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山繭と山繭紬のこと


<1>
山繭(天蚕)とクワコ(桑蚕)のこと

 

・「山繭(ヤママユ)」。「天蚕(テンサン)」「野蚕(ヤサン)」とも呼ばれる。
これが日本在来の「山繭蛾(ヤママユガ)」が作る繭である。
ヤママユガとはチョウ目・ヤママユガ科に分類される大型の蛾で、幼虫は緑色で毛のまだらに生えた芋虫。
ナラ、クヌギ、コナラ、クリ、カシなどの葉を食べ、成長すると葉と葉の間に繭を作って蛹となる。
・夏に羽化して、繭から出る。前翅長は70~85mmと翅は厚く大きい。4枚の翅には、それぞれ1つずつ
大きな黄茶色で目玉状の模様がある。色は、茶褐色、黄褐色など。日本・朝鮮半島・台湾などに分布。
・繭からは良質の絹糸がとれる。一粒の繭から長さ約600~700m程度の絹糸が採取される。
この糸が「天蚕糸」である。

 ☆☆☆

・写真左上は拾った後、3年ぐらいを経過したもの。色が褪せて黄色くなっている。
写真左下は、すでに色あせて茶色になった古い繭。近くのカシの木の下に落ちていた。
右の三つは、米良山系の渓流沿いの山道、川原などに落ちていたもの。鮮やかな緑色だった。


・写真は、「桑蚕(クワコ)」Yuka Hayashi さんのフェィスブックから転載。
そのときのやりとりも転載。

・6月10日
Yuka Hayashi
桑の木に!繭がひっついてた!
ほのかに金色で美しい。

・高見 乾司  うーむ。たぶん、これは「山繭」(天然の繭)の去年の繭ですな。
樫の木やクヌギの木に付くのは緑色です。それが古くなると黄色っぽくなるので、
たぶん、去年の繭だろうな、と思うのです。それとも近所に養蚕農家があれば、
そこから逃げ出して野生化したもの?この可能性は低いけれど。

・塩谷 智司  クワコだ!スゲェ( ・`д・´)

・Yuka Hayashi 塩谷さん クワコですかー初めて聞きました!!中身がなにか気になりますね!

・渡邊 由輝子 それ、山で見つけるやつかな?!こっちでは、もう少し薄いグリーンをしてたよ!
高見さん、勉強になりました( ´ ▽ ` )ノ
宝物みつけたみたいな気分になるよね!

・ Yuka Hayashi なび そっちもあるんやねー!緑ー!見つけると嬉しいよね。

・高見 乾司  おお、「クワコ(桑蚕=蚕の原種)」であればスゴイこと。
ちなみにそろそろ蛾になって出る頃。山繭なら大きな羽に目玉のような模様。
クワコなら羽が小さく胴が大きい感じ。振ってみてカラカラと音がすればまだ羽化していない可能性もアリですね。
僕は、九州脊梁山地の渓流(神楽を伝える村でもあります)にヤマメ釣りに行き、時々山繭を拾うので
興味があるのです。家に山繭蛾が舞い込んで来たこともあります。

・Yuka Hayashi  高見さん ありがとうございます!凄くべんきょうになりました!中身カラカラ言っているので、
中にいる模様です。出てくるのを待ってみます!

・高見 乾司 YUKAさん、すごいね。カラカラという音は、繭の中で、クワコが蛹の状態で生きているという証し。
梅雨の終わりごろ、生暖かいような夜に、繭の上部に少し穴が空いて、羽化して出てくるでしょう。
もし出てきたら、写真撮って、元の桑の木あたりに放してやってください。近くにいるはずのパートナー
が見つかりペアになるでしょう。じつは僕は、クワコ=蚕の原種が生きて存在するとは思っても
いなかったのですよ。貴重な生命をつないでいってほしいものですね。

 ☆☆☆

「森の空想ミュージアム」では、この秋、東京・京橋の「アートスペース繭」で「野の紬」展を計画しています。
この企画には、天蚕糸を織り込んだ紬が出品される予定です。
それで、僕は今回、このように桑蚕や山繭に反応したのです。



