インターネット空想の森美術館
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ギャラリー高倉とかかしアート <1> ギャラリー高倉オープンの日 ・写真は1972年頃のものだと思う。大分県日田市アマチュア絵画グループ。 右から三人目が筆者(高見乾司)。まだ髪の毛が黒々。 当時の西日本新聞日田玖珠版に掲載された懐しの一枚。 この頃、「若者たち」というフォークソングが流行った。 ――君の行く道は 果てしなく遠い なのになぜ 君は行くのか そんなにしてまで・・・ 歌詞は平凡で甘ったるく、こうして文字に置き直すと脇腹辺りがこそばゆくなるのを覚えるが、メロディーと男性ボーカル四人によるハーモニーが綺麗で、なにより、その時代の空気をよく表していた。なにしろ、浪花節と演歌、それに続く歌謡曲、対極に位置したロカビリーとビートルズなどから、一気に、何気ない「日常」を歌い、平和や反戦などのメッセージが込められたフォークへの変換は、若者の心を捉えたのである。私たちの絵画教室の隣のホールで、ブレイクする前の井上陽水が歌っていた。私たちは絵の具で汚れた手を拭きながら、その甲高い声だが遠くまで良く透る彼の歌を、楽屋裏を通り抜けて聴きに行った。彼は、「傘がない」と歌っていた。このような「ことば」が「歌」となるということが新鮮であった。この写真を見ると、よき仲間に恵まれ、良く遊び、 勉強した青春時代のことが走馬燈のようによみがえってくる。 ・写真はギャラリー高倉と展示風景 私の左隣(右から二番目)が高倉誠二君。地元の役場を勤め上げ、定年退職を機に自宅の蔵を改装し、「ギャラリー高倉」としてオープンした。生涯の念願を果たしたといえる彼のギャラリーのオープニングを飾ったのは、実弟で写真家の故・高倉幸生君の写真作品。幸生君は、私たちと一緒に「由布院空想の森美術館」を立ち上げ、写真美術館「フォト館」の館長を勤めた仲間だが、持病の心臓病により急逝した。彼のシャープで情感豊な写真は、現代社会にこそフィットする作品群であると私はしみじみ想う。実兄の手によって、生家にこのような形で残され、展示されて、幸生君も本望というものであろう。 ・写真は高倉幸生作品集より このギャラリー高倉がある天瀬町本城地区に「本城楽」という祭りが伝わっている。誠二君もその伝承者の一人である。今日は、その祭りを見に、久しぶりに故郷の秋を訪ねる。 現在、当時の仲間「八騎会」の面々が集まり、ギャラリー高倉のオープンを祝って、「ふたたび八騎会展」(10月4日〜26日)という展覧会を開催中。教育家、画材店主、画家、書家、漆芸家、家具デザイナー、公務員、農家など、八人はそれぞれ道を分け、あっという間に四十年という時が流れ去ったが、いずれも一家を成し、「老成」というべき時 を迎えている。今回、久しぶりに8人の作品が揃っているという。 <2> 本城「くにち楽」にて 「猿田彦」。 地元では親しみを込めて「天狗さん」と呼ばれる。祭りを伝えてきた「金凝(かねこり)神社」に、北部九州に幅広い分布をみせる「火の王・水の王」と同系の仮面(中世〜江戸初期頃のものと思われる)が保存されているから、古くは、赤・青一対の鼻高面「火の王・水の王」が祭りを先導したものだと思われる。祭りの古形がここに残されている。 子どもたちや村人が集まってきた。のどかな山里の午後。 祭りの伝承者たちものんびりと村道を歩いて来る。すでに、お神酒をいただき、足取りがゆるい。右が前ページで紹介した高倉誠二君。かつての美青年は、神社の神紋入りの紋付を着て、堂々たる風格。子どもの頃から参加しているという彼は、この祭りの全演目を習得しているという。 今回は囃子方(笛)の担当。 祭りの行列が出発した。これを「道楽(みちがく)」という。