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このコーナーの文は、加筆・再構成し
「精霊神の原郷へ」一冊にまとめられました

 黒い女面/
  黒神子


  猿田彦

海神の仮面

 王の仮面

 忍者と仮面

 鬼に会う旅

 荒神問答

米良の宿神

  道化

  翁面


 このコーナーの文は加筆再構成され
「空想の森の旅人」
に収録されています

森の空想
エッセイ


自由旅


漂泊する
仮面


空想の森から<1-4>

 由布院空想の森美術館
2018年5月20日再開!!

<1>

*この「空想の森から」は旧・由布院空想の森美術館」が発行していた同名の月報の続きとしてブログ形式で発信するものです。月一回発行の月報の時代からインターネットの普及へと大きく情報の発信手法が変化し、現場から瞬時に発信・発言できる時代が来ました。これに対応し、ホームページ、フェィスブックなどとリンクしながら進めてゆきます。
まずは「由布院空想の森美術館」再開!!の速報からお届けします。

【再開第一期企画展】 「神楽」と「仮面」の民俗誌
5月20日―9月30日
「仮面」と「神楽」を展示の核に据えた本格的なフォークアートミュージアム。神楽と仮面史の源流を訪ねる30年にわたる旅で収集された「九州の民俗仮面」、写真、書籍、動画などで構成される祝祭空間。九州脊梁山地の山深く伝えられてきた「神楽」。そこには国土創生の物語と土地神の物語が秘められていた。神楽と仮面神が秘めた「物語」とは、宇宙星宿・森羅万象・自然と人間界の融合・協調を説く壮大な叙事詩であった。

【再開第一回企画展】
三人展 会期5月20日―8月31日
高見乾司/絵画:MIYAZAKI神楽画帖
高見剛/写真:祈りの道と「仮面」の祭り
高見八州洋/竹工芸:竹と遊ぶ・竹と暮らす
各地で地域計画とアートの関連を模索しながら、神楽と仮面の研究を続け、神楽の場に通って絵を描く長男・乾司。祭りの場に通い、修験者と一緒に山岳を歩き、日出生台実弾演習の実態を追う次男・剛。竹を割り、竹を削り、編む仕事を一途に続けてきた三男・八州洋。幼い頃を過ごした山の村から、半世紀をともに歩き続けた三人が、空想の森美術館再開を機に合流。

【由布院空想の森美術館】
「九州の民俗仮面」300点と「アジアの仮面」150点を収蔵。「神楽」と「仮面」を展示と研究の核とした美術館として再出発。山と森の精霊たちの声を聴く、聖なる空間が再び湯布院の血に甦りました。

1986年から2001年へかけて運営を続けた「由布院空想の森美術館」が閉館して16年が経過した2017年秋、「あの空想の森美術館をもう一度、再開してほしい」というリクエストをいただきました。「おやど二本の葦束」を経営する橋本律子さんからのありがたい申し出です。その詳細は次回の「帰る旅―空想の森へ」に記しました。
再開される空想の森美術館は、解体寸前だった古民家を移築したもの。重厚な建築とその周囲を取り巻く竹のオブジェ、真正面に見える秀麗な由布岳などの景観を包括した創造空間としてゆく予定です。
閉館から再開に至る16年間にはさまざまな経緯がありましたが、私たちはそれを「時の造形」と記憶して、新たな出発をします。このインターネット空間「空想の森から」「森の空想ブログ」等で新旧のデータを掘り下げ、記録し、発信してゆきます。新緑がまぶしい由布院の五月、空想の森というアートを巡る冒険の旅が再開されるのです。

「九州の民俗仮面」とは、国家創生の英雄群像と古くからその土地に座す土地神を造形したもの。「神楽」に登場し、国の歴史やそれぞれの地域の物語を語ります。悪霊が宿るとして使用後は焼却・破棄されてしまう世界の仮面文化の中で、「神」として信仰されてきた日本の仮面は、数千年に及ぶはるかな「縄文」の記憶と現代の芸能文化を結ぶ歴史遺産でもあります。「仮面」を展示の核に据える時、その空間は、アジアと九州・日本を結び、精霊たちの声が響く幻想空間となって私たちを迎えるのです。

