を釣ろうとしていなさるのかね。
―わたしは「国」を釣ろうとしているのです。
この一言で望は採用され、斉の国の軍師として殷王朝を滅ぼし、「周」を樹立する。
*太公望のエピソードは、中国の多くの歴史書に記されているが、
本稿は宮城谷昌光著「太公望」(文藝春秋/1998)より要約。

話がわき道へ逸れた。前置きが長く、話が本題からはずれてばかりいる歴史好きの先生が中学のときにいたが、
その先生は生徒からもっとも好かれていた。ただし、仙人とは呼ばれていなかったような気がする。



さて。

仙人は、釣り竿も持たずに水辺に立っている。
小川にかかる小さな橋の上である。
上流へ向かって立ち、流れを見つめる視線の先には深山から流れ出てくる清冽な水流がある。水流は一度大岩にぶつかり、向きを変え、岩に沿って流れ下る。その流れに乗って下ってきた小虫(草の葉の断片かもしれない)が、流心を少し過ぎた辺りで、仙人の右手人差し指がつん、と動く。その瞬間、ヤマメが銀色に光り、反転する。
―そら、釣れた。
仙人は、仮想の中で釣っているのであるが、この時、小虫が仙人のハリに付けられているのであれば、間違いなく良型のヤマメが釣れている。

木立が大きく水辺にさしかかり、涼しい木陰を作っている。渓流に沿った小道である。
仙人は旅の途上である。旅装を解いた仙人は、立木にもたれ、水流を見つめている。全山を揺るがす蝉の声。その交響の中から一匹の蝉が舞い出て、くるくると不規則な円を描きながら水に落ちる。その切ないほど短い生を、たった今終えようとしている蝉が、流されてゆく。日の当たる明るい水流の上から、木陰の下の小暗い淵へ。その境目にさしかかったとき、蝉を指さしながら流れを追っていた仙人の指がぴたりと止まり、つい、と上に向けられる。瞬間、ざばっ、と水音がしてヤマメの大物が蝉をくわえ、反転して水に戻る。
―ふむ、尺物じゃ。

山桜が満開である。照葉樹林に覆われた重厚な山塊の所々に、遠い打ち上げ花火のような山桜が配置されて、山里の春はまさに爛漫である。
仙人は岸辺に立ち、腕組みをして流れを見つめている。風に飛ばされて来た桜花が水に落ち、ゆるやかに流れ下る。花びらの一つに、羽化したウスバカゲロウが乗っている。時々羽根を広げて飛び立とうとするが、離陸は不成功に終わる。
傷ついているのか。
すでに寿命が尽きているのか。
その儚き花筏が、流れの中ほどの浮石の近くまできた時、仙人の眉が少しだけ動く。と同時に、シャバッ、とかすかな水輪が描かれ、花は水中に消える。

仙人の釣りとは、実際に魚を釣り上げるものではない。
長い人生の中で出会った魚たちと再会を果たすこと。
川の状態と魚の生態を観察し、実際に竿を振れば、十中八九、想定通りに釣れるものであることを確認すること。
これにより、仙人の胸中では、幽玄なる山水画のような完璧な釣りが完結しているのである。が、一点の不満を述べるならば、ヤマメが銀色の魚体を岸に踊らせているという実態がなく、極上の山人料理を味わう楽しみが伴われていないという不備がある。すなわち仙人の釣りは腹の足しにならない。
だが、これでいいのだ。
この釣法によれば、楽しみは無限であり、何よりも資源としてのヤマメが減らない。



今季のヤマメ釣りは散々であった。
春先には、先行する釣り師のすぐ上流へと踏み込んで行く無神経で礼儀をわきまえぬ釣り人を目撃したし、夏には、昨年の北部九州災害で釣り場を失った釣り人たちが、大挙、宮崎の渓流へと押し寄せ、ひっそりと生き延びてきた秘渓のヤマメたちをことごとく釣り上げてしまうという事態が発生した。シーズン最後の釣りとなった9月30日には、車の乗り入れが禁止されている林道を10台ほどのモトクロスバイクが爆音を轟かせながら上って来た。各々の背には、釣り竿の入ったリュックサックが背負われていた。
風の噂では、禁漁期の川で釣る釣り人と猟銃を持ち出して威嚇した監視員とのトラブルさえ発生したという。
神秘の渓谷は末世の様相である。

私は、釣り竿を捨てようかと思っている。
失われた川が回復するまで。釣り人の行儀がもう少し良くなるまで。
その日は永遠に来ないかもしれないが、谷に入り、不愉快な思いをしたり、人間不信に陥ったりするよりも、
「眼で釣る」
という究極の釣法を楽しんでいたほうが、健康的であり、なにより、文人趣味に合致するのではないか。
そして、少しだけ、仙人に近づいた気になるのではないか。



(29)
アカショウビンの谷(3)―2013年10月1日―
[回復期の渓谷から]




アカショウビンの谷で(2)

谷は静かだった。
ひっそりと静まり返って、小学生のころ病後の友人を見舞った時のような、刺激的な言葉を使ったり、
遊びに誘ったりすることを慎む、そんな、しーん、とした気配が漂っているのである。
数年ぶりに訪れた(ここ四年間は来ることが出来なかった)谷である。
オオルリのさえずりが谷に響き、アカショウビンが赤い光の矢のように渓流を横切り、
小学六年生のリョウがはじめてヤマメを釣り上げた渓谷である。
頭上の大木の枝にクマタカが来て、竿を振る私を見下ろしたこともある。ヤマメは釣れなかったが、
魚籠からもポケットからもこぼれるほどの栗の実をひろったこともある。

この谷沿いの道が封鎖されたのは、最上流部に古い牧場の跡地があり、そこが、「口蹄疫(こうていえき)」
の伝染から守るために「種牛」を隔離する場所として選ばれたからである。

当時は、季節はずれの積雪のように白い消毒薬が道を覆っていた。
口蹄疫という牛馬や山羊、羊、猪等の先端が二つに割れた蹄を持つ動物たちの伝染病が発生し、宮崎県内で数万頭もの家畜が殺処分されるという異常事態の真っただ中に私どもも叩き込まれた(2010年3月~同年7月)。私の住んでいる地域でもすべての牛や羊が処分され、近くの畑地に巨大な穴が掘られて埋められた。朝夕、のどかな鳴き声を届けてくれていた隣家の牛も、保育園の園児たちと仲良く遊んでいた羊も一頭もいなくなった。風景そのものが音を失い、無音の世界と化したかのようであった。自分の身体に付着した「ウィルス」を他の地域へ運ぶのではないかと、出かけるのもはばかられるほど緊迫した状況が、長く続いたのである。
「ウィルス」と現代医学はその原因を解明しているが、昔はこのような状況は「祟り」「神の怒り」などとして恐れられた。21世紀初頭の現代でも、地球上で次々に発生するウィルスや自然災害、天候の異変などを
「自然の逆襲」「増えすぎた人類を滅ぼそうとする地球の意志=生態系のメカニズム」と考える人は多く、
そのような学説を発表する科学者もいる。私も、多少それに同調する気分を持つ。

一年近い時間をかけ、ウィルスという目に見えない敵を輪の中に封じ込めるように、その、地上に描かれた巨大な輪(宮崎県の面積の何分の一かを占めた)の中にいる家畜をことごとく殺処分するという原始的な処置で、ようやく恐ろしい伝染病は収束したが、同時に谷も死んだ。道路や牛舎の周囲や野山に散布された消毒薬は雨が降ると谷へと流れ込み、谷に棲む微生物が死に絶え、微生物を食べて生きる小魚が生きられなくなり・・・という連鎖がくり返されて、渓谷から生き物の姿が消えたのである。
そのことは、封鎖が解除された後、二年を経過した時点で谷に入り、確認した。水辺に立っても魚影は見えず、釣果はゼロであった。釣りをするということは、このような実体を知るということでもあるのだ。

それからさらに二年が過ぎたから、そろそろこの谷も回復期に入ったかな、と思い、出かけてみたのである。
紫を染める染料「五倍子(ゴバイシ)」を採集することも目的の一つに加えられている。ゴバイシはヌルデ(ウルシ・ハゼの仲間の落葉樹)の葉に付く寄生虫の巣(虫瘤=むしこぶ。学名は「ちゅうえい」という。「えい」という字は大変難しい文字である)で、昔は婦人のお歯黒の染料、及び布を「黒」に染める染料として多用されたものだが、採集後ただちに処理し、染めれば、淡い灰色がかった「紫」が染まる。渋い風合いを古くは「紫鼠(むらさきねず)」という美しい色名で表現した。この寄生虫は、虫瘤から出て、渓流沿いの林間の苔の中で越冬する微少な生物である。すなわち、ゴバイシが採集出来るか否かは、小さな「いのち」が回復したかどうかを測るバロメーターでもあるのだ。

尾根沿いに走る道の脇で五倍子を予想以上に採集できた。
この道は、中世の山城を中心に形成された村へと続いている。その村は美しい神楽を伝えるが、すでに住人は数えるほどしかおらず、消滅の危機に直面している。神楽の夜だけ、かつてこの村に住んだ人々がどこからともなく集まってきて、まるで幻影のような一夜が過ぎる。一晩の賑わいが去った幻のような村に淋しく取り残された、その存在自体が森の精霊のような老人たちが、一人、また一人と神の世界へと旅立ったとき、この村は廃村となる。
このような村を「限界集落」と呼ぶ。
本来、村も神楽も小さな虫たちもヤマメの棲む川も、等しく復興・再生されなければならないが、
今はそれは果たされず、放置されたままである。



林道の脇のやや広くなった所に車を停め、山道を歩いて沢に降りる。樫の木立に覆われた巨岩の上で、
仕掛けを作る。岩の向こう側を、急流が流れ下っている。
岩場の落ち込みで一匹。
次に流れに乗せて流心で二匹目。
下流へと落ち込む寸前のポイントで三匹目。
毎回、ハリを落とす位置さえ決まっている馴染みの谷である。
だが、第一投で釣れたのは、アブラメ(アブラハヤ)で、二投目を追ってきたのもアブラメ、
第三投に掛かったのは、小さなイダ(ウグイ)だった。いずれも釣れる端から捨ててゆく雑魚である。
この雑魚どもが、ヤマメと同じ動きをして、早瀬で餌を追ってくる。ヤマメの姿は見えず、その気配さえ感じられない。
―ふむ、ヤマメの回復は遅れているな・・・
本来、ヤマメが真っ先に餌を追ってくるポイントでアブラメやイダが幅を利かせているということは、ヤマメがまだ復活していないことの証明である。他の魚を圧倒するスピードを持つヤマメは雑食で、水生昆虫や陸生昆虫のほか小魚も食べるので、ヤマメが増えればカワムツ、アブラメ、イダなどの稚魚が食われ、成魚も良い採餌ポイントからは追い払われて、我々こそ渓谷の王者である、とばかりにヤマメたちが最上位に着くのである。
が、真っ先に餌に飛びつき、釣り師の手中に収まるのも彼らである。
以上が巨岩の上に座ったままで竿を振った五分間ほどの感触と感想。
―ここでは、まだ循環の法則が確立しておらぬ・・・

立ち上がり、やや上流へ。
1メートルほどの落差の水が、岩と岩の間を激しく流れ落ち、幅の狭い水流となり、
さらに下段の瀬へと向かうところに、一カ所、小さな淀みができる。その速い流れと淀みのきわを流してやると、必ず一匹、飛びついて来る奴がいる。ここは他の魚族では採餌不可能な流水速度なのだ。それゆえ、良型のヤマメを一匹釣り上げれば、また新たな一匹が来て棲みつくといういわば「定点」であるが、餌を流れに落とし、一気に流す早業のような釣技とヤマメの飛び出しとの呼吸が合わなければ、二度と彼は姿を見せぬ一発勝負のポイントでもある。
息を整え、静かに竿を振る。放物線を描いてハリが飛ぶ。流れに落ち、すっ、と餌が流れに乗る。と同時に稲妻のように流れを横切る魚影。ヤマメだ。間髪を入れず合わせる。が、次の瞬間、魚は反転し、岩陰に消えた。
ハリをくわえなかったか、合わせが遅れたか。あまり大きな個体ではなかったが、いずれにしても魚の姿を見た。
威勢の良い元気ものであった。少し安心。

上流も、似たような状況だった。小魚が次々に釣れ、ぽつりぽつりと10センチ~15センチ程度の
ヤマメが釣れた(すべて放流)。
―この谷は、まだ回復途上だな。あそこまで釣って、やめよう。
今日の釣りの最終ポイントと決めた木立の下の浅瀬で、17センチほどのものがやっと一匹、上がった。
一人前の持ち帰りサイズだが、これも放流。
―また会おうな。
―この谷が元の姿を取り戻すのに、あと三年はかかるだろう。

ここは、リョウがはじめてヤマメを釣り上げたポイントでもある。
少学五年のリョウが私のもとへ来たとき、彼は少しグレかけた、生意気盛りの男の子であった。
小学校に上がる前からよく訪ねて来ている子だったので、夏休みの一夏、
預かることにして渓流釣りに誘ったのである。すると彼は、川を見て、あそこは釣れる、とか、
あのポイントは云々だとか、大層なことを抜かすのである。すべてインターネットからの知識である。
―ふむ、よろしい。まずはお手並み拝見と行こうではないか。
水辺に立つ。ハリを結んでくれ、と差し出すリョウ。
私は腕組みをしてじっとそれを見返し、
―自分の仕掛けは自分で作れ。作り方はオレのやり方を見て覚えろ。
と、厳しく突き放しておき、仕掛けを作り上げた直後には、ただちに一匹釣り上げて、
―オレは忙しい。先に行く。
とずんずん上流へ向かって釣り上る。
これは意地悪でもなんでもない、釣り師の「仕込み」の初級テクニックである。
甘えないこと、他人の手を煩わせないこと。自分流の手法を見につけること。ここから「釣り」は始まるのだ。
リョウは悪戦苦闘の末、ようやく仕掛けを作り終えてあとを追ってくる。
―さあ、あのポイントで釣ってみろ。
指さす先の流れに向かって竿を振る少年。だが、糸は空中でぐるぐ巻きにもつれたり、木の枝に引っかかったりして彼の知識の中にある「ポイント」へはなかなか届かない。やっと流れに乗っても、ヤマメは食いついてはくれない。ことごとく合わせが遅れているのだ。「合わせ」とは、魚が餌に食いつく瞬間に手首を返して竿先をしならせ、瞬間的に糸を上げて獲物をハリに掛ける間合いのことをいうが、ヤマメは餌に食いついて「危ない」とか「食えない」と判断した場合には瞬時に吐き出し、反転して逃げる。それは10分の2秒から3秒の間という目にもとまらぬ速度である。ヤマメ釣りのコツとは、簡単に言えば目指すポイントに餌を投げ入れる「振り込み」とヤマメのいるポイントへと流水に乗せる「流し」そしてこの「合わせ」のタイミングが一致した状態であるが、知識と実際は違う。
リョウの竿は何度振られても餌はポイントに届かずヤマメは釣れないのである。
頃合いを見計らって、少年の後ろに立ち、そっと竿に手を添えて、この振り込みから合わせまでのコツを教えてやる。
すぐに一匹、釣れる。
目を大きく見開いて、その感動を伝える少年。
ハリに掛かった瞬間の手応え。竿をビリビリと震わせながら上がってくる銀色の魚。
冷たい感触。掌の中で暴れる生き物の実体。
ここからが釣り入門だ。
―この要領で釣れ。
と指示して竿を振らせるが、やはり釣れない。また後ろに回り、手を添えて教授。釣れる。
フリーにすると釣れぬ。これを繰り返して、一年目は自力では一匹も釣り上げることができなかった。
そして二年目、小学6年の春先、この谷のこの場所で、リョウのはじめての一匹が上がったのだ。
―やったーーーー
渓谷に少年の声が響き渡った。

月日は矢のように過ぎる。
―リョウよ、元気でいるか・・・
高校三年になったリョウは、今、運命の激変の中にいる(その内容はまだ公開できない)。
が、それもまた彼の人生。
―またいつか、この谷に二人で立つこともあるだろう。
その時までには、川も回復しているだろう・・・