棒術の一行を天狗さん(猿田彦)が先導する。太鼓は御幣の付いた撥で子どもが舞を舞うように打つ。佐賀平野や島原半島で見た「浮立」と同系の太鼓である。鉦を打ちながら稚児行列が続く。 この賑やかな一行を七福神が囃しながら行く。 <3> 七福神がはやしたて、祭りの行列が行く 「本城くにち楽」では、「お仮屋」の前を出発した一行は、 天狗さん(猿田彦)に先導され、神社へと向かう。 「五馬くにち楽」の概要をみておこう。 五穀豊穣を願う秋祭り「五馬くにち楽」は、約1週間にわたり、天瀬町五馬の四地区で行われる。金凝神社の「本城くにち楽」、老松神社の「出口くにち楽」、玉来神社の「五馬市くにち楽」など五馬地区に伝わる三社の秋祭りで、百数十年の伝統を誇る。天狗、杖楽衆、稚児、コモラシ(子カッパ)、七福神などが山里の集落を練り歩くのである。 「本城くにち楽」の道中では、天狗さんが重厚に行列を先導し、音頭をとり、七福神がはやし立てる。天狗さんが子どもを抱き上げるなどの交流もある。本城くにち楽の七福神はのどかで愉快で村人と仲良しの神様たちである。 本城地区・金凝神社には、「火の王・水の王」と思われる古面、大分県指定の重要文化財の古面(王面)なども伝わっていて、古い仮面祭祀があったことをうかがわせる。五馬地区の「くにち楽」の起源は百数十年前となっているが、それ以前に、古式の祭りがあり、江戸期に流行した「五馬楽」へと移行したものであろう。本城以外では「神楽」の出る地区もあり、「天狗さん=猿田彦」が「荒神」と呼ばれる地区もあるということだから、 そのことが推定できる。 この五馬の里には、五馬姫という女神がいたといわれ、古代の記憶と信仰の深さを伝える遺跡群がある。すなわち、阿蘇外輪山・九重連山へと連なるこの広大な光源台地には、かつて古神道から仏教に至るまで、民衆の中に信仰が生きていた。江戸末期から明治へかけて、年貢の負担に耐えかねた地区民が起こした大規模な一揆は、民衆の怒りと神仏への敬虔な信仰に裏打ちされたものだろう。祭りは、地域の歴史を映しながら、 あくまでものどかに、ゆるやかに続く。 道楽の一行が金凝神社に着くと、神社の境内に舞い入る。これを「入端(いりは)」という。そして境内で「庭楽」が奉納される。庭楽には五穀豊穣を祈る儀礼が含まれている。古くは「日乞い」「雨乞い」などの祭りもあったらしい。その片鱗は「天狗さん=猿田彦」の所作や七福神の行なう散米、「杖楽」などで窺い知ることができる。庭楽が終わると「出端」によって再びお仮屋へと下る。お仮屋で神輿とともに一泊。この夜、盛大な芸能大会があり、翌日、お上りで再び一行は金凝神社へと戻って、祭りは終わるのである。 今年も無事でゆたかな秋が来た。 <4> これは愉快、案山子・たんぼ・アート 橋の上から、今にも落ちそうな格好で川を覗きんでいる少年とその両親と思われる三人組は、「案山子(かかし)」である。野球のユニフォーム姿の少年(これももちろん案山子)は、何を探しているのか。 ・ギャラリー高倉への道とギャラリー前のテラスでくつろぐのも案山子、室内は「ふたたび八騎会展」 大きな木の下の祠の前でちょっと一服している老人たちが、私が訪ねようとしている「ギャラリー高倉」への道を示してくれる。川沿いの土手には、巨大な大根引きをする一団(犬たちまで加勢している)や、農作業をする人々、広場で遊ぶ子どもたち、さらには昔懐かしい土木作業「ヨイトマケ」の場面まで、趣向を凝らした案山子たちが並んで、道行く人の眼を愉しませている。 そしてこれは、「農」の風景ではなく「アート」なのである。 今から25年ほども前のことになると思うが、美術家・岡山直之君が、大分県山香町(当時)で「農はアートである」という企画を行なった。