 
【由布院空想の森美術館の構成】

 □本館:古民家を移築した重厚な建物に「仮面」「神楽の写真」「神楽の絵」
などを展示。過去5年間の九州の神楽の映像記録と全国の神楽を訪ね
歩いた研究者の蔵書・資料などを収蔵した研究施設となります。
□企画ギャラリー:本館二階のスペースは高見乾司の創作空間。かつて空想
の森に集った創作家たちを再結集する企画展示室を兼ねます。
□写真工房:一階右手は「九州の祭り」「湯布院の町づくり」「日出生台の記録」など
高見剛の30年にわたる写真家活動の資料を収蔵し、撮影と写真作品の展示スペース。
□ミュージアムショップとカフェ:一階左手がショップ&カフェです。書籍とアート&クラフト、民藝、自然布&草木染め、日本の古美術作品などを展示販売。施設全体を
「日本美を極める」文人空間とします。
□竹のアート:施設の中を高見八州洋の「竹の灯り」が照らし、外では敷地内に自生
していた竹をくみ上げたオブジェが来館者を迎えます。建物を取り巻く空間そのものと、
そこで活動する創作家集団が空想の森美術館という設定です。


【インフォメーション】

名称:由布院空想の森美術館
住所:大分県由布市湯布院町川北平原1358
館長:高見剛
総合アートディレクター:高見乾司
◇入館料:大人500円 中学生以下は無料
◇TEL090-5940-0062(仮・高見剛携帯)090-5319-4167(仮・高見乾司携帯)

◇交通:大分自動車道湯布院インターから車で3分、JR由布院駅から車で5分


<2>
 *この「空想の森から」は旧・由布院空想の森美術館」が発行していた同名の月報の続きとしてブログ形式で発信するものです。月一回発行の月報の時代からインターネットの普及へと大きく情報の発信手法が変化し、現場から瞬時に発信・発言できる時代が来ました。これに対応し、ホームページ、フェィスブックなどとリンクしながら進めてゆきます。第二号は無事開館の報告とそれに至る経緯です。



【帰る旅―空想の森へ】
2001年に閉館した「由布院空想の森美術館」を再開するにあたり、その間の心象を記しておくことにする。過ぎ去った16年という歳月を限られたスペースに凝縮することは困難だが、採録した小文は、その間の心意を表象するものではないかと思われるのである。この文は、同館再開と同時に発刊される「帰る旅―空想の森へ」(花乱社)からの抄録である。

[千通の手紙]

 以前、「千通の手紙」という小文を書いた。最初、西日本新聞の連載コラムに発表し、その後「空想の森の旅人」(鉱脈社/2005)に収録されたその作品を転載する。

『「千通の手紙」
机の上に、いつも住所録を置いてある。
さほど筆まめではない私だが、毎年、年賀状や季節の挨拶をやりとりする相手、二十代前半までを過ごした郷里の友人、湯布院の町で小さな古民芸の店を開店していたころの常連客、個展や企画展の案内を差し上げる相手などの住所は、大切に保存しているのである。
二十二歳の時、郷里の画廊で油絵の個展した私に、予言者あるいは街角の占い師のような風貌で、苦みばしった珈琲を淹れていた画廊のオーナーが、絵の仲間や私の作品を観に来てくれる友人たちを観察した後、厳かに告げた。
―君は絵かきになるには不器用だし、金に縁のある男にもみえないが、友には恵まれている。大切にすることだ。
はじめての個展では絵が二枚売れただけだったが、私はその一言がとても大切なものに思えて、以来、ずっと友人に対する通信だけは欠かさぬようにしてきた。
その習慣がおろそかになっていた時期がある。「由布院空想の森美術館」を開館し、多くの来館者を迎えるようになってからのことだ。けれども、美術館の運営が行き詰まり、閉館に追い込まれようとした時期、「空想の森を湯布院に残そう」という運動が起こり、たちまち集まった千人に及ぶ支援者の名簿には、懐かしい友人たちや空想の森で出会った人々の名が連ねられていた。それがどんなにうれしかったか。湯布院から宮崎へと移転した後、私は住所録を見つめ、しばしば物思いにふけった。
―あの人もいる。ああ、彼も応援してくれていたのだ。この人とは、十年以上も会ってはいなかったのに・・・
机の上の住所録は私の宝物となった。
千通の手紙を出し続けることは、かなりの根気と、覚悟のいる仕事である。ささやかな収支に含まれる切手代の比重も軽くはない。それでも、折りにふれ、少しずつ発信することを心がけている。(中略)
宛名は、パソコンで印字せず、すべてペンで書く。
インクの色が紙に滲んでゆく。ほんの少しの時間、私は一人ひとりと再会をはたしている。』

