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              ☆ 森の空想ミュージアム/九州民俗仮美術館

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このコーナーの文は、加筆・再構成し
「精霊神の原郷へ」一冊にまとめられました

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  黒神子


  猿田彦

海神の仮面

 王の仮面

 忍者と仮面

 鬼に会う旅

 荒神問答

米良の宿神

  道化

  翁面


 このコーナーの文は加筆再構成され
「空想の森の旅人」
に収録されています

森の空想
エッセイ


自由旅


漂泊する
仮面


土佐の祈祷神楽「いざなぎ流」を訪ねる旅

<1>
土佐へ


2015年6月5日〜7日まで、四国・物部川流域の神楽「いざなぎ流」を訪ねる旅へ。
「いざなぎ流」とは「祈祷神楽」というべき古風の神楽で、家の新築、病気治癒祈願など
を主体とする神楽で不定期の開催。私は25年ほども前から取材を望んでいたが、その機会
が得られず、今回、実現。現地の研究者の皆さんが、定期的に保存と伝承・研究等に
取り組んでおられることから実現した。
大変古い形態の仮面祭祀、宮崎の神楽の一部との共通項などが検証できると思います。
*写真は物部村笹地区に伝わる仮面。1992年に高知県立歴史民俗資料館で開催された
「仮面の神々―土佐の民俗仮面展」の図録から転載。
私は当時この展覧会を訪ねている。
今回は、研究会参加後、この笹地区を訪ねた。




以下は今回の企画の概要。

名称:いざなぎ流と物部川流域の文化を考える会特別企画
「いざなぎ流の原像『博士』を求めて―大忍庄(おおさとのしょう)の信仰世界―」
日時:平成27年6月6日(土)・7日(日)
主催:いざなぎ流と物部川流域の文化を考える会
共催:いざなぎ流神楽保存会・香美市教育委員会・香南市教育委員会
・高知県立歴史民俗資料館(公益財団法人 高知県文化財団)

内容:
平成27年6月6日(土) 13:00〜18:00
<第1部>大忍庄の里巡り <香南市香我美町・赤岡町> 
13:00 香美市中央公民館1階 談話室(香美市土佐山田町宝町2丁目1番27号、0887-53-2214)集合
講座「いざなぎ流と大忍庄」(講師:梅野光興 高知県立歴史民俗資料館)を聴講した後、
バスと徒歩で大忍庄の神社
[見学予定地] 君子方神社〜若一王子宮〜須留田八幡宮・博士頭芦田注連太夫屋敷跡〜
立山神社〜エンコウ祭り(菖蒲小屋見学) 

<懇親会・宿泊>
会場:べふ峡温泉 

平成27年6月7日(日) 第2部=9:30〜11:30、第3部=13:00〜16:00

<第2部>物部町大栃の里巡り 
9:30 奥物部ふれあいプラザ(香美市物部町大栃878-3、0887-58-4824)集合
博士や陰陽師の痕跡、大忍庄の歴史を求めて、大栃の町を歩きます。
11:30 ふれあいプラザに帰着予定。

<第3部>いざなぎ流・オンザキ様の神楽と荒神鎮め
会場:奥物部ふれあいプラザ 2階多目的ホール(香美市物部町大栃878-3、0887-58-4824)
いざなぎ流神楽保存会による公演と映像解説で、神祭りと鎮めの呪術を紹介。 
 
詳細は「いざなぎ流と物部川流域の文化を考える会」のホームページ 
http://blog.canpan.info/izanagi-monobe/ へ。

「いざなぎ流と物部川流域の文化を考える会」のメールアドレス  stp2014tum@gmail.com
高知県立歴史民俗資料館(〒783-0044高知県南国市岡豊町八幡1099-1)
 FAX088-862-2110/TEL 088-862-2211


<2>
物部川河口にて
物部川に立って]

6月5日、雨の四国山脈を越えて、仁淀川の畔で宿をとり、翌日の6日は高知へ出た
(仁淀川源流でアマゴ=天魚を釣ったこと、土佐和紙との出会いなどは別項)。
前日の激しい雨は上がり、青空と白い雲が眩しい梅雨晴れの高知市街を走り抜け、南国市を通過、
香美市に至ったところで、海沿いの道を通った。軒の低い漁家が立ち並ぶ狭い旧道はさら
に狭い路地で海へと続いていた。その路地を抜けると、青い海原と、
その海の上に茫々と広がる空が見えた。
淡色の磯の向こうに突然黒々としたうねりが見えるのは、黒潮である。
土佐の海は豪快である。そこで弁当を食べた。



写真は物部川河口。遠景は太平洋。左手の彼方に室戸岬。写真には写っていないが
右手の彼方には龍馬の彫像が立つ桂浜を望むことができる。



物部川の上流を望む。遥か彼方に四国山脈・剣山の山々が霞む。これからこの最上流部の
奥物部へと向かうのである。その物部川流域の村々に、不思議な仮面祭祀や祈祷、
呪詛などの呪術的祭儀を包含する祈祷神楽「いざなぎ流」が伝わる。

私は、二十数年前に、奥物部べふ峡温泉の宿に泊まったことがある。そのときは、徳島県
木頭村から県境の「4ツ足峠」を越えて、南下したのである。木頭村は「楮」の繊維から造る布
「太布(タフ)」を織る技術を伝える村である。太布とは「木綿(ユフ)」と同義で、古くは神を招き、
神の宿る依り代として用いられる神聖な布であった。ちなみに新しい天皇が即位するときに行なわれる
祭儀「大嘗祭」では、榊に楮の繊維「木綿(ユフ)」が取り付けられた「白和幣(しろにぎて)」と同じく榊に
麻の繊維が取り付けられた「青和幣(あおにぎて)」が奉納されるが、その青和幣を献上する
忌部氏(いんべうじ、のち斎部氏)は、 天太玉命を祖とする古代阿波国の有力氏族の一つで、
麻殖郡(現在の吉野川市)を中心とする地域を本拠とし、都で行われていた儀式に関わっていたことで
知られる家の子孫は、徳島県に現存する。この地域一帯は、古代祭祀と密接な関連をもつ地域なのである。
物部川は剣山山系の白髪山を水源とし、大小の支流34の河川を合わせ、土佐湾に注ぐ一級河川である。
一帯が剣山修験の影響下にある地域であることもわかるが、「物部村」という地名あるいは
「物部川」という河川名が、朝廷の祭祀に関わった古代氏族物部氏と関連があるのかどうかは判然としない。

以上のことを念頭に物部川流域に伝承される祈祷神楽「いざなぎ流」をみてゆくのが今回の旅の目的である。
私は、二十数年前に、この物部川の源流部にある「べふ峡温泉」に宿泊した時には、夜半、夜空を響いてゆく
音楽のような、呪文のような響きを聞いた。のちにそれが「いざなぎ流」の太夫が唱える祝詞あるいは
祈祷の唱え言だったと聞いたときには、思わずぞっと鳥肌が立つ思いだったが、物部とはそういう土地だ。
当時、私はまだ神楽のこともいざなぎ流のことも良く知らなかった。そして今回、各地の神楽を
訪ねる旅を続けた後、二十数年来の願望が実現して、その本拠というべき地域を訪ねるのである。



<3>
河伯を祀る「エンコウ祭り」に出会った





物部川の河口に近い田園地帯を通っていたら、この地方一帯に分布する「エンコウ祭り」
の準備風景に出会った。

「エンコウ」とは「猿候」すなわち河童に類する妖怪のことで「河伯=水神」を祀る儀礼である。
川沿いや海辺に近い地域で、水難から子供たちを守る祭りといわれ、昔は、祭りは子供だけで
行ったが、現在は小子化や子供たちの塾通いなどを反映して大人も手伝っているという。




田園地帯の向こうには物部の山脈が見える。背後には黒潮の潮鳴りを轟かせている土佐湾がある。

祭りは、小さな木枠と菖蒲の茎を組み合わせた小屋を作り、菖蒲の葉を飾り、周辺には提燈を提げ、
供物を供えて夕刻を待つ。水辺に宵闇が迫るころ、子供たちが集まり、盛大に花火を上げる。それが
この祭りのすべてというが、「猿侯」とは山神の使いである猿のことであり、「河童」とは河伯=水神の使いで
あるから、この祭りが、川の上流部と下流部で山の神祭りと水神の祭りが混交しながら変容したものである
ことがわかる。次の日、物部川の源流域を歩き、「いざなぎ流」の祀りが行なわれた祭祀跡に同様式の
木組みの小屋を見たので、そのことが確認された。