<2>
絹の起源①




・写真は「森の空想ミュージアム」での制作風景。左は五倍子染め。右は山桜染め。
横糸にヤママユ(山繭=天蚕)糸が織り込まれています。いずれアップの写真を載せます。

・先日のYUKAHAYASIさんのフェィスブック記事「クワコ=桑蚕」の採集に触発されて、
絹の起源について復習してみた。
絹の起源について①
・一般的には、絹の起源は、今から5000年前、中国の夏王朝から殷王朝の時代へかけて、黄河のほとりで始まったといわれ、
中国の伝説の王・黄帝の皇女が繭を玩んでいて湯の中に落とし、それを拾い上げたところ、
繭から糸が繰り採られた、という絹糸の発見伝が知られる。

・しかしながら、布目順郎著「絹と布の考古学」(雄山閣/1988)には、中国揚子江流域の河姆渡遺跡から7000年前の絹が発見されたとあるから、伝説をはるかにさかのぼる時代から、絹の生産があったということになる。中国大陸では、
そのほかにも山西省夏県西陰村遺跡(5000年前)、浙江省呉興銭山漾遺跡(4700年前)等々から
絹布が出土していることから、古代中国の人々が絹を身に付けていたことはたしかである。

・日本の絹は、弥生時代初期には中国江南(浙江・江蘇)地方から、弥生中期以降は朝鮮半島楽浪地方から伝わり、普及したものと同書はみている。これは北部九州から日本海沿岸地方、および瀬戸内海沿岸から近畿地方へかけての豊富な発掘事例に基づく分析である。稲作・鉄器の文化とセットで移入されたかどうかについてはまだ結論は得られていないようである。

*このデータは1988年の時点のものであるから、これ以後、新たな発見と分析があり、データは
修正されている可能性があるが、ここではこのデータを参照。

・クワコの歴史は、中国大陸でははるか古代の石器時代にまで遡る可能性があるとみられている。「蚕」とは、桑の木につく野生の蚕「野蚕(やさん)」が飼い馴らされ、品種改良されて「家蚕(かさん)」すなわち「養蚕」の蚕となったものである。
ただし、野蚕と家蚕の併用の時代は長く続いたものと考えられている。

・蚕には、わが国だけでも2000種を超える種類があるというから、中国大陸での古代以来の蚕および地球規模での蚕の種類と起源等については天文学的数値が伴うだろう。そこで、ここでは、日本の代表的な野蚕であるクワコ(桑蚕)とヤママユ(山繭=天繭)に焦点を絞って考えることにする。が、その途端に難問にぶつかる。すなわち、蚕が中国大陸から移入されたものだとして、それでは、当時の日本列島にいたはずのクワコやヤママユでの絹の生産は、あったのか、なかったのか。そして、その間、2000年以上にわたって続けられた家蚕の時代に、クワコやヤママユなどの野蚕は、どのように利用されたのか、あるいは利用価値のないものとして排除されたのか。排除されたものが、なぜ今も、生態系の中では厳然と存在し続けているのか
(つまりこれが、YUKAさんが採集した黄金色の繭・クワコであり、私がヤマメ釣りに行って
時々拾う緑色の繭・ヤママユである)、等々の課題である。

・その謎解きに、魏志倭人伝の「卑弥呼」関連の記事、記紀神話の天照大神に関する記述を手がかりに挑むことが可能である。



<3>
卑弥呼の絹と天照大神の絹/絹の起源②


・写真は「天蚕糸(てんさんいと=山繭からつむぎ出された糸)」で織られた「紬」。「山繭紬」と名づけた。
「森の空想ミュージアム」にて制作。最初は緑だった糸が黄色っぽく変色しているが、「秋の森に射し込む
淡い金色の光」と形容したくなる風合い(写真は黄色系が飛び茶系の色が強く出すぎている)。経糸は
紬糸で緯糸がすべて天蚕糸。「野の紬展(東京京橋・アートスペース繭/10月)」にマフラーとして出品。
卑弥呼や天照大神の時代のものではないが、ほぼ同じ技法で得られた糸。
そのことは、子供たちと一緒に実習した。
☆☆☆