[木に逢いに行く/2012年夏]

「由布院空想の森美術館」を閉館し、湯布院の町を去って十二年目の夏、空想の森を訪ねた。2012年のことである。特に用事があったわけではない。木に逢いたくなったのである。
記述が前後して恐縮だが、1986年に開館し、2001年に閉館した「由布院空想の森美術館」の15年を振り返る前に、このことから記しておきたい。

十二年前、空想の森美術館を閉館し、湯布院の町を去るとき、私は、自分で植え、育てた森の木々たちに、
――必ず、会いに来るからな。
と約束し、別れた。そのとき、森の木は、ざわ、ざわ、と揺れ、別れを惜しんでくれたのである。
約束は果たさねばならぬ。
 梅雨の末期の豪雨が九州北部を襲い、故郷の町(大分県日田市)の花月川が氾濫して、大きな被害が出たことが報じられていた。湯布院でも由布岳の山麓から流れ出た土石流が人家にまで達する被害が出たという。誰かに会い、見舞いの言葉を述べるという心づもりがあるわけでもなかったが、今、あの森の木々たちが、どのような姿になり、どんな風景を形成しているか、見たい≠ニ思ったのだ。
 宮崎から大分へ向かう海岸沿いの道は、東側の太平洋上空は青空が広がり、梅雨明けが間近いことを思わせたが、西方の米良から椎葉、高千穂へと連なる九州脊梁の山脈は、分厚い雲に覆われ、その雲が、猛烈な勢いで流れていた。その山の方角から、時折、叩きつけるような雨が降ってきた。車が、瀑布のような雨の中へ突っ込んで行き、しばらく走ってそこを通り抜けると、その先はからりと晴れていたりした。
 由布院へ着いたのは、日暮れ時だった。
 早速、湯の坪街道へ向かった。そこが、今からおよそ30年前に、小さな古道具の店「古民藝・糸車」を開いた通りである。町並みも、家々の立ち並ぶ風情も、 以前と大きく変わってはいなかったが、懐かしいような、見知らぬ町に迷い込んだような心情であった。通りに人通りはなく、閑散としていた。観光客でごった返した一時期の現象は収まり、町が静けさを取り戻したのかもしれない。あのころ植えた檪(クヌギ)の木が大木となり、町並みに落ち着きを与えていたことから、重厚で静謐な印象を受けたのかもしれない。
 思えば、リゾート開発ラッシュに直撃され、高層ビルやマンションの建設計画を阻止するため、「湯の坪街道デザイン会議」を結成して、黒塗りの車で乗り付けてくる開発業者と渡り合い、地区の住民たちと町並みの建築デザイン、店舗の構成や性格作り、植栽計画等を語り合ったことなどが今となっては懐かしい。地域全体で展開されたそれらの運動が、後に建築物の高さを制限する町条例の制定に結びつき、由布院という稀有な町の景観が保たれたのである。1980年代のことだ。その活動が空想の森美術館の設立へと結びつき、私は湯の坪を離れたが、病気での療養期間や各地を転々とした経歴を経て、ここで定着し、再起を果たした、いわば第二の故郷であり、現在に至る活動の原点ともいうべき場所が、変遷を繰り返しながらも、こうして実力を蓄え、美しい景観を保持しているということは、嬉しいことであった。
 しかしながら、湯の坪街道は大急ぎで通り過ぎた。
もしも、古い知り合いにでも会ったら、語るべき言葉が多すぎ、そして涙があふれそうで、少し不安だったのだ。