近くに「絵金」と呼ばれた画家の作品を展示するミュージアムがあったので立ち寄った。

「土佐の絵金」とは、幕末から明治へかけて活躍したこの地方の絵師・弘瀬 金蔵(ひろせ きんぞう)
のことで、高知県下を中心に絵金(えきん)の愛称で親しまれている。 高知城下に髪結い職人の子
として生まれた金蔵は幼少期から画技にすぐれ、16歳で江戸に行き土佐江戸藩邸御用絵師・前村洞和
に師事、幕府御用絵師・狩野洞益にも師事して浮世絵、文人画、障壁画などを習得し、土佐に帰郷、
20歳にして土佐藩家老・桐間家の御用絵師となった。浮世絵の技法を駆使したおどろおどろしい絵を描き
神社の祭礼や村の祭りなどにも奉納され、人気を博した。「エンコウ祭り」にも飾られた例があるという。
また、近くにこの絵金の作品を飾って祭礼を行なった須留田八幡神社やいざなぎ流の博士頭
・芦田注連太夫の屋敷跡などもあり、いざなぎ流の太夫になるための儀礼としての海辺での
「潮汲み=みそぎ」もあったということ、「塩の道」と呼ばれる交易ルートも確認されていることなどからも
この地域と物部川上流の交流がわかる。が、今回の旅はそのことを深く掘り下げることが目的ではない。
古代から現代へとつながる祭りの原像と現在形というような、
おおまかな「ながれ」をイメージしておくだけでよい。


<4>
物部川源流部の「べふ峡」と「四ツ足峠」へ




・写真は物部川中流風景。

物部川流域の「いざなぎ流」の痕跡を求めて移動していたら、道がいつの間にか国道195号線に出た。
それで、一気に物部川沿いの道を遡上して、源流部の「べふ峡」と「四足峠」へ向かった。
この日、いざなぎ流の分布地を巡る現地ワークショップが開催されていて、その道順の逆方向
をたどり、どこかで合流する予定だったのだが、すれ違いになったようだ。



写真は四足峠のトンネル。
ここが高知県と徳島県の県境。物部川を遡り、峠道を上りつめるとこの地点に至る。
周囲の森は暗く、トンネルの中からは轟々と音が響いていた。通り過ぎて行った車も、
向こうからやってくる車もなくて、その音だけが鳴り続けていて、少し不気味だった。
「四足峠」とは、昔、熊や鹿、猪などが多く棲息していたことに由来する地名だという。
私は二十数年前にこの地を訪ねた時、「山犬槍」と呼ばれる月の輪熊捕獲用の槍
を地元の資料館で見たことがある。骨太の柄とややずんぐりした槍先が、
山中で猟師が熊と格闘する場面を髣髴とさせる、迫力満点の狩猟具であった。



森の入り口に咲く白いウツギの花。不用意に踏み込むことが躊躇われる空間である。



日暮れが近かったので、車をUターンさせ、引き返す。
峠の手前に小さな社があり、祭祀の痕跡があった。ここでも「いざなぎ流」の祈祷や
呪術的な神楽が奉納されたことがあったのだろう。



峠に近い集落と麓のべふ集落。「べふ」とは「別府」と表記する。「別府=ベップ=ペフ=ペップト」などの地名は、
アイヌ語や古い日本語の「海辺に川が注ぐ土地あるいは川が集まりまた分かれて行く所」などを意味する
という説があるが、この物部の「別府=べふ」という地名の由来はよく分かっていないらしい。
集落の三叉路に「いざなぎ流発祥の地」の標識が立っていた。
けれども、住民は一人も見当たらず、村はひっそりとしていた。



当日の宿の玄関に飾られていた月の輪熊とクマタカの剥製。ここは、野生の鳥獣や
呪術師、祈祷師、神楽の舞人などが、村人と生活をともにした地域だったのだろう。


<5>
謎の祈祷神楽とは
「いざなぎ流」概観


四国山地・剣山山系を源流とする物部川流域に伝承されてきた祈祷神楽
「いざなぎ流」について、その概略をみておこう。
この不思議な名を持つ呪術的な神楽については、すでに多くの研究書が出ており、地元南国市にある
高知県立歴史民俗資料館がすぐれた研究と伝承活動を続けてきている。詳しくは別掲の資料
をみていただくことにして、ここでは今回の企画を主催した「いざなぎ流と物部川流域の文化を考える会」
発行のパンフレットと高知県立歴史民俗博物館発行の「―神と人のものがたり―いざなぎ流の宇宙」
をもとに、その概略をみておくことにしよう。

高知県物部村(現在は香美市物部)に伝わる「いざなぎ流祈祷」とは、巫女信仰・神道・仏教・修験道
・陰陽道などが混在した民間信仰である。村にはいざなぎ流を習得した「太夫(たゆう)と呼ばれる
宗教者がおり、村や個人の依頼によって神まつり、先祖祭祀、病人祈祷、家祈祷、氏神祭祀、
占いなどを行なってきた。ここには古い祭儀や祈祷、神楽の方法などが
伝えられており、その重要性から「土佐の神楽」のひとつとして国の重要無形民俗文化財に
指定されている。いざなぎ流は、神の由来を語るさまざまな祭文、神々の形を切り紙によって
表現する100種以上の御幣、独自の様式と使用法をもつ仮面群、猟師や杣人など
土地の仕事に根ざした呪術など、多様な要素を包含する祭祀儀礼なのである。

主な儀礼の特徴をあげておこう。
・太夫(たゆう) 「いざなぎ流」を習得し、祈祷や神楽を行なう宗教者。
・陰陽師、博士、神子 太夫とほぼ同様の民間儀礼を行なう宗教者。地域ごとに異なる役割を
持ったものと思われる。
・いざなぎ流の歴史 中世の古文書がある。「いざなぎ流」という名称の由来は判然としない。
平家の落人とともに流入したという伝承、中世の宗教者たちが普及させたという伝承がある。
・祭文 神楽や祈祷を行なう太夫や博士、神子などが駆使する唱え言。宇宙の理、
神々の由来譚、鎮魂儀礼、占いや病気治療の祈祷に関する文言など多くの情報が潜んでいる。
・仮面 仮面を用いた祈祷や呪術的祭儀があり、その造形は独自性に富む。
・御幣 100種を超える切り紙の様式があり、各種の「人形(ヒトガタ)御幣」や「山神幣「水神幣」など呪術的な
要素をもつものが多い。
・呪詛(すそ) 因縁調伏や諍いの調停などが主目的だが、「呪詛返し」という「呪いの解除」
や「狐憑き・犬神憑き」などの生霊憑依の解除なども含まれている。
・家祈祷 太夫が各家ごとに行なう祈祷や仮面祭祀。
・西山法 猟師の作法、起源譚、獲物の解体や分配の作法、鎮魂儀礼などが記録されている。

☆関連書籍一覧


・「いざなぎ流の宇宙」―神と人の物語―
高知県立歴史民俗資料館/1997初版2015・6刷


・「仮面の神々」土佐の民俗仮面展(図録) 
高知県立歴史民俗資料館/1992

・「いざなぎ流の研究」歴史のなかのいざなぎ流太夫
高知の民間信仰「いざなぎ流」の歴史をたどり、日本人の原点に迫る!
著者:小松和彦 
角川学芸出版/2011
高知の民間信仰「いざなぎ流」。現代の安倍晴明ともいわれる太夫の神秘的な祭儀、
物語性に富む祭文、神霊を象る御幣――。日本を代表する民俗学者が40年に亘る調査を集大成。
その歴史の全貌、日本人の源流に迫る。


・「いざなぎ流御祈祷の研究」 土佐山中に息づく神々の世界
高知県の山里に伝承されてきた神々と祈祷の世界を精細な資料研究に基づいて改名する
30年来の研究の成果
著者:高木啓夫 
高知県文化財団/1996

・「いざなぎ流 祭文と儀礼」
現代に生きる民間陰陽師の呪術。祈祷世界の核心に迫る! 高知県物部村に伝わる
民間信仰「いざなぎ流」。神と渡り合うコトバと力の相貌を始めて鮮やかに解説する。
著者:斎藤英喜 宝蔵館/2002

・「いざなぎ流祭文帳」
吉村淑甫監修/斎藤英喜・梅野光興編 
高知県立歴史民俗資料館/1997

・「物部の民俗といざなぎ流」
病気治癒・家の神祭祀・祈雨の祈祷が伝わるいざなぎ流の特質を論じる。
失われつつある自然への畏れと、その関わり方を問い直す。
著者:松尾 恒一吉川弘文館/2011

以上の資料の内、小松和彦著「いざなぎ流の研究」、松尾恒一著「物部の民俗といざなぎ流」以外は、
私の手元にある。1992年の「土佐の民俗仮面展」を見て以来、折にふれて入手し、開いて見ていた
ものである。だが、いくら立派な書物を読んでも「いざなぎ流」のことは理解できなかった。
それは神秘の「呪術的世界」であり、いざなぎ流を伝える物部村は「異界」であるかのような
イメージを抱いていたのである。ところが、今回、実際に村を訪れ、いざなぎ流の「神楽」を見た途端、
いざなぎ流の本質を私は瞬時に理解した。それは九州・宮崎の神楽とほぼ同じ構造・様式を持つ
「神楽」だったのだ。もとより、祈祷や呪術的祭儀は物部に圧倒的に残っているが、
九州の神楽に皆無でもない。その密度の差こそあれ、「別のもの」ではなかったのだ。
そして、伝承地が抱えるさまざまな問題(これも宮崎の神楽に共通する課題)もみえてきた。