竿を収め、沢から林道へと上がる。
その時、渓谷に響きわたる鋭い声がひと声。
それがアカショウビンの声であったか、それとも他の鳥の声だったか、
あるいは山猿(山神の使いのごときもの)の嘯く声であったかは確認できなかった。


(28)
アカショウビンの谷(2)―2013年9月28日―
[森の奥から流れ出てくる水]


夏の終わりに、家の中に迷い込んだアカショウビンが、放たれて飛び去った方角の森を歩いてみた。
二つ目の台風が通り過ぎたあと、森は静けさを取り戻していたが、アカショウビンらしき鳥影は見当たらず、
その気配さえなかった。空は高く澄み、すでに秋の色であった。
―もう少し、アカショウビンくんと遊べばよかったな・・・
私は、森を歩きながら、ちょっと名残り惜しい気分になった。
―おい、生意気なアカショウビンくん、君はなぜ、さわやかな渓流を離れて、
こんな市街地の森をうろうろしているのかね。
―君の家族は心配しているだろう。もう子育ては終わったのかい。いてて、その嘴はなかなかの武器だな。
―ふふん、みかけによらずなかなか肉付きのよいからだじゃな。
うむ、ヤキトリがよいか、煮込み料理のダシにとるか・・・
掌中で暴れるたびに伝わる、筋肉質の小動物の感触をたしかめ、頭を小枝でつんつんとつついたり、
大きく開けたその赤い嘴に指をくわえさせたりしながら、こんな会話をしたあと、放てばよかったのだ。
だが、たぶん彼(または彼女)は、あの時、南の国へと帰る途中だったのだろう。その途上で、
奄美大島辺りを北上してくる台風を予知し、この森を緊急の非難場所に選んだのだろう。
そして、100点以上の「九州の民俗仮面」が展示してある我が家に迷い込み、仮面たちが睨みをきかせる
不思議空間をぐるぐると飛び回った後、脱出すべく窓ガラスに激突を繰り返していたのだろう。
―そら、行け。
と空へ向かって放り上げた瞬間、彼はいっさんに南へ向けて飛び去ったことがそれを示していよう。
ならば、その家族や仲間も、近くの木陰で息をひそめて仲間の帰りを待っていたに違いない。
自由になった途端に彼が発した甲高い声は、仲間に対する呼びかけであっただろう。



今年の夏、日本列島では摂氏40度前後の気温に達した地域が続出し、各地で観測史上最高気温を記録した。
その猛暑のさなか、関東のある川では、水温の上昇にともなってヤマメが冷たい水のわき出る地点に集まり、
100匹を超える群れがみられたという、まことに暑苦しく、哀れな光景が報告されていた。夏期のヤマメが、
冷水域を求めて川の上流へと遡る性質について、以前このシリーズでかなりの字数を費やしたが、
ヤマメにとって生ぬるい水というのは、よほど気持ちわるく、嫌なものであるらしい。

九州脊梁山地の深部、椎葉から西米良へと越える山中でも、38~39度超という異常な高温を記録した。
私の旧式のアウトドア仕様車は、その猛暑にあえぐ山越えの道で二度もオーバーヒートした。
もともと欠陥のある中古車を買ったために生じたトラブルであり、あらかじめ想定していた事態だったので、
冷却時間をかせぐため、川に入った。車の故障は、川辺へ向かうための絶好の口実となった。

渓谷は最良の状態だった。夏休みの真っ只中であるにもかかわらず、水辺に人影は見当たらず、蜘蛛の巣がこちらの岸から対岸まで、張り巡らされていた。本流に注ぎ込む枝川の水は冷たく、谷の奥はひっそりと静まっていた。岸辺の砂には鹿の足跡が残されているだけで、甲高い鳥の声が一声、聞こえた。アカショウビン(ヤマセミだったかもしれない)の警戒の声であった。これにより、先行の釣り師も川遊びの子どもたちもいないことがわかった。
早速、竿を振ると、本流と枝川の出会いですぐに一匹釣れた。さらにその上流でまた一匹。
この日は、同行者がいた。このような場面で得意にならない釣り師はいない。私は、格別厳粛な顔つきを装って(実際には満面の笑みだっただろう)、川辺を見回した後、枯れ枝を集めて焚き火をした。
釣れたばかりの夏ヤマメの塩焼き。
これこそ、山人のとっておきのもてなし。

今年、「お・も・て・な・し」という美しい言葉が世界を魅了した。苦戦を強いられた東京オリンピックの招致運動は、この一言と、同時にプレゼンテーションしたスポーツ選手たちの言葉によって劇的な勝利を収めた。身体も心も極限まで追い込み、鍛え上げたアスリートが放つ誠実で率直な言葉もまた、あのスポーツの一瞬のきらめきに似た光彩を放ったのである。苦々しい思いで、老人の道楽のような動機で始められた理念も目標もないこの招致運動の経緯を見ていた多数の国民(私もその一人である)も、これにより、ひとときの山風に吹かれたような清涼感を味わい、安堵した。政治家の虚言が鼻についていた時期だっただけに、その言葉の奥にひそむ日本人の奥ゆかしさや相手に対する思いやりの心などを改めて思い出し、立ち止まり、空を見上げるようにして、笑みを浮かべたのである。



川から上がる前に、本流へと注ぎ込む枝川の落ち込みに身体を浸した。本流の水もかなりの冷たさだったが、
細い谷の奥から流れ落ちて来る水は一層冷たく、森の霊気を含んでいるかのようで、心身を清涼にした。
真夏の川で、冷水の湧き出る地点に集まるヤマメたちの心境がよくわかった。
もう一声、高い鳥の声が渓谷に響いた。



(27)
アカショウビンの谷(1)―2013年9月3日―
[「火の鳥」アカショウビンを掴まえた]



珍客・アカショウビン飛来。
廊下の窓ガラスに突撃し、がつんがつんと頭を打ち付けていたので、網で捕獲。
渓流沿いの森に棲む野鳥が、掌の中に収まった。
温かい。どくん、どくんと鼓動が聞こえる。ドジなアカショウビンくん、絶体絶命の危機だと思っているのだろう。

アカショウビンの生態を調べておこう。
≪アカショウビンは、森の中の水辺に住む。春、東南アジアなど南の国から繁殖のために渡って来る。渓谷に響く「キョロロロロー」という声は、オスの求愛のさえずり。大きさは20センチほど、オスとメスの間に目立った違いはほとんどない。アカショウビンはカワセミの仲間であり、狩りが得意。石の上や木の枝の上から魚やカエル、昆虫などを捕食し、食べる。5月から7月の繁殖の時期のオスの狩りには特別な目的がある。大きな獲物がとれると、
オスはそれをメスにプレゼントするのだ。カップルができると、オスは巣つくりに励む。
崖や枯れた木などにするどいくちばしで巣穴を掘る。メスは近くの枝でそれを観察し、
巣穴が気に入ると、3個から5個の卵を産む≫

「火の鳥」の異名を持つように、アカショウビンは、山深い渓流沿いの森にいて、谷から谷を、まるで火矢のような直線を描いて渡る。鳴き声を聞くことはたまにあるが、その姿を目撃することは稀である。私は長年渓流釣りに通っているが、アカショウビンを見たのは一ツ瀬川上流の小川谷と同じく一ツ瀬川支流の尾八重谷の二回だけである。
そのアカショウビンが、こともあろうに我が家の廊下の窓辺にいたのである。西都市まで車で10分、木城町まで10分、高鍋町までも同じく10分。高鍋の先の日向灘までは15分。標高は80メートル程度。深い森に覆われてはいるが、地方都市に囲まれた台地の一角で、川といえば三面コンクリート張りの宮田川が細々と流れているだけである。とてもとても、渓谷の神秘ともいうべきアカショウビンが棲む環境とは思えない。
今、この掌の中にアカショウビンがいるということは、この夏の小さな奇跡の一つなのではないか。



さて、掌中の獲物を、どうしよう・・・
彼は、ヤマメ釣り用の手網の中で、ばたばたと暴れ、その赤く長いくちばしを大きく開けて、噛みつこうとする。
結構、気性の激しい鳥である。
―そんなに威張るなよ、アカショウビンくん。君は今、とらわれの身なんだぜ。

カメラを持ち出し、数枚、撮影したところで、放鳥した。
鳥かごになりそうな空箱を探したけれど適当なものが見つからなかったし、たとえ籠に囲い込んだとしても、彼の食欲を満たすほどの小魚や昆虫などを確保できる保証はない。そして、この野生そのもののような赤い鳥は、突然の捕獲者になつくことはないだろう、という判断のもとであった。
もしもこの森に棲み付いているのなら、自然体で生活している彼に再会できる機会をこそ楽しみにしよう。

キョキョキョキョキョッ・・・
甲高い鳴き声を残して、真夏の闖入者は森へ飛び去った。


(26)
青緑の谷(3)―2013年9月1日―
[ゲリラの釣り方]




夏のヤマメが釣れにくい理由の第二に、冷水域を棲息領域とするヤマメが、
水温の高くなった下流・中流から上流へ、大川から支流へ、さらに細流へと遡る習性があげられる。
初歩的な知識のひとつだが、小学五年生ぐらいの男の子の渓流釣り指導をする時には、教えておいたほうが良い。大きな川に流れ込む支流に出合ったら、まず、流れに手を浸して二つの川の水温を測る。
そして、明らかな違いを認めた上で、小さな谷へと向かうのである。

「夏のヤマメは釣れぬ」
という人々に対して、私は、
「釣れるよ」
と言う。
「ヤマメだって毎日餌を食って生活しておるのじゃ」
というのがその論拠である。
冷水域や草藪の陰、木立の下などに移動し、身を潜めるようにして餌を狙っている彼らは、流れてきた餌や水辺を飛翔する昆虫などに対して猛然とアタックする。激流が飛沫をあげる早瀬の中で餌を追ってくる奴もいる。
そこに焦点を合わせるのが夏のヤマメ釣りである。蜂の巣や蝮に出会う確率が高いし、狭い谷に張り巡らされた蜘蛛の巣との戦いも面倒だが、その辺の課題さえクリアすれば、ヤマメは夏でもちゃんと釣れるのである。
頭には白いタオルを巻く。蜂の攻撃の第一波は頭部が目標となる。ゆえにまずはそこを防御しておく。蝮は怖いがゴムの胴長は暑苦しいから、厚手のジーンズに川足袋で足元を固める。大きな蛇を踏みそうになったことは何度もあるが、これまでに釣行で蝮と出会ったことはないからこれからも出会わないことにしておく。いちいち蛇を怖がっていたら、川辺には立てない。上着は長袖の白っぽいシャツまたは作業着。藪こぎをするから、半袖のTシャツなどでは擦り傷が絶えない。リュックサックの中に予備の竿を一本。飲み水と非常食を忘れぬこと。
要するに昔の杣人のような出で立ちで、細い谷へ分け入るのだが、
この私の釣り支度と釣法を、随筆家・主夫の柴田秀吉氏は、
「ゲリラの釣り方」
と形容した。柴田翁もまた釣りを愛し、酒と料理を愛した文人であり遊び人であった。
遊びの極地として、大学教授の奥様の食事を作り、家事を受け持つ「主夫」という独自の境地に到達した。
「主夫日記」は当時(1970年代後期)評判をとった著作であった。
左翼の闘士でもあった柴田氏は「ゲバラの日記」や「金芝河詩集」などを座辺に置く読書家でもあったから、
藪を分けて夏ヤマメを追う私の姿を見て、ゲリラを連想したのだろう。
だが、私はゲリラに興味はなく、自分の釣りは「山人(やまびと)の釣り」である、という程度の認識であった。
生まれ育った山の村の大人たちの服装・釣技をそのまま踏襲しただけのことであるが、
山人という表現には、そのころ勉強を始めた民俗学の影響が多少付加されている。

夏の一日、釣友・渓声氏が来た。渓声氏とは、郷里(大分県日田市)でギャラリー渓声館
を運営する梅原勝己君のことである。私の数少ない釣友に同じく郷里の草炎氏(書家の千原草炎君)がいるが、
この二人は、私より釣技も釣りに対する熱意も一段すぐれている。二人との交友と釣り談義の数々は、
語り始めると尽きるところがないほどであるから今回はやめておこう。
渓声君を案内したのは、五ヶ瀬川の支流の細い谷である。谷の名は伏せておく。今年出会った良い谷だが、流域も短かく細い流れの川であるから、公表すればたちまち釣り人が殺到し、無惨な状況になることは明らかである。自分一人で通って、ぽつりぽつりと釣っている分には、谷が荒れたり、絶滅の危機を招いたりという事態を招くことはない。
渓声君と草炎君は一年に二度しか宮崎の谷へは来ないから、案内してもよいと判断する。が、二泊三日で100匹以上を釣り上げて帰ることもあるから、影響がまったくないとも言い切れない。二人が竿を入れた谷は、半年または一シーズンは休ませて(釣りに行かないこと)あげなければ回復しないのである。
草炎君と渓声君の釣法には少し違いがある。日田市を貫流して流れる大河・三隈川(筑後川の上流)のほとりで育った草炎君は広々とした大きい川で悠々と竿を振る。その三隈川の支流の花月川のそのまた支流の小野川(陶郷小鹿田の里を源流とする)の瀬音を聞いて育った渓声君は、渓谷に分け入る釣り方である。
さて、今回、草炎君は所用があって参加できず、渓声君一人で来た。ちょっと寂しい気がするが、釣り上げられるヤマメの数は半分で済む。渓声君と私は隣村の育ちであるから、釣法も近似するところがある。
したがって、谷を見下ろしただけで、渓声君は
「僕はあの辺りを釣りましょう」
と即決し、私は
「うむ、あそこは青葉ヤマメの良い型が出たポイントじゃ。僕はその上流を釣ってみよう」
と、まだ踏み込んだことのない細い沢を選ぶ手順に迷いがない。

ここから先は、「釣れた」話で、大いなる自慢話となるので割愛。二人ともゲリラのように藪を分け、沢を遡り、
蜘蛛の巣を払い、葦の茂みの脇や大きく流れに差し出した木の枝の下、倒木の陰などを狙って、
ほぼ満足できる釣果を得たのである。



柴田秀吉画/ヤマメ図・1981年9月29日 筆者が筑後川上流の野矢川で釣ったもの。33センチ、生涯最高の大物。このころは町の釣具屋で売っている800円程度の四本継ぎの竹竿で釣っていた。

*インターネット検索したら、下記の記事が出ていた。柴田氏を良く知り、端的に語る文であるので、転載する。挿画は、数年前の夏、雨漏りに濡れた多くの荷の中から出てきたもの。今思えば、その頃こそ、氏が81歳で他界された2010年8月9日頃のことであったような気がしてならない。柴田先生、さようなら。
  
 ☆

[柴田秀吉という人生]
山下国誥

九州で個人誌を出し続けた故前田俊彦(豊津)、故松下竜一(中津)、
そしてここで取り上げる故柴田秀吉(別府)の3氏には、共通点がある。
戦後の日本社会と日本人に対して、救い難い苛立ちを抱き続けたことである。(中略)
氏は、文化人の名で詩人、画家などと呼ばれることをひどく嫌った。身も心もどっぷり自然の中で呼吸した、野人であった。四季を通じて、山芋を掘り、ヤマメを釣り、薬草を干した。
氏の絵の中の生物は、息を呑む生の活気で迫る。筆者には、やはり抜群の技量で生物に命を吹き込んだ、
香月泰男さんの絵と重なって見える。
氏は1944年、14歳で満州に渡り、満鉄系の通信士の養成学校に入る。まもなく敗戦。豹変する醜い大人の日本人。潔癖な少年は孤立する。大混乱の中、日本人集団から、独り放り出される。
それが、生涯、立ち直れない心の深傷となった。
帰国した日本は、激変していた。少年の深傷は定職に就くことをためらわせた。少年は戦後65年間、
ずっと、自治体の失業対策労働者として行き抜く道を選ぶ。(中略)
柴田さんは同人誌「軌道」を経て、個人誌「すわらじ」、「自鋤庵記」を出す。
8月15日は65年後も埋火となって、多くの日本人の身を焦がし続けている。