 湯の坪から空想の森へと向かう鳥越の坂道は、景色に大きな変化はなく、一気に時間を二十数年前に逆戻りさせた。美術館の建築工事開始から開館と運営、客の送り迎えなど、毎日のように通い続けた道である。
 空想の森美術館開館一年目の歳末、私はその年の税金を払えずに、大分市にある税務署まで支払い延期の手続きをしに行った。その途中、行きつけのアンティー クショップで小さな木彫りの人形を買った。税務署では、無理のない納税方法を教わり、なかば同情されたような、励まされたような格好となり、帰ったのだが、私は、この鳥越の坂道を上りながら、静かに壁に凭れて虚空を見つめ続けている一個の人形のような存在になりたいと願ったものだった。
けれども、事情は それを許さず、その後は疾風怒涛のごとき十五年間が過ぎ、そして由布院を去ってさらに十二年が過ぎて、いま、こうして私は森の中の坂道を上っているのである。
 鳥越の坂を登りきると、そこには大きな森があった。二十八年前、すなわち空想の森美術館建設当時および開館直後から植え込んだ木々は、見事に成長して、美しい森を形成していたのだ。切り払われ、開発予定地となっていた土地に立ち、スケッチをし、それをもとに建築図面を起こし、建設と同時に植栽した木々の、 根の形もその張り具合も、切り落とした枝の太さも細さも、残された枝の伸びてゆく方向までも私は熟知している。その多くは、スタッフとともに裏山から引き抜いてきて植えたものだ。山桜、欅、檪、小楢、樫、藪椿、青?(アオダモ)、山法師(ヤマボウシ)。いずれも、由布岳に自生する樹種だ。建設工事現場に横倒しになっていたものを、担いできて植えたら根付いたものもある。
 それらの、見事に生長した樹木たちが、いっせいに揺れ、ごおっと音を立てた。
 この場所を離れた後、私が消費した十二年という時間は、この一瞬を体験するためにあったのかもしれない。

[帰る旅]
 2016年春、幾つもの縁が重なって郷里の村(大分県日田市小野地区)で「小鹿田焼ミュージアム溪聲館」という古陶の美術館を開館することができた。古い仲間たちが決断し、由布院空想の森美術館旧蔵の資料をまとめて展示する空間を得たのである。
 設立の主旨を要約しておこう。
 
 2016年7月20日、「唐臼」がのどかに土を挽く音を立てる小鹿田の里の近くに「小鹿田焼ミュージアム溪聲館」が開館した。同館は、10年ほど休眠状態となっていた同地「ことといの里」の施設の一棟を借り受け、リニューアルして、小鹿田焼の古陶約300点を収蔵・展示する研究・交流施設としたものである。
中核をなす収蔵品は、旧・由布院空想の森美術館(1986−2001)のコレクション(現在はギャラリー金次郎/文人館・高見俊之所蔵)、ギャラリー渓声館コレクション(梅原勝巳所蔵)、日田市の個人コレクター(匿名)の寄託品によって構成される。約30年にわたり、散逸を惜しみ、郷土の文化遺産と位置づけて収集・研究を続けてきた仲間たちの活動が結実し、小鹿田焼の古資料が里帰りを果たしたのである。
小鹿田焼は、昭和二年、民藝運動家・柳宗悦に見いだされ、その後、英国の陶芸家・バーナードリーチ氏を伴った柳氏の再訪により、「民藝」としての評価はゆるぎないものとなった。小鹿田焼は、日常の生活用具を作り続けた窯であるから、製品は、製作後すぐに販売され、地元に残る作品は僅少である。生活の中で使い続けられるため、破損や需要の変化による制作の終了などによって市場から消えてゆくものも多い。しかしながら、小鹿田の里の周辺や日田の町には、数寄者・文人・愛好家などによって愛玩され、また日々の暮らしの一部として大切に使い続けられ、伝来・収蔵されてきたものも存在する。北部九州修験道の拠点「英彦山」の東麓に位置し、「天領」として栄え、「咸宜園」という教育施設を有した町の歴史が、小鹿田の焼物をも包含したのである。
「小鹿田焼ミュージアム溪聲館」はこれらを俯瞰しながら、小鹿田焼のもつ魅力と歴史的・文化的価値を把握し、収集活動と展示・研究活動を進めてゆく施設としたものである。
 