【卑弥呼の絹と天照大神の絹/絹の起源②】

・布目順郎博士の絹の起源を考古学のデータによって求める手法は細密をきわめている。目視や経験に頼るのではなく、顕微鏡写真による断面の撮影や分析、各地の遺跡からの出土品の比較など、もっとも信頼できるご研究である。それにより、布目先生は絹の起源を約7000年前と推定しているのだが、それは野生の蚕である「クワコ=桑蚕」が飼い馴らされて(馴化と呼ぶ)「家蚕」すなわち「養蚕」の蚕になった時点のことである。科学的な布目博士であるが、そこからは想像の枠を拡大して、
野蚕=桑蚕を「糸」または「衣類」として人類が利用したのは、石器時代にまでさかのぼるのでないか、と推理している。
「絹」は、人類が「獣」から「ヒト」へと進化した時点から、毛皮などとともに身に纏い続けてきた大切な素材であった。

さて、ここからが本題。時代は2000年前から1800年前頃、すなわち卑弥呼の時代と天照大神の時代
―絹が「記録」として現れる時代―のことを見ておこう。

・卑弥呼が絹布を魏の国王に献上したことは「魏志倭人伝」に記されているので、この時代(中国の後漢時代。日本では弥生時代末期)の日本列島に高度な絹布の生産があったことは間違いない。同時期に「斑布」も献上されたとあるから、「縞」または「絞り」「叩き染め」などの技法が用いられていたこともわかる。その「まだら」の文様は「絹布」に施されていたものだろう(併行して生産されていた麻布が用いられたことも考慮しておかねばならない)。ただしそれが、日本原産の「山繭」から得られた「天蚕糸」を素材とした絹布なのか、養蚕の「家蚕」から得られた布なのかは確定していない。いまのところ、布目博士の研究からは、養蚕の技術と絹織りの技術とがセットになって移入された時代以降の絹という結論が得られているが、日本列島でも縄文時代から「ヤマグワ=山桑」は自生しており、弥生時代中期から絹の生産はあったことが確認されているから、卑弥呼の絹が渡来の技術による
「養蚕の絹」なのか、「野蚕=山繭」の絹なのかを判断することは難しい。

・「日本書記」には、天照大神が繭を口に含んで糸を取り出す場面が描かれているから、天照大神が機織(はたおり)の神であったことがわかる。スサノオが乱入した機屋も「神衣」としての絹布を織る工房であっただろう。このころ、織機や杼(スサノオの乱暴に驚いた機織り女が杼でホトを突いて死ぬ)などの完成度の高い機織りの技術が確定していたことを物語る記述である。少し時代は下がるが、福岡県宗像大社の沖ノ島遺跡からは、黄金製の織機のミニチュアが発掘されているから、同時代の精巧な織り機の形態を推定できる。ちなみに宗像三神とは天照大神の三人の皇女である。
・天照大神がどの時代に属する「人=神」であるかということに関しては諸説あるが、卑弥呼より少し後の時代の古墳時代初期の人として考えると、絹の起源と古代史の関連がすっきり見えてくる。卑弥呼の時代に「絹の生産」があったことは
記録されているが、天照大神の時代には、絹の生産器具の描写があって、進化が認められるのである。

・「鬼道を行なった」という記述から、卑弥呼を古代の女王=女性シャーマンと推理することには無理がない。古代のシャーマンとは、神の衣=絹布を織る、または身に付ける最高神であった。天照大神は、後世、国家の最高神として祀られるようになるが、当時は、神に捧げる布を織る織姫=シャーマンとしての職能を持った「神」であっただろう。遺跡からの絹布の発掘事例が、
「王=権力者」の周辺に集中していることから、それが推定できる。


<4>
神楽歌に残されていた天照大神の絹糸をつむぐ技法



・写真左:玖珠神楽「五穀」/右:「八鉢(田の神)」
*下記本文の内容と直接の関連はありません。

・大分県九重町引治地区/引治天満社に伝わる「玖珠神楽」は、700年前に始まったとも江戸初期に高千穂から移入されたともいわれる伝承を持つが、宇佐地方と交流した時期もあり、豊前神楽の要素と高千穂神楽の「神楽歌」の演目名、詞唱などが混交する独自の様式を持つ。舞い振りや仮面などから、現在の高千穂神楽を連想することは困難なほど異なっている。
高千穂神楽の古形が残されているかどうかは不明である。
・この玖珠神楽の詞唱(語り)に、天照大神が蚕から糸を引き出す文言がある。
それは、「天照大神、口の裏に蠒(まゆ)を含みて、便(すなわ)ち糸抽くことを得たり」
という日本書記の記述とほぼ同様の内容である。