(西日本新聞8月6日掲載より)



(25)
青緑の谷(2)―2013年8月29日―
[真夏のヤマメを釣る]


古来、釣り師の間でも「夏のヤマメは一里一匹」(すなわち四キロほども釣り歩いて
やっと一匹程度の釣果しか得られぬ)と表現されるほど釣れにくいものとされる。
その理由は、
第一に、夏休みになって子供たちがどっと水辺へと繰り出し、釣り竿を持ち、
網を手繰り、銛をきらめかせて魚たちを追い回す。魚たちは岩陰や草藪の茂る細流、険しい崖に阻まれた淵などに避難して、この騒乱の時期をやり過ごす。魚たちにとっては迷惑千万の季節であるが、子供というものはこうでなくてはならない。自然界の一員として過ごす時期が、生態系の仕組みを知り、仲間同士の掟と友情を重んじ、他者への配慮を忘れず、「食」の楽しさと生命あるものを慈しむ心などを身につけた教養ある「おとな」への一歩を育むのだ。
昔、佐藤垢石という渓流釣りの名人は、釣りを始めて間がないころの文人・井伏鱒二氏が、さっぱり釣れなくて悩んだり、釣れすぎて夢中になり戯れに似た釣り方をしたりすることをたしなめて、
「釣りとは山川草木と一体になることじゃよ」
と言った。
垢石翁の釣り随筆も名人の振る一竿のごとき瓢然たる味があるが、にわか釣り師と、
川辺に育ち、水に育てられた野の賢人との違いをよく表す言葉であろう。



今夏、ここちゃん(小学一年)、ゆずちゃん(小学三年)という姉妹と両親を連れて沢を歩いた。
二人とお父さんにはそれぞれ一本ずつ竿を持たせ(お父さんも釣りは初心者)、
お母さんは食料とカメラを持って随行した。最初に、仕掛けの作り方、餌の付け方、釣り方などを教え、
後ろから手を添えて「流し」の要領と「合わせ」のタイミングを教えただけで後は放っておいた。
すると、彼女たちは、困ったことが起こるたびにやって来て糸のもつれや竿の不具合を直したり、
先行する私に大急ぎで追いついてきて、私の竿先を見つめたりした。そのような時、私は、
「ほら、あの岩の向こうを流してごらん」
と、大人への指導と同じ教え方でポイントを示し、自分は後方に退いて竿を肩に担ぎ、その様子をしばし見守る。すると、ちゃんと自分の手で振った竿に、魚がかかるのである。彼女たちはすばやく獲物を針から外し、次のポイントへ向かう。次第に餌の付け替えや釣れた魚の始末なども覚え、お母さんもいつの間にか子供たちと交代で竿を振るようになっていた。お父さんも、子供たちに気を配りながら次々に釣り上げている。この日、ヤマメは小物しか釣れなかった(すべて放流。これも彼女たちは納得)が、カワムツがよく釣れた。一行はそれで満足、午後の陽が傾く頃には、子供たちの竿を振る姿が、風景の中にじつによくなじんでいた。夕食は、もちろん川魚料理。
釣った魚をその日のうちに調理していただく、至福のひととき。
夏の一日でよいから、子供たちよ、塾をさぼり、パソコンゲームをやめて、川へ行こう。
魚族や釣り師の迷惑などは考慮しなくてもよろしい。






(24)
青緑の谷(1)―2013年6月9日―
[青葉ヤマメの甘露煮は故郷の山の村の味]

梅雨の晴れ間の一日、五ヶ瀬川の支流に入った。
オオルリの声が渓谷に響き渡る、清涼な渓谷であった。
梅雨の初期、まとまった雨が降ると増水し、谷は一時期荒れるが、雨が小降りとなり、
晴れ間が覗く日が続くと、水も澄み、落ち着きをとり戻す。水量はやや多めだから、川に勢いがあり、
大量に採餌したこの時期のヤマメは、体型も良く、肩のぐいと盛り上がった元気者揃いだ。
雨に伴うがけ崩れや急な出水、蜂や蝮との遭遇など、多少の危険を孕んだこの季節の谷は、
野生のヤマメと対面することのできる神秘の領域でもある。


写真/今日の釣果を古伊万里の尺皿(直径33センチの大皿)に。


この日の釣果は17匹。あまり自慢するほどの数でもないが、条件の厳しいこの時期にしては
上々の戦果であろう。午前11頃谷に入り、青葉に包まれた渓谷をゆっくりと釣り上り、
途中で弁当を食べたり、大岩の上に寝転んで鳥のさえずりを聞いたりしながら、午後5時頃釣り収めた。
オオルリは、鳴声を真似て口笛を吹くと、すぐ近くまで寄ってくることがある。
餌はミミズが最良。川虫(クロカワムシ)でも釣れるが、やや食いが鈍いし、水量が多いため採取しにくい。
山や森、田仕事を終えた田んぼ、林間の道などから雨とともに流れて落ちてくるミミズを餌とする魚たちにとって、
赤く細長いこの虫こそ、この季節のご馳走というべき餌なのだろう。活発に食いついてくるし、
早い流れを追い下ってきて、ひらりと身を捻りながら咥えるヤツもいる。ミミズでの釣りは、
少し「合わせ」が遅れてもよい。大岩の向こうを糸が流れている場合や深みなどでは、
こつんと手ごたえがあってから合わせて間に合う。ただしこの場合、まだ経験の浅いチビ君や食いしん坊君は、
喉の奥まで飲み込んでいる場合もあって気の毒である。
―ごめんよ・・・
と心の中で謝りながら、ぐさりと後頭部にナイフを入れて絶命させ、
下あごからえらの部分へと切り開いて、ハリを取り出す。
釣り上げた後の処置も的確であること。これが釣りの先達から厳しく仕込まれた作法でもあり、
獲物を美味しくいただく山人の知恵でもある。



写真左/素焼きにしたヤマメ。炭火が最良だが、ガスでもよい。かすかな焦げ目が付く程度に炙る。
写真右/素焼きにしたヤマメのアップ。真ん中のものが天然ヤマメ。体側にほのかな紅色がある。
釣り上げた瞬間、虹色に光ることがある。

今日の釣果を家伝の甘露煮にした。
出番は老母(85才)である。
私が少年期を過ごした大分県日田市の山奥の村は「花月川」という清流の源流部にあたり、
猪や鹿の猟とともに川漁も盛んな土地であった。
一昨年、大規模な洪水が起きて被害の出た花月川は、昔から増水を繰り返してきた暴れ川で、
昭和28年にも大災害が起きている。記録されない程度の出水や増水は年間に何度もあり、
そのたびに、村の大人たちは、各自の工夫になる大網や投網を持ち、川辺に繰り出した。
増水を避けて岩陰や大曲りの淵などに集まってきている魚たちを、文字通り、一網打尽に獲るのである。
大水の時ほど獲物は多く、ある年の私の父の網には、鯉・鮒・鰻・鯰などの大魚から
ウグイ、ハヤ、カワムツ、カマツカ、カジカ、ギギ(ひれに毒性を持つ針があり刺されると痛い)、
アカハチ(ナマズを小型にして緋色にしたような魚。刺されると痛い)、オヤニラミ、ドジョウ、シマドジョウ、
川蟹、川蝦など、およそ流域に棲むと思われる魚族の全てが入っているという驚くべき漁獲があったものである。
時には、川に流されてそのまま帰らぬ人、はるかな筑後川の下流まで流されて
見つかる人などもあったが、男どもは
―花月川に流れて死ねば本望よ。
などと嘯いていた。
男たちが、獲物をどさりと土間に置くと、そこからは女衆の出番である。丁寧に魚を網から外し、
腹を裂き、みそ汁、塩焼き、甘露煮など、種々の調理法で保存食を作る。山の村の数少ない祝祭の日であり、
出来上がった料理は、たんぱく質摂取の知恵である。我が家の調理法もこれにならったものである。



鋳物の鍋(川魚はこれでなければならぬと母は言う)にひたひたの水、しょうゆ、
砂糖、酒、トウガラシを入れ、ことことと煮詰める。



出来上がり。あめ色に光るヤマメを古伊万里の中皿に。
青葉ヤマメの甘露煮は、ふるさとの山の村の味となった。

前出の大皿とこの山水染付けの中皿は、長い間、広島に窯跡のある「江波焼」として伝わっていたが、
近年、有田の窯跡から大量の同様式の磁片が発掘され、古九谷などともに「有田産=古伊万里」
であることが明らかとなった。広島の殿様が愛したという素朴な水墨画風の山水の絵付け、
装飾のない無地の裏面などがその特徴だが、この簡素な美が、深山の渓谷に棲むヤマメに似合うのである。



(23)
山桜の谷(3)―2013年4月2日―
[雨の日の釣り師の愉しみ]


春の雨が、静かに降っている。
乾かすつもりで、軒先に立てかけておいた釣竿が濡れている。
この価格も手ごろなカーボンロッドで、一昨年はシーズン中に210匹のヤマメを釣り上げた。
丈夫で、軽くて、穂先は微細な魚信も伝えてくる。
昨年は、子どもたちと一緒に九州脊梁山地の南部・綾の森を源流とする川に入り、
川辺の林で篠竹を伐り、もっとも原始的な釣竿を作って、釣った。子ども六人と大人四人が、
半日で合計100匹以上のカワムツを釣り、小さいながらもヤマメが一匹釣れた。
この竹竿の釣り味がまた、捨てがたい。
「始原の力」とでも呼びたいような、玄妙なる手ごたえが、魚がかかった瞬間と、
釣り上げて、獲物を手にするまでのわずかな時間に、凝縮されて伝わってくるのだ。
カーボンロッドを手にすると、つい科学の力に軍配を上げたくなるが、
夏の終わりに、同じ川で、自製の竹竿を担いで川沿いの道を下って来る
地元の釣り師に出会った時は、脱帽し、敬服した。
小柄で精悍な体躯の、まるで神楽に出てくる山神の使いのような彼こそ、
筋金入りの、真物の釣り師であることは間違いない。

雨の日の釣り師は、釣り場でのさまざまな出会いを回想して飽きない。
ここで、昨年来課題としてきた、がんじいがなぜ3月1日から20日まで
すなわち<解禁直後の釣り>を好まぬかという理由を「空想の森の旅人」(鉱脈社/2005)
の記述を再編集して記しておく。
この記事を書いてからすでに10年近くが経過しているが、
その心意に大きな違いはないからだ。

 

雨の日は音楽を聴く。
演奏に混じる雨音を聞きながら、釣り道具を持ち出し、竿の手入れをしたり、
仕掛けを作ったりするひとときは、格別である。
二十年ほど前に買ったクォードESLというスピーカーの機嫌がすこぶる良い。
音楽好きの友人が放出した中古のスピーカーは、ここ数年、音が途切れたり、
夾雑音が入ったりする気まぐれな状態が続いていたのだが、何かの拍子ですっと音が軽く出て、復活した。
柔らかな音色を良く再現するこのスピーカーは、室内楽やバロックの曲を聴くのに適している。
この年(2004年)の二月二十九日は雨だった。それで、一日中音楽を聴き、釣具の点検をしたのだ。
ヤマメ釣り解禁日(3月1日)の前日の雨音は、渓流の音を連想させ、
時として男どもを狩場へ急ぐ猟犬のような心持にさせる。こんな日は、
シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」などを聴きながら、心境を穏やかに保つのがよい。

一晩中、降り続いていた雨は、昼前には小降りになってきた。釣竿が出番を待っている。
さて、出掛けなければならない。
3月1日―ヤマメ釣りの解禁日ほど、釣り師の心境を複雑にさせるものはない。
この日、魚の数を上回るかのような釣り人が川辺を騒がせ、長い冬の眠りから覚めたばかりの、
まだ覚醒状態に至らぬ魚たちを追い詰める。魚たちにも多少の油断がある。彼らは、腹がへっているのだ。
釣り師という天敵が水辺から去り、深い淵に粉雪が降り込み、木枯らしが谷の木々を揺すりながら
過ぎてゆく季節をじっとやり過ごしていた魚たちは、南風が吹き、水が温むと同時に猛烈な空腹感に襲われ、
餌を求めて浅瀬へと泳ぎ出す。そこへ、様々に工夫を凝らした餌が投げ入れられる。
不覚にも彼らは飛びつく。
私は解禁日の釣りを余喜ぶものではない。この時期の魚を狙うのは、なんとなくフェアでない気がする。
だから、軽く川に挨拶をするつもりででかける。
―こんにちは。
―ご機嫌よろしう。
―今年もまた、よろしくお頼み申します。
河伯・水神への寿詞である。
ふくらみ始めた猫柳や、淡い樺色の山桜の花芽、高い崖に咲く藪椿にでも出会えれば、
それで充分だ、というような殊勝な心がけで川辺に立つのだが、いざ竿を振ると、
狩人の末裔としての本能が目覚めて、つい、本気を出す。そして、釣れる。釣れれば嬉しいし、
仲間が集まれば自慢話もしなければならぬ。
まことに、釣り師の心は、陰陽綾をなす。

―以下略―

今年の3月22日には、高千穂町を貫流する一ツ瀬川の本流と支流との合流地点で、
23センチを筆頭に良い型のものを9匹上げた。本流の岸は釣り師の足跡だらけで、
水中の小石は餌採りのためにことごとくひっくり返されているという状態だったが、
一時間ほどをかけて、やっと4匹を上げたのだ。夕暮れ時、支流へと移動し、20分ほどで5匹を得た。
山桜の花びらが、夕景を装飾した。この日が、実質の解禁日となった。



(22)
山桜の谷(2)―2013年3月24日―
[三月の釣り師の憂愁]



高千穂の川で釣った22日のことを書き始めたら、
禁を破って5日、6日、7日と続けて谷に入った話になってしまった。
それゆえ、まずはその話を片付けておく。
5日は、昨年の夏、リョウと一緒に行った「竹竿の釣り師に出会った谷」に入った。
まるで山の精霊カリコボースか河童のごときその釣り師は、
自製の竹竿を担いで夕暮れの山道をすたすたと下ってきたのだ。
こんな釣り師がいる谷はヤマメはことごとく釣り上げられていそうなものだが、
釣り手が変わればまた釣れるのがこの魚の玄妙なところである。
今年はまずこの谷を目指そう。

さて、その日は釣り開始直後に、リョウが竿を担いでがんじいの後方に立った。
まだ彼には一匹の獲物もなくて、ちょっと様子見に竿を出したがんじいに二匹の釣果があった。
(心の屈託が、竿を鈍らせておるのかもしれぬな・・・)
憂慮したがんじいが
―どうした?
と振り向くと、リョウは黙って上流を指差す。
そこには、先行の釣り師の姿があった。

―なんだ、そうか、ならば谷を変えよう。
―うん。

という呼吸はぴたりと合って、少し下流にリョウが単独で入ったがそこでは魚信さえないという。
農作業をしている近所の人が、
―さっき他の人が釣り下ったばかりじゃ。
と笑っている。
釣り師の天敵は釣り師である、という解禁直後の谷で起こる悲喜劇。
さらに場所を変えて源流部へ。
ここでも先行者の車が3台ほど停まっていたが、崖を下って下流に入りこみ、
ぞれぞれ一尾ずつを上げて竿を収めた。
リョウは晴れ晴れとした顔になっていた。
高校二年の春にやってきた重大局面を、彼は乗り切るべき決断をしたという。
(その内容についてはいずれ語る日が来る)
谷に立ち、自然そのものと謙虚に対峙するという行為が、彼の心身を健やかにしてくれたのであれば、
リョウとがんじいの10年にわたる釣行も無駄ではなかったということになろう。