<6>
「べふ峡」のいざなぎ流伝承




6月6日。
物部川下流域に分布する「いざなぎ流」の痕跡を訪ねるワークショップには合流できなかったが、
その日の夕刻には宿泊地である「べふ峡温泉」に入宿。参加者、旧友と再会できた。
「べふ峡温泉」とは、物部川源流部・べふ渓谷にある温泉宿である。「べふ」は「別府」と表記する
ことは前述した。水量豊かな清流の音が部屋まで響く、清雅な宿である。
急流のほとりで農家のおばさんと思われる人が竿を振っていた。
この渓には「アメゴ=天魚=ヤマメの仲間」がいる。



宿(写真・上)では、40年前からこの地を訪れ、いざなぎ流の調査・研究を続けて来られた小松和彦氏
(国際日本文化研究センター・所長)や梅野光興氏(高知県立歴史民俗資料館・学芸員)、各地から
訪れた研究者やいざなぎ流に興味をもつ参加者などが交流し、賑やかな会と
なった。小松先生とは、伊勢市の猿田彦神社が主催し、神道学者の鎌田東二氏が代表世話人をつとめた
「猿田彦大神フォーラム」でお会いし、かつて私が運営していた由布院空想の森美術館での猿田彦大神
フォーラムの開催時にもゲストとしてご参加いただいた縁があり、梅野さんは、歴民の学芸員になりたての頃、実家
の福岡県久留米市と高知との往復の途次、空想の森美術館に立ち寄っていただいていろいろと情報を交換した縁
がある。およそ20年ぶりの再会を互いに喜び合って、嬉しい一夜となった。
そして二次会は、なんと、いざなぎ流の飾り付けがなされた部屋(スタッフが宿泊するための別屋)
で行なわれた。いきなり、呪的世界に引きこまれて、身が引き締まる思いだったが、
皆、愉快に杯を交わして、格別妖しい出来事などは起こらなかった。
アメゴの塩焼き、鹿肉料理(ステーキ、から揚げ、串焼きなど)が豪勢に大皿に盛られた。


・中央が小松先生、その右横が梅野さん、その右が筆者。


・アメゴの塩焼きと鹿肉料理(ステーキ、から揚げ、串焼きなど)。


・いざなぎ流の御幣いろいろ

私は二十数年前に徳島県木頭村に伝わる楮布「太布(タフ)」を訪ねる旅の帰途、
この地を訪れ、この宿に宿泊し、虚空に響く呪文のような音を聞いたが、それが、
間違いなくいざなぎ流の太夫が唱える「祭文」
であったことを確認することが出来たことも、この旅の収穫の一つだった。
あれは、幻聴ではなかったのだ。




「べふ峡温泉」の裏手に、急坂がある。300メートルほどもあるかと思われる標高差の山嶽を稲妻形に折り返し、一気に
登る山坂である。昔は、この車道がなかったので、集落へ行くまでに大人の足で1時間以上を費やしたという。
道が行き止まった所に、三軒の家がある。中尾集落である。
この中尾の地に、いざなぎ流の祖といわれる太夫が住み着き、べふ峡にいざなぎ流を伝えたという起源伝承がある。
伝承は他の地にもあり、どこが源流地であるかは特定できないというが、この中尾も伝承地の一つである。

いざなぎ流には、この地に落ち延びてきた平家の一族が、平氏再興を願って源氏調伏の
「日月祭(にちげつさい)」を行なったことが起源であるという伝承がある。
中尾の伝承では、平家の岩屋に住んだ小松左京守盛門の姫君が、中尾に住んで霊感を得て、指霊神
である「天之神」の教えによって「神楽舞」や「法式(祈り)」を編み出し、教祖となったと伝える。その術は
魔人・魔法のごとくであったので、姫は「魔法巫女」と呼ばれた
(当日聞いた話と「いざなぎ流の宇宙/高知県立歴史民俗資料館・刊」を参照し要約)。

中尾集落の裏手の山道を約30分も歩いたところに平地があり、「魔法巫女」を祭る祠が現存するという。
夜明けとともに起き出して、山の上まで行ってみたが、集落は静かで、村人はまだ眠りの中のようだった。
それで、その奥の山道に踏み込むのは遠慮した。

写真・右下は索道の跡。山から木を搬出する仕掛けであるが、ある時期、村人がこれを設置し、
物資を上げ下ろしするようになった。地元の郵便局長さん(当時は下っ端の配達員だった)は、
下からおーいとおらぶ(叫ぶ)と上から応えがあり、篭に入れた卵が
降ろされてきたという。それが山人からの礼物であった。その篭に郵便物や食料、生活用品などを入れて揚げたのである。
この話でわかるように、山肌を縫って登ってゆく道は険しく遠いが、崖に近い斜面の直線距離は短い。
それで、会話ができるほどに声は通るのである。私が、二十数年前に聞いた呪文のような響きは、
この中尾の太夫さんが唱える祭文であった。


・中尾集落と物部の山


<7>
オンザキ様の神楽


物部川流域に伝承される祈祷神楽「いざなぎ流」を訪ねる旅は、ようやく神楽実見の場面にたどり着いた。
この連載では6回目(前置きに5回を要した)だが、私はこの一文が書けるまで25年余の「とき」を要したのである。
それほど、不思議な感じを与える神楽が「いざなぎ流」であった。


・いざなぎ流の御幣。100種以上の御幣がある。

だが、始まった神楽を見ると、御神屋の飾り付けや演目、所作、、採り物、衣装など、九州・宮崎の神楽と
共通項の多いものだったので、私は大層安心した。つまり、「いざなぎ流」とは、「神楽」だったのだ。
そのことは、各種資料にも書かれているし、「土佐の神楽」として国指定重要無形民俗文化財にもなって
いるので、現地の人は誰も神楽以外のものとは言っていない。にもかかわらず、いざなぎ流の周りに
不思議で妖しい雰囲気が漂うのは、その名称と、家祈祷、病人祈祷、鎮魂などの種々の儀礼や仮面を
用いての「家」に伝わる祭祀などが圧倒的に残されているからだろう。それらの儀礼を個別に扱わず、
一括して「神楽」とみれば、かつて日本列島全域で行なわれていた「祭祀としての神楽」が、ここ物部川
流域に奇跡的に残ったものだと把握することができる。このことが実感でき、確認できたことが、今回の旅の
最大の収穫であった。現地を踏むということ、旅に出ることの価値をあらためて認識したひとときであった。


・天蓋。いざなぎ流では「ばっかい」と呼ばれ、各地の神楽との共通項とともに仏法との習合、
修験の行法との混交などもみられる。いずれも御神屋の中心に吊り下げられる。
九州の神では「雲」「白蓋」「天蓋」と呼ばれて、宇宙・星宿を表す。

さて、またまた前置きが長くなったが、以上のことを念頭に置き、「いざなぎ流の神楽」を実見しよう。
当日公開されたのは、まず「オンザキ様の神楽」と「荒神鎮め」の二曲である。
ほら。
オンザキ様の神楽・・・・・
荒神鎮め・・・・・
やっぱり、その儀礼名(演目名)を聞いただけで、ちょっと怖い、面妖な雰囲気が漂ってくるではないか。
何なのだ、それは・・・・・?




神楽が始まった。
まず6人の太夫が入場し、御神屋の中心を囲んで座る。そして、種々の御幣を用い、
祭文を唱えながら「すその取り分け」と呼ばれる祭儀を行なう。

「オンザキ様」とは「御先(ミサキ)・賽の神・障碍神」などと同義で山と里の境、海と陸の境、天界と地上世界の境などに座す、強い霊力を持つ土地の精霊神のごとき神様だろう。「すそ」とは「呪詛」であり「たたり神」の霊力である。すなわちオンザキ様の神楽とは、神楽=祭儀の開始にあたり、土地神の霊を鎮め、場を清め、神々の降臨を願う儀礼であることがわかる。このような神楽開始の儀礼は、高千穂神楽の「御神屋誉め」、
諸塚神楽の「拝み」、椎葉神楽序盤の一連の演目などと共通項を持つ。祭文・唱教などに共通の詞章があることから、
それがわかる。祭文・唱教は、平安時代の神楽歌にも記録される古い文言である。

中心に座す太夫は、長い祭文を唱え続ける。周りの太夫たちは、静かにそれに和し、手に捧げ持った御幣を左右にゆらゆらと揺すりながら、身体もまた左右にゆるやかに揺すり続ける。太夫の動きとともに、そこにたゆたう「空気」や「時間」が、あわあわと揺曳する。
これが一時間近く続くので、見ているものは次第に眠くなったり、意識が朦朧としてきたりして、呪的空間に引きこまれてゆく。そこはまさに神と人とが交信する空間であり、これこそが「神楽」の本義である。いざなぎ流や宮崎の山地神楽には、この神楽の最も根本的な儀礼が
省略されずに残っているのである。これは現代の奇跡の一つといえる。