岡山君は、初期の湯布院町・町づくり運動に関連し、当時私が住んでいた「湯の坪街道」に石の彫刻を設置してくれたり、「由布院空想の森美術館」(1986-2001)での企画、各地の地域美術展の提案と実践など、活動をともにした仲間である。 その時、 「百姓仕事を芸術というのならば、肥桶も山に並べられた椎茸の原木もアートの範疇であるか」 という議論が噴出した。私も半ばそれに同調する気分だったが、なにはともあれ、岡山君のする仕事にはなにか仕掛けがあるに違いない、と思って現場を見に出かけた。 だが、そこで行なわれていたのは、ただの稲刈りだった。 「これは、普通の農作業ではないか」 とばかりに私も稲刈り鎌を手に、刈り進んだ。たちまち懐かしい稲藁の匂いに包まれ良い気分となったが、どこにも「アート」は見えて来なかった。しかしながら、実はその手順に仕掛けがあった。 稲はたんぼの四方から刈り取られ、次第に田の中央へと向かってゆく。 最後に、5メートル四方ほどの稲を刈り残したところで、 「ここで、やめてください」 と岡山君が号令した。そして彼が説明する。 「この田んぼでは、土起こしから種まき、田植え、除草、そして今日の稲刈りまで、一切の農薬を使わず、手作業で稲作りを行なってきました。その成果がこれです。」 と彼が指差したその先には、夥しい虫たちが集まっていた。 「虫がここにいるということは、この稲が健康であるということの証しなのです。」 という彼の言葉に、皆が頷いた。作戦は、岡山君の完璧な勝利であり、これがいわゆるコンセプチュアルアートというものであると私たちは始めて認識したのである。なおかつ、岡山君は、その「図形」と周辺の風景も鑑賞に値するものだという提案をした。世の中が「バブル景気」と呼ばれた好景気に沸き、山や森を切り開く乱開発が続き、有機農法の農業者がまだ 害虫のような扱いを受けている時代であった。 それから、ぐるり、ぐるりと時代が巡った。およそ二十数年の年月を経て「田んぼアート」や「案山子アート」が各地で同時多発的に行なわれ、地域活性化の手法の一つとして定着し、客を集めているのである。当時、一緒に活動した仲間たちが、現代美術の騎手として、あるいは地域美術展の企画者として活躍しているのも頼もしいことだ。 ・上の写真二点の点景人物はすべて案山子。下左の写真の前方を歩いているのは見物客。 いつの間にか案山子の人数(本数)が増えていると思ったら、それは見物に来た近所の人だった。農作業のおばちゃんが案山子と間違えられたというエピソードもあるらしい。 案山子が里山の田んぼの脇に一本足で立っているときには、それはただの「鳥追い」の人形に過ぎない。そしてそれが、鳥を追い払う能力を有していることを信じる人は皆無であろう。だが、一本足の案山子とは、本来「人形=ヒトガタ」であり、呪力を持つオブジェであった。だから、田の脇に立っているだけで、なんとなく、邪悪なものから大切な収穫物を守ってくれるものだという標識のような存在として田舎の風景に馴染んできた。「かかし」の語源には『鳥獣除けに獣肉や鳥獣の毛などを焦がして串刺しにして地面にたて、その臭いを嗅がす≠アとからきたものとか、鹿驚≠ニ表記するように獣を脅す装置、あるいはシメ・ソメ≠フように結界を示す語義』などがあり判然としないが、「山を案じる子」という文字表記は、愛らしく好ましい。 その案山子が近年、「アート」としてさまざまな表現技術を付加され、「展示」される事例が増えてきた。本来の「結界・威嚇・呪符・祈り」等の機能に、新しいオブジェとしての価値観を加え、現代のアートシーンに参入してきたのである。 この企画を実行しているメンバーの一人に「ギャラリー高倉」のオーナー・高倉誠二君も加わっているという。