翌日と翌翌日は高千穂・秋元エコミュージアムの次期計画の打ち合わせを兼ね、
福岡の釣り人二人を案内して高千穂の川に入ったのである。
その詳細は省く。
まだ魚は黒くサビており、動きも弱い。
釣っては放ち、また放流するという行為が虚しく感じられて、
まだ釣りを初めて間がないお二人への手土産3匹だけを魚篭に収めて納竿した。
それから秋元川と一ツ瀬川本流との出会いの地点に移動して、
先行の釣り師の釣り姿を見ていると、また別の釣り師が来た。
そして、やれ、今朝はここで10匹上げただの、
いやこの時期なら15匹は上げなくては、などと御託を並べ始めたので、
胸が悪くなってきて、つい
―俺は20日までは釣らぬよ。
と言い放ってしまった。
そのスマートなウエットスーツの紳士は黙ってしまい、その後は少し言葉使いも丁寧になった。
がんじいの発言に含有される主旨は理解してもらえたものと思えたが、
なんと、彼は、直後に川に向かい、上流部に割り込んで行った。
やれやれ、なにをかいわんや。



3月20日まで釣らない、と決めたのは、冬場の厳しい棲息環境を生き延びて
ようやく採餌活動を開始した(つまり目覚めたばかりの寝ぼけた)、
サビて美しくも美味くもないヤマメを釣るのが面白くないだけではなく、
このような現代の釣り師の生態を目にするたびに憂鬱になる、という理由が加わる。
その点、リョウは潔さも決断力も身に付けていて、好ましい。
良い若者になったと信じていいだろう。



(21)
山桜の谷(1)―2013年3月23日―
[谷へ行く日]

3月22日、高千穂の川に入った。
20日を過ぎて、山桜の咲く頃、これががんじいのヤマメ釣り解禁日である。
なぜ、3月1日の解禁日に釣らないか。
そのことを、去年の今ごろ、書くと言っておきながらいまだ書いておらぬ。
それを思い出したので、以前出した本「空想の森の旅人」(鉱脈社)から引用しようと思ったのだが、
机の上に出しておいたその本が見つからぬ。
がんじいもついに来るべき時(耄碌という恐るべきその時)がきたのかしらん。
よってこの一件は保留。



今季は、禁を破って3月6日、5日、7日と三日続けて谷に入った。
まだ山桜の蕾は固く、ほのかに薄紅色の先端部を光らせて、開花の日を待っている。
このころ、一枝をいただき、椿の灰汁媒染で絹布を染めると、たおやかな桜色に染まる。

禁を破って谷を目指したのは、リョウが人生の転機ともいうべき難局を迎えたからである。
その内容については、いずれ書くことになるだろうが、今は公表できない。

リョウが中学二年の一時期、荒れた。
その時、がんじいは彼を谷に誘い、ひたすらヤマメを追った。
その日は良く釣れたので、二人とも、へとへとになるまで釣った。
納竿した地点に山桜の群生地があり、
急な斜面がその上を通る林道へと続いていた。
林間に花びらが雪のように散っていた。
その斜面を、
―走って登るぞ!!
とがんじいは掛け声をかけ、登り始めた。
リョウが続いた。
山で鍛えたがんじいと、サッカーの練習に明け暮れていたリョウは、
途中までは互角の勝負だったが、最後の一息でがんじいが遅れた。
登り終えた二人は、桜の花びらの散る地面に寝転んだ。
―現役のスポーツ選手にはやはり敵わぬな。
―がんじいもすごい。
(年の割には・・・とは言わなかったな)
―これで、頭の中がすっきりしただろう。
―うん。
―明日からまた学校へ行けるな。
―おう。
―またいつか、ここが俺のピンチだ、という局面を迎えることがあるかもしれぬ。
そのときはまた、二人で谷に入ろう。覚えておけよな。
―わかった、ありがとう。

それから三年後、この3月5日がきたのである。





(20)
瑠璃鳥<オオルリ>の谷(3)―2012年9月27日―
[オオルリ南へ帰る]


釣りを終えて車に戻り、一息いれる。
早瀬や浅場に魚の姿は見えなかったが
深い淵の大岩の陰などには魚影が見えた。
安全な場所を選んで、荒れた季節が過ぎるのを待っているのだろう。
産卵の準備は、例年より遅れているようだ。



目の前の木立に青い光が宿った、
と、思ったら、それは、対岸の樹林から飛来したオオルリであった。
枝から枝へと飛び移りながら、小虫を啄んでいる。

―オオルリ―
日本へは夏鳥として渡来・繁殖し、冬季は東南アジアで越冬する。高い木の上で朗らかにさえずる。
姿も囀りも美しい。低山帯から亜高山帯にかけての山地や丘陵に生息し、
とくに渓流沿いのよく茂った森林に多く、飛翔している昆虫を捕食する。

夏の間、渓谷の高い木の梢で鳴き交わしていたこの青い鳥も、
やがて南へと渡ってゆく。
がんじいも谷に別れを告げる。
秋が深まってゆく。



*写真はオオルリが飛び立った瞬間。
左上・杉の樹幹のやや左に羽を広げた様子が写っている。


(19)
瑠璃鳥<オオルリ>の谷(2)―2012年9月27日―
[秋の谷に別れを告げた]



10月11日から始まる東京・京橋「アートスペース繭」での企画展「高見八州洋/竹の色は竹の声」
に協賛出品する「薬草を纏う/空想の森の草木染め」のため、毎日、染料を採集し、染めている。
16日にはLIXILギャラリー大阪で「山と森の精霊―高千穂・椎葉・米良の神楽―展」の講演会のため出掛け、
そのまま「繭」の会場へと向かうこととなる。にわかに大忙しとなった日々である。
それゆえ、「ヤマセミ(山翡翠)の谷」に出会った日のことは、いずれ改めて書くこととして、
今季最後の釣行となった9月28日の釣りについて記しておこう。



今季のヤマメ釣りは、降り続いた雨の影響で、散々だった。梅雨が上がって少しの間、
晴れ間が見えたが、夏に入ると台風や集中豪雨、大夕立などがほぼ一週間に一度の割合で襲来し、
川は増水し、とても釣りにいける状況ではなかったのである。
9月28日、南海上に台風が発生、九州に接近していることが報じられていたが、この日はまだ、
真っ青な秋空が広がる上天気であった。渓に別れを告げに行かねばならぬ。禁猟期が近い。

夏の間に続いた増水に川ゴケや水辺の植物などが流され、渓谷は、白けていた。
水生昆虫の発生が少ないことはひと目でわかる。
からりと晴れた空の下で、まずは握り飯を食った。
ススキの穂が風に揺れ、水流が銀色に光っていた。水は澄んで、川底まで見えたが、
魚影は少なかった。時々、斜めに差し込んでくる金色の光は、秋の山の色を映したものだ。



山道を20分ほど歩く。雑木林の中を、山中深くへといざなう道だ。
途中で、色づきはじめたヌルデの木に、五倍子(ごばいし)が付いているのを見つけた。
早速、採集。五倍子は、「黒」を染める染料(昔、既婚の女性が「お歯黒」を染めた)だが、
採集してすぐに使えば、「紫」が染まる。
崖に差し出た枝に手を伸ばして採っていたら、ずるり、と足元が滑って、斜面を落下しはじめた。
それで、その勢いのまま谷まで下り、流れに竿を出した。

沢は静かだった。
水はきれいだが、魚の姿が見えぬ。やはり、夏の増水の影響で、
魚の棲息分布が変化しているのだ。
少し釣り上ったところで、やや深めの淵の岩場の陰で、やっと一匹。
だが、すらりと痩せている。充分な採餌が出来ていないことは明らかだ。流れにもどす。
二匹目は、激流の中を勢い良く飛びついてきた。慎重に寄せ、手網で掬い上げる。
18センチ程度だが、腹が大きく膨らんだ、雌である。これも放流。
釣りは「狩り」であり、「食う」ために釣るのだという体質の持ち主であるがんじいは、
「リリース」という考え方にはただちに同意できないが、この時期、釣り上げたヤマメを丁寧に見分け、
雌だと確認できれば放流する。一匹を持ち帰り、食することよりも、その一尾が生む
200匹(大物では1000匹以上産むものもある)を温存したほうが来期の楽しみが大きい、
という論拠である。単純な差し引き計算だが、これもまた、山に生きる男たちが、
祖先から受け継いできた気風というものであろう。
――来年も来るからな。また会おう・・・
と、心の中で声をかけることも、がんじいは忘れない。





(18)
瑠璃鳥<オオルリ>の谷(1)
―2012年9月27日―
[黄葉の谷で]



夏から秋へかけて、山も海も、荒れ、騒いだ。台風や集中豪雨、異常な高温現象などが
相次いで列島を襲ったのだ。ここ宮崎では、夏の間中、雨が降り続き、一週間に一度の間隔で
大雨が降り、九月に入っても雨は止まず、とても釣りに行けるような状態ではなかった。
けれども、九月も半ばを過ぎると、ようやく晴れ間が見え、木立を渡る風は涼しくなり、
川の水も澄んで、ようやく静けさが戻ってきた。
山が、少しずつ秋の色に染まりはじめる。暴風に痛めつけられた木々は、
例年よりも早く葉を散らす準備を開始し、落葉する間際の短い期間、紅葉するのである。




―山の色を見て、餌を替えよ。
毛鉤釣りの名手であった私の父は、川辺へと出かける少年の私に、助言した。
鹿を狩り、鮎や鯉、山女魚(ヤマメ)などの川魚を追って一生を終えた父は、
老いて、川辺に立つことがかなわなくなってからも、その心は、
つねに川瀬や奥深い渓谷を遊んでいたものとみえる。

私は、山女魚を狙って、釣りの準備を整えている。山女魚は産卵期を迎えるため、
10月1日から禁漁となる。9月月末の釣りは、今期最後の釣りなのだ。
私の生まれた山の村(大分県日田市)では、山女魚のことを「エノハ」と呼んでいた。
晩秋、榎(エノキ)の葉が黄葉するころ、山女魚は谷を下る。
産卵を終え、海に帰ろうとする太古の習性の名残だという。山女魚とともに流れ下る落葉と、
魚の体側にある斑紋が混交するさまを、釣り人は「榎の葉=エノハ」と形容した。

山を眺め、今はあの世とやらで釣りを楽しんでいるはずの父の言葉を思い出し、
クリ虫を用意した。山栗が落ち、クリ虫が這い出して地中にもぐるこの時期、山女魚は
猛然とこの黄色い虫を追う。渓流の釣りは、生態系を観察し、季節の移り変わりを感じ取り、
魚の習性と彼らのその日の食卓=採餌行動を「読む」ことで、その効果と味わいを深める。

夏から秋へかけての雨量を考慮し、米良山系の一本の細流に入った。
三年ほど、入渓を控えている、いわば取っておきの谷である。ある年、この谷筋だけで
100匹以上を釣り上げたことを契機に、めっきり釣果が低下した。「谷を休ませる」
という表現は釣り人の思い上がりに聞こえるかもしれないが、その谷にだけ生息する
〝天然もの〟の山女魚が生まれ、育ってゆく過程を思い描きながら、資源の回復を待つ期間も、
釣りのプログラムの一つと心得るべきである。

目指す釣り場へは、山道を20分ほど歩かねばならない。黄葉の始まった道に渓の音が響き、
崖下の谷を山翡翠(ヤマセミ)が飛んだ。



<17>
竹竿の釣り師に出会った谷(7)―2012年8月19日―
[珠玉のヤマメ一匹]

*写真右/ヤマメとカワムツ

「カワムツ」という魚は、ハヤ(オイカワ)の仲間である。兄弟分と言ってもいい。
背中は黄褐色で、体側に紺色の縦縞がある。体長は10~15センチ。
オイカワと同じく三角形の大きな尾びれを持ち、川瀬を素早く泳ぐ能力があるが、
草薮の陰やゆるい水流のところを好むため、がんじいの故郷では、
早瀬を泳ぎ、銀色の魚体を持つ「シラハエ(オイカワ)」に対して、「バカバエ」という蔑称で呼ばれていた。
しかしながら、山間部では「ヤマソバエ」とも呼ぶ。「ヤマソ」とは「山杣」の意であるらしい。
これはなかなか奥ゆかしい魚名である。なんとなれば、山仕事を専業とする杣人(そまびと)などが、
これを捕え、食したことに由来すると思えるからである。串刺しにして丹念に炭火で炙り、
醤油に砂糖と唐辛子を加えてことことと煮込んだ甘露煮は、
ほのかな清流の香りさえして、すこぶる美味なのである。
焚き火に手をかざす山小屋の男たちや、深い奥山の景色などが目に浮かぶではないか。



カワムツ君に対する応援演説が長くなった。
要するに、産卵期を迎え、瀬に出て狂ったようにエサを拾う夏場のカワムツは幾らでも釣れるのである。
が、ヤマメ釣り師にとっては「外道」であるから、釣っては捨て、釣っては捨てる。
そのたびに、大事なエサを消耗し、時間も無駄に費やす。
それで、思わずバカバエと見下げた呼称で呼びたくなるというものだ。
この日、リョウと二人で100匹以上のカワムツを釣り上げた。
このことをいくら記述しても自慢にもならないし、「記録」にもならぬ。
だが、一つだけ、特筆すべき釣果がある。この日、がんじいは、ヤマメの釣果ゼロだったが、
リョウは一匹釣り上げた。しかもそのポイントは、がんじいと並んで竿を出した激流の瀬であった。
夏休みの子どもや釣り師、潜って銛で突く漁師などに追われ、
瀬の流心近くを泳ぐのも、夏ヤマメの特徴のひとつである。
――ヤマメだ!!
リョウの笑顔がはじける。
――お、やったな!
がんじいが確認し、リョウが獲物をハリから外しにかかったその瞬間、
がんじいの竿にも強いアタリが来た。
――うむ、俺にも来たぞ!!
と声をかけ、一気に瀬から抜き上げたが、なんと、獲物はイダ(ウグイ)であった。
身が軟らかく、生臭くて不味く、寄生虫さえ宿しているこの季節のイダは、
釣果のうちにも入らぬ外道である。カワムツにさえ及ばない。
渓流釣りにおけるヤマメとイダとでは、天地ほどの差があるのだ。それに対し、
地元の釣り師が先行した後でのヤマメ一匹は、夕空に輝く星ほどの価値がある。




ここで、竿を収めた。
リョウは快心の笑みを浮かべ、がんじいは、一人前の釣り師に成長したリョウの姿に目を細める。
沢風が心地よい。
谷を下り、夕闇迫る水辺で釣具や獲物の始末をしていると、
ひたひたと山道を下って来る足音が聞こえ、黒い人影が川岸に立った。がんじいは、リョウに声をかけ
――あれが、俺たちの先を行った釣り師じゃ。
と、教えた。
――もっとも手ごわい、地元の釣り師よ。
灰色の作業服に地下足袋(または川足袋)。
よれよれの麦藁帽子。
ずっしりと重そうな竹製の魚篭。
肩に担いでいるのは、一目でわかる手製の竹竿である。
夕暮れの里に、古風な釣り人が添景された。
その風姿こそ、山も川も熟知した練達の釣り師のものであった。


<16>
竹竿の釣り師に出会った谷(6)―2012年8月17日―
[法華嶽源流へ]



「法華嶽源流の谷」とは、綾町の照葉樹林に隣接する国富町・法華嶽を中心に
釈迦ケ岳、掃部岳、式部岳等が連なる広大な照葉樹林地帯を流れ下る渓谷である。
がんじいは、まだこの山脈と谷筋のことを深く知らないから、当面、法華嶽源流の谷と呼ぶことにするが、
地元の人に聞くと、林道を車で20分ほども遡った地点に進入禁止の柵があり、その上流でも下流でも
――釣れる。
という。
――〝地もの〟がおる。
ともいう。それは、体側にパーマークを貫く赤い横線が入り、虹のような色彩を放つ
美しいヤマメらしい。ただし、谷は深く、岩場が多く、淵を迂回して急な崖を上り下りしたり、
藪こぎをしたりする難所続きだともいう。
――だからこそ、〝天然もの〟が残ったのじゃ。