この長い長い祭文が終わると、太夫たちが立ち上がり、御幣を振りながら御神屋を舞い巡る。
これもまた静かでゆるやかな舞い振りである。神々は神楽の場に降臨し、「舞神楽」へと続いてゆく。


<8>
「オンザキ様」とは


前項で、「オンザキ様」とは「御先(ミサキ)・賽の神・障碍神」などと同義で山と里の境、海と陸の境、天界と
地上世界の境などに座す、強い霊力を持つ土地の精霊神のごとき神様だろう、と書いたが、
訂正を加えなければならない。いざなぎ流のオンザキ様は、上記の性格も持つが、実態はもっと大がかりな、
「天の神・地神・荒神」のような神格を包括する地主神・大いなる自然神というような存在のようである。
以下、当日配布された資料「小松和彦―いざなぎ流祭文研究覚書帖御崎の祭文=v
を参照(筆者要約)しながら、オンザキ様という神様を知りたいと思う。



・物部村の多くの旧家に祀られる「御崎様」「御先様」(いずれもオンザキサマと呼ばれる)は、その家に
おける最高位の神で、現在では座敷の神棚に祭られている例が多いが、かつては屋根裏の「サンノ
ヤナカ」というところに棚を設えて祀ったという。棚には「御崎様」をかたどった御幣を中心に、「ミコ神」
「式王子」「コミコ」などの幣が添えられる。「ミコ神」とは祖先の霊などを迎え種々の儀礼によって御崎様と
同格に祀り上げた神である。「式王子」とは五行の理論・陰陽道・修験の行法など複雑に組み合わされた
祈祷法・呪法であり、太夫に使役される「式神」の性格もあわせ持つ。
「コミコ」とは神官・神子・巫女のような扱いの神格であろうか(御子神・神子・神子・巫女などについてはいずれ詳しく掘り下げたい)。
・「御崎様」と同義の「天の神」があり、同等の扱いで祀られたり、地区によって別の神格として祀られたりする。
「天の神御崎様」と混同して呼ぶ家もあるという。
・物部村では、「天の神」「御十七夜」「三日月」「二十三夜」「御崎」「ミコ神」「恵比寿」「天神」「八幡」など
の神々が祀られ、これらの神々に対する祭を「家祈祷」「宅神祭」と呼ぶ。この総体を「御崎神楽」とみなして
よいかもしれないが、「神々」および「祭」はすべてがセットになっているわけではなく、神を伝え、祀る家
ごとに行なわれることが多い。依願に応じて集落単位、村単位で行なわれることもある。「天の神」
は村の草分けとされる旧家にのみ祀られ、「御崎」もまた旧家に祀られる。「天の神」「御崎」
を祭る旧家では「天の神祭」と「日月祭」を行なう。





これで、「オンザキ様」の大略を把握することができるかな・・・?
いざなぎ流祭祀の細部に分け入ると、混乱の度を深くするおそれがあるので、
次回は、以上を念頭に「本神楽(舞神楽)」を見ることにしよう。



<9>
オンザキ様の神楽「舞神楽」




今回、実見したのは、いざなぎ流の神楽のうち、
本神楽「けがらい消し」「ひきつぎ」「しんとう」「みずぐらえ」「オンザキ祭文」「ごとう」「願開き」
「舞上・舞(扇の舞・たすきの舞・太刀の舞)」であり、合計一時間半ほどの上演、
休憩を挟んで「荒神鎮め」(1時間ほど)であった。

実際のいざなぎ流神楽では、この本神楽に至るまでに、「取り分け」「精進入り」「湯立て・湯神楽」
「礼神楽(17の演目がある)」などの儀礼があり、本神楽の中にも上記の儀礼や祭文が組み込まれている。
さらに「荒神鎮め」があり、ようやくいざなぎ流の神楽は祭り上げとなる。それを全部執行するには七日間
かかるというのである。それが、いざなぎ流神楽の全体像である。そしてそれに付随する祭儀や祈祷、仮面祭祀、
集落ごと・家ごとに行なう祭儀などがあるので、一層、いざなぎ流を複雑・難解なものにしているのだ。
しかしながら、今回、「本神楽」に関しては宮崎の神楽との共通項が多くみられ、いざなぎ流もまた「神楽」
の体系の中にあるものだということが体感できたので、その熱の冷めないうちに自分なりの分析と記述を
試みているのである。要するに、いざなぎ流は凄い。面白い。神楽もまた面白い。観るたびに発見があり、
見ればみるほど興味は深まる。観ること、知ること、発見すること、書くこと、描くこと等々、表現者としての
喜びがつきないのである。20年以上も前に、いざなぎ流の不思議な仮面群に出会い、以後、資料を集め、
考え続けて、どうしても理解し得なかったことが、ひとたびこの地に立ち、神楽の「舞」そのものを実見した
とき、まるで縺れた釣り糸がすっと解けて渓流の上を吹く風にさわやかに翻った時のように、一本の線と
して繋がった感覚。秘密の扉が開かれた瞬間に立ち会ったときのような驚きと感動。山中深く秘匿されて
きた「神楽」という神秘の領域こそ、自然界と人間社会を結ぶ素朴で敬虔な信仰世界であり、驚異の
「わざ=呪的装置」を秘めた至高の芸術表現でもあり、混迷する現代社会に強烈なインスピレーション
と示唆を与えるメッセージなのだ。そのことを象徴するいざなぎ流太夫の言葉がある。それはこの
連載の最後にお伝えすることにして、本神楽(舞神楽)を見よう。

・写真上の2点は前回までに紹介した「けがらい消し」「ひきつぎ」「しんとう」「みずぐらえ」「オンザキ祭文」
「ごとう」「願開き」「舞い上げ」と続いた場面である。長い儀礼と祭文が終わり、御幣を掲げた「舞い上げ」
が終わると、控えていた舞人三人が入場してくる。今回は若者2人と若い女性1人が参加していた。まだ
「太夫」と呼ばれる段階ではなく、将来の伝承者というところか。それまで儀礼を行なっていた3人が残り、6人での舞となる。




まず、両手で印を切りながら舞う。深く身を沈め、旋回を繰り返して舞うどこの神楽にも見られる舞い振りだが、
手の動きが花びらが舞うようにうつくしい。次に扇の舞へと続く。これもまたあざやかな
所作・舞い振りである。神楽終盤の喜びが表現されているという。



「たすきの舞」。襷を採り物に舞う演目は、宮崎の神楽にも普遍的に見られる。襷とは単なる衣装の
付属装置ではなく、神を招く呪具の役割を果たすのであろう。宮崎の神楽では、この帯に若妻が安産の
願いをかける例がある。赤と白の帯が空中に描く線が残像として眼に残り、火光のように揺曳する。



「へぎの舞」。盆を両手に乗せて舞う。この演目も各地の神楽に普遍的に分布する。福岡県豊前神楽には
盆に米を山盛に盛り、それをこぼさぬように舞う。スケートの羽生弓弦選手のような旋回も転回もこなし、
米がこぼれることはない。「折敷舞」「盆の舞」「天任(花の舞)」などと呼ばれ、米と榊を載せて舞い、それ
を撒く例が多い。榊葉は山霊の象徴。米は米占いを起源とする。撒かれた榊や米を持ち帰り、
田畑に撒いて虫除けにしたり、御飯に炊き込んで食べ、無病息災を願ったりする。
いざなぎ流の「へぎの舞」は祭りの当主が勤める大事な曲として記録されている。「米(フマ)占い」につながる儀礼という。
転回のとき、太鼓打ちが同時にひっくり返るという演出(写真右下)が加わり、おおいに賑わう。



「太刀の舞」。これも神楽の定番。劔の霊力で地霊・山霊を鎮め、結界を確定し、場を清めるのである。



「舞神楽」が舞われている間、太夫と舞人は御神屋の脇に立ち、右手に持った小幣を、太鼓に合わせて振り続けている。
これもまた呪的空間を構成する要素となっている。


<10>
いざなぎ流「荒神鎮め」


七日間に及ぶ「いざなぎ流」神楽の最後に、「荒神鎮め」が行なわれる。いざなぎ流には「家の神の祭り」
「病人祈祷・家祈祷・作祈祷」「祈念(弓を用いた祈祷)、占い」など、種々の儀礼があるが、「鎮め」がその
根本をなす思想のようである。「鎮め」は、山の神・水神・さまざまな魔群(山ミサキ、川ミサキ、ヤツラオウ、
ドウロクジン、龍の駒、ロクドウ、鬼神など)、祖先の霊、死者の霊などを鎮め、祀る儀礼であるが、「荒神」
もまた鎮められるべきものである。荒神とは、その土地の偉大なる先住神であり、荒ぶる神である。荒神
こそ、天地・森羅万象すべてを支配する恐るべき神であるから、人々は荒ぶる荒神の御魂を鎮め、土地
入り込み生活し、様々な恵みを戴くことを祈願するのである。この「荒神祭祀」の根本原理は、宮崎の神楽
にも分布し、中国地方などにも古い形の荒神神楽が伝承されている。いざなぎ流の荒神鎮めも、
この図式を念頭に置きながらみていくと理解しやすいと思う。