 私は同館の開設を機に、宮崎から高千穂・阿蘇を経て日田へと向かう機会が増えた。4時間半〜5時間の行程である。
 高千穂を通り過ぎて、阿蘇の山岳が見え始めると、風景そのものや空気感が変わる。南九州とは違う文化圏に入ってゆく感覚である。草原の向こうに、噴煙を上げる阿蘇山を望み、雄大な外輪山を走って小さな集落が点在する渓谷沿いの道を通過する。途中で薬草を採集したり、温泉に入ったりしながら、はるばると山路を越えてゆく。
 私はこの小さな旅を「山旅」と呼ぶ。
 「山旅」とは、登山者が、険しい山岳を登走し、山に寝てまた次の山を目指す旅のことをいうが、旧式のワゴン車を飛ばしてゆく私の旅も現代の山旅に加えてもらっていいかと思うのだ。黒づくめのトヨタカローラ・プロボックスという車種は、ビジネスマンや商店の販売員などが荷物運搬に使うために設計されたものだから、見かけは無骨だが、頑丈で、走りは軽快だ。咲き始めた草の花を一枝、運転席の横に置いたジュースの空き缶に挿し、風になびく花びらを愛でながら、重畳と連なる山並みを走破する。
 日田へ通う日々を、私は「日田へ帰る」と言い、また宮崎へと戻るときには「宮崎へ帰る」という。生まれ育ち、晩年になって再び新たな企画を立ち上げた土地と、由布院空想の森美術館閉館後に移住し、良い仲間に恵まれた南の地と、帰るべき故郷を私は二つ持つことが出来たのである。
 その九州の中央山岳地帯を走り抜ける旅の過程で、一本の電話を貰った。 2017年5月のことである。同年4月に上梓した書物「神楽が伝える古事記の真相」(廣済堂出版)を紹介する新聞記事がそのきっかけとなったものである。
――記事を読んだよ。元気で頑張っていたのね。うれしい。
この手の電話は、折々にいただくことがあるもので、さぼど珍しいことではない。が、そのあとに驚くべき展開が待っていた。
――わたしもね、太宰治ゆかりの旧家を湯布院に移築して、太宰治文学館を作ったのよ。
という内容は、少なからず意表を突くものだったから、私は思わず
――それは嬉しい、太宰治の文学が僕の文学修行の出発点といえるものだから、すぐに見に行く。
と答え、ただちに出かけた。
 太宰治の初期の短編「走れメロス」(当時の国語の教科書に載った)こそ、中学から高校へかけて多感な時期を過ごした私たちの仲間に共通していた友情と信頼の感覚であった。ある年の夏、私は転校していったかつてのクラスメートと会う約束をしてその場所へ行ったが、相手はそこにいなかった。でも、彼は必ず来る、という確信があったから、私は待ち続けた。すると彼は夕刻になって、現れた。何をするという目的もなく、ただ漠然とした「会おう」という約束だけだったが、私は、ほぼ半日その場所で待ち続け、友はその約束を忘れずにやってきたのである。「走れメロス」が投影されたわけではなかったように思うが、山の仲間の「約束」というものは、そのようなものだ。それゆえ、王に直言し、処刑されることをも怖れずに友との約束を守って暴虐な王のいる庭へと駆けつけるメロスの純朴な魂と、太宰の叙情的な文に感応し、少年たちは「青春の熱」というべき価値観を共有したのである。
 湯布院へ移築された太宰治ゆかりの古民家というのは、東京世田谷区にあっ下宿「碧雲荘」である。太宰が駆け出しの作家だった昭和11年からおよそ 7か月間暮らし、代表作「人間失格」の基になった作品もここで執筆された物件だという。土地が売却され解体された建物の引き取り手がなく、保存が危ぶまれていたこの建物を買い取り、「文学の森」として再生させたのは湯布院の旅館「おやど二本の葦束」を経営する橋本律子さんである。この快挙は全国紙でも取り上げられ、話題になり、すでに多くの太宰ファンが訪れる名所となっている。私は、この建物を見せてもらい、少年時代を追想したり、その後に読んだ太宰作品を懐かしく反複したりした。
 その夜、橋本さんの経営する瀟洒な宿で長い話をした。彼女は、由布院空想の森美術館の隣接地で同時期にペンションを開業したのだったが、多難な時期を経て現在の旅館業にたどり着き、懸命の努力を重ねて成功させたのである。私も、故郷・日田の町での美術館の開館と、刊行20冊を数えた著作を一つの区切りとして、人生最後の目標は、「空想の森美術館」の再開である、と言った。湯布院を去るとき、当時学芸員を務め、共に苦労した甥の俊之と交わした約束がそれである。すると橋本さんははらはらと涙を流し、
「それ、太宰治文学館の隣ではだめ?」
と、驚くべき提案をしてくれたのである。
「敷地と建物はわたしが用意する。もう一度、湯布院へ帰ってきて、あの空想の森美術館を再現してほしい」
というのが彼女の主旨である。懸命に働き、現在があるのも湯布院という舞台があったおかげ、その恩返しの意味も含め、娘が世話になり、私たちが好きだった空想の森美術館が再建できるのなら、そのお手伝いもしたい、というのである。娘さんの橋本千秋さんは、空想の森美術館に勤務した時期があり、本書と同時発刊の「新版・火の神山の神」にも登場する。
「太宰治文学館・文学の森」の隣に再開される「由布院空想の森美術館」。
このまるで「天の声」のような提案に、私は
「やりましょう」
と即答し、開館へ向けたプロジェクトが発足した。
 千秋さんもこのプランには大賛成であるという。思えば、「小鹿田焼ミュージアム溪聲館」の開館も、宮崎へ移転した私を気遣い、ヤマメ釣りを口実に訪ね続けてくれた梅原勝巳君(現・同館館長)と釣友の千原草炎君との交友から生まれた企画であった。縁とか約束とかいうものは、「とき」が熟せば、当事者たちが思いもかけぬ形で実現に向かうものなのであろう。
 私の帰るべき地は、三つに増えた。父祖の地・日田、癒しと再生の土地・宮崎、そして、激動の日々を過ごした湯布院「空想の森」へ。当時の湯布院と、現在の湯布院の町とでは、大きく事情が違っていることは、私も承知しているが、かつて「東洋の理想郷」が実現できると信じて活動した仲間たちが、頑強に根を張り、生き続けていることも確かだ。この一点を手がかりに、私は湯布院へ「帰る」のである。そこで何が出来るかは、歩きながら考えることにしよう。