森の中で雨宿りをしながら、がんじいはリョウにこの話をする。リョウの目が輝く。
――だが、今日は方針を変え、ハヤを100匹以上釣る。
足跡から判断し、先行者は地元の名人級の釣り師である、とがんじいは見切りをつけ、
早々に戦略の変更を決定したのである。ポイントを知り尽くした地元の釣り師に先行された後は、
幾ら竿を振ってもヤマメは釣れぬ。これもまた、ヤマメ釣りの基礎知識の一つである。
危険を察知したり、仲間が釣り上げられたり、餌に食いつき、それが餌とは違うものと認識して
瞬時に吐き出したりした後は、一時間以上、ヤマメは採餌行動を中断し、岩陰などに潜む。
――谷が鎮まるまで、ヤマメは餌を喰わぬものじゃ。ただし、名人が釣り残したポイントもないとは限らぬ。
ハヤを釣りながらその残りの1パーセントの可能性を楽しむのじゃ。
――上流に人家のない谷のハヤ(カワムツ)の甘露煮も、独特の風味と香りがあって美味いものよ。
料理好きのリョウがこれに
――おう!!
と反応する。



写真/2012年8月・沢に立つがんじい(撮影・鈴木遼太朗)


<15>
竹竿の釣り師に出会った谷(5)―2012年8月16日―
[リョウの釣り入門のころ]


夏休みの家族連れで賑わうキャンプ場を通り過ぎ、沢へ入る。
山風が涼しく、水は冷たい。
前々週、子どもたちと一緒に分け入り、篠竹を採集して手製の竹竿を作った地点を過ぎる。
あの、単純素朴な竹の釣竿で、小さなヤマメが釣れたし、
50匹以上のハヤ(カワムツ)も釣れて、子どもたちは大喜びであった。
竹竿を数十年ぶりに手にしたがんじいにとっても、細い竹から伝わってくる川魚の微細な手ごたえは、
科学技術の極点ともいえるカーボンロッドの釣味とはまた違った魅力を伝えた。
幼い頃に体験した、魚と手とがじかに触れ合っているような、
いわば、原初的な〝おののき〟とでもいうような感覚が瞬時によみがえり、
――いつか、本格的に竹竿を作って釣ってみるか・・・
という気にさせたほどであった。

この夏、山には連日夕立が立ち、谷は増水していた。
前回、楽々と渡った瀬も、激流となって流れ下り、渡渉は困難をきわめた。水流の変化により、
「夏ヤマメ」のポイントもやや狭められていた。
中学三年間はサッカー部に所属し、高校では応援団(現在は団長)に入っているリョウは、
体力はすでに充分で、荒瀬に立ち込み、次々とポイントを狙う。
がんじいは、竿を肩に担ぎ、その姿を眺めながら、しばし、回想する。

リョウを初めてヤマメ釣りに連れて行ったのは、小学五年生の時だ。
その最初の夏、生意気盛りの少年は、谷沿いの道で、
――持って。
とがんじいに向かってリュックサックを手渡そうとしたのである。
がんじいの目がギラリと光った。
――それはお前の荷物だ。自分で持て。
厳然と宣告したがんじいは、すでに山の男になりきっており、
谷を下り、岩を飛んで一気に流れを渡って上流へ向かう。
慌てたリョウは、岸辺を上り下りして渡渉点を探すが、初めて沢に入った子どもの知識と体力では、
経験を積んだ大人の沢歩きの速度に追いつくことは不可能である。
――流されたら助けてやるから、自分で渡って来い。
岩の上に立ったがんじいは厳しい言葉を放つ。が、指は、渡るべき岩や足場を指している。
すでに山人の「仕込み」は始まっているのだ。
そして危うい足取りで渡ってきたリョウが、瀬と深みの間で進退極まった
――ここが限度だな
という地点を見極めた上で、ひらりと岩を飛び渡り、
――そら、掴まれ。
と右腕を激流の上に差し出し、向こうから、懸命に伸ばされてきた小さな手を
がっしりと受け止める。ここで、二人の間に緊密な友情と信頼関係と、
師弟としての契約が結ばれる。谷風が涼しい。

さて、釣り始めてしばらく経っても、川底の石を錘がコツンと叩いて流れ下るような、
「夏ヤマメ」独特の微細な魚信がない。釣れるのは、ハヤ(カワムツ)ばかりである。
――ふむ、先行者があるな・・・
と見当を付け、水際の砂地や小岩などに注意してみると、案の定、ひそやかな足跡がある。
まるで、忍者が河童のような足跡。石はまだ水の色さえ残している。
リョウを呼び寄せ、その濡れた石を指差して、
――だめだな、今日は。
と言えば、
――あ、先行者ですね。
彼もすぐに悟る。
――うむ、達人級の釣り師のようだな。
折から、黒雲が空を覆い、激しい雷雨となった。稲妻が渓谷を斜めに切り裂く。
どかん、と近くに雷の落ちた音。真っ白い雨の幕に包まれる谷。
二人は、森の中に移動し、おやつの包みを開く。おにぎりがうまい。



<14>
竹竿の釣り師に出会った谷(4)―2012年8月14日―
[リョウが自転車でやってきた]



宮崎市の中心部から国富町法華嶽源流の谷まで約2時間。
リョウが自転車を飛ばしてやってきた。高校二年のリョウは、午前中、応援団の練習をすませ、
それから炎天下の道を汗だくになりながら遡って来たのだ。
がんじいは、その走行距離も到着時間もある程度予測していたから、愛用のRV車で先回りして、
約束の合流地点より下流まで迎えに行き、その所々錆の出たママチャリ(婦人用簡易自転車)
を車の後部座席に積み込んで、川辺へと向かった。
その後の釣りに要する時間の計算を包含したさりげない対応だったが、
真夏の太陽が容赦なく照り付ける舗装道路で出会った時、リョウは、心底嬉しそうな顔をした。
――もう、限界だったかも・・・
――そうじゃろう。
会話は、それだけで済む。
小学五年の時から一緒に川に入り、ヤマメを追ってきた二人なのだ。
がんじいが用意してきた薬草茶を、リョウが一気に飲み、汗をひと拭きして、谷へ向かう。
がんじいの薬草茶とは、朴の葉、枇杷の葉、柿の葉、クサギの花、
ドクダミ、カラスザンショウなどを配合したものだ。
その調合の仕方や効能については、いずれ改めて語ることにして、谷へ急ごう。


<13>
竹竿の釣り師に出会った谷(3)
ー2012年8月3日―
[夏ヤマメを追い、早朝の渓谷へ]
二日目の朝、5時過ぎに目覚めたので、夏ヤマメを狙って谷に降りた。
昨日、子どもたちと入った川辺はまだ暗く、ようやく、朝の光が射しはじめたばかりであった。
山の冷気が心地よい。
上流へと向かう。




「夏ヤマメは一里一匹」という釣り師の格言がある。
一里(4キロ)を釣り歩いて一匹の釣果があれば上々、の意。
それほど、夏季のヤマメは釣れにくい、ということである。
だが、がんじいは
「釣れるじゃ」
という。
なぜか。
「ヤマメたちだって、毎日、餌を食って生きておるのじゃ」

たしかに、夏のヤマメは、川遊びに入ってくる子どもたちや、水中メガネをかけ、
銛を手に潜ってくる大人などに追い回され、忙しい。毎日、命の危険にさらされ、逃げ回って、
岩陰や樹木が生い茂る支流の細い流れなどに身をひそめ、騒がしい季節の過ぎるのを待つのである。
それでも腹は減る。何かを食って厳しい時期を生き延びなければならない。
この原理は、魚も人間も変らぬ。だから、
「子どもや釣り人がめったなことでは入り込まぬような支流や草薮の中の流れ、倒木の下、
大きく木の枝が水辺に差し掛かるポイントなどを狙って、一発必中で〝振り込む〟」ことが肝要である。
「鼻先をめがけて餌を流してやれば、たまらず、奴らは喰いついてくるのじゃよ」



「朝まずめ、夕まずめがよろしい」
とも、がんじいはいう。
〝朝まずめ〟とは、夜明け直後の2時間あまり。
魚たちの朝食時間と理解すればよい。
〝夕まずめ〟とは、人間たちが水辺から去った、日暮れまでの約2時間。
静けさを取り戻し、夕映えの空の色を映した流れで、魚たちは活発に餌を追う。
水生昆虫が羽化する時間帯でもある。風も凪ぐ。
「朝まずめ、夕まずめ」とは、自然の営みとともにある魚類の生態を見事に描き出す、美しい言葉である。




水面にうすく霧がかかった。朝の光が渓谷に満ちた。
早瀬を渡り、さらに上流へ。
やや浅めの淵の真ん中に倒木が沈み、その倒木の向こう側と崖との間に速い流れがある。
その上手をめがけて振り込むと、第一投で、ぐん、とヤマメのアタリが来た。
倒木の下に引き込まれそうになったが、竿を立てて引き寄せ、手網で掬い上げる。
20センチほどの見事なヤツ。
読みが的中、まずは快心の一匹。
次は、浅瀬から流れ落ちた激流が大岩と崖の間を流れ、深い淵へと続く絶好のポイント。
岩の向こうに静かに餌を落とすと、すっ、と糸は流れに吸い込まれ、目じるしが一瞬、動きを止めた。
間髪を入れずに合わせる。ガツンと激しい手ごたえ。ぐいぐいと引き込み、流れを突っ切り、
崖下のくぼみへと向かう獲物。竿が撓う。そいつを、2、3度ほど泳がせたり寄せたりしておいて、
やや強引に引き寄せ、掬い上げる。24センチほどの大物だ。

法華嶽源流の渓谷との出会いはこうして始まった。
この日の午後に予定されている子どもたちの「沢下り」の下見を兼ねてもう少し上流まで行ってみる。
浅瀬と淵とが連続するなかなか良い渓相である。
さらに3匹が上がり、合計5匹。夏ヤマメの釣果としては上々である。
ちなみに仕掛けはハリス0、6号に針はヤマメ7号の通し。「通し」とは糸に直接針を付ける方法。
餌は昨日の子どもたちの使い残したぶどう虫。竿は4、5メートルのカーボンロッド。
竿が手製の竹竿からカーボンロッドに、ハリスが0、8号から0、6号に変り、
長さが3メートルから4、5メートルに変った以外は昨日の仕掛けと同じ。
これが、がんじいのいうところの「名人の仕掛け」である。

予定時間の7時に宿舎へと凱旋。
たちまち朝食中の子どもたちが駆け寄ってきた。
きらきらと光る目。歓声、ため息。
がんじいの自慢話が始まる・・・



<12>
竹竿の釣り師に出会った谷(2)―21012年8月2日―

[森と渓流の恵み/手製の竹竿でヤマメとハヤを釣り、調理して食べた]


☆お昼休み。虫たちも集まっていた☆

集合場所に一株の樫の木が。そこは、カナブンやヒラタクワガタ、カブトムシ、
大きなクモなどが集まる場所だった。それを見つけた子どもたちも集まってきた。



☆楽しいお昼ごはん☆

お昼ごはんは、宮崎市平和台公園内のレストラン&ギャラリー「ひむか村の宝箱」から届けられた美味しいお弁当。玄米や雑穀のおにぎり、無農薬野菜などの取り合わせがうれしい。



☆「仕掛け」を作る☆

・森で作った釣竿で、「仕掛け」を作る。「仕掛け」とは、竿に糸と針とオモリ、
目じるしなどを取り付けること。これで釣りの準備が整う。
・ハリス(糸)は昔からある銀鱗の0、8号、針はヤマメ7号、オモリはガン玉(かみつぶし)6号。
目じるしはビニール袋を破って適当なサイズにして取り付ける。もっともシンプルな道具だが、
これでちゃんと釣れるところが釣りの面白さである。
・エサはブドウ虫を使用。本来は、川虫(水生昆虫)がもっとも良く、
次いでクモやバッタなどの昆虫類だが、降り続いた雨の影響で川虫の発生が少なく、
採れにくいことから、ブドウ虫を選択。この時期、アシナガバチなとの蜂類が巣を作り、
蜂の子が得られることがある。これも絶好のエサである。冬の間、野ブドウ(エビヅル)の
蔓の中で過ごすブドウ虫は、本来は春先のエサだが、蜂の子に似ているため、
このような非常時には養殖のブドウ虫が応用できる。昔は、野ブドウの蔓からエビヅル虫を採り、
釣具屋に売る専門職がいたものだが、現在は養殖技術が発達し、容易に入手できるようになった。
・釣りのエサとは、季節に応じ、魚たちがどのような採餌活動をしているかを把握した上で決定される。
すなわち釣りとは生態系の仕組みの中での「遊び」であり「狩り」なのである。



☆名人が釣り方を伝授☆

・一人ずつ、一回だけ、「名人の釣り方」を伝術する。といっても、それは特殊な釣り方ではなく、
皆が子どもの頃から親しんだ釣法である。最初に、手を添えて一緒に釣ることで、子どもたちはすぐに要領を覚える。
・まず、右手で竿の手元を握り、左手でハリスに付いたオモリの部分を持ち、左手を強く引っ張る。
竿が弓のように撓る。その張力を利用して、左下から右前方へと糸全体を「振り出す」。
これを基本に、竿の振り方、糸の飛ばし方を習得すれば、樹下や狭い谷での釣りの上達度が早い。
・続いて、糸の流し方、目じるしの動きを見ながら獲物を掛ける「合わせ」のタイミングなどを学ぶ。
この日、この方法で、次々に釣れたから、たちまち子どもたちは大興奮。
・ちなみに、同じ川の上流では鯛でも釣れそうな長竿に遠くから見ても
2号ほどはありそうだと分かるほどの太い糸、直径3センチほどもある玉ウキという
大規模な仕掛けで釣っている大人、下流では立派なリール竿でルアーを流しては引き上げ、
流しては引き上げしている高校生がいたが、両者とも一匹も釣れていなかった。
釣りは単純に見えて奥行きの深い遊びなのである。



☆さあ、本格的な釣りが始まった☆

・名人の釣り方をマスターした子どもたちは、竿をかつぎ、いっぱしのハンターとなって上流へ。
もう、川歩きも慣れたものだ。そして、それぞれのポイントを見つけ、釣り始める。
ポイントとは、その日、魚たちが、川の中で流れてくる餌を狙っている位置のことだ。
そのポイントへ向かって、餌が流れ下って行くように、少し上流に「振り込み」、
目じるしに全神経を集中させながら流してゆく。目じるしが少しでも沈んだり、横に動いたり、
流れの中で止まったりしたら、間髪を入れず「合わせる」。
このタイミングこそ、釣りの生命線であり、醍醐味である。
・「振り込み」と「流し」のコツをつかんだころを見計らって、「ポイント」と「合わせ」を教える。
これで子どもたちは自立した釣り人となる。
*サポート約の大人たちも、いつの間にか夢中。



☆釣れたよ!!左下はヤマメ、右下・お母さんも釣れたね!!☆

・この日はカワムツ(ハヤの仲間。渓流の上流部に棲む。
ヤマソバエともいう。ヤマソとは「山杣」の意という)が次々と釣れた。
流れのゆるやかなポイントではタカハヤ(アブラハヤ、アブラメなどと呼ばれる小魚。
ヤマメと同じ冷水域に棲む)、そして、なんと、ヤマメも釣れたのである。
渓流の女王と呼ばれるヤマメは美しく、子どもたちから歓声が上がる。
・ヤマメは10センチ程度の幼魚だったので、リリース(放流)。
資源保護のため15センチ以下のヤマメはリリースするというルールを子どもたちは納得。
「また合おうぜ」「つれてくれてありがとう」などと声をかけながら水に放つと、
小さな魚は、銀色の魚体と虹のようなパーマークを光らせ、元気に速い流れへと泳ぎ出て行った。
・釣果はヤマメ2匹、カワムツ約30匹以上、流れのゆるやかなポイントでタカハヤ10匹程度、
ウグイ2匹(ウグイはこの時期は不味く、寄生虫がいる例もあるのでリリース)。
大漁、大漁。



☆獲物をさばく☆

・川辺で釣れた魚をさばく。腹をナイフで割き、臓物を取り出して、流れに戻す。
臓物は、たちまち小魚やカニなどのエサとなる。自然の循環の中に帰ってゆくのである。
この処理をしておくと、魚の鮮度が保たれ、美味しい。
・子どもたちはこのことも理解し、臓物の処理を手伝う。
「釣った魚は食べる」という原則をここで教え込んでおくこと。