さて、当日の「荒神鎮め」である。主役の太夫と三人の太夫が、御神屋中心に置かれた一斗二升入りの米袋
(正式には米俵)の回りを囲み、主役の太夫は「荒神幣」「新木幣」「古木幣」八合八勺の米が入った枡
を持ち、他の太夫は神楽幣を持ち、それぞれ小刀を手にして立つ。
そして、ゆっくりと右回りに廻りながら、儀式が進行してゆく。

まず「方呼び鎮め」である。これは五方の神を呼び出す五行の儀礼にもとつ゜く。
東西南北・中央の神が呼びだされたところで、「荒神」が出現。
その荒神の出現の仕方が劇的である。要約すると、
「東方の山から牛一匹乗りいだし、牛かと見ればどっくう(土公)なり、どっくうかとみれば荒神なり・・・」
荒々しく出現した荒神は、ここから太夫との問答をくり広げる。問答が進むにつれ、
「境荒神、宮荒神、四方のすま荒神、棚荒神、屋づま荒神、門荒神、山荒神、川荒神、
よな(胞衣=えな)荒神、塚荒神、ミコ神、釜の神、オンザキ、天の神、屋の神、山の神、水神、
新田、本田、高山領地、鎮めふんじもの、おどろき物、さばらそこつの外道、ささらミサキの魔」など、
およそ考えられるかぎりの魔群、神性が列挙されてゆく。このパワーを見よ。凄まじいばかりの
荒神の霊力が、村の隅々、生活の端々にまで発揮され、
人界を支配しているのである。さらには、「地引く荒神、中引く荒神、万々八千八大八荒神」までが
出現し、儀礼は「鎮め」へと移ってゆく(「鎮め」の祭文については先述した資料集を参照して下さい)。
「荒神」は、唱えられる祭文とともに、手に持った小刀(劔を象徴したものである)と足踏み(反閉=へんばい)
によって鎮められ、続けて小刀の刃先に乗せて撒かれる枡の米によって「小荒神」「大荒神」「村荒神」
「そう荒神」「番荒神」「境荒神」なども順に鎮められてゆく。



宮崎の神楽では、「荒神」は仮面をつけて出現し、神主と問答をする。米俵または太鼓に腰掛ける。
諸塚神楽では三体の「三宝荒神」が降臨する。いずれも、荒神と長い問答をする。そして、終盤になると
荒神は鎮められ、村人が酒と杯を盆に乗せて現れて、仲直りの儀がある。めでたく荒神と神主
(渡来の神の代表)が和解し、荒神は面棒(荒神棒)、扇、榊などの「お宝」を渡して退場する。
「いざなぎ流」の荒神もほぼこの構図の上にある。
鎮められた荒神は、氏子に神楽幣を千切らせてその上に小刀で掬った米を乗せて配る「富配り」をする。
そして最後に太夫が「法の枕=米袋」を囲んで座り、米袋の上に扇を置き、お金と三本の小刀を組み合わ
せて重ね、数珠、幣を置いて、鎮めの唱文が唱えられる。天神の五方立てを鎮めの上印に唱え、印を
五つ重なるように、三人がこぶしを重ね、主役の太夫が唱文しながら、最上部から米粒をゆっくりと落として、鎮めが終わるのである。
いざなぎ流では仮面はつけない(これが古式であると思われる)が、主役の太夫と三人の太夫が問答形式で鎮めの儀礼が
進行してゆくこと、その文言などから諸塚神楽の「三宝荒神」が同一の様式を持つように思われる。



荒神鎮めが終わると太夫が劔を採って舞い、御神屋に張り巡らされた注連縄を切って、神送りが終わる。

<11>
いざなぎ流の祭祀跡が残る村を巡った一日



・物部村の中心地大栃の風景


・町並みに現役の太夫さんの家がある。


・写真左は太夫さんの墓地。集落のほぼ中心地にある。


・写真左は中世、この地を治めた公文氏の墓地。右は石彫の鷹を乗せた石灯籠が両脇を守る祠。

物部川流域の中心地・大栃で、韮生川と槙山川の二つの川が交わる。その大栃は山中の小都市の風情を
漂わせる町で、往時は、いざなぎ流太夫の本拠もここにあったらしい。町には方々にその遺構が残り、中世
の信仰世界を垣間見せてくれる。太夫の墓地やこの土地を治めた公文氏の屋敷跡、墓地、阿闍梨様と
呼ばれる屋敷跡、さらには現役の太夫さんが近ごろまで住んでいたという家などがあり、その影響力の大きさを
知ることができる。町は、普段どおりの生活空間だが、随所に古い信仰生活の名残がみられるのである。




鍛冶屋さん。昔は多くの鍛冶屋があったというが、今はこの一軒を残すだけである。この鍛冶屋の主も太夫
さんだったという。鞴が現役のままに配置され、「火の神=竈神」の御幣が祀られ、正月に場占めて打たれた
鎌の刃先が鴨居にズラリと打ちつけられていて、鍛冶屋そのものが呪的空間となっている。





町並みと山との境に点々と古い祭祀跡が残っている。巨木の下、水源を祀る場所、古い祠、墓地など。
これらの場所で、近年まで祈祷や鎮め、種々の神祭りなどが行われたことがわかる。中世、この大栃
から上流の物部川(槙山川と韮生川)上流域が「槙山郷」と呼ばれた地域で、いざなぎ流の信仰が栄えた
のである。この物部川流域に小さな集落が点在し、それぞれの集落に太夫と呼ばれた宗教者が住み、
様々な祭祀を行なったのである。村を廻り、そのことが実感できた一日であった。


<12>
「ヒトガタ御幣」と「祭文」が語るいざなぎ流の神秘世界


「いざなぎ流」は、「人形(ヒトガタ)御幣」と呼ばれる種々の御幣と切り紙を用い、「祭文」を唱えながら
祭祀が執行されることが、その不思議な信仰世界の特質となっている。
「祭文」とはいざなぎ流の始祖伝承や種々の神霊を鎮める文言・呪言などの唱え事である。
太夫が祭文を唱えながらさまざまな祭祀や儀礼を行なう。この祭文は、宮崎の神楽では「唱教」と呼ばれ、
椎葉神楽、高千穂神楽、諸塚神楽、米良山系の神楽などに分布し、
その内容も類似したものがある。中世から近世へかけて普及した「神楽」の源流を探る一級の資料群である。
この膨大な「祭文」についてはすでに紹介した施設や諸氏による詳細な調査が進んでいるので、そちらを参照してください。

以下に今回紹介したーいざなぎ流の御幣・切り紙・ヒトガタ御幣を再録。


・米袋(本来は俵)に乗せられた御幣、大夫が持つ御幣、弓と一緒に御神屋正面に置かれた御幣、「笠」など。
この舞人が被る御幣で飾りたてられた笠は椎葉・向山地区の神楽にみられる。


・ヒトガタ御幣。当日の会場に展示されていたもの。


・十二のヒナゴ。神楽の御神屋四方に張られる注連縄に取り付けられ、悪霊の侵入を防ぐ。


・左は四足峠の祠。右は宿舎の部屋。


・宿舎の一室にいざなぎ流の飾り付け。

いざなぎ流には100種以上のヒトガタ御幣があるという。その主なものを列挙しておこう。
「大山鎮めの幣」「六ツラ王」「八ツラ王」「九ツラ王」「スソ」「四足」「疫神」「天神の祓い幣」
「山の神」「山公神」「山ミサキ」「川ミサキ」「山どっくう」「きじん人形」「きじん四足の供物」
「水天宮」「天ぐうわたり」などなど。(「いざなぎ流の宇宙/高知県立歴史民俗博物館」より抜粋)

これらの御幣を使い、御幣で神を呼び寄せたり、悪霊を取り付かせて除いたり、水に流したり、祭文に
よって鎮めたりする。ヒトガタ御幣とは、一時的に神を表し、神を宿らせ、神祭りを行なう「憑依の装置」
というべき呪具である。私は、以前、九州脊梁山地の神楽に分布する「ヒトガタ御幣」を、その性格や用途
が「仮面」に近似することから、追跡したことがある。それもまた、いざなぎ流の御幣群とほぼ同一の様式、
性格、用途を持つものであった。四国いざなぎ流の神楽の祭祀儀礼と九州脊梁山地のそれとは、
その起源が大変近いものだということを、今回確認できたのである。以下に代表的なものを掲示しておく。


・椎葉神楽の御神屋祭壇と太鼓に飾られた御幣


・椎葉神楽の「大宝の注連」と「ヒトガタ御幣」



・高千穂神楽の御幣いろいろ


・高千穂神楽の御神屋飾り「エリモノ」




・諸塚神楽の御幣いろいろ


・諸塚神楽の「ヒトガタ御幣」



・米良神楽の「ヒトガタ御幣」



・米良神楽の御幣いろいろ

九州脊梁山地の神楽のヒトガタ御幣には「山神幣」「荒神幣」「鹿倉幣」「稲荷幣」「火の神幣」
「モリ」「ユーギ」「水神おんたつ・水神めんたつ」「ムツラメン」「クツラメン」などがあり、
その名称からもいざなぎ流の御幣と同系統のものであることがわかる。