彼は町役場を勤め上げた公務員だったが、若い頃、私たちと一緒にアマチュアの絵画グループ「八騎会」で活動した経歴があるから、役場での仕事にもその感性が反映され、今回の案山子プロジェクトやギャラリーの開設などに結びついたのだろう。 高倉君の話によると、この案山子プロジェクトには凄腕というか、達人というか、そんなレベルの仕事人がいて、毎回、工夫を凝らした作品を出してくれるのだという。それは、農作業や山仕事に精通した人の練達の技と、自然を相手に暮らす日々の中で培われた鋭い感覚のひらめきに裏打ちされたものらしい。私はこの話を聞いて、ここにこそ「巧まざるアート」の実在と「アルテ=アート=アーティスト=熟練の工人」という本義が生きていることを感受し、四半世紀前に岡山直之君が提案した「農はアートである」という定義が普遍化しつつあるのだと思い、さらには、「案山子」「田んぼ」「農村風景」などがいちいち芸術作品とまではいわなくとも、郷土の文化遺産の一つとして認知される日が来るであろうことを確信したのである。 <5> ちょっと寄り道、祖母山麓の午後 郷里(大分県日田市)の祭りとグループ展を見た帰り、ちょっと寄り道をした。日田から小国、そして阿蘇外輪山を走り、大観峰を下って高千穂へと向かう道は快適で、芒の穂波が高原の風に揺れていた。その少し切ないような秋風の香りに誘われて、 祖母山の方角へとハンドルを切ったのである。 祖母山(そぼさん)は、宮崎県(西臼杵郡高千穂町)と大分県(豊後大野市、竹田市)の境に聳える、標高1,756mの山で、九州脊梁山地の高峰である。高千穂盆地の東方に位置する。古代高千穂郷は祖母嶽信仰が篤く、そもそも「祖母嶽」という山名は、神武天皇の御祖母君「玉依姫」を山頂付近の岩窟に祀ったことによるという。東方は大野川流域文化圏で、宇佐地方の古代氏族大神氏の移動の経路(宇佐→大野川→緒方→高千穂説)と高千穂文化の接点を考える時、祖母嶽信仰は重要な手がかりのひとつとなるものだが、いまだ本格的な研究はなされていない。私もまた、この領域に踏み込むのははじめてのことである。 こんなところ。左手奥は傾山。車を路肩の脇に停めて昼食。鹿の鳴き声が聞こえ、 深い渓谷の底から、滝の落ちるような水音が聞こえた。 熊本県、大分県、宮崎県の3県にまたがる祖母連山は、火山活動によって形成された山であるため巨大な岩石が随所に見られ、登山ルートは整備されたものから獣道まで多種多様である。ハイキング感覚で楽しめる手軽なコースから、断崖を登りながら進むコースまであるという。祖母山周辺は鉱物資源が豊富で江戸時代から昭和中期まで採掘が行われていた。20年ほど前に、民俗学者の谷川健一氏をご案内してこの辺りを通過した時、祖母山系の「鉄」と「地名」「神社伝承」「神楽」などを結び合わせて考えると、古代高千穂文化の謎に迫ることができるのではないか、という話をしたら、谷川先生は 「君、それは面白い視点だよ。ぜひ仲間を募ってやりなさい」 と仰ったが、私はまだそれを果たさずにいる。独自の視点と手法で「地名民俗学」というジャンルを開拓した谷川氏もすでに異界の人となった。 ・紅葉は始まったばかり。 祖母嶽神社一の鳥居と祠。その向こうに榧(カヤ)の巨樹。 ここから先は歩いて登るべき領域。 <6> 祖母山麓で見つけた花 祖母山の山麓へ向けて登る山道の脇で、珍しい花を見つけた。芒の群生が途切れた草むらの中にその濃い紫色が目に止まり、リンドウの花かと思って近づいたら、その花びらは「春リンドウ」ほどの大きさしかなくて、しかも丈が30センチ〜40センチほどのものがある。葉っぱと花の形はセンブリに似ているが、センブリの花は白で、せいぜい15センチ〜20センチほどの草である。葉を一枚、噛んでみたら、苦い。センブリと同じ味だ。はじめて出合った花である。すぐ横に「白山菊」が咲いていた。 ・これです。左の写真は少し離れた位置から。遠目に見るとリンドウに見える。 右は祖母山を背景に至近距離から。 一茎だけ頂き、山の水を入れたペットボトルに突っ込んで、車の中に。家で一人留守番をしている老母(86才)への土産だ。山で暮らした子どものころ、鹿猟師だった祖父と父が、狩りから帰って来るとき、リンドウの花を一束、獲物と一緒に持ち帰ってくることがあった。まだ獣と血の匂いを身に纏った男たちと犬どもの群れに混入した濃い紫色の花束。その風景は、今も鮮やかに目の中に残っている。 母はリンドウに似た花の色を懐かしみ、 祖父と父の写真の前に供えるだろう。 紅葉は始まったばかり。ハツタケに似た茸を見つけたが、これは食べない ほうがよろしい。ぽつんと一本だけ生えている茸は、素性が知れない場合が多いのだ。 耕作放棄された山の田に、コブナグサの群生を見つけた。「子鮒草」と表す。愛らしい名だが、芒を二十分の一ほどに縮小したような、またはネコジャラシをもう一回り小さくしたようなこの草のことを知る人は少ない。けれども、この草で、鮮明な黄色が染まる。近くにヌタ場があり、まだ水が濁っていたので、猪が近くにいることは間違いない。このような場所で猪が攻撃を仕掛けてくることはないので怖くはないが、 ダニが草葉に付いている可能性があるので用心。端のほうで少しだけ採集し、退散。 山道に二頭の鹿が出ていた。 秋風が、険しいほどの山気を含んだ午後であった。 <番外> こいつぁ傑作、案山子・アート・神楽/高千穂 高千穂・向山地区の、断崖を見下ろす山峡の道で、傑作オブジェを見つけた。私は、車を運転しながら染料になる植物を発見したり、茸を見つけたりする特技の持ち主である。 ただし、茸を見つけた時には、同乗の女性たちから 「きゃあ、キノコのことはどうでもいいから前を向いて運転してー!!」 と絶叫されたり、谷底を見下ろしながら林道を下っていたら落石に乗り上げて危うい目に会ったりしたことがある。そろそろ年齢のことも勘案し、わき見運転禁止令を自ら発令しようかと思っているところだが、このオブジェ=案山子については、見た途端、 「うわっ、面白い。これは見て行かねば!!」 とばかりに急停車したのである。この日、同乗していた森まゆみさん(作家)が、何事かと降りてきたが、それをみるなり、たちまちとろけるような笑顔となった。 なんとも楽しい、一点のオブジェ。 これは案山子である。しかも高千穂神楽のアメノウズメノミコトを表していることは歴然。この地点は、高千穂黒仁田神楽が開催される集落のはずれでもあったので、まことに地域性にも季節感にも富むすぐれた造形物である。しかも、表情は愛らしく、ちょっと上目づかいのまなざしは、古代の呪術者としてのアメノウズメノミコトを彷彿とさせる。 この案山子=アメノウズメノミコトは、三叉路のガードレールの向こう側に設置された農作物の無人販売所の脇に立っている。そして、手元に仕掛けられた二本の空きペットボトルを叩いて、ポコン、ポコンとのどかな音を響かせている。それは神楽太鼓を表すものだが、動力は、5メートルほど下の沢水を引いた水車から得られて、それが崖沿いの仕掛けに段々に伝えられて、この人形の持つ二本の手(太鼓の撥)を動かせているのだ。 左下の写真は大喜びの森まゆみさん。前日、高千穂・秋元地区をご案内した 帰り道で出合ったひとこま。 作者は、「アート」などと気取ってはいないだろうし、案内標識とも思って いないだろう。その無垢な制作の動機と周辺の景観・歴史性などが見事に 融合したこのウズメちゃんに、私の独断で今年の 「地域アート大賞」を進呈したい。 ・秋元神楽の練習風景。 森まゆみさんとは、かれこれ20年ぶりの再開である。