☆炭火で焼く☆

・宿舎のバーベキュー広場に炭火をおこし、調理する。竹串に魚の尻尾に近い部分を刺し、
頭を下にして炙る。ほどよく焼けてきたところで、鍋にとり、ひたひたの水、
醤油適量・砂糖適量(いずれも多めに)を加えて煮詰める。すなわち川魚の甘露煮である。
良い香りが漂い始める。30ほど煮たところで味見を兼ねて一匹ずついただく。
この時点でも美味いが、ここから弱火でトロトロと煮詰めれば飴色に光る甘露煮の出来上がり。
・大人たちは、お疲れ様のビール。ビールも川魚も、うまいなあ。

・カワムツやタカハヤはヤマメやシラハヤには味が及ばず、軽くみられがちだが、
ちゃんと処理し、調理すれば、さわやかな渓流の香りさえして美味である。
もともとは保存食として発達した調理法であり、山里の知恵・森と渓流の恵みというべき珍味である。
初心者や子どもたちの渓流釣り入門としても最適の教材である。



<11>
竹竿の釣り師に出会った谷(1)―2012年8月1日―

[森に入り、篠竹を採集し、釣竿を作った]

「日々を生きる」というグループの夏合宿に参加した。真夏の一日、宮崎県・綾の森に連なる法華嶽山麓の森に分け入り、渓流を歩き、釣りをしたり草木染めをしたりする、「森と川の遊び」の講師として招かれたのである。
大きな山脈の真上には入道雲が立ち上がり、クマタカが悠々と舞う姿が見られた。


☆集まってきた家族たち☆

会場の法華嶽公園は、綾町に隣接した国有林と町有林を合わせた約35haの敷地に、山や川、渓谷など、自然がそのままに生かされた日本庭園、芝生広場、子供広場、遊歩道(九州自然歩道)、キャンプ場、グラススキー場、パターゴルフ、テニスコートなどの施設が点在している。すでに幼年組は下流で川遊び。年長組は沢沿いの森へ。

★★★
「日々を生きる」とは、宮崎・高知・東京に暮らす六家族が、日々の情報を交換し合い、定期的に出会い、それぞれの生き方や価値観を共有し合うグループである。いずれも、子育て真っ最中世代で、特に、3,11東日本大震災・福島原発事故後の生き方や価値観に大きな変化を感じ取っている。呼びかけ人の池田真央さんは、家族で東京から宮崎へ移り住み、さまざまな活動に参加したり、提案したりしながら、まさに、「今を生きる」価値観を模索している人である。以下はその募集要項から(要約)。
★★★
宮崎の自然のなかで
大人も子どもも楽しい夏休みを!
“日々生き夏合宿” 参加家族募集!
★★★

日々生き初となるイベントを、この夏ついに開催! 
その詳細が決まりましたので、参加家族募集のお知らせです。

第1回の開催地は宮崎! 眩しい太陽、広い空、 ダイナミックな自然の中で、
子どもも大人も思いきり遊び、遊びきることがテーマの”遊びの合宿”です。

水や土に触れたり、花や虫の匂いをかいだり、自然界にあるものを手にして味わったり…
五感をフル活用して遊ぶことは、子どもの成長に何より大切なことといわれています。
なかでも水が流れ、少し過酷な状況に遭遇する川遊びは、自分の力を知り、
勇気を持ち、挑戦するこことで、子どもの発達の次のステップとなっていきます。

「日々を生きる」では、催事をつめこんだイベントではなく川遊びを中心にした、
子どもの育ちの力を見守る会としたいと思っています。
また今回はスペシャルゲストとして、東京大田区にある子供の部屋保育園の
土田妙子園長先生が参加!園長先生はちびっこチームの川遊びに同行し、
川遊びの大切さを教えてくださいます。さらに子どもたちが眠った後には園長先生の特別講演会も開催!

こころもからだも開放感で包んみこんでくれる宮崎で、思う存分遊びながら大人にとっては
子どもとの向き合いかたを学ぶ時間として楽しく充実した夏のひとときをぜひごいっしょに!!

★★★


☆さあ、森の中へ☆

整備されたキャンプ場から、沢沿いに少し上流へ歩くと、もうそこは深い森。
渓流の音が響き、山の方から涼しい風が流れてくる。
張り渡された綱と旗は、安全地帯と自然林との境界を示している。



☆対岸の森へ、沢を渡る。まだ、ひと足、一足、恐るおそる・・・☆

お父さんの足取りもやや怪しい。滑らないように、一歩ずつ前へ進む。
水の流れは、見た目より速い。少し下手には流れが岸にぶつかる激流が。冷たい水。
しぶきが顔にかかる。



☆森へ入り、篠竹を採集☆

対岸の森に、篠竹の群生地がある。この篠竹を採集し、自分用の釣竿を作る。
篠竹は、森の中で真直ぐに伸びた2~4メートルほどの細竹。根元の部分から伐りとって、
葉っぱをむしり取り、糸と針を付ければ、即席の釣竿となる。縄文時代の遺跡からは、
鹿の角を削って作った現在の釣り針とほとんど同じ形状の釣り針が発見されている。
糸は動物の毛またはつる性植物から採った糸、竿は手近な木や竹だろう。
「魚を釣る」という行為は、竿がカーボンロッドになり、糸がナイロンテグスに、
針が金属になったものの、その道具のメカニズムと釣り方は、
縄文時代からほとんど変化していない、という研究データがあるらしい。
今回の「森と川の遊び」は、
釣りのもっとも基本的な道具を原始的な方法で作るというところから始まった。



☆虫がいたよ!!☆

子どもたちは森に入ると、たちまちさまざまな興味を示す。イモリを捕まえた子、ナナフシを捕った子。
自慢の獲物を見せ合う。イモリの赤い腹には黒い点々が。苦いような、
粉くさいような、あるいは薬のカプセルをかみつぶした時のような匂い・・・。
イモリの黒焼きは何かの薬(惚れグスリ。黒焼きした粉を相手に振りかけると恋愛成就)になるって本当?
ナナフシは木の枝のような胴体に長い手足が生えたちょっと不気味な姿。
森の不思議に子どもたちの好奇心は全開。



☆竿が完成した☆


☆風を釣る☆

完成した釣竿を持って、水辺に立つ子。振ってみる子。子どもたちに「釣り」のイメージが広がってきた。
この時点では、まだ糸も針も付けられていない。釣れるのは風か、雲か、空か。



災害お見舞い申し上げます 
<10>
大分県日田市花月川流域 釣り師二人の予報が当った―1012年7月4日―



2012年7月3日に九州北部を襲った梅雨末期の豪雨は、大分県中津市耶馬溪町山国川流域、
同日田市花月川流域、福岡県英彦山山系の河川、同朝倉市を流れる筑後川流域などに大きな被害を出した。
この日、花月川上流と英彦山山系には、一時間に110ミリを越えるという猛烈な雨が降ったということである。
上記写真は、西日本新聞2012年7月4日朝刊一面に掲載されたものだが、これは日田市花月川の
中流域にあたり、私が中学・高校時代を過ごした地域である。同級生や友人、親戚などもあり、
とりあえず電話で安否確認を行なったところ、床下浸水などの被害はあったが、
現時点では友人・知人に人的被害は見当たらないということで、少しほっとしたところである。
すぐに飛んで帰りたいところだが、まだ道路は寸断されており、今夜にかけて
再び大雨が降る模様だということなので、まずは遠くから、
被害に遭われた皆さんに、お見舞い申し上げる次第である。

写真を見ながら、私はすぐに、ああ、あれはあの橋だな、とか、あそこが自分たちの
住んでいた家のあった辺りだとか、あの小道が同級生のあの娘とのはじめてのデートの道だ、
とか、すぐにわかり、魚の釣れる瀬や大物が潜んでいた大岩の下の構造など、細かなことまで思い出したのである。
それらが、水に浸かり、懐かしい風景は、無残に破壊されている。そして、写真には写っていないが、これより下流が、被害は大きいらしい。日田市では、昭和28年に大水害が起きたが、この水害はそれ以来の、すなわちおよそ半世紀ぶりのものだろう、と現地の人々は言っている。上流のダム(松原・下筌ダム)や護岸工事などが進み、治水が完了したかに思われていたのであったが、それは少し認識が甘かったといわざるを得ない。
温暖化や雨の降り方など、自然そのものの状況が変わってきているし、
山や森が万全の状態で保たれ、守られているとはいえないのが現状であろう。
故郷の町で過ごした少年期・青年期が、必ずしも楽しい思い出ばかりに彩られているわけではない。
三代前まではよその土地を踏まずに隣町の耶馬溪まで行けたというほどの山林地主だった家も、
私たちの子供の頃には没落しており、一家は貧乏のどん底から這い上がらなければならなかった。
その苦闘の日々もまた、故郷の山河と同じように、今の私の心象を育ててくれたものであることは間違いない。

私は、自宅の周辺で、この梅雨前に、ヤマメ釣りの餌を選別していて、
蟻が卵を咥えて大慌てで移動するのを何度も目撃し、
―あ、今年は〝出水に注意〟だな。
と釣り師の格言を思い出し、家(「九州民俗仮面美術館」)の周辺の
「水切り(溝などを整備して水の流れ先を確保すること)」を行なった。そして梅雨に入り、猛烈に降る雨を見ながら、蟻の天気予報は当たったな、と思っていたのだが、郷里日田の釣り仲間が、
同じような予測(予報)をしていたことが、今回わかった。
英彦山山系を源流とする小野川(今回被害の大きかった藤山地区で花月川に合流する)の
中流域に住み、ギャラリー「渓声館」を運営する梅原勝巳君である。梅原君は私の少し後輩だが、
この辺の川は細部まで知り尽くすヤマメ釣りの達人である。そして彼の住む地域は、
「山から水や空気を生産している」という山作りの専門家や、
一冬に100頭を越える猪や鹿を仕留める腕利きの猟師などがいるいわば「山人」たちの里である。
その梅原君が、春先に、
「岳滅鬼(がくめき)の木を切りすぎている。大水が出なければなあ・・・」
と嘆息していたというのである。
岳滅鬼山とは、英彦山に隣接する高山で、小野川の源流部である。私の生まれた村も近く、
昔は、父や祖父、村の猟師たちなどは、鹿を追って岳滅鬼を越え、英彦山まで行き来していた狩りの領域であった。梅原君は、その岳滅鬼山の過度な伐採を気にしていたのである。はたして、彼の予測どおりの災害が起こった。
蟻のような小さな生き物にも分かり、山の釣り師が一目で見分けるようなことが、
分からなくなってきている。これもまた現代社会が抱える大きな問題点であろう。

災害とは何か。2011:3、11/東日本大震災と原発の事故を体験しながら、まだその復旧も進まぬうちに、
再び大災害を起こすその元凶ともなりうる「原発」という施設の再稼動が決定されるという、
この国の政治構造=精神構造とはなにか。
故郷の町の災難を案じながら、このようなことを考える一日である。



<9>
緑の回廊をゆく
ー2012年6月12日―
宮崎空港を出発し、新緑に映える高千穂から椎葉を経て西米良村に至る旅は、
快適なものになるはずであった。が、椎葉村の北東の入り口にあたる国見トンネルの入り口付近で、
「崩土により通行止め」の標識が見えた。念のため役場に電話を入れ、確認すると、やはりそれは事実で、
迂回路もなし、という答えだった。仕方なく、諸塚山・六峰街道経由のルートを検討すると、ここも時間規制あり。
やむなく選択したのは、もと来た道を引き返し、延岡市北方から西に折れ、美郷町西郷区から南郷区神門へ出て、
鬼神野から椎葉村の西端・栂尾を経て大河内に抜ける道だったが、ここも栂尾の手前で通行止め。
最後に残ったのは、渡川から銀鏡へ出て西米良村へ抜ける道のみであった。つまり、私たちの一行は、
一日中、九州の中央部を走り回り、Uの字を横に倒したような図形の上を往復して、
ついに椎葉へは行くことがかなわぬまま、ようやく当日の目的地である西米良村・小川地区に着いたのだった。
 同乗者は女性四人。走行距離300キロを越えた賑やかな道中は、芽吹いたばかりの若葉と青みを増した
新緑、常緑樹の深緑などが綾をなす、緑の回廊を行く小旅行となった。民家と棚田がのどかな風景を作る里山の道。峠を越える山道の脇に咲いていたクロモジの花。それを摘み、
「花酒」を造ったこと。渓流に立ちヤマメを釣ったこと。突然の雷雨。山峡の温泉。
この日体験したすべてのことが、初めて九州を訪れた旅人たちへの、思いがけない贈り物となったのである。 

              
 
写真左・荒河内の滝(一部)、写真右/朴の花

以上は、前回(4月)にLIXILギャラリースタッフの皆さんがおいでになった時の記録
(一部を西日本文化・6月号に発表)。今回(6月1日~5日)ではこのような突発的な障害はなく、
順調に椎葉村に着くことができた。西米良村・村所から大河内の峠を越え、椎葉へと入る道では、
青葉の色を映す渓谷沿いの小道を散策し、巨岩の重なりの間を流れ落ちる豪快な
荒河内の滝の飛沫を浴び、深山の森に咲く朴の花を見た。
椎葉では「民宿・焼畑」に泊まり、主の椎葉勝さんと、この地区に伝わる日当神楽・追手納神楽・日添神楽
の皆さんに親しくお話を聞くことが出来た。その様子は「ブックレット「山と森の精霊ー高千穂・椎葉・米良の神楽ー」
に再現されているので、ここでは詳細を省く。はじめて椎葉を訪れた取材スタッフの皆さんも、
その山の深さ、囲炉裏端で食べたヤマメの塩焼きや山里料理、山の男たちの
「神楽を伝承する」「山の文化を守り、再生する」という強靭な意志と誇り高い姿などに感銘を受けておられた。


 
民宿焼畑の食事

翌朝、焼畑の野を見た。
広大な山脈の一角に、数年前に焼畑を終え、植林された野があった。少し離れた山の斜面に、
切り払われた林があった。そこが、今年の夏に焼畑の火入れが行なわれる場所だろう。
焼畑は、山を焼いた後、最初の年はソバを蒔き、翌年にはアワ・ヒエ、次の年にアズキ、そして最終年にダイズを収穫するというふうに、主作物を中心に雑穀、根菜類などを栽培し、毎年焼く場所を変えながら少しずつ畑を作るのである。そして4年収穫したらその野は放置し、森に返す。または杉・檜などの植林をする。こうして30年周期で山全体を一巡する。焼畑の山は、再生と生産を繰り返しながら維持されるのである。
焼畑の野に、雨が降っていた。重畳と連なる椎葉の山脈も白く雨にけぶっていたが、草藪の中に、野苺の実が熟れていた。靴を濡らして摘み取り、口に入れると、たっぷりと水分を含んだ実は、やや甘味が薄れてはいたものの、幼い頃、走り回った野山の味を思い出させてくれる、ほのかな甘さであった。



焼畑の野と野苺

<8>
青葉ヤマメの朴葉味噌包み焼き―2012年6月8日―



青葉ヤマメについてもう少し書いておこう。
山が青葉に包まれる頃、すなわち五月の連休前頃から梅雨入り頃にかけて釣れるヤマメを青葉ヤマメと呼ぶ。

私は、ヤマメ釣りの解禁直後は竿を担がない。川にあふれる釣り人の多さに辟易することがその主因だが、
この時期、冬の眠りから醒めたばかりのヤマメはまだ黒ずんで見栄えが悪く、なにより肉がやわらかくて美味くない。メスは、まだ腹に卵を少しだけ残しており、それが冬越しの栄養源の残滓だと知れば、
痩せて頭ばかりがやけに大きいメスヤマメが釣れてもちっともめでたくないのだ。
山桜が咲く頃から、ヤマメは瀬に出て活発に泳ぎ、採餌を繰り返して、逞しく、美しく、美味くなる。さらに、新緑が青葉に変わり、青葉の影が水流をますます青く染める頃、ヤマメは白銀色の体色となり、体高の高い、
鍛え上げたアスリートのような体型の魚となって渓流を彩る。釣師との激闘を経験し、
動きも俊敏なこの頃のヤマメを釣るには高難度の技を要するが、釣れた時の手ごたえと、
小柄な美人を掌中に収めたような感触は、釣人を至福の境地にいざなうのである。