・玖珠神楽の神楽歌が古代の繭から糸をひく「つむぎ」の技法を伝えてきたのか、あるいは日本書記の
記述に沿って神楽が構成されたものかという論議は、ここでは棚に上げ、本題に入る。
上記の天照大神の絹糸を紡ぐ技法とほぼ同様の技法が、この九州最高峰の山々が連なる
九重連山の麓の山村・引治地区に今から25年前頃まで伝えられていたのである。
・「ズリ出し」という技法名、「玖珠紬(くすつむぎ)」という製品名で呼ばれ、珍重されていたこの技法を伝えていたのは、吉光ナヲさんという老夫人で、直接、繭から糸を抽き出し、膝の上で縒りをかけて糸を作る古式の「つむぎ」であった。
ちなみに辞書で「紡ぐ」という言葉を調べると、「繭や綿から糸を引き出すこと」とあるから、まさに吉光さんの技法はこれであった。

・ここでは天照大神の時代を1800年前と仮定する。「記紀」が編纂されたのが1300年前。神楽がいつの時代から現在のような様式で舞われるようになったかは確定できないので、玖珠神楽の起源に従って、
玖珠神楽に前記の文言が記録されたのが700年前と仮定。
・この一本の時間軸の上に、吉光さんの紬の技法を置くことは乱暴すぎる設定だが、従来、どこの地域でも行なわれていた繭から糸を抽き出す「つむぎ」の技法が、そのことを示す神楽歌の残る地域に伝承され、ほとんど奇跡的に残されていたということに、当時、著名の染織作家と周辺の女性たちが不思議な縁(えにし)を感じ、その技術を習いに通った。
が、その多くは伝承者とならず、吉光さんもお亡くなりになった。

・「石井記念友愛社/茶臼原自然芸術館」で指導員をつとめる横田は、この吉光さんの「ズリ出し」の技法を伝承する最後の一人である。同館で障害者の染織の技術指導をしながら、次の世代へその技法を伝える活動を続けているが、
残念ながらまだ後継者は育っていない。
そこで、現在「森の空想ミュージアム」の染織ワークショップに通ってきている子供たちを中心に
「山繭から糸をつくる」ワークショップを行なった。

その感動の場面を次回。



<5>
山繭から糸をつむいだ

Weblog

・6月28日(土曜日)、「山繭」から糸を取り出す「紡ぎ」の行程を行なった。
前日までの大雨があがり、強い陽射しが照りつける梅雨晴れの一日。集まってくれたのは、
中村ゆずちゃん(小4)、ここちゃん(小2)の姉妹、黒木はるかちゃん(小3)の3人とそのファミリー。
森の空想ミュージアム周辺の森=里山(染料・薬草・食材等に利用される植物多数)を育てる仕事や
染織などに参加してくれている常連。この日、男どもはサポートにまわる。古来、糸紡ぎは女性の仕事であった。



・写真は山繭。左隅の鮮明な緑色のものは、栽培された山繭。九州では山繭の栽培は途絶えたが、
全国的にはまだ行なわれているところがある。右はこれまでに集まった山繭。山で拾ってきたものや近所
の人が届けてくれたものなど。汚れたり、破れたり、色が茶褐色に変色したりいろいろ。
右の写真の繭の穴は、山繭蛾が羽化して出てきた穴。



・繭を煮て洗う行程。洗うとき、ほぐれた糸がもつれるので、3個ずつ網製の袋にいれ、雑木の
灰汁(アク)で煮沸する。これが「天照大神が繭を口に含み、糸を抽き出した」と記述される
古代の糸採りの技法に対応していると思われる。




・繭を洗う。この行程で、繭の中に残っている蛹の殻を取り出したり、汚れを落としたりする。
女の子たちのDNAがたちまち活性化し、作業に夢中。



・繭から糸を抽き出し、右ひざの上で縒りをかけてゆく。これが、大分県九重町の吉光ナヲさんが伝えていた「ズリ出し」という紡ぎの技法。一見してわかるように、これが糸繰り機や糸車が発明される前の技法である。単純ではあるが、熟練した手から紡ぎだされる糸は、絹糸本来の美というべき光沢をもつ美しい糸であった。
・3人の女子たちは、すぐにその要領をマスターして、次々に糸を紡ぎだしてゆく。天照大神の末裔たちの仕事ぶり。