<<<13>
日ノ御子・天中姫宮・魔法巫女・神子・ミコ神・巫女などについて 



物部川中流域に「日ノ御子」という地名がある。川向こうの丘陵地に集落が見え、大きな吊り橋がかかっている。
集落の背後は大きな山脈へと連なっている。地図で見ると、その山の向こうは祖谷渓である。だが、
平家の落人伝承を伝える祖谷地方と山のこちら側とがどの程度交流があったかはわからない。
今回の旅でその集落へ行くことはできなかったが、最後の夜の宿となった民泊のおかみさんがその
「日ノ御子」の出身だということだったので、少し驚いた。彼女のお祖父さんはいざなぎ流の「大夫」であり、
さまざまな祭儀を行なっていたという。彼女は中学校卒業とともに村を出たから細部は知らなかったが、
物部川中流域にまで、いざなぎ流が分布していたことのわかる話であった。
この日ノ御子(ヒノミコ)は地名であり、いざなぎ流の秘儀や起源などと関連しているかどうかはわからない。



いざなぎ流の始祖伝承には天中姫宮と魔法巫女という二つの女性シャーマン伝承がある。平家の落人
の姫君という「魔法巫女」についてはすでにふれた。「天中姫宮」とは、「いざなぎ祭文」によって伝え
られる女性シャーマンの物語である。長い祭文を要約すると、姫宮は「米占い」を会得していたが「祈祷」
の式を知らなかったので、はるばる「天竺」へいざなぎ様を訪ね、その法を学び、習得していざなぎ流の祖
となった、というものである。すなわち「いざなぎ流」は日本の国産みにかかわる
イザナギ・イザナミ伝承とは別系統のものである。



この二つの伝承が、「いざなぎ流」の種々の祈祷や祈念、呪的祭儀などの神秘的な儀礼と混交しながら、
「いざなぎ流の始祖は女性シャーマンである」というふうな概念で捉えられるケースが多いらしいが、
小松和彦氏は、「それは危険である」と言っている。事実、今回の企画「いざなぎ流の原像『博士』を求めて」
に集まった参加者の中には、いわゆる「神がかり系」と呼ばれる妖しげな人たちがかなり多く混じっていた。
それは「精神世界・神秘主義・心霊主義・神智学・死後の世界・シャーマニズム・臨死体験・ヒーリング・
超能力・占星術・超古代文明・妖怪」などの価値観を探求する一群の人々のことで、 その人たちが集まる
と独特の妖しい雰囲気が漂うことは、最近の宮崎の神楽でもみられる現象である。長い髪を後ろで結び、
ぞろりとした服装で岩笛を吹いたり、胡坐を組んで瞑想したり、巨樹に手を当ててなにかを受け取っている
ようなしぐさをする。自分は神様に一番近いところにいる、あるいは神様と交信することができる、と信じ込
んでいる輩である。神楽の場で「神様はいまどこにいますか?いつ降りてきますか?」という質問を繰り出さ
れて、私は辟易したことがある。小松先生が危惧するのは、このような社会現象の中でいざなぎ流が把握さ
れてしまうことの危険性であろう。私も同感である。いざなぎ流とは、決して妖しい宗教でも特殊な風俗でも
なくかつては日本列島に遍く分布していた、山に生きる人々の生活の骨格をなす信仰世界であり、「神楽」であった。




本題にもどろう。
「天中姫宮」と「魔法巫女」は女性であり、古代の女性シャーマンの姿を髣髴とさせるが、「御子神・ミコ神」
とは「御崎(オンザキ)様」と同様の神格をもつ祖先神・屋敷神のような神様である。「神子(ミコ)」は
「博士(はかせ)」「陰陽師」と同系の祭儀を行なう神職・祈祷師のような存在で大夫に次ぐ位置づけの
ようであり、男性である。巫女は、現在もみられるような神社に奉職する神職・芸能職である。
このようにいざなぎ流には「ミコ」という呼称の神様・神職だけでも幾つかの系統に分かれ、複雑化している。

今回の「いざなぎ流の原像『博士』を求めて」の「オンザキ様の神楽」上演の「舞神楽」の場面では、いずれも
巫女の装束を着けた年配の女性、中年の女性、若い女性の三人が舞人をつとめ、ごく自然にふる
まっていた。年配の女性は大夫さんたちに混じって御神屋の脇に立ち、御幣を振り続けていた。中年の
女性は年季の入った舞い、若い人は艶やかな舞い振りを見せた。いずれも伝承者不足を補う動員では
なく、若い頃から日常的に「いざなぎ流の神楽」を勤めていたと思われる所作であり、身のこなしであった。
女性の参加を厳しく制限する宮崎の神楽にはあまり見られない光景である。天中姫宮や魔法巫女さら
には宮中の芸能職・猿女君の伝統などが混交しながら伝えられているのかどうか、この辺りは、日本の
女性芸能の歴史とあわせ、今後、慎重にみてゆきたい事例である。
ちなみに高知県立歴史民俗博物館の梅野光興氏が、中世の「巫女」といざなぎ流の「巫女」との比較を試みている。
それによると、曲げ物(盆か膳であろう)の上に米を乗せて占いをする巫女(春日権現絵巻)、鼓を打って
米占いをする巫女(同)、弓を用いて祈祷をする巫女(職人絵歌合)、弓と米を用いて占いをする「いちこ」
(江戸職人歌合)、米を乗せた盆の前で占いをする「笹ハタキと呼ばれる市子(巫女)」(日本巫女史)、米、
お金、木の枝(弓と思われる)、錫杖の前で仏おろしをする東北のイタコなどの事例を上げ、いざなぎ流祭祀
との共通項をさぐる試みをしているのである。今後の進展が期待される研究である。



<14>
いざなぎ流の仮面祭祀@




「祈祷」を基調とする「いざなぎ流」の神楽には、独特の仮面祭祀と仮面群が配置されている。この連載
の最初にふれたように、私は1992年に高知県立歴史民俗資料館で開催された「仮面の神々
―土佐の民俗仮面展―」でその仮面たちに出会い、衝撃を受け、魅了され、以来、実際の祭りの中で
使われる場面を見たいと切望してきた。が、いざなぎ流の神楽は、神社の例祭に奉納される宮崎の神楽
のように定期的に行なわれるものではなく、氏子・村人・地区のお宮などの祈願によって執行されるもの
だから、不定期の開催であり、いつその日が訪れるかは予測がつかないのである。それゆえ、私が
いざなぎ流の仮面を実見する機会は二十年以上、実現しなかったのだ。

さて、上記の経緯を経て、ついに私は「いざなぎ流」の神楽をみることができたのだが、今回の神楽は、
地元と高知歴民の共同企画による「いざなぎ流の原像『博士』を求めて」の一環として町の中心部・大栃
にある「ふれあいプラザ」という公共施設の中で開催されたものであるから、「神楽」の一部は見ることが
できたけれども、「仮面祭祀」は実見できなかった。
いまもなお、いざなぎ流の仮面たちは神秘の森の奥に潜み続けているのだろう。

表記の仮面は高知県立歴史民俗博物館に展示されていた物部町・岡ノ内地区の仮面。同地区の神職家
に伝えられていたもので「天の神祭祀」に使われたらしい、という伝承があるという(その内容は不明)。
二十余年の事情を訴えて、特に一枚だけ撮影させていただいた。担当の方、ありがとうございました。

以前、見たことはあるといっても、記憶は薄れているし、当日はどれがどれで何がなにやらわからなかった。
つまり知識の集積が足りなかったのである。その後各地を訪ね歩き、多くの仮面を手にし、手元に残った
もの、また離れていったものなどから膨大な情報をいただいた。それはまさに「いただく」という表現が
ふさわしい、神意というか、神様からの贈り物のような情報の数々であった。
それをもとに、このいざなぎ流の仮面群を見ると、やはりすごい。凄いとしかいいようがない。
どのように使われたのか、どれがどんな神格・性格・用途を持っているのか、そしてそれはどこから来た
のか。それらのこともまだ解明されるには至らないまま、「いざなぎ流」の仮面祭祀そのものが消滅の
危機に瀕しているという。すでに長い年月、祭りは行なわれておらず、伝承者も減少して、起源・用法など
を知る人も少なくなっているというのだ。各地の「神楽」も「仮面祭祀」も難しい局面を迎えている。