森の奥で、朴の花が開く。純白の大きな花は、深い山の奥の森で人知れず咲いているが、
この花を得て、ホワイトリカーに漬け込んでおくと、半年ほどで香り高い「花酒」ができるという。
それはどんな香りで、どんな味がするのだろう。私はまだ試したことはないが、
朴の花が手に入ったら、ぜひとも造り、味わってみたいと思い続けている。
この季節の朴の葉はまだ柔らかいが、下枝からそっと摘み取ってくれば、「包み焼き」には十分に使える。
広げた朴の葉にヤマメを乗せ、魚体の脇に沿うように味噌を置く。
川から上がる時に軽く塩を振って持ち帰ったヤマメにはすでに塩味がしみこんでいるから、
直接ヤマメに味噌を塗ると塩辛くなりすぎるので、葉の上に味噌を塗るように置くのである。
それから、朴の葉を四方から折りたたむようにしてヤマメを包み込み、
さらにその上からアルミホイルで包んで、焼く。アルミホイルで包むのは、
焼く時に朴の葉が燃えないようにするのである。蒸し焼きの効果もある。
焚き火の熾火で焼くのがもっとも良いが、ガスレンジでも構わない。
味噌に焦げ目が付く頃合いを見計らって食べる。
古伊万里染付けの7寸皿に盛られた朴の葉を開くと、ヤマメが持つ渓流の香気、
朴の葉からしみ出る深山の香、焦げた味噌の香りなどが混交して、絶妙である。
もちろん、ふうわりと焼けたヤマメの味も絶品。

この食べ方は、信州の名物「朴葉味噌」にならったものだが、故郷の山の村に平家落人伝説があり、
美しい姫を連れた落人の一行を、村人が朴の葉に乗せたヤマメ料理でもてなしたという伝承に基づき着想した。
朴の葉が手に入れば、鰆や鱸などの白身魚でも同様の効果が得られる。



青葉ヤマメの朴葉味噌焼きは、東京からお見えになった「LIXILギャラリー」の皆さんには大好評であった。この日と次の日、約二日間をかけて仮面40点の撮影、写真資料の選定とブックレット編集の大枠の打ち合わせなどを行ない、西米良村・村所に向かった。村所の宿には、村所八幡神社宮司の浜砂誠司氏の他、村所神楽の伝承者二人が集まり、にぎやかな酒宴となった。宮司さんたちが「彼岸籠り」という神楽の舞人(社人)になる修行の際に出会ったという米良の山の精霊「カリコボーズ」の話が印象的であった。夜が更けて、一人が笛を持ち出すと、たちまち太鼓が運び込まれて、神楽囃子を一曲、披露して下さった。米良の山々に神楽の笛が響いたのである。


<7>
これが青葉ヤマメだ
ー2102年6月6日ー

前々回、ヤマメを釣り上げたら、まずハリを外す前に、ナイフでグサリと後頭部を刺し、瞬時に獲物を絶命させる、ということを書き始めたら、中国雲南省の古都・麗江で買ったナイフのことに脱線してしまった。
話をもとに戻そう。

後頭部にナイフを入れ、とどめを刺し、頭を下にしてぶら下げると、少量の血が流れ落ちる。それを流水で洗って魚篭に入れる。釣りを終えて川から上がる時、水辺で腹を割き、内臓は流れに戻して小魚や沢蟹の争奪に任せ、塩を少量振ってクーラーに入れる。これが、ヤマメを傷めず、鮮度を保って持ち帰る方法である。
家に着き、台所の水でさっと洗うと、魚体は、釣り上げた直後の色と輝きを取り戻す。



急な用事で諸塚村に出かけることになり、その仕事は午前中で片付いたので、ヤマメを狙う時間が出来た。
かつて木地師が住んだという村の、小さな谷である。青葉が緑の影を落とす浅い流れで、水輪が見えた。
続いて瀬尻でもう一つ。活発な採餌活動が繰り返されている。
しめた、来客のための数匹はいただきだ、とばかりに竿を入れたが、予想に反して釣れるのは小物ばかりで、やっと1匹釣り上げるのに二時間ほどを費やしたが、別の谷を攻めてようやく6匹上げたので、
この日はまずまずの釣果となった。
その夜は、五ヶ瀬町の宿に泊まった。深い森に囲まれた宿の脇を小さな沢が流れている。
翌朝、早起きをして沢を釣り上った。が、泊まり客に攻められすぎたのか、魚信は少ない。
谷は次第に深くなり、青葉を繁らせた木々が枝を流れに差し伸べ、釣りのポイントは極端に狭められる。
大岩の陰から、浅い流れに振り込むと、流れを下る目じるしが、ふっ、と止まった。
軽く、合わせるとゴツン、と手ごたえがあり、次の瞬間、ギラリと魚体が反転して、糸は虚しく空を泳いだ。
逃した魚こそ美しい。銀色の残影を水流に追いながら、釣人はしばし佇む。



そこから先は深い森へと続く険しい谷である。その森から流れ落ちてくる沢水が集まり、
岩を洗って流れ下る絶好の瀬が見えた。
―あそこで釣り収めよう。
と決めて、楓の葉が大きく差し出た落ち込みを狙った。
竿を横に倒し、弓のように引き絞って、ピシリと振り込む必勝の一投。餌が、一直線にポイントへと向かい、
すっ、と吸い込まれるように水面に落ちた瞬間、水面に微妙な動きが見えた。
間髪をいれず、ピシリと合わせる。ガツン、と重量感のある手ごたえ。竿が撓る。
竿を斜めに寝かせ、楓の葉に竿先を懸けぬよう、慎重に引き寄せる。
獲物は、ぐいぐいと深みに引き込んだり、左右に走ったり、元気一杯である。
木の下を離れた竿を立て、手元に引き寄せて、手網で掬う。この時、ヤマメはもう一暴れして激しく水を叩く。
ここで逃すわけにはいかぬ。網をすっと水に沈め、魚を少し強めに引きこむと、
ようやく銀の光を集めたような魚が網に入る。肩のグイと盛り上がった逞しいヤツ。
これが青葉ヤマメだ。
せいぜい20センチほどのものを、たった一匹釣り上げただけでこんなにも威張れる、
これもまた青葉ヤマメのすごさなのだ。



前日の6匹とこの朝の1匹、合わせて7匹が、東京「LIXILギャラリー」スタッフを迎えての青葉ヤマメ料理となった。
まずは4人に各一匹ずつを塩味のスープで。残りの3匹を朴の葉の味噌味包み焼きで。
「山と森の精霊―高千穂・椎葉・米良の神楽―」展の準備が、いよいよ始まった。


<6>
銀のナイフ―2013年5月31日―


私は、ヤマメを釣り上げたら、まずハリを外す前に、ナイフでグサリと後頭部を刺し、瞬時に獲物を絶命させる。
そのことを書く前に、中国雲南省の古都・麗江で買ったナイフのことを思い出したので、ここに記す。
上記の写真と以下の文は無関係である。

[銀のナイフ]

 夜の町を歩いていたら、呼び止められた。時刻は午後九時を過ぎていた。
私は、中国古代都市の面影を残すといわれるこの古い町に知り合いなどいなかったから、どきりとして立ち止まった。たとえ昼間でも、日本人の一人歩きは危険である、という警告を、現地の案内人から何度も受けていた。一瓶のビールを求めて旅館を出てきたことを、私は少し後悔した。が、その心配は、瞬時に消えた。声をかけてきたのは、店仕舞いをしていた骨董屋の若い主人であった。雑多なものを並べたその店で、私はその日の午前中、一本のナイフを買ったのだ。若い骨董屋の主は、そのことを覚えていて、誘ったのだ。仲良しになった記念に一杯飲んでいかないか、という手振りであった。私は、斜め向かいのレストランでたった今飲んできたばかりだ、そして、仲間の待つ宿へすぐに帰らなければならないのだ、という意味のことを伝えるため、大げさな身振りを交えて演技した。彼は納得し、縁があったらまた会おう、とばかりに、美しい笑顔をみせて握手の手を差し出した。その手を握り返して別れたが、難を逃れてほっとした気分と、とても大切なものに出会う機会を逸したような心残りが、微妙に交錯した。
中国・雲南省の古都麗江は、宋時代の建築様式を今に残す古代都市で、漆喰壁・瓦葺きの家が立ち並ぶ重厚な町である。玉龍雪山を源流とする清らかな水が水路となって町を潤し、水路に沿って、何本もの小道があり、多くの観光客が訪れる。石畳の小道沿いには、お洒落なギャラリーや骨董屋、民族衣装を売る店、先住民族の料理を並べたレストラン、民家を改装した旅館「客桟」などが立ち並び、散策する人が絶えない。
私は、友人が開設した旅行会社の仕事を手伝っていたころ、中国・四川省の奥地や雲南省の山の村などを訪ねる機会が増えた。少人数の気の合う仲間と、行く先やスケジュールに縛られない気ままな旅を楽しむ「自由旅」という旅行企画は、当時は採算がとれずに会社は解散したが、そのころ訪ねた中国奥地の村は、どこも思い出に残る土地となった。「鬼の面」を祭る雲南の山の村を訪ね、茶葉古道と呼ばれた道をたどって雲南茶を楽しみ、麗江に立ち寄って好みの「客桟」に宿を定めて、町を散策するのは、このコースの最上の楽しみだ。小さな村の子どもたちや銀のアクセサリーを作る若者、骨董屋の店主などと知り合いになったのも、この旅の途上でのことである。
麗江には、少数民族「ナシ(納西)族」が多く住む。ナシ古樂と呼ばれる独自の音楽や料理、民族衣装などを伝えるナシ族には「トンパ文字」という古代象形文字も伝わっていて、いまだに生活の中で使われている。トンパ(東巴)教という宗教に使われたため、奇跡的に残ったのだ。この土地の人々は、麗江の町の北方にそびえる玉龍雪山を神の山と崇める。標高5500メートルの主峰をもつこの山のある地点には、心中した男女が結ばれる場所があるという。
トンパ教には、この世で結ばれることのなかった恋人同士を、天の国へと送る葬送儀礼もある。
それは、九州山地の神楽によく似た神祭りである。
麗江で買ったナイフは、刃渡り7センチほどの小さなものだが、鞘は、銀で装飾されている。鬼の面に似た透かし彫りもあることから、雲南チベット族のものだと思われる。柄は、片面がヤクあるいは鹿の骨、もう一方は黒檀のような硬い木で出来た実用本位のものだ。私は時々、このナイフを取り出し、折々の旅でイ族の青年に貰ったナイフや、チャン族の市場で買ったナイフ、祖父の遺品の狩猟用の小刀などと一緒に机の上に置き、眺める。すると、雲南の峠を越える時に見た萩の花、トンパ文字を飾った門のある家、麗江の町で出会った人々のことなどが、
あざやかによみがえる。そして、神の山で結ばれるという恋人たちのことを、ちょっとだけうらやましいと思う。



<5>
青葉ヤマメ料理転じて摘み草料理となる
―2012年5月21日ー
狸に伝授された術を使い、木の葉をヤマメに変えたり、ヤマメを木の葉に変えたりしたわけではない。
「鹿遊(かなすび)の谷」で釣った青葉ヤマメは、岩と岩の隙間に流れ込み、
下流へ流れ下って来ることもなく行方知れずとなり、結局持ち帰ることが出来なかったから、
方針を変更して家の周りを歩いて草木の新芽を摘み、それを天ぷらにして、来客を迎えたのである。



以下は5月19日の茶臼原の森での摘み草。
・ヨメナ(嫁菜=野菊) 12年前湯布院から移住してきた時、老母が、鉢植えにして持ってきたものが野生化した。
由布岳の山麓で秋風に揺れていた、淡青色の、優しい花を咲かせる草は、意外なたくましさでこの地に同化し、
定着している。新芽はおひたし、汁物の具、天ぷらなどに使える。
・クサギ(臭木) 文字通り嫌な臭気を発するこの木の葉は、さっと茹でてチリメンジャコと一緒に炒めたり、天ぷらにしたりすると、匂いは消え、独特の苦味を含んだ深い味になる。



クサギ

・リョウブ(令布) この木を、山の子たちは「山サルスベリ」と呼んでいた。
園芸種のサルスベリに似た赤みがかった滑らかな樹肌を持つ木で、林の中や山道の脇などによく見かける。
修験道の行者も食べていたというが、平安時代、飢饉に備えて令を発して植えさせたことが
その由来となったといわれるほど、一般的な食材であったらしい。生葉をご飯に炊き込む「リョウブ飯」が知られる。
さっと塩茹でして水にさらし、細かく刻んで炊きたてのご飯にまぜて食べると、香りの高い菜飯となるのである。



リョウブのある山道
 
・タラの葉 新芽の季節は終わったが、若葉も柔らかい部分は食べられる。
・カラスザンショウ(烏山椒) イヌザンョウともいう。この地の人たちは犬ダラと呼んでいる。サンショウにももタラノキにも似ていない。切り払われた森にいち早く芽生え、林を形成する植物群に属する。肌に棘を持ち、細長い若葉の先端は赤い。秋には黒い種子を付けそれをカラスや小鳥がよく食べることからその名が付いたという。食材としてはほとんど知られていないが、タラの芽の味と山椒の香りを併せ持つ珍味である。アルカロイドを含むというので、大量にたべることは避けたほうが良いかもしれない。アゲハチュウ科の蝶の食草でもあるという



カラスザンショウ

・その他、ヨモギ、ヒメジョオン、セイタカアワダチソウなど、空き地で得られる草の葉。
これらの草木の新芽や若葉を、竹の笊を持ち、摘み歩くだけで、東京からおいでになった
香山マリエさんは大喜びであった。そして、通りがかりの物産館で買った猪肉と大根を塩だけで
味付けしたスープ、摘んできたばかりの草木の若葉を、さっと揚げた天ぷらなどの簡素な夕食に、
十分、満足して下さったのである。
宮崎の前衛美術家・瑛九と香山さんの父君・末松正樹氏に連なる宮崎の美術家たちが集まり、
二人の画家の数奇な運命や、近代日本の美術史に及ぼした影響などを語り合った後だったから、
宮崎の山野の味が、一層、胸にしみたのであろう。


毒にもくすりにも/薬草に含まれるアルカロイドの話
[カラスザンショウは食べられるか?]