・これが山繭から紡ぎ出された糸、すなわち「天蚕(てんさん)糸」。熟練者は一個の繭から600~700メートルの糸を抽き出すという。技法そのものは、古代の人々も行なっていたもので、単純な作業である。が、この技法で、繭から着尺一反分の糸を紡ぎ出し、織り上げるまでには途方もない時間と労力を必要とする。また、熟練度や個人の好み・感性の違いなどによって、糸の仕上がりは微妙に異なり、それが糸・織物の「個性」となって反映される。つまり、一本の糸も、一枚の布も、一人の女性の「手」から生み出されたとき、それぞれの個性といのちが宿るのだ。本来、「作品」とはそういうものだろう。
「山繭紬」は、そのような「絹の初源」を想わせてくれる布だといえよう。

☆☆☆

*繭から直接糸を抽き出す「ズリ出し」の技法は、上述のように単純そのもので、一度習えばすぐに習得できるものですが、「写真」や「言葉」では正確に伝えきれない、微妙な「秘訣」のようなものがあります。それが「人から人へ」伝えられてきた「伝承」であり、それこそが職人や芸術家たちが「秘伝」として伝えてきた技術の真髄でしょう。吉光ナヲさんの「ズリ出し」を伝承した最後の一人である当館・横田(すでに彼女が習ったころの吉光さんの年齢に達した)は、どなたかにこの技術を伝えたいと念願し、「石井記念友愛社/茶臼原自然芸術館」と「森の空想ミュージアム」で活動していますが、まだそれは実現していません。前述したように下準備や作業そのものに膨大な時間を必要とするため、「生業」や「産業」として自立しにくいという困難が伴いますが、この技術を習得・伝承したいという希望をお持ちの方は、「茶臼原自然芸術館(障がい者の授産施設/TEL0983-32-4607:担当・江原または横田)、横田携帯電話(080-1765-4925)に連絡し、日程や目標などを調整し、挑戦してみてください。

<6>
山繭の糸を織り込む


「山繭」からつむぎ出された糸「天蚕糸(てんさんいと)」を「紬」に織り込む行程が続けられている。
織姫はちーちゃん(通称)という若い女性。「石井記念友愛社/茶臼原自然芸術館」に通い、染色の全般の
仕事を学びながら、空いた時間(午後または土曜・日曜など)に「森の空想ミュージアム」へ通ってきて、「織り」の勉強をしている。
無口でおとなしく、対人関係をやや苦手にするよう(それが同館に通うことになった動機という)だが、「糸」や「織り」にはつよい興味とすぐれた才能をみせる。通い始めて一年目だが、すでに「織り」では一人前の仕事をこなすほどである。この仕事が、彼女の能力と将来を切り開き、古代の絹糸つむぎの技法「ズリ出し」や「山繭紬」の伝承者の一人となってくれれば、石井記念友愛社の児島草次郎理事長が描く「福祉と芸術・農業と教育が融合する理想郷づくり」の夢に一歩近づくことができる。



・左が山繭から紡ぎだされた天蚕糸。右は「小管(こくだ)」に巻き取られた状態。



・写真左:織り機の横に並べられた小管。
一番奥が天蚕糸/写真右:「杼(ひ=シャトル)」に取り付けられた小管。



・織り進められてゆく「紬」。杼がリズミカルな往復を繰り返す。
・経糸は約1000本・山桜染めの紬糸。
緯糸はコチニール染めのピンクの紬糸(三色のグラデーション)で織り進められ、
一寸(3センチ)間隔で天蚕糸が織り込まれてゆく。


・写真左:ほのかな黄色の部分が天蚕糸。その他はコチニール染めの紬糸。
写真右:織り進められてゆく「山繭紬」(この作品は天蚕糸の使われている分量が少量だが、
先日の山繭から糸を引き出す行程も含めてちーちゃんの「天蚕糸」を使った初仕事なので
あえて山繭紬と呼ばせていただく)。完成が近い。