<15>
いざなぎ流の仮面A九州の仮面祭祀との比較


「いざなぎ流」の仮面には、「山王」「山主」「太郎王子」「鬼神」「大蛮」「木樵り」「炭焼」「ジイ」「ババ」等の個性的な仮面がある。いずれも、素朴かつ原初的な造形のもので、しかも比類なく美しい。中には「能面」の影響を受けたものもあるが、むしろ「能面以前」の造形感覚が
そのまま引き継がれた仮面群といえる。名称をみると、「鬼神」「大蛮」は神楽の主祭神格の神、荒神などの
神格を有していると思われるが、「山王」「山主」などは地主神であり山の精霊神であろう。
「太郎王子」は「五行思想」「陰陽道」「山岳信仰」の混交。多様な仮面神が、
いざなぎ流の祭祀を彩っているのである。


@物部村「笹」の仮面


A物部村「久保沼井」の仮面

*図版@Aは「いざなぎ流の宇宙」(高知県立歴史民俗博物館・刊)より転載。


B物部村「久保沼井」の仮面。神棚に祭られている。


C物部村「別役瀬次郎」の仮面。

*図版BCは「仮面の神々―土佐の民俗仮面展」(高知県立歴史民俗博物館・刊)より転載。

いざなぎ流の仮面祭祀は、すでに長い間行なわれておらず、私も20年以上一度も実見の機会を得られなかった。
ゆえに、私は今後もいざなぎ流の仮面に出会えるかどうかはわからない。そこで、歴民の学芸員・梅野さんに旧知
のよしみで図版からの転載を了解していただいた。手間を省いたわけではないのでご了解下さい。

高知県には、「本川神楽」「安居神楽」などの古格を有する神楽が伝承されており、仮面も用いられる。大蛮、鬼神、木樵りなどの登場する演目があり、中国山地や宮崎の山地神楽との共通項の多い神楽群である。いざなぎ流の仮面もその一連の神楽群と同系であることは
あきらかである。まずこのことは前提として認識しておかなければならない。いざなぎ流の仮面が呪的で
原初的で他に類例を見ないものという先入観でみると、判断を誤りかねないし、妖怪系や
神がかり系のお兄さん、お姉さんたちの玩弄物になってしまうおそれがある。

さりながら、いざなぎ流の仮面が「怖い」ことはまちがいない。
上記@の「笹」の仮面は、現在は欠落があり7面しか残されていないが、かつては「十二のヒナゴ」とも呼ばれていたらしい。「十二のヒナゴ」とは神楽の御神屋の四方に張られる注連縄に吊り下げられる御幣と同じ名称であるから、強い呪力と神格を持つ仮面であることはあきらかである。十二のヒナゴ面は、おにぎりや杣道具を供えると山に入って木を切ったりしたという伝承があるから「山の神」としての神格も有していたのだろう。他の地域には「十二のミコトウ様」と呼ばれる仮面があり、物部川の淵にとどまっていたものを村人が拾い上げ、祀ったという伝承がある。この「ミコトウ様」とは「ミコ神」「オンザキ様」などと呼ばれる祖霊神のような神格だろう。さらに「式神」「五郎王子」などは太夫(祈祷師)たちが駆使した呪力の強い神だろう。これらの仮面を使って家や村、集落、お宮などの祭祀が行なわれたのであるから、やはり、「怖い」という印象は払拭されない。40年前から取材に入り研究を続けておられる小松和彦氏は、「そのころは宿もなく、民家に泊まり込んで取材したが、怖かったよ。夜は怖くて眠れないので原稿を書き、朝から昼にかけて眠った」と仰っておられた。

物部川流域では仮面を用いて「鎮め」を行なったという伝承は多く分布する。その代表的な事例を上げると、「鎮め」の祭りでは集落の人が地区の神社に集まり、御幣を立て、祝い歌を歌い、仮面の登場を待つ。仮面が出ると、その仮面は悪魔・流行り病のもと・人さらいなど「異形のもの」の役回りを演じ、他の鬼神などの面がそれを鎮めるという。最後に鬼の宝を貰い受け、舞を舞って終わる。すなわちこの事例には、祈祷・鎮め・荒神祭祀・舞神楽などの要素が混交しながら伝えられていることがわかる。そのほかにも多くの仮面祭祀があったと思われるが、
私は未見なのでこれ以上踏み込むことができない。多くは上記資料集によった。

九州の神楽の仮面祭祀の類型をみておこう。ただし、九州の仮面祭祀に「祈祷」「鎮め」などの要素はあまりみられない。



・北部九州には「火の王・水の王」の仮面が、「山人走り」などの儀礼と混交しながら多く分布している。
祭りの行列を先導し、神社や祭りの両脇を守護する。傀儡子舞「古要舞」の舞台の両袖を守護する仮面もある。


・熊本市南部に「火の王・風の王・水の王」の仮面があり天候・農事を占う。



・椎葉神楽や高千穂神楽では御神屋正面の祭壇(高天原ともいう)に神楽の奉納されている間中、仮面を飾る。


・高千穂町秋元地区には集落だけの祭り「妙見様祭り」があり、春の例祭では「滝の妙見様」の仮面が出る。この面は神楽には出ない。


・諸塚神楽に「三宝荒神」「舞荒神」「七荒神・八稲荷」などの荒神祭祀・稲荷祭祀がある。


・東米良中之又地区の「鹿倉祭り」では鹿狩りの神である「鹿倉様」の祭りがある。
鹿倉神社の周囲の十二の山の神に幣を供え、「鹿倉面」が出て鹿倉舞を舞う。鹿狩りの神事である。



・東米良銀鏡神楽では山の神・地主神などが出る「室の神」「七鬼神」「子すかし」「ずり面」があり
多様な仮面神が出る。「ししとぎり」は猪狩りの神楽で爺と婆が古式の猪狩りの様子を演じる。


・大隈半島内之浦の「夏越し祭り」では鉾に取り付けられた三体の仮面神が海岸へと行列し、
波打ち際に立てられ、その前で神楽が舞われる。


・南九州には「やごろうどん」と呼ばれる大人形の出る祭りが分布する。5〜7メートルの大人形が
40センチ〜70センチに及ぶ大仮面をつけ祭りの行列を先導し、祭りの場を守護する。
やごろうどんは隼人の王と伝えられる。

<16>
20年前のいざなぎ流「大山鎮め」のこと




・物部の中心地大栃と物部の山並み

「いざなぎ流」の大掛かりな祭儀のすべてを行うには一週間かかるという。「舞神楽」だけでなく、「鎮め」「祈祷」などの
様々な儀礼を行い、最後の「本神楽」「舞神楽」へと至るのである。その全体が「大神楽」という把握もできる。
宮崎の神楽の「大神楽」はその縮刷版というべきかもしれない。今年の諸塚村「戸下神楽」は10年に一度の50番に及ぶ「大神楽」を二日がかり24時間をかけて実行したし、同じく諸塚村「桂神楽」も10年に一度の「大神楽」を24時間かけて実行した。戸下神楽には「山守」という大神楽の時にしか行われない神事儀礼があり、桂神楽は神社の新築、村人の祈願などによって奉納される。いずれも24時間、二日がかりの大事業である。西都市「銀鏡神楽」は前日の神社での祭儀と「星の舞」という一曲だけの神楽、当日の神楽から狩猟儀礼「シシトギリ」へと続く一連の儀礼、翌日の「シバマツリ」まで、全体を行うには四日間かかる。これを毎年、実行している。今後、詳細に比較してゆくと、多くの共通項が見出せるだろう。



・物部村 岡ノ内の集落

物部では、1993年に10日間にわたる「大山鎮め」が行われた。以後20年間、このような大がかりな祭儀は行われていない。最後の宿となった民泊のご主人は、当時岡ノ内の郵便局長を務めていた人だったので、その模様を鮮明に記憶しており、詳細に祭りの全貌をお聞きすることができた。元局長は、
「あのとき、大山鎮めをして山が鎮まったから、その後は村に異変は起こらず、祭りをする必要がないのだろう」
と言っていた。この旅の最終日に、その最後の「大山鎮め」が行われたという岡ノ内集落を訪ねることができた。入梅直後の強い雨に村は煙っていた。


・物部村 岡ノ内から別役方面を望む

以下は元局長の話と「いざなぎ流の宇宙」(高知県立歴史民族博物館・刊)に記録された同館学芸員・梅野さんのレポートを要約。

1993年、岡ノ内から別役(べっちゃく)の山へかけて大規模な山火事が発生し、何日も火が消えなかった。その翌年の一年間に、この地域での山仕事にかかわる事故死者が7人も続いて出た。これは尋常のことではなく、火事で焼けた山の木の中に「山の神のご神木」があったため、山の神が怒り、祟りをなしているのだろう、という判断になり、地区の総意で岡ノ内集落が中心となって岡ノ内公示方神社で「大山鎮め」を執行した。
その祭儀は小松為繁太夫とそのお弟子さんたちが中心となって執行し、最後の別役での鎮めを伊井阿良芳太夫が行った。