これまでに、カラスザンショウが山菜の上位に位置づけられるべき珍味であると述べた。
だが、調べてみると、
『「カラスザンショウ(烏山椒、Zanthoxylum ailanthoides)」はミカン科サンショウ属の落葉樹。
サンショウと違ってアルカロイドを含むので、イヌザンショウとともにイヌザンショウ属(Fagara)に入れる場合がある。
日本のほかに、朝鮮南部、中国、フィリピンなどに分布する。山野に普通に生える。
特に伐採跡などの裸地にいち早く伸び出して葉を広げる先駆植物である。
高さは6〜8mで、最大15mになることもある。普通のサンショウに比べて、はるかに大きな葉をつける。
サンショウ同様、葉には油点があり、特有の香りがある。花期は7-8月。
赤い実をつけて黒い種が露出し、
特有の香りを持つ。
葉は1回奇数羽状複葉。葉の形状はニワウルシ/シンジュ(神樹)に似る。
サンショウ属の他の種に比べ、はるかに大きいため、類似種との区別ができる。
また、他の大柄な羽状複葉をつける樹木とは、幹の棘と葉のにおいで区別できる。
本種を食草とするチョウにはカラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ナミアゲハ、クロアゲハがある。
普通食用にはしないが、若芽・若葉は天ぷらにすることがある。清涼感のある独特の風味の蜂蜜がとれるので、
蜜源植物ともされる。また、葉を駆風、果実を健胃薬とする。』

となっている。これで、カラスザンショウが食べられることはわかった。
蝶類が食べる木の芽というイメージは、大変好ましい。

[アルカロイドとは]

気になる「アルカロイド」という成分については、
『植物に含まれる含窒素化合物。植物の中には分子内に窒素を含み塩基性を示す化合物を含むものがあり、
これをアルカロイドといい「アルカリのよう なもの」という意味で、アルカリ性を示す。 
ナス科の植物、唐辛子に含まれるカプサイシン、お茶やコーヒーに含まれるカフェイン、
チョコレートに含まれるテオブロミン 
煙草のニコチンなども同じもの。作用は穏和で、毒性があっても比較的安全であるので、
脳に効いて心を静め、体内の血液循環系を整える薬として使われるものが多い。』
とあって、やや安心できる。しかしながら、アルカロイドについてもう少し詳しく資料を見てみると、
『アルカロイドは植物体内の各種アミノ酸から生合成され、シュウ酸・リンゴ酸・クエン酸・酢酸・酒石酸などの有機酸の塩の状態で各々の体内に保持されている(例えばクエン酸塩、リンゴ酸塩など)。それが何らかの要因で分解、分離、もしくは抽出されればアルカロイドと呼べる物質になり、摂取した動物の体内に諸影響を及ぼす。
基本的に植物は、体の中に何種類ものアルカロイドを保持している。例えばケシの実から作られるアヘンにはモルヒネ、コデインなどをはじめとして約20種が含まれる。同一の植物に含まれるアルカロイドは化学的に近い性質を持つものであることが多い。植物がその体内に保持しているアルカロイドの中で、比較的含有量が多いものは主アルカロイド、それに伴う幾種ものアルカロイドが副アルカロイドと呼ばれる。
アルカロイドは主に顕花植物、殊に双子葉類の植物に見出される。体内にアルカロイドを含有する植物としては主に、キンポウゲ科、ケシ科、ナス科、ヒガンバナ科、マメ科、メギ科、ユリ科、トウダイグサ科、ウマノスズクサ科など。
アルカロイドは強い生物活性をもつものが多く、植物毒の多くはアルカロイドである。また、薬用植物の主成分もアルカロイドであることが多く、医薬品の原料として用いられる。』

とあり、注意を要する植物群のひとつであるともいえる。毒と薬は紙一重とは、このことであろう。ヒガンバナの中毒では血を吐いて死ぬことがあるというし、ケシの実から精製されるアヘンの主成分もアルカロイドであるとなれば、
やはり危険度は最上位といわざるを得ない。
そういえば、先日、カラスザンショウの若葉を天ぷらで食べた後、葉を柿の葉と一緒に煎じて薬草茶として飲んだ。
山椒とシナモンをミックスしたような香り、柿の葉の甘味、口中に広がる清涼感などが絶品であった。
ところが、二杯目、三杯目と飲み続けるうち、舌に軽度の痺れがきた。痛み、幻覚・妄想などの症状は出なかったので、山椒の実と同じく心配することはないと思うが、やはり大量の摂取はひかえたほうがよいだろう。
*『』内はいずれもインターネット検索による。


<4>
鹿遊(かなすび)の谷で
―2012年5月9日―
九州脊梁山地には、「鹿遊(かなすび)」という地名がある。
その一つは、椎葉村。もう一つは木城町石河内。二箇所あるから、他にもあるかもしれない。
ある春の一日、染料と食材を兼ねた山菜を求めて、上記石河内の細い谷を遡り、
ぽっかりと開けた小さな村を発見して、
―ここが、東洋の仙境=桃源郷そのものかもしれない・・・
と思いながら車をUターンしかけた時、ふと、林間の空き地に動くものが見えた。
停車し、そっと木立を透かすようにして覗いてみると、なんと、数頭の鹿が、円陣を組むようにして、頭を下げたり、前足を上げて立ったり、まるで優雅な踊りのような所作を繰り返していたのである。それは、東北の鹿踊り(テレビでしか見たことはないが)とよく似た円舞で、宮沢賢治の「鹿踊りの始まり」をすぐに思い出させるものであった。
その光景は、賢治の「鹿踊りの始まり」も東北の鹿踊りも、実景をもとにした文学であり、
芸能であることを実感させるものであった。




昨日、青葉ヤマメを狙って、一本の沢に入った。鹿踊りを見た谷とは違うが、
ここでは「鹿遊の谷」と名づけておく。なんとなれば、この谷には、
山を越えてきた鹿が次の山へと向かうために谷を渡る地点があり、
川原で遊ぶ鹿の群れに一度遭遇したことがあるからである。水辺に沿って、
鹿の足跡が点々と残されていた。谷沿いに遡上した一群がいるらしい。

明日、東京からおいでになる香山マリエさんを、青葉ヤマメの料理でお迎えしようという目論見である。
二、三匹の釣果があれば、スープ、朴葉焼きなどの料理が楽しめる。
今回の「末松正樹遺作展―舞踏譜 南仏ペルピニヤンから―」では、
瑛九と末松正樹が縁戚であるという「発見」があった。宮崎の前衛芸術の歴史に、
一つ新しい情報が加わったのである。ささやかなお礼の気持ちをこの季節ならではの料理で表現する。
釣りとは、喰うことが主たる目的であり、その日の釣果で客をもてなすことは、
その最上位に位置付けられる。これこそ、ヤマメ釣りの趣意に適うものである。

この谷には、数は少ないが、「天然もの」のヤマメがいる。放流をしない谷だから、いるのは天然ヤマメであることは間違いないのだが、昨今は、養殖して放流したものでも川にいたものなら「天然」とみなす例が多いから、こうしてわざわざことわっておく必要があるのだ。昔からその谷に生息していたヤマメは、マスのような黒味を帯びたものや虹色に光る体側の斑文を持つもの、釣り上げた瞬間、えもいわれぬ芳香を放つものなど、谷ごとに微妙な違いと特色を持つ。放流ものでも釣れないより釣れたほうが嬉しくありがたいものだが、やはり、天然を吊り上げた時の感激は、別次元のものである。宮崎には、まだこの貴重な天然ヤマメの棲息する川が残されているのである。



釣り始めてすぐに、一匹、威勢のいいヤツが釣れた。少し深めの瀬を、
ゆるやかに餌を流している時、微細な揺れが糸に生じた。
手首を返すようにして、軽めに合わせてみると、がつんと手ごたえがあり、そのまま瀬から深みへと引き込み、右に左に走り回った後、ようやく銀色の輝きを見せながら上がってきた。ところが、獲物は18センチ程度の標準的なサイズのものだった。が、そいつは肩がぐいと盛り上がり、青葉の光を一身に集めたように輝く勇ましいヤツだった。
これが青葉ヤマメである。
―よし。今日は5~6匹はいけるな・・・
とばかりに次のポイントを狙うと、図ったように二匹目がきた。そして、浅瀬をぐんぐん引いて逃げるから、えい、とばかりに抜き上げると、彼は、一瞬、宙を飛び、きらきらと眩しい放物線を描いて、岸辺の小砂利の上、水との境界線に落ちた。空中でハリが外れたのである。走り寄って手掴みにするという、
決して他者に見られてはならない釣師の姿形が、ここに現出した。
―それでも、二匹は二匹である・・・
好調な出足に満足し、悠揚と餌の採取にかかる。この季節の餌は川虫(水棲昆虫)に勝るものはない。
ようやく温みを増した水に手を入れ、小石をひっくり返し、網を張っているクロカワムシ
(かげろうの幼虫)をひとしきり採り、さて、と獲物を置いた場所を見ると、
確かにそこに置いたはずの二匹のヤマメが見当たらぬ。慌てて見回すと、獲物は、
いつの間にか魚篭代わりの網もろとも流されて、大きな岩と岩の間に消えようとする寸前だった。
飛びつくように引き上げたが、すでに中身は空である。手を岩間の空洞に入れて探ってみると、
その先は意外に大きな穴で、激しく水流が流れ落ちていた。
このような場合、古代中国の釣人であれば、
―河伯(河の神)への捧げ物である。
と解釈し、九州脊梁山地の狩人であれば、
―獲物は水神様に召されたな・・・
と見切りを付けるであろう。
だが私は未練がましく次のポイントで竿を振る未熟者であった。
そしてこれ以後は、あれほど盛んだったアタリはピタリと止まり、
ただ、緑の渓谷の上にからんと青い空が広がっているだけだった。
なんだか、しん、と音が消えたような時間帯だった。
―今日は、ここまでだな。
大きく息を吐き、竿を収めた。



ところで、今日の釣果は、ゼロと記すべきか、二匹とすべきか。
二匹を釣り上げ、殺したことは事実だが、魚は川に還った。
とはいえ、来客用のメニューは変更になったのであるから、目的は果たしたとはいえない。
釣果のない日の帰り道、釣師の心は微妙に揺れるのである。


<3>
つれない話
ー2012年5月11日―
昨日、青葉ヤマメを二日間でやっと二匹釣った(つまりさっぱり釣れなかった)話を書いたが、
少し書き残したことがあるので補足。
二日目の釣りがあまりにも不調だったので、釣れないのは、
その日自分より先に釣り上ったらしい先行者や連休中にどっと繰り出した釣り客、
または降り続いた雨による増水などのせいにして、
―あの瀬まで釣ってダメならやめよう・・・
と決めて狙ったポイントで、激流を泳ぐ威勢のいいヤマメがかかった。
上流の瀬から下流の浅瀬へと、ハリを咥えたまま水流に乗って流れ下る奴を、
その勢いのままぐいと手元に引き寄せ、やっと釣り上げたのである。
元気一杯に暴れた割には、期待したほどの大物ではなく、18センチほどの並のサイズだったが、
肩幅ががっしりと盛り上がり、体高も高い見事な奴だった。これが「青葉ヤマメ」である。
瀬に出て存分に泳ぎ、採餌を繰り返したこの季節のヤマメが、もっとも美しく、食べても美味い。
この貴重な一匹を、(また会おうぜ)と胸の中で小さく声をかけながら水に放つ時の気分もまた悪くない。
「釣り」を「狩り」と同義に考える山の男たちは、リリース(すなわち釣っては放す遊び感覚の釣り)
という考え方にはすんなりとは同調できないが、小物や釣果の少ない日の獲物などは、
あっさりと放つのだ。
資源の保護もまた狩人たちが心得るべき作法の一つなのである。
ところで、今回は不漁だったが、4月の8日、9日、10日の三日間、
郷里から釣友二人が来て釣った時には、同じ川で三人合わせて100匹の大台を突破するほど
釣れたのである。しかも、この日は三人とも、何匹も釣り落としや合わせ損ねがあり、
釣り尽くしたというわけではない。だから、川にヤマメがいないということはあり得ないのだ。
それなのに、少し条件が変わればまったく釣れないという、これもまたヤマメ釣りの玄妙かつ繊細な特徴である。
たぶん、来週頃には、水量も減り川が静けさを取り戻し、水棲昆虫の発生が回復して、
ヤマメたちもどこからか出てきて、活発に採餌活動を再開するだろう。
そのころ、また来ることを楽しみに、竿を収めることとしよう。


<2>
青葉ヤマメに会った日―21012年5月10日ー
山も谷も、青葉の香りに満ちていた。
実際、照葉樹の森は椎の花が満開で、むせ返るような花の匂いが川辺にまで漂い流れていたのである。
若葉は、初夏の陽光を浴びて輝き、ひととき、釣り人の足を止めさせる。
渓谷に立ち、眩しい光を反射する水辺や新緑の木々を眺めるのも、
この季節の釣りの楽しみのひとつである。
5月8日、連休明けのこの日は、西米良村小川の谷はひっそりと静まっていたが、
魚影は薄く、アタリもほとんどみられない。
連休の間、釣り人に追い回されたヤマメたちは、川のどこかに潜み、
まだ採餌活動を再開していないのだろうか。
それとも、今年は3月初旬以来、一週間ごとにまとまった雨量の雨が降り、
川が増水を繰り返したため、水棲昆虫が流されたり発生が抑制されたりして、
ヤマメの棲息環境に異変が起きているのだろうか。
釣れない日は、釣り師は、自分の腕前は棚に上げて、
いろいろとその原因を究明しようとする。
―川が変だ・・・?
この日、私が下した判断は、これであった。
2時間ほど釣って、釣果は一匹。
次の日、同じく西米良村村所の谷(一ツ瀬川の本流)に入ったが、やはり前日と状況は変わらない。
川辺の風景はあくまでも美しく輝いているが、釣れるのは10センチ前後の小物とウグイやハヤばかり。
先行者の足跡と、川虫を採集した痕跡がある。いつもなら、―これでこの谷はダメだ、
と判断し(釣れないのを他人のせいにして)釣りやめるか谷筋を変えるかするのだが、
―今日のような日は、先行者があっても多少の釣りこぼしがあり、それが釣れるのだ・・・
と、強気のイメージを描き、釣り進むことにした。
糸を普段は使うことのない0、4ミリの細さに替え、ハリもオモリも最小のものに付け替え、
餌も川虫を採集して、慎重に、かつ叮嚀に釣り上る。が、渓は、しん、として獲物は姿を見せぬ。
2時間ほど釣ったところで、やっと一匹、来た。浅瀬が岩を越えて激しく流れ落ちる直前、
その水流に乗って餌を追い下ってきた奴が、がつん、と餌を咥え、身を翻して下流の瀬へと走ったのだ。
軽く合わせると、五月の光を一心に集めたような銀色の奴が、ギラリと光りながら、上がってきた。
この一匹で十分。
鮮烈な「青葉ヤマメ」をひととき掌の中で泳がせ、流れに放った。




 <1>
初ヤマメを食べた夜―2012年4月8日


3月28日が、今年の私のヤマメ釣りの初日であった。
なぜ、解禁日の3月1日に釣らず、3月20日以後の山桜の咲き始める頃を自分の解禁日
と設定しているかについては、次の機会に述べるとして、
今回は、リョウとの釣行の夜の食事のことを記録しておく。
この日、西米良村小川川の両岸には、山桜の花が咲き、時折、花びらが水流を飾っていた。
釣りの詳細は省く。
釣果は、リョウ2匹、がんじい4匹。この季節にしては少ない。
釣れない原因(すなわち言い訳)も省く。
その夜は、私が通い続けている西米良村・おがわ作小屋村のコテージ
に泊まる予定にしていたのだが、自炊の食料は、おにぎりとカップラーメンと
塩と砂糖だけしか用意していなかった(非常食としてのバナナとソーセージに手を付けてはいけない)。
ゆえに、釣果がなければ、とても侘しい夕食となるのだ。
二人合わせて6匹ならば、まずまずというべきであろう。
さて、ここからがリョウの出番である。小学五年生の時から渓に入り、
一緒に釣り歩いてきた彼は、もう釣技は一人前だし、とりわけ、料理に非凡な才を持つ。



釣れたヤマメは、釣り上げた直後、後頭部をナイフでぐさりと刺し、とどめをさしておく。
そして川から上がる前に腹を裂き、内臓を水流に戻して、塩を少量、振っておく。
川辺の道を歩き下りながら、野生化した菜の花を摘む。次に、姥百合の新芽が目に付いたので、
球根をいただく。さらに、崖から沁み出ている水が育てたクレソンを少々。
調理場に入ると遼太郎は俄然、精彩を放つ。まずは、ヤマメをぶつ切りにして、鍋へ。
10分ほど沸騰させると、ヤマメの塩気と旨みが溶け出し、小葱を刻み込んで塩で味を調えれば、
それだけで極上のスープとなる。が、今夜は味噌味を選択。
菜の花と百合根を刻み、クレソンは、軽く茹でておひたしにしておき、その一部を味噌汁の具に使う。
ヤマメの味噌汁の完成である。
まずは、この味噌汁を一椀キープし、さらにここからリョウの一工夫が加わる。
味噌汁の残りに水を少し加え、2人分のカップラーメンの麺だけを入れる。
カップラーメンの具は、水洗いして塩分を落とす。麺が茹であがったところで具を入れ、
最後にクレソンの生葉を刻み込んで出来上がり。
コテージに備え付けのプラスチックの食器に盛り付けたが、
これはこれで、上々の晩餐となった。
姥百合の根はさくさくとした食感が楽しめたが、新芽は、柔らかでうまそうな見かけに反し、
強烈な苦味で2人を苦しめた。




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(SINCE.1999.5.20)