<3>
兄弟三人展で空想の森美術館再開の幕開け
高見乾司/絵画
高見剛/写真 高見八州洋/竹工芸




                  【高見乾司:絵画/MIYAZAKI神楽画帖 絵が生まれるとき】

「神楽の画家」で知られる弥勒祐徳(みろくすけのり)先生は、御歳98歳。今も神楽の現場に通い、一晩中、舞い続けられる神楽を描く現役の画家である。私も時々、一緒に並んで描く機会がある。普段は温厚で優しい弥勒先生が、神楽を見ながら絵筆を走らせる時は、まるで神楽に降臨する「鬼神」か「荒神様」のように厳しいお顔に変貌する。
ある年、南国には珍しい大雪が降り、御神屋(みこうや)が雪で真っ白に埋まったことがある。御神屋は隣接する公民館の中に移されて、神楽は舞い続けられたが、なんと、明け方まで、弥勒先生は戸外で100号の大作を描き続けておられた。私はその姿を
――ここにも神楽の神様がいる。
と、室内の柱の後ろに隠れるようにして拝んだものだ。
その弥勒先生が、
――夜中を過ぎると、神楽の神様が降りてくる瞬間がある・・・
とおっしゃる。
――その時が、絵が生まれるとき≠ナある。
ともいう。
弥勒先生の筆から描き出される「鬼神」や「荒神」「獅子」などは、素朴でどこか懐かしい「森の精霊」のようである。あるいは、弥勒先生その人が精霊神のごとき存在なのだろう。
私も、弥勒先生のおっしゃる「神楽の神が絵筆に乗り移る瞬間」という呼吸はわかる。一晩中、舞い続けられる神楽を描いているうちに、いつしか、その神楽の場と同化し、無心に筆を動かし続けている自分がいる。その一瞬の空気感の中で、一枚の絵が得られるのである。それが弥勒先生のいう「絵が生まれるとき=vなのであろう。