当時の「式次第」が「いざなぎ流」祭儀の全貌を知る最良の資料なので大略を転載しておこう。

一番〜四番 清め、祓い、神の勧請
五番 祭文 恵比須、地神、荒神、土公、御世、伊邪那岐、山ノ神、水神、天下下、天神
六番 縁切り 氏神、天照大神、恵比須、荒神、地神、五行神、御崎、御子神、七夕、ほか多数の神々
七番〜十二番 呪詛の祓い 「式」の行い
十三番 湯の行い
 一番〜六番 湯神楽
 七番 祈願
 八番 神楽(舞神楽)
 九番〜十一番 鎮めと神送り
この後、神事・神送り

・以上が大略だが、上記の一番から十二番までの祈祷・鎮め・祓いなどの儀礼に三日間を要する。この時は、途中で太夫が浮かばれていない霊に遭遇し、事故死者や行方不明者がいないか山の捜索などを行ったが、見つからず、霊の鎮めをして次に移行したが、
それだけで三日間を要したという。そして、ようやく十三番以降の「神楽」に到達するのである。この「大山鎮め」は10日間かかった。
最終日は、太夫たちは関係者を集めて式典を行い、弟子たちはそれぞれの場所へ赴いて「棚」を設け、
「鎮め」を行った。この3時間〜4時間もかかる「鎮め」を終えて、すべての儀礼が終了したのである。

以後、村に大きな異変や不幸は起きておらず、したがって「いざなぎ流」の大がかりな祭儀も執行されていない
というのは、元郵便局長さんの語ったとおりである。

<17>
いざなぎ流狩人の秘法「西山法」とは



・物部の深奥部韮生川上流

いざなぎ流には、狩人の秘伝あるいは古式の狩猟法というべき「西山法」という古伝承が残されている。驚くべきことに、この「西山法」と九州・宮崎県西米良村の古伝承「西山小猟師文書」(柳田国男の「後狩詞記」の原本となった古文書)、東北の熊猟師「マタギ」の古伝承とに同系統と思われる伝承がある。
私の今回のいざなぎ流を訪ねる旅の目的のひとつは、その伝承が、現代の猟師に受け継がれているのかどうかということと、私が現在整理中の「豊後鹿猟師秘伝十二支方位法」がこのいざなぎ流にも残っていないかということ、の二点を確認することである。

まずは、「マタギ伝承」「西山小猟師文書」「いざなぎ流・西山法」が伝える猟師の古伝承の大略を整理しておこう。
<1>狩人の起源譚
 ・山姥のお産を助けて狩場を授かった猟師の話
 ・密教・修験道等の霊山の開祖を案内した猟師の伝承
 ・神山の存亡にかかわる猟師の奮闘(日光山演技など) 
 ・貴種(天皇家の一族、平家の落人など)の入山支援による巻物(諸国を自由に往来して狩りができる免状)の発行
 ・富士山麓および九州・阿蘇で巻き狩りを行った源氏の一党の支族などが入山
<2>狩人の掟・作法・禁忌など
 ・狩人集団の構成や掟、山入りの作法などが厳格に定めれている。
 ・禁忌(タブー)は狩りの豊猟・不猟、山の事故など生死にかかわる事柄が含まれている
 ・狩り言葉の遵守(山に入ったら里とは異なる言葉を使う)
 ・古人の伝承(その多くは口伝による)
<3>山の神祭りと魂鎮め
 ・入山時における山の神祭祀
 ・獲物が獲れた時の魂鎮めの儀礼
 ・獲物の捌き方、分配の方法
・「オコゼ」の信仰
 ・祝いの作法(山中で神楽を舞うことなど)


 
・石灯篭の上に石彫の鷹。小さな祠を守っていた。物部村五王堂にて。

以上を念頭に、いざなぎ流「西山法」を見ておこう。以下は毎回参照の「いざなぎ流の宇宙」による要約。

「西山法」とは猟師の法であり、いざなぎ流の分布地である物部川流域、高知県の山間部、徳島県祖谷渓を中心とした地域などに伝承されており、「西山猟師・東山猟師」を始祖とする起源譚は、上記他の地域とほぼ同じ構造の伝承である。西山法の中核は、熊を撃った時の「鎮め」の儀礼である。これも他地域の儀礼とほぼ同じなので、記述を割愛。詳しく知りたい方は同書をお買い上げの上、検証してください。
さらに西山法では、獲物を追って山へ入った犬が帰って来ない時の呪縛を解く法、山の魔群に祟られた病人を治す祈祷、
落とした鉄砲の玉を探し出す法などの小さなまじないなども多数あるという。


・物部の猟師さんと筆者

これらの情報を踏まえた上で、現地の二人の猟師さんにお会いすることができた。これも歴民の梅野さんの紹介によるものである。梅野さんとは前述したように20年余の空白期間を経ての再開だったが、その間に梅野さんは先輩たちの残したすぐれた研究データをもとに綿密な
フィールドワークを重ね、立派な民俗学者になっておられた。今後のいざなぎ流研究は彼の肩にかかってゆくことだろう。
梅野さんの司会進行によって、物部の猟師さんたちとの会談は順調に進んだが、情報としては、上記に記した事柄の物部版というべき話題ばかりで、とくに注意を引くような伝承や、新しいデータは抽出されなかった。個別の事例では、異伝や物部流の解釈、祈祷に関する儀礼などに細かな描写が多く、私も少々の狩猟経験があるので、猟師仲間としての会話は弾んだが、取材が進むにつれ、林道を四輪駆動車が走り、尾根を越えてトランシーバーを持った集団が行き来する現代の狩猟において、古式の狩猟法などを駆使する猟師はいないのだという実態が明らかになってきた。
―ふむ、物部でも、猟師の古伝は消滅寸前か・・・
なかば嘆息する思いで、私は「豊後鹿猟師秘伝十二支方位法」のことへと話を誘導してみた。すると最初は曖昧な対応だった二人の猟師の反応が的確になり、最後に、現役の一人が、自分の手のひらを出して見せながら、
―その日の干支にもとづき、この指の付け根と指と指の間の谷間とを数えながら、
獲物の逃げる方角を占う先輩がおった・・・
と明言した。
―あった!!これだ!!
たしかに、いざなぎ流「西山法」にも干支と方位に基づく狩猟法が存在したのである。ちなみに小松和彦先生も、
「その古い資料は見たことがある。この地方の猟師はいざなぎ流・西山法
すなわち方位法によって狩りをするのです。」と仰ってくださった。
私は、これを確認できただけで、十分な収穫であった。まだ日本の狩猟史に記録されていない狩猟法「十二支方位法」は、
ここから解明の一歩を踏み出すことができるのである。


・神祭りが行われる森

以下に以前このブログに書いた「十二支方位法」のことを再録・要約。

 
・画像は、十二支方位計と十二支方位図。

方位計は、私(筆者・高見)が二十五年ほど前に豊後英彦山猟師であった父から貰い、その際、十二支方位法と呼ばれる秘法を記録した。方位と数値を用いて鹿を狩る驚くべき狩猟法がここには記録されているが、その内容はまだ公開できない。右の図はインターネットからコピーした十二支方位表。これに数値が書き込まれ、今後の資料として公開する予定だが、九州の北部に伝わっていたこの狩りの方式が、
九州中央山地の中之又の鹿狩りにも伝えられていたのである。

十二支について、簡略に概要を記しておく。


「十二支」とは、天体の運行「天球」を天の赤道に沿って十二等分した、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称である。
起源は古代中国天文学に求められる。殷時代の甲骨文では日付を記録するのに用いられ、戦国時代以降は年・月・時刻・方位の記述、暦の作成等に利用された。原義は、天球を約12年かけて一周する木星の運行、四季12月にわたって成長・枯死・再生する草木の各相の象徴、
バビロニア天文学の十二宮の理論に十二種の動物を当て嵌めたもの等々の解釈がある。後に星宿信仰、
陰陽道や五行の理論を加えながら、東洋の哲学体系、自然科学、生活文化の骨格をなした。
上図の黄色の部分は「陽」を表し、水色の部分は「陰」を表す。緑の文字は「木」の月、赤は「火」の月、茶色は「土」の月、黄色は「金」の月、水色は「水」の月を表す。その月の森羅万象を大切にすれば、厄を祓い、豊猟に恵まれるとされる。各月は旧暦の月。*新暦は旧暦より約ひと月遅れとなる。

上図とこの文を読んだだけでは鹿狩り秘法の「十二支方位法」は利用できないが、私はすでにその秘密の数値を記入し終えている。ただし、不特定多数の猟師がこれを利用することについては、危険が伴い、ある種の動物の「種の絶滅」を招く恐れさえあるので、インターネット等では公開しないのである。今後、私は、信頼できる狩人一人ずつに会い、この法を図示した表を手渡すつもりである。山林地域が疲弊し、狩猟が衰退し、鹿や猪等の「獣害」によって消滅する村さえ現れ始めている現在、「狩り」が生態系の中の一つの仕組みとしての機能を回復することを願ってのことである。

*この方位法と図面を物部の猟師さんにお見せしたら、引退した老猟師は、
―うむ、早くこれを知っておればなあ・・・
と唸ったものである。「口伝」は原則として一子相伝。
誰にでも伝授・伝承されるものではない。

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(SINCE.1999.5.20)