・「アートスペース繭」前の通り。日本橋方面から来た人がこの角を右に曲がって、
銀座の画廊街へと歩いてゆく。一日中、画廊の中にいて、来客と会い、旧交をあたためたり、
展示された作品について語ったり、神楽の話をしたりするのは楽しいが、画廊を出て、
京橋界隈を少し歩くのもまた魅力的なひとときである。
ビルとビルの間に青空が覗いていたり、「京橋」の地名の由来となった橋の跡(現在はその上を都市高速が走っている)、江戸時代から続く箒屋さんやクラシック音楽を聞かせてくれるカレー屋さんなどがある。
通りを一本隔てて、「銀座湯」という銭湯や、門燈は点灯しているが店が開いていることも
客の姿も見たことのない不思議な骨董屋さんなどもある。
変貌する都市の姿と行き交う人々の姿をそこに見ることができる。
画廊主の梅田美知子さんが「アートスペース繭」をこの地に構えて、17年が経過したという。
その間、私は合計20回ほども企画展を開催させていただき、多くの人々と交流することができたのである。
梅田さんとは、第一回の「伊豆高原アートフェスティバル」で知り合った。谷川晃一・宮迫千鶴(故人)夫妻が、私が湯布院町で行なった「アートフェスティバル湯布院」を引き継ぐかたちで開催し、以後、地域美術展の草分け的存在となった伊豆高原アートフェスティバルに梅田さんも参加していたのである。湯布院から駆けつけた私たち一行の宿泊施設となったペンションに飾られた圧倒的なアフリカの布を通じて、たちまち私たちは仲間となり、以後、25年ちかく交流が続いたのである。その後、私は湯布院を離れることになったが、梅田さんは変わりなく付き合いを続けてくださり、多くの企画を実現させて下さった。私は、「アートスペース繭」と
梅田さんの存在により、湯布院でのアート活動に繋がる仕事を継続することができ、
多くの作家・支援者・友人たちと交流を続けてくることができたのである。
梅田さんは、当初アフリカの布に魅せられ、さらにアジアの布や日本のフォークアートにまで視点を広げ、
現代のクラフト作家・画家の展覧会も積極的に開催し続けてきた。私と同じように、
この場を拠点とし、またこの場から育っていった作家も多い。
かつて私は、銀座の裏通りにあった「現代画廊」に通った。故・洲之内徹氏の人柄に魅了された画家や作家、収集家・美術評論家など集った現代画廊は、日本の戦後美術史の一面を記録する拠点となったが、洲之内氏が亡くなり、現代画廊が消えてからは、「アートスペース繭」こそが、その役割を果たしてきたのだということもできる。「布」や「襤褸」がアートとして取り上げられる時代が到来し、現に開催中の
「東京アートアンティーク」と題された企画は、日本橋・京橋・銀座の画廊・古美術店
・百貨店などが参加したストリートミュージアムである。新しいアートの波のただ中に
アートスペース繭もあり、梅田さんの仕事が時代をひらく仕事の一翼を
担っているといっても過言ではない。こんな話を私がすると、梅田さんは
「そんなだいそれたことは考えてない。わたしは〝京橋の母〟と呼ばれることもあるのよ」
と言って明るく笑う。
そういえば、アートスペース繭を訪ねてくる客には、展覧会を観にくるというよりも、梅田さんに会いにくる、梅田さんの顔を見にくる、という人が含まれている。中には、人生相談や複雑な人間関係、家庭の事情などを打ち明けにくる人もいる。梅田さんの優しく温かな人柄が、そのような画廊の雰囲気を育ててきたのである。しかしながら、梅田さんは硬派の感覚もあわせ持っていて、ご自分の眼に適わない企画は一切引き受けないし、3:11以後の原発問題・環境問題については果敢な発言をし、国会議事堂前のデモにも参加する。
「社会」と「時代」を動かす「ことば」を発し、行動する人なのだ。
こんな梅田さんと「アートスペース繭」を取り巻く環境が激変している。2020年の東京オリンピックを
前にした再開発ブームで、周辺のビルが軒並み取り壊されたり、立ち退きを
迫られたりしていて、「繭」も例外ではないというのだ。
この話に、私の怒りは沸騰する。私が湯布院を離れることになった要因の一つも、谷川さんたちが伊豆高原アートフェスティバルを始めることになった契機にも、「土地」や「開発」などの問題がからんでいた。それから四半世紀を経て、またここにも「土地」と「金」を巡る問題に直面している人がいる。私が中学生だった頃に開催された東京オリンピックは、国家と国土と国民の心意の再生をかけた一大プロジェクトだったが、今回、行なわれようとしている東京オリンピックには、多くの疑義が提出されている。現代におけるスポーツそのものも、友好や友情を育む場というよりも、大国によるメダル獲得狂騒の舞台と化しており、金をかけた国こそ余計にメダルを獲得するというスポーツ本来の目的と美学とは程遠いものになってきている。そのような競争=狂騒を感動して見る人がどれほどいるだろうか。ささやかな市民の生活の場や文化の拠点を奪い、踏み潰し、「再開発」してたった一度だけのイベントにだけ利用するというプロジェクトにはどうしても賛同の気持ちは動かないし、そこに群がる政治家とブローカーの姿が透けてみえるという相変わらずの構図を市民はすでに見破っている。
薬缶の湯気のような怒りを私が発しても、梅田さんは、笑って
「そのときはそのときでなんとかなるわよ」
と笑う。じっさい、ビルの所有者も、開発業者への売却はきっぱりと断ったという話も伝わってきた。この一帯でささやかな「繭」の一角は生き延びたのだ。それは朗報だが、これから近辺で巨大なビルの取り壊しが始まり、もっと大きなビルの建設が始まることは明らかで、いつまでこのままの状態で運営が
続けられるかはわからないともいう。
会期が終われば九州へ帰ってしまう私もなすすべがないから、せめて私は、梅田さんと「アートスペース繭」のこと、そして江戸情緒を残すこの界隈のことを「京橋伝説」あるいは「京橋記憶遺産」と呼ぼうと思う。誰かに呼びかけるのでもなく、どこかに登録するのでも観光客誘致のための旗揚げでもない。私たちの心の中の大切な場所に「記憶」として刻印しておきたいと思うのだ。「その場」がなくなっても、たとえ「主」がいなくなっても、屹立する一本の旗のようになおも存在し続けている「洲之内徹氏と現代画廊」のように。