初めて出合ったのは、彼女が地域情報誌「谷根千(谷中・根津・千駄木の略称)」を創刊してすぐのころだったから、およそ30年ほども前のことになるだろう。その頃、「町づくり・ムラ起こし」としての活動を活発に展開していた湯布院の町を訪ねてきて、たちまち私たちは仲間となり、「ムラ」のこと「地域」のこと、この国の将来のことなどを熱く語り合ったものだ。その後、湯布院の町やこの日本という国がどのような変遷をし、どのような町・国になったかを、私たちは高千穂へ向かう車の中で語り合った。かならずしも、あの頃夢想した理想郷のような町は出現せず、日本という国家も、今、3:11の震災と原発事故以来、さまざまな 問題と現象を孕みながら推移している。それが「時流」というものならば、 私たちもその長大なメカニズムの上で流されてゆくものなのだろう。 秋元神楽の練習場となる地区の公民館では、当日は町長選挙の演説会が開催されており、私と森さんとはその熱気の中に紛れ込んだ格好となったが、演説会終了後、すぐに開始された秋元神楽の練習風景に、森さんはすっかり魅了された。作業着姿やカーディガンを羽織った普段着のオヤジたちが、その姿のままで練習を始めると、たちまち 会場には張り詰めた空気が漲り、神気さえ漂い始めて、 「高見さん、すごい。これは本物だね!!」 と私の横に座って見学していた森さんが、私に向かってささやくほどの緊迫感であった。「神楽」はこうして本番の日へ向かって「日々」が積み上げられてゆく。 ・写真上は秋元の集落風景と秋元の道を歩く森まゆみ氏。 秋元から諸塚へと峠を越える道で、鮮やかな紅葉に出合った。 「私は、憤死しそう・・・」 と現代の都市文化が抱える難問について怒っていた森さんだったが、秋元神楽を伝える伝承者の姿を目撃し、集落を散策し、広大な諸塚・九州中央山地の山脈を 彩る紅葉に出会って、少し気分が和らいだようだ。 森まゆみさんはすぐれた作家活動と合わせて今も各地を訪ね、地域づくりの仲間たちと交流を続けておられるが、現在、「新国立競技場建設計画」に反対する運動も展開している。内容を良く知らない私があれこれ言うのも僭越なので、今回、森さんから聞いた範囲の話を簡略に述べると、2020年の東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場は改築により現在の四倍の規模となる。その改築計画から解体に至る経緯等も不明瞭だし、だいいち、周辺の森の樹木ががかなりの範囲で伐採され、現在、維持費が年間8億円もかかっているのに、完成後は40億もの維持費が必要となるという。いったい、だれがそれを支払うのか。疑問だらけのこの計画に異議を唱える運動は共感の輪が広がり、賛同者・署名も3万人を越えたという。けれども、それを続けてゆくには体力・気力ともに膨大なエネルギーを要し、当然ながら、その筋からの圧力もあるという。 「森さん、都会で疲れたら、秋元や諸塚に来て、一週間ばかりなにもせず、何も考えずに過ごすと、身体も精神も正常に戻りますよ」 と言ったら、彼女は本気でそのことを信じてくれたようであった。 昔話の中にある「山中他界」ではなく、現実世界としての「健全な暮らし=村の生活文化」がこの「辺境」だとか「限界集落」などと呼ばれる地域にこそ残され、生き続け、そして次世代へと引き継がれてゆく、そのことを目撃できるのも「神楽」の伝承地なのだ。それこそ、私たちが見失ったと思い込んでいた「理想郷の夢」だったのかもしれない。私はまだそれを確認する旅の途上だが、その機会が与えられた幸運に感謝しながら 「山」へと向かうのである。そして、同行者が少しずつ増えているのも嬉しい。 |
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(SINCE.1999.5.20)