2
                       高見剛:写真/祈りの道と「仮面」の祭り

人類はいつごろから祈る行為を始めたのであろうか。
日本列島では、縄文時代の「祈る土偶」や「仮面の土偶」などにより、数千年前から、祈りの儀礼と仮面祭祀は行われていたことが推定されている。そして、現在も全国各地で、様々な仮面を使用した祭りは行われている。
私は、お釈迦様の生誕地や古い形のチベット仏教が現存している、インドの北西に位置するラダックにも出かけた。チャムと言われる仮面祭を見たかったからだ。大分県の国東半島では、修正鬼会と呼ばれる仮面祭がある。どちらも、寺院で僧侶が行う祭りである。アジアの祈りの道と仮面の祭りは、「九州・日本」の祭りとどこかで通じているように思う。
各地に分布する「神楽」は、原始宗教から古神道へと変遷しながら伝承された。八百万の神々が人々に寄り添うために仮面神となり降臨する。すべては、人々の健康と平安、五穀豊穣、国家鎮護などを祈る儀式であろう。
今回は、大分県国東半島で昨年(2017)行われた、六郷満山開山1300年記念の峯入り修行と、今までに取材した仮面祭等から厳選し展示する。
由布岳山麓にあった旧・由布院空想の森美術館が閉館したのは、2011年。美術館のメインコレクションであった「九州の民俗仮面」はすべて旅立っていったが、15年間展示し研究、調査した事が私の中に蓄積し、以後も仮面の収集と仮面祭の取材等は継続していた。
このたび、橋本律子様のご支援により由布院空想の森美術館が再スタートとなったのも、兄・乾司が宮崎県内各地の神楽の絵を描き、村人と交流しながら、仮面と民族のルーツを研究調査し続けたからであり、二人の執着があったからこそ再び開館できたのであろう。ここでまた私たちは合流し、さらなる次元へと歩みを進めることになる。



                      【高見八州洋:竹工芸/竹の声・天の声】

或る日、道具屋へ向かう車中、
一緒に竹の仕事をしている妻とは口を利かなかった。

前日、賭け事のお金を無心する私に
目の出ないときは止めたほうがいいという妻と
仕事が行き詰って行き場のない気持ちの私と
お互い気持ちが行き違っていた。
道具屋に着くと、主人と鋸の話になった。
手作りの鋸と使い捨ての鋸の違いを問う私。
主人は、挽いた時の気分が違います、
と言っておくから持ち出してきた鋸を見せて
ニヤリと笑った。
横で会話を聞いていた妻は、
その鋸を買うと言い出した。どこにそんなお金があるというのか。
帰りの車中、そのお金があればもっと増やせたかもしれない
と思う私の心を見透かすように、
妻は賭け事でわずかなお金をもうけるより、
この鋸で一億稼いで、と笑った。
それじゃあ、250歳まで働けばいいのか
今度は二人で笑った。


<4>
紹介記事


Copyright(C)1999 by the YUFUIN FANCY FOREST MUSEUM OF ART
森の空想ミュージアムホームページ(http://www2.ocn.nejp/~yufuin以下)
に含まれるすべてのデータについて無断で転載・転用することを禁止します。

◆リンクについて、非商用目的なものに限り自由です。リンクを張られる際は
takamik@tea.ocn.ne.jpまでご一報ください。編集・高見乾司

(SINCE.